軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第34話 速度を定義せよ

雪は、昼過ぎまで降り続いた。

アカデミーの窓辺には白い粒が吹きつけ、硝子の端で細かな霜になっていた。会議室へ戻ると、外の冷気が外套の襟から落ち、床に水滴を作った。机の上には、カタリナが写した馬車の車輪跡が広げられている。太い点、時刻の番号、滑り出しの跡、止まる直前の深い溝。干し魚の匂いこそ消えたが、雪道の事故のざらついた感触は、まだ紙の上に残っていた。

俺は右目を少し閉じたまま、椅子に座った。左目なら、カタリナの太字は読める。右目では、点がにじむ。だが、点と点の間隔が違うことは、ぼんやりとでもわかった。大きく描かれたものなら、まだ追える。カタリナは、それを見越して、線を太く、数字を大きくしてくれていた。

エリザは机の向こうで腕を組んでいる。彼女の前には、白い紙が三枚。題はすでに書かれていた。

位置。

速度。

時間。

「始めます」

エリザが言った。

その声は宣告に近かった。

「速度とは何ですか」

「位置の変わり方です」

「不十分です」

即座に切られた。

「位置が、何に対して変わるのですか」

「時間に対して」

「時間とは何ですか」

「そこからですか」

「そこからです。定義が曖昧なら、すべて崩壊します」

アレクセイが椅子にもたれ、面倒くさそうに言った。

「時間なんざ、砂時計でも鐘でもいいだろ」

「実務ではそれでよくても、論証では不足です」

エリザは振り返らずに返した。

「砂時計の砂の量、鐘の間隔、観測者の記録。どれを用いるかで誤差が出ます」

「誤差って言えば俺が黙ると思うなよ」

「黙らなくて結構です。数値誤差の検討はあなたの役目です」

「人使いが荒い女だな」

「事実です」

オルロフは、窓際に立っていた。昨日の馬車事故から、彼は一応この議論に参加している。認めたわけではない、と何度も言ったが、今日も来ている時点で、かなり譲歩していると思う。

彼は小さな砂時計を机に置いた。澄んだ硝子の中で、細い砂が静かに落ちていく。

「時間を測りたいなら、これを使いなさい。古いが、信用できる」

「ありがとうございます」

俺が言うと、オルロフは鼻を鳴らした。

「礼は不要だ。曖昧な速度論で、力学を汚されては困るだけです」

カタリナは砂時計をそっと机の中央に置いた。落ちる砂の音はほとんど聞こえない。それでも、部屋の静けさの中では、時が細く削れていく感じがした。彼女は紙の端に、砂時計一回分、と書いた。

「では、仮にこの砂が落ちきるまでを一つの間隔といたしますね」

「はい」

俺は頷いた。

「その間に、馬車がどれだけ位置を変えたかを見る」

エリザの羽ペンが動く。

「速度。一定の時間間隔における位置の変化量」

「硬いですね」

「硬くします。柔らかい定義は腐ります」

「腐るんだ……」

アレクセイがぼそりと言った。

カタリナは、昨日の車輪跡の写しに、点を四つ打った。滑り出し、途中、止まる手前、停止位置。そこへ砂時計の印を添える。

「でも、実際の事故では砂時計を置いていませんでした」

「そうです」

俺は言った。

「だから昨日の記録は、厳密な測定ではない。入口です。これからは、同じ時間ごとに位置を測る」

「同じ時間ごと」

カタリナはゆっくり繰り返し、別紙に新しい表を描いた。

時刻一。

時刻二。

時刻三。

位置。

その表は、橋の接続表とは違っていた。あちらは点と線のつながりを留めるもの。こちらは、同じものが時とともにどこへ移るかを留めるもの。構造から運動へ。紙の上の秩序が、静かなものから流れるものへ変わっていく。

