軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

22 憎んで、憎んで、憎んで

落ちた手紙を拾って机に置くと、ナディアは部屋に幻影を残して窓から外に出た。窓には人の動きを検知する術がかけられているが、タリクが自身の出入りために小さな穴をあけていた。その穴を一時的に拡げることで、護衛に知られずに抜け出すことができた。

〈ナディア、姉さんがいよいよ悪くなったわ。一度呼吸が止まったの〉

先ほど読んだ文字が頭にこびりついている。

叔母が手紙を書いてからナディアの手元に届くまで、どんなに早くとも数日はかかる。今この瞬間に母が生きているのか、ナディアには知る術がない。

夜気に触れた頬は熱く、手のひらは冷えきっていた。

深呼吸をしようとしたが、うまく吸えない。

――間に合わないかもしれない。

母を治したくて魔術団を志した。そのために学院へ来た。そのために学び続けてきた。それがなくなったら、何のために学ぶのか。

学院の敷地を駆け抜け、外に出た。

タリクを巻き込まないためにも、彼が不在の今しかない。

向かうは、学院からほど近い邸宅街にあるハサン卿の屋敷だ。

場所は調べた。行き方は頭に入っている。やるべきこともわかっている。それなのに足が震えている。息が苦しい。

怖い、とナディアは思った。

ハサン卿は禁忌を犯し続けている人間だ。魔術団でも活躍している。そんな人のもとに学生一人で乗り込んでいくのは、無謀で愚かな行動だ。わかっている。

――でも、これ以上は待てない。

寮で何もせずじっとしていて、次の叔母からの手紙で母の最期を知るなんて御免だ。せめて「できるだけのことをした」と思いたい。

肩で息をしながら、必死に足を前に出す。

屋敷が近づくにつれて、ナディアの歩みはひとりでに遅くなった。

感覚が研ぎ澄まされていくようだ。石畳の硬さ、空気に混じるどこかの厨房の香り、遠くで鳴く犬の声――すべてがはっきりと感じられる。

いつからかその中に、母の魔力の匂いが混ざりこんだ。

――近い。

邸宅の前に着くと、ナディアは一度深呼吸をしてから門のノッカーを叩いた。すぐに若い使用人が顔を出す。

「フィオレンシアの友人のナディアと申します。フィオレンシアはご在宅ですか?」

「お嬢様とお約束はされていますか?」

「していないのですが……ナディアが来た、とお伝えいただけないでしょうか」

おそらくナディアがまだ若く、学院のマントを着ているせいもあるだろう。使用人はナディアを警戒する様子はなく、「少しお待ちを」と屋敷に入って行った。間もなく、玄関からハサン卿が顔を出した。

どくん、とナディアの心臓が揺れる。

「娘の友人とか?」

「……はい。ナディアと申します」

顎をしゃくるようにして「入りたまえ」と言われ、ナディアは門をくぐり、玄関の大扉を抜けた。

母の匂いが近い。爪が掌に食い込む。

「娘はまだ帰宅していなくてな。普段通りなら間もなく戻るはずだ。こちらの応接間で待っていてくれ」

通されたのは広い部屋だった。壁際に並ぶ書棚には分厚い本が几帳面に整列し、暖炉の上には見知らぬ人々の肖像画が何枚も飾られている。高い天井、磨き上げられた床、繊細な細工の施されたランプーーどれもナディアの生きてきた世界にはなかったものだ。

応接間を出ていくハサン卿を見送って、ナディアは深く息を吐いた。

母の魔力の匂いはこの部屋にも漂っている。

ナディアは指先に力を込めた。

さきほどハサン卿が出て行った扉を見つめながら、小さな声で呪文を紡ぎ始めたときだった。

ギィ、ときしみ音を立てて扉が開いた。

ナディアは印を解き、詠唱を止めた。

ハサン卿が顔を覗かせた。そして首を傾け、片目を細くしてナディアを見る。

「失礼。君はたしか……ナディア、と言ったな?」

「はい」

「ナディア・アル=ヌジューム? 星送りの儀で巫女役をやっていた?」

「はい」

後ろ手に扉を閉めたハサン卿が固い足音を響かせながら、一歩、また一歩と近づいてくる。

ナディアの心臓がドクドクと早鐘を打つ。

初対面にしては近すぎる距離に立ち、ナディアの頭のてっぺんからつま先までをジロジロと見つめて、ハサン卿はフンと鼻を鳴らした。

「 アル=ヌジューム(ヌジューム村の) と聞いてすぐに気づくべきだったな。そのくしゃくしゃの黒い髪の毛はあの男にそっくりだ。そしてその瞳。ヤスミーナの娘だな?」

――『あの男』……?

