軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第36話 砲弾の誘惑

「式は砲弾を飛ばせます。だからこそ、軽く渡せません」

俺がそう言うと、会議室の空気が一段重くなった。

暖炉の火がぱちりと鳴る。机の上には木球、斜面、速度表、カタリナの太字の定義、オルロフの幾何図。そこへ宮廷の使者が持ち込んだ革袋が置かれた。油で磨かれた黒革から、鉄と火薬の匂いがかすかに漂ってくる。まだ袋の中身を見ていないのに、部屋の温度が変わった気がした。

アンナは手袋を外し、ゆっくり机の端に置いた。

「軽く渡せない。その言葉は理解します」

「なら、この話は」

「ですが、渡さないという選択はありません」

彼女の声は冷たく、滑らかだった。宮廷の言葉だ。拒絶を許さず、拒絶に見えない道を用意する声。

「帝国には砲がある。火薬がある。兵がいる。あなたが式を渡さなくても、誰かが粗い表を作ります。なら、より正確な者が関与すべきです」

アレクセイが舌打ちした。

「言い方は嫌いだが、筋は通ってる。粗い弾道表は味方も殺す」

「あなたまで」

「俺は砲が好きなんじゃない。雑な数表が嫌いなんだよ」

エリザは机の上の速度表を指で押さえた。

「まず前提条件を明記します。火薬量、砲身角、砲弾質量、風、地面、湿度。これらを無視した表は、学問ではなく占いです」

「占いにしては人が死ぬ」

アレクセイがぼそりと言った。

アンナが宮廷の使者へ合図した。革袋が開かれる。中から、黒い鉄球が出てきた。小ぶりだが重そうな砲弾だった。机に置かれると、木が低く呻いた。鉄の冷たい匂いと、古い火薬の刺激臭が鼻を刺す。カタリナは思わず一歩下がったが、すぐに紙を手に取り、砲弾の大きさと表面の傷を記録し始めた。

「現物を持ってくる必要がありましたか」

俺は聞いた。

アンナは平然と答える。

「抽象だけで話すと、あなたは逃げます」

「いまも逃げたいですね」

「でしょうね」

オルロフが砲弾を見下ろした。顔には嫌悪ではなく、古い学者らしい警戒があった。

「力学は、戦場の下僕ではありません」

「宮廷は、下僕とは考えていません」

アンナが言う。

「道具とは考えていますが」

「同じです」

「違います。下僕は命令だけに従う。道具は、使い方次第で所有者を傷つける」

彼女は俺を見た。

「だから、使い方を知る者が必要です」

俺は砲弾を見た。黒い球体。さっきまでの木球と同じ形。だが、意味が違う。木球は定義を示す教材だった。これは人を殺す道具だ。同じ運動をする。同じく位置があり、速度があり、加速度がある。数学は、その違いを勝手に分けてはくれない。

「条件を出します」

俺は言った。

アンナの目がわずかに細くなる。

「聞きましょう」

「私は、命中表を作りません」

使者の一人が反応した。

「それでは役に立たない」

アレクセイが横から言う。

「黙ってろ。命中表だけが弾道じゃねえ」

使者が顔をしかめる。

「航海局の計算官殿には関係ない」

「誤差表の話なら関係ある。弾がどこに行くかわからない表を配るな。死人が増える」

アンナが手を上げ、使者を黙らせた。

「続けなさい、オイラー殿」

「私が作るなら、条件と変化の表です。火薬量が少し違えば、どうずれるか。角度が少し違えば、どれほど危ういか。風を無視すれば、どれだけ信用できないか。そういう表です」

エリザがすぐに言い直す。

「殺傷効率表ではなく、条件依存性の表。妥当です」

アンナは、ほんの少し口元を動かした。

「宮廷の求めるものとは少し違いますね」

「ですが、宮廷に必要なものです」

「その違いは?」

「当てるための表を手にすれば砲を撃ちたくなる。外れる条件がわかる表があれば、撃つ前によく考える」

会議室が静まった。

アレクセイが、低く笑った。

「いいな。撃つなとは言わず、撃つ前に面倒を増やすわけだ」

「言い方」

「でも、そういうことだろ?」

「まあ、そうです」

エリザが断定した。

「この方針なら、軍事利用を完全には防げません。しかし、単純利用を抑制できます」

オルロフが机の上の幾何図を見た。

「弾道は曲線だ。古くから図で扱える」

「扱えます」

俺は答えた。

「ですが、図の美しい曲線は、理想条件の曲線です」

「理想条件」

「風がなく、砲弾の形も完全で、火薬量も一定で、砲身も歪まず、地面も平ら。そんな戦場はありません」

アレクセイが砲弾を指で弾いた。鈍い音がした。

「この鉄球だって、真球じゃねえ。傷もある。火薬も湿る。砲兵も疲れる」

カタリナが、砲弾の表面を観察しながら言った。

「こちら側に小さなくぼみがあります。光を斜めにすると、影が少し歪みます」

「飛び方にも影響するかもしれない」

俺は言った。

「そこまで見るのですか」

使者が呆れたように言う。

「見ない奴がつくった表を信用するな」

アレクセイが返した。

アンナはしばらく黙っていた。彼女は砲弾を見ているのではなく、俺たちの会話を見ている。どの言葉が使えるか、どの条件なら宮廷に通せるか、頭の中で切り分けている顔だった。

