軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

3-36.最後の夜

部屋の中を優しく照らす、アンティークランプ。

それを光源に、わたしとノアはソファーの上で寄り添っていた。一枚のブランケットに二人で包まり、身を寄せ合いながら他愛もない事をお喋りする。

そんな穏やかな時間があるっていう事、ノアと一緒になって初めて知った。

室内に視線を巡らせる。ここはエストラーダで滞在している宿の一室。

長く泊っていたから、見慣れているし愛着もわいてきているほどだ。でもそれも、もうおしまい。

「明日帰ると思うと、何だか少し寂しいわ」

「俺も。楽しかったな」

「ええ。行きたかったお店も行けたし、買いたかったものも買えて大満足なんだけど。もう少し、二人でのんびりしたかったなって」

「色々あったし、俺もそう思う」

ブランケットの下でノアが肩を抱き寄せてくれる。

それに甘えて、ノアの肩に頭を乗せた。シャツ越しでも彼の体温がじんわりと伝わって、わたしの温度と溶けていく。

空いている逆の手を、わたしの両手で包み込むと好きなようにさせてくれた。

「ノアは何が美味しかった?」

「どれも美味かったけどな……鶏のクリーム煮が好きだったかも。郷土料理の店で食ったやつ」

「カルバドスが美味しかったお店ね」

「そう。お前がクロケットで口の中を火傷した店」

「……火傷っていうほどでもなかったし。ちょっとヒリヒリしただけで」

「それを火傷って言うんだけどな」

ノアが笑うと、頭を預けている肩が揺れる。

あの後、揶揄われてしまった事や……その夜に大変な目にあった事まで思い出してしまって顔に熱が集まった。

熱いものは熱いうちに食べるという気持ちは変わらないのだけど、それも口に運ぶ適温というのを考えた方がいいかもしれない。

「お前は? 何が美味かった?」

「わたしはねぇ……」

問われて、エストラーダで通ったお店を思い返す。

ノアの言う郷土料理のお店も美味しかった。子羊のローストも、スフレオムレツもまた食べたいと思うほどに。

色んなお店に行ったけど、塩気の多いサラミがワインと一緒に出る事が多かった。お店ごとに違ったアレンジだったから、それを楽しめたし。

パンパンに膨れた、ふっくらとしたクネルも。露店で楽しんだホットワインも。カヌレもチョコレートケーキも。他にも色んなお店に行って、美味しいものを楽しむ事が出来た旅だった。

「……どれも美味しかったわ」

絞り出すようなわたしの声に、ノアが笑う。

それでも印象に残っている美味しいものを選ぼうと、わたしが悩んでいる間、ノアはずっと待っていてくれた。

そういうところも優しいのだ。

「やっぱりクネルかしら」

「結構色んな店のを食べたしな」

「どのお店も美味しかったけど、最初に食べた海老のソースのお店が好き」

どの料理もまた食べたいと思うけれど、お屋敷のシェフにも作って貰いたいなと思うものは海老のソースが添えられたクネルだった。

「俺もあの店のが好き」

ノアもそう思ってくれるなら、シェフにお願いしよう。

そう心の中で決意した。

話題は移り変わっても、話が弾むのは変わらない。

楽しかった事、興味深かった事──時間も忘れてお喋りに夢中になってしまう。

久し振りに会えたわけじゃなくて、同じ時間を共に過ごしていたにも関わらずだ。同じものを見て、一緒の時間を過ごすのが嬉しかったのだと改めて実感してしまう。

そんな時間の中、ふと会話が途切れた。

時計を見ればもうだいぶ時間が経っている。暖炉の火も時折静かに跳ねるだけで、随分と弱くなってしまった。

無言でも穏やかな時間だった。

寄り添うノアの温もりが優しくて、だから──つい零してしまったのかもしれない。

「……エミルの事もね、まだやっぱり苦しいの」

ノアはそれに応える事なく、ただわたしの肩をぎゅっと抱き寄せた。

視線を上げると、微笑を浮かべたノアと目が合った。優しい眼差しに先を促され、わたしは口を開いた。

「エミルのした事を許せるわけじゃないし、理不尽さに未だに腹が立つ事もあるんだけど。でも、楽しかった思い出があるから嫌いになれなくて……」

「嫌いになる必要なんてないだろ。そんな極端に割り切れるようなもんじゃねぇだろうし」

「うん……」

いつもよりもゆっくりで、まぁるい声。

その声がわたしの胸を苛む、ちくちくとした棘を落としていってくれるようだった。

「いつか許せる日が来るかもしれない。でもそれは、誰に強制されるわけじゃなくて……アリシアの心がそれを受け入れられた時でいいんだ。もちろん、許せなくたっていい。そんな自分が嫌になったり、お前がその感情に引き摺られそうになった時は、俺が必ず引き上げてやるから」

「……ありがとう」

きっとノアはそうしてくれる。

その言葉を違えないよう、傍にいてくれる。

それだけで心が少し楽になっていった。

ノアの手を包んでいた両手を解き、その手で今度はノアの腰に抱き着いた。肩に頭を押し付けると、ふ、と笑い声が髪に掛かった。

「最後の夜と思うと名残惜しいが、そろそろベッドに行かないか?」

「そうね、眠らないとお寝坊してしまうかも」

「宿の朝飯も楽しみだしな」

「明日はクロックマダムにしてくれるって。珍しい果物も出してくれるって言っていたのよ」

「はは、それは時間に間に合うようにしないとな」

そう言うとノアがわたしを抱き上げる。

両腕をノアの首に絡めて体を支えるこの姿勢も、最初はとても恥ずかしかったのに。今では慣れてしまったのか、ひどく落ち着くのだから不思議なものだ。

「でもまだ寝かせてやれない」

その言葉の意味するものを理解して、わたしの顔に熱が集まった。

胸の奥がぎゅっと切なく疼くのも、もうどうしようもない事で。

そんなわたしを見て低く笑ったノアの肩から、ブランケットが滑り落ちた。

わたしを抱き上げたまま器用にランプの明かりを消したノアが、寝室へと歩みを進める。

ノアの肩越しに見たランプは、まだ余韻を残してうっすらと光を放っていた。壁に広がっていた夜明けを思わせるような薄紫が、ゆっくりと消えていった。