作品タイトル不明
3-22.不穏
「リガス様から聞いてらっしゃいますか」
バイスさんの言葉に頷いてから、わたしはカップに手を伸ばした。
先程よりも温度の下がったコーヒーは、少し苦味が強くなったようにも感じる。すっきりとした後味は変わりなく、これも美味しくて飲みやすい。
バイスさんは一度席を立ち、暖炉へ向かうと火ばさみを使って薪の位置を調整した。火の粉が舞ってはらはらと落ちる。その軌跡が綺麗だと思った。
「宰相閣下がリガスさんとエマさんを別れさせようとしていると、わたし達はそう伺いました」
「私共の方でもそういった情報を得ています。昔の話になりますが、リガス様の婚約者候補だったのが、スカビオサ家のご令嬢だったのです。今回の陛下の件もあり、リガス様とご令嬢を結婚させようとしているのでしょう」
「そのご令嬢は、今まで結婚されていなかったのですか?」
マスターとエマさんが結婚してから、もう八年程が経っているはずだ。以前にエマさんが教えてくれたもの。
マスターとの婚約話が出るくらいだから、その当時でもご令嬢は結婚相手としての適齢期だったはず。マスターと結婚しなかったとしても、他の家に嫁ぐ話があってもおかしくはないと思うのに。
「ええ。これは噂に過ぎませんが、リガス様がお戻りになるのをずっと待っていたとか……」
マスターが国に戻ってくる確証なんてなかったと思うのに。
それでも諦められなかったのか。そんな想いの強さを感じ取って、少し複雑な気持ちになってしまう。それは自分に置き換えて考えてしまうからかもしれないけれど。
「陛下の病の件もありますし、今の王城は何があるか分かりません。あなた方が向かうまではリガス様を城に閉じ込める事も出来ていたわけですから、あなた方を排除しようとする動きがあってもおかしくはないと思うのです」
「ご心配ありがとうございます。私共も重々気を付けます」
ノアが胸に手を当てながら言葉を返す。
そんなノアに頷いてから、バイスさんがテーブルの上に封筒を置いた。ノアが受け取った封筒を隣から覗くと、獅子を模した紋章の封蝋が押されている。これがライネル侯爵家の紋章なのだろう。
「お預かりします」
「この時間から王城へ向かうのは難しいかもしれませんね。急ぎのものではないと主人からの言伝もありますし、お二人が城に向かう時で構いません」
そう言われて腕時計に目を落とす。
遅い時間ではないけれど、バイスさんの言葉に甘えようかと思う。明日になればマスターもエマさんへの手紙を用意しているかもしれないし。
それから少し雑談をして、おすすめのお店なども教えて貰ってからわたし達は侯爵家を後にした。
晴れていた空に、薄い雲がかかっている。はらはらと小雪が舞い散っているけれど、積もるほどではなさそうだ。
ノアと繋いだわたしの手は、また彼のコートのポケットにしまわれている。この体勢だとただ手を繋ぐよりも距離が近くなって、少し恥ずかしいような嬉しいような気持ちになる。
「さて、この後はどうするか。行きたいところはないか?」
「そうねぇ……結構色んなところを見て回ったし、毎日美味しいものを食べているし。ノアは? いつもわたしの行きたいところを優先してくれているし、今日はノアの行きたいところにしましょう」
「俺も行きたいところは行ってるぞ。美術館も行けたしな。それにアリシアの行きたいところは俺が楽しいところでもあるから、気にしなくていいぜ」
「またそうやってわたしを甘やかすんだから」
「これはもう諦めてもらうしかねぇな」
おかしそうに笑うノアにつられるように、わたしの笑い声も響く。
どこに行っても、何を食べても、ノアと一緒だから楽しいのだ。
きっとノアもそう思ってくれている。
胸の奥がぎゅっと切なく疼くのは、ノアへの気持ちを改めて実感するからだ。その疼きを誤魔化すように、繋ぐ手に力を込めた。
「じゃあ今日はお土産を見てみない? もう少し見て回ってからとも思ったけど、前に見たガラス細工がとても綺麗だったから」
「いいな。じゃあ今日はのんびり買い物でもするか」
そう言って、ノアが新市街の方へと足を向けた。
旧市街は飲食店が多いけれど、新市街は買い物に向いている場所だ。昔ながらの趣を残したお店が並ぶ通りもあれば、その隣の道に入ると新しい流行を追いかけるようなお店もある。
見ているだけでも楽しい街で、エストラーダにいる間にゆっくり見たいと思っていたのだ。
「買ったものは支店に預けて、送っていいって兄さんが言っていたわ」
「助かるよな。義兄さんへのお土産は何にしようか」
「そうねぇ……」
多趣味な人だから、何を買って行っても喜んでくれると思うけれど。
それでも好きなものを選びたいと思う。
兄さんだけじゃなくて、他にもお土産を買っていきたい人がたくさんいる。自分一人なら迷ってしまうだろうけれど、ノアと一緒ならきっと楽しいじかんになるだろう。
そんな事を思って少し浮かれていたのに。
中央広場にさしかかる頃、向こうから歩いてくる人物を見てはっとしてしまった。
隣のノアは隠すことなく舌打ちをしている。
文官の制服を着たエミルが、わたし達に気付いて手を振ってくる。その表情はにこやかで、嬉しそうにも見える。
「アリシア、偶然だな」
「エミルはお仕事中じゃないの?」
先日の件もあるし、少し警戒してしまう。
嫌な事を言われるし、ノアにも嫌な思いをさせてしまうし、正直なところ関わりたくはない。
幼馴染で、過去には楽しく遊んだ思い出もある。
そんな人に対してこんな負の感情を持ってしまうのも嫌で、そんな自分が恥ずかしくも思ってしまう。
だから、今は会いたくなかったのに。
そんなわたし達の様子を気にも留めず、エミルはにこにこと笑うばかりだ。
「お遣いに出されてね。もうそれは終わって、これから休憩と思ったんだけど、良かったらお茶でもどうだ? 美味しいお店を紹介するよ」
「わたし達は……」
「ねぇ、いいでしょう? アインハルト殿。あなたの知らないアリシアを教えてあげられますし」
エミルの言葉にはどうしても棘を感じてしまう。
わたしが断りの言葉を紡ぐよりも早く、ノアが口を開いた。
「そうですね……では少しお付き合いしましょうか」
「ノア?」
どうしたのかと名前を呼ぶも、ノアは薄く笑みを浮かべるばかりだ。
ノアとエミルの間に不穏な空気を感じ取って、わたしは溜息をつくしか出来なかった。