オルロフはその表を見て、渋い顔をした。

「運動を表に閉じ込めるのか」

「閉じ込めるのではありません」

俺は答えた。

「表で追うのです」

「表は粗い。瞬間は無限にある」

「だから、間隔を細かくする」

エリザが続けた。

「間隔を小さくすれば、変化の様子をよりよく捉えられる。そうですね、オイラー殿」

「はい」

「ならば、その限界をどう扱うかが問題です」

来た。

そこが微分の核心だ。

だが、この時代の言葉で慎重に運ぶ必要がある。現代記法で殴れば楽だが、それはここでは使えない。そもそも、校閲者に狙われる。

「まずは有限でいきます」

俺は言った。バーゼル問題で無限級数を追いかけたやり方だ。

「砂時計一回。半回。もっと短い間隔。位置の差を、その時間で割る。すると、その間の速さが見える」

アレクセイが紙を引き寄せた。

「実測表にできるな。馬車を一定の間隔で印づける。距離を測る。時間で割る。粗いが、使える」

「使える、が重要ですね」

「きれいな定義だけじゃ馬車は止まらないからな」

エリザが冷静に言う。

「ただし、実測値は定義の代替ではありません。定義があり、実測がそれを近似する。この順序を混同しないこと」

「はいはい、先生が二人になったな」

「一人で十分です」

「どっちがだよ」

カタリナが小さく笑いそうになり、咳払いで隠した。

俺は、右目の白い滲みを感じながら、太い羽ペンで紙に書いた。

速度は、同じ時間の間に、位置がどれだけ変わるかである。

エリザが見る。

「入口としては許容します」

「入口ばかりですね」

「入口を誤れば奥はありません」

オルロフが、静かに言った。

「では、曲がる場合はどうする」

部屋が静まる。

「真っ直ぐ走る馬車なら、位置の差を測ればよい。だが昨日の馬車は滑った。進む向きが変わった。速さだけで足りるのですか」

さすがだ。

彼は反対者だが、愚かではない。

図を信じるだけあって、向きの問題に敏感だった。

「はい。足りません」

俺は答えた。

「速度には、速さだけでなく向きもあります」

アレクセイが眉をしかめた。

「また面倒なことを言い出したな」

「現実が面倒なんですよ」

「それは俺の台詞だ」

カタリナは車輪跡の図に、小さな矢印を描いた。だが、描いた直後に手を止める。

「矢印は、また改竄されるかもしれません」

「その通りです」

エリザが言う。

「向きは矢印だけでなく、時刻順で支えます」

カタリナは頷き、矢印の横に数字を添えた。

一から二へ。

二から三へ。

三から四へ。

「これなら、矢印が変わっても、順番で戻せます」

「よい補強です」

エリザが断定した。

カタリナの表情が少し柔らかくなる。

その時、砂時計の砂が落ちきった。硝子の中で、最後の粒が下へ落ちる。音はしないのに、部屋の全員がそれを感じた。

そして、机の上の時間表が白く光った。

時刻一。

時刻二。

時刻三。

その時刻の文字が、薄くなり始める。

カタリナが息を呑む。

「時間記録が狙われています」

エリザが即座に言った。

「予想通りです。校閲者は速度の土台を狙ってきた」

アレクセイが机を叩いた。

「時刻が消えたら、速さも何もねえぞ」

オルロフの顔も強張った。

図を信じる彼でも、時刻が消える恐ろしさはわかるらしい。

俺は急いで声を出した。

「砂時計一回目、開始。馬車位置一。砂時計二回目、位置二。砂時計三回目、位置三」

カタリナが書く。

「砂時計一回目、二回目、三回目」

エリザが補う。

「時刻名ではなく、観測順序として保存」

アレクセイが言う。

「鐘でも補強しろ。鐘一つ、鐘二つ。別の時間記録を使う」

オルロフが砂時計を持ち上げた。

「私の砂時計を証人とする。砂の量、器の形、落下間隔。すべて記録しなさい」

カタリナが忙しく書き込む。

砂時計。鐘。観測順序。目撃者。

複数の時間記録が紙に並んでいく。

白化は、迷うように紙面を走った。

時刻一は薄い。

だが消えない。

時刻二も、時刻三も残る。

「止まりました」

カタリナが言った。

声に、少しだけ安堵が混じっていた。

俺は息を吐いた。

「時間を消されるのは厄介ですね」

エリザが厳しい顔で頷く。

「速度は時間を要求する。時間記録の防衛を体系化する必要があります」

「また体系化ですか」

「当然です。場当たりでは敗北します」

アレクセイがぼやく。

「時間まで記録の網か。紙がいくらあっても足りねえな」

「宮廷に出させましょう」

エリザが即答する。

「意外と実務的だな」

「必要経費です」

オルロフは、白化を止めた時間表を見ていた。古い学者の顔には、不愉快さと興味が同時にあった。

「時間を入れなければ、速度は定義できない。速度を定義しなければ、運動を追えない」

「はい」

俺は答えた。

「だから、図だけでは足りません」

オルロフはすぐには反論しなかった。

「ですが、式だけでも足りない」

「そのとおりです」

「あなたの式が私の図を補うなら、私はあなたの話を聞きましょう」

それは、また一歩だった。

俺は紙に向かった。右目の滲みは、まだある。細線はつらい。だが、カタリナの太い字と点なら見える。エリザの定義なら崩れない。アレクセイの実測表なら現実に戻れる。オルロフの図なら、形を失わずに済む。

運動を見る目はもう、一つではなくなり始めていた。

俺は太い字で書いた。

速度は、時間に対する位置の変化である。

今度は、その一文は白くならなかった。

だが、紙の隅に黒い文字が浮かんだ。

【では、力とは何を変えるものか】

オルロフが顔を上げた。

「次の問いですね」

エリザが羽ペンを握り直す。

「当然です。速度を定義したなら、その変化を問われる」

アレクセイが低く笑った。

「休ませる気ねえな、校閲者も」

カタリナは、俺の右目を一度見てから、次の白紙を出した。

「大きな字で書ける紙をもっと用意いたしますね」

俺は頷いた。

次は、力だ。