「よいでしょう」

彼女は言った。

「命中表ではなく、条件表。誤差表。危険域の表示。宮廷にはそう報告します」

「本当に、それで通りますか」

「通します」

その短さが、逆に怖い。

イワンがいれば薄く笑っていたかもしれない。今日は彼はいない。代わりに、アンナの横顔だけが、氷のように冷たい。

その時、机の上の砲弾が、かすかに動いた。

誰も触れていない。

黒い球が、紙の上でほんの少し転がった。木の机が、低く鳴る。

カタリナが息を呑む。

「触れていません」

エリザが即座に言う。

「記録。砲弾、外力なしに移動」

オルロフが顔色を変えた。

「外力なし、とは限らない。机が傾いたかもしれません」

「机は動いていません」

カタリナが机の脚を見た。

「紙の皺も変わっていません。砲弾だけです」

砲弾の下に敷かれていた紙に、黒い文字が浮かんだ。

【飛ばせ】

たった一語。

火薬の匂いが、急に強く感じられた。

アンナの使者が、息を呑む。

アレクセイが低く言う。

「趣味が悪い」

エリザは紙を睨んだ。

「校閲者は、条件表ではなく命中表へ誘導しています」

「そうですね」

俺は、砲弾を見た。黒い。重い。沈黙している。だが、紙の上の一語が、それを今すぐ戦場へ連れていこうとしている。

【飛ばせ】

俺は羽ペンを取った。

「飛ばさない」

黒い文字の横に書く。

『撃つ前に、条件を測れ』

黒い一語が揺れた。

カタリナがすぐに太字で清書する。

火薬量。角度。風。

砲身。砲弾の傷。地面。

「全部、測るのですね」

「測れるだけ測ります」

俺は答えた。

「測れないものは?」

「測れないと書く」

アレクセイが頷いた。

「それが一番大事だ。わからないくせに表にするな」

エリザが条件表の上に題を書く。

『砲弾運動に関する前提条件表』

「硬いですね」

「硬くします。柔らかい題名は軍に曲げられます」

アンナが、その紙を見て言った。

「この題なら宮廷文書として通せます」

「通ってほしくない気持ちもあります」

「通さなければ、もっと悪い題で通りますよ」

それは、たぶん正しい。

オルロフは、校閲者の文字を見ながら言った。

「飛ばすか、飛ばさぬか。力学は、そこに答えるためのものではないはずです」

「はい」

俺は頷いた。

「力学は、どう飛ぶかを見るものです。飛ばすべきかどうかは、人間の問題です」

アンナが言う。

「しかし、人間は都合よく数学へ責任を押しつけます」

「だから、条件を残します」

エリザが続ける。

「責任の所在を明確化する。数学は結果を予測するが、命令を出す主体ではない」

アレクセイがぶっきらぼうに言った。

「撃つ奴の名前も残せ。表のせいにするなってな」

アンナは、少しだけ目を細めた。

「それは軍が嫌がりますね」

「だから必要です」

俺は言った。

校閲者の文字、【飛ばせ】は薄くなり始めた。

完全には消えない。

だが、命令ではなく、記録対象へ変わっていく。

カタリナが紙に書く。

校閲者文、飛ばせ。誘導文として保管。

「誘導文」

アンナが呟く。

「便利な分類です」

「便利なものは怖いです」

カタリナは柔らかく返した。

アンナが、ほんの少し笑った。

「あなたも、ずいぶん強くなりましたね」

「紙を見続けましたので」

その言葉は静かだったが、重かった。

砲弾はもう動かない。

だが、机の上の黒い球は、ただの鉄に戻ったわけではない。位置、速度、加速度、力。そこへ、火薬と命令と責任が結びついた。力学は、もう部屋の中の木球だけでは済まない。

アンナは使者へ命じた。

「砲弾は持ち帰ります。条件表は写しを三部。宮廷、アカデミー、オイラー殿の手元へ」

「私の手元へ?」

「逃げないためです」

「信用がない」

「信用しています。だから持たせるのです」

この人の論理はいつも厄介だ。

使者が砲弾を革袋へ戻す。重い鉄が布に包まれる音がした。火薬の匂いが少し遠ざかる。

オルロフが、机の上の斜面図と条件表を見比べていた。

「力を、速度を変えるものとして見る。そこから砲弾まで行く。危険だが、筋は通っている」

「認めますか」

「認めるとは言っていない」

相変わらずだ。

「だから、オイラー殿。私はあなたに公開討論を申し込む」

会議室が静まった。

「公開討論?」

エリザが聞く。

「はい。図で示せない運動論を、アカデミーは認めるべきではないと私は考える。あなたが式で運動を見ると言うなら、皆の前で示しなさい」

アレクセイが小さく笑う。

「爺さん、意地が悪いな」

「学問上の当然です」

オルロフは俺を見た。

「病める目を理由に逃げることは許しません」

カタリナが、珍しく少し強い声を出した。

「目の不調を侮辱しないでください」

オルロフは彼女を見た。

「侮辱ではありません。条件です。条件を明示しなければ、証明は腐るのでしょう?」

エリザが無表情で言った。

「私の言葉を利用しましたね」

「有効だったので」

俺は、右目の奥の鈍い熱を感じながら、頷いた。

「受けます」

カタリナが不安そうにこちらを見る。

「レオンハルト様」

「大丈夫とは言いません」

俺は言った。

「でも、受けます」

エリザが紙を閉じる。

「なら、準備します。定義、図、実測表、条件表。すべて必要です」

アレクセイが肩をすくめる。

「数値は俺が見る。図がずれたらカタリナ嬢が見ろ。女史は定義で刺せ」

「刺すのではありません。確定します」

「同じだろ」

「違います」

アンナは満足したように外套を取った。

「では、宮廷も傍聴します」

「しなくていいです」

「します」

拒否権はなかった。

会議室の隅で、校閲者の文字が最後にもう一度だけ濃くなった。

【飛ばせ】

その下に、新しい文字が浮かぶ。

【図で示せぬものは、存在しない】

オルロフの顔がわずかに硬くなる。

俺は、その文字を見て、静かに言った。

「なら、式で存在を示します」

公開討論が、決まった。