つまり、ナディアの父はハサン卿ではない。

安堵が胸にじわと広がる。よかった、これで心置きなく目の前の男を憎んで、憎んで、憎んで、憎むことができる、と。

「……父と母をご存知なのですか?」

努めて冷静にそう問いかけたが、声が震えてしまった。

「そうだな。知っている。いや、知っていた、というべきか」

ハサン卿は涼しい顔でそう言って肩をすくめた。

だが、内心はその表情ほど穏やかとはいかないようだ。魔力の匂いが迫ってくる。なにか術をかけようとしているのだろう。

「どうやらフィオレンシアに会いに来たわけではなさそうだな? ここへ何をしに来た?」

自白の術の類だろうか。

ナディアはタリクの護衛に教えてもらった防御の術を展開する。

と、ハサン卿が「ほぉ」と感心したような声を上げた。

「古い守護の術がかかっているな。だが、私と対峙するには――」

母の匂いが一瞬強くなった。

そして、自分を覆っていた薄い魔力の層がひとつ砕けるのを感じた。

「――いささか簡単すぎる術のようだ」

破られたのはここ半月ほどナディアの体にまとわりついていた術だ。匂いから王妃が術者だということはわかっていたが、術の内容はわからなかった。

ナディアが今まさにしているような愚かなことをしないようにする監視や追跡の術かもしれないと思っていた。

――ルル殿下……守ってくださっていたんだ。

そのことがナディアの決意を強くする。

ナディアはハサン卿を見据え、ゆっくりと口を開いた。

「私の母から奪った魔力で威張り散らす日々は楽しかったですか? 閣下ご自身の魔力では、その『簡単すぎる術』とやらも破れないのでは?」

ハサン卿の顔色が変わった。口元に浮かべていた薄気味悪い笑みが消え、瞳に怒りが灯る。

攻撃されるのを覚悟して魔力障壁を展開し身構えたら、コンコン、と木を叩く硬い音がした。

「ナディアが来ていると聞いたのだけど……」

ハサン卿の背後、キイと開いた扉からフィオレンシアが入って来たのがわかった。が、そちらに視線を向けられない。

ナディアとハサン卿は睨み合っている。

異様に張り詰めた空気に気づいたのだろう。フィオレンシアが戸惑っているのが、そちらを見なくとも伝わってきた。

「ナディア……お父様……? 一体どうなさっ――」

目前に迫っていたハサン卿の魔力がフッと散る。

「お前は部屋に行きなさい」

ハサン卿はフィオレンシアに一瞥もくれない。

「でも、ナディアは私に会いに来たのですから――」

「黙って言う通りにしろっ!」

ハサン卿の怒鳴り声に、フィオレンシアが怯えたように縮こまる。

そして何も言わずに扉の向こうに姿を消した。

――よかった。巻き込まずに済むなら、その方がいい。

フィオレンシアが去った後、扉がギィとひとりでに閉まった。

「私を問い詰めるために来たのか? どうやって問い詰める? たかが学生の分際で、魔術団で筆頭魔術師の補佐を務めるこの私に敵うとでも? 私の屋敷で私に対して無礼な振る舞いをして、無事に帰れるとでも思ったのか? 愚かな」

ハサン卿は乾いた笑い声をあげた。

先ほど一瞬見せた怒りは、すでに 嘲(あざけ) りに変わっている。

彼は今、ナディアを脅威だとは思っていない。

――好都合。

右手の指先に魔力を集める。左手はそっと体の後ろへ。二つの術を同時に展開するのは綱渡りに似ている。どちらかに意識が傾けば、もう一方が崩れる。慎重に、慎重に。

「……そういえば君の父親も向こう見ずな人間だったな。そういう人間には弁えさせる必要がある」

ハサン卿が何か言っているが、それどころではない。

――来る。

ナディアは身構えた。

右手で防御の術を維持しながら、背後に隠した左手でもうひとつの術も展開していた。

衝撃の到達を覚悟したときだった。

「お父様ッ。まさかナディアに術をかけようとしているの!? おやめくださいっ!」

フィオレンシアが鋭い声を上げながら部屋に飛び込んできた。

「お前は黙っていろ」

ハサン卿の怒鳴り声と同時に、フィオレンシアがナディアの前に躍り出た。淡い光が彼女の前に広がり、透明な盾となってナディアを覆う。

轟音。

彼女の作った膜は軋みながらも、その一撃を受け止めた。

ハサンが目を見張る。

「……馬鹿な、こんな術を、お前が……? いつの間に。恥さらしのくせに」

フィオレンシアは必死に光を維持しながら「ナディアが教えてくれたのです!」と悲鳴のような声を上げる。

「学院の小考査でうまくできたとお話ししたのを覚えていらっしゃらないのですか。ナディアが教えてくれたんです。私に教えても何の得もなかったのに。困ってるって言ったら助けてくれた。いくら……いくらお父様でも……そんな彼女を傷つけることは許せませんっ」

フィオレンシアの肩が震えている。

「……偉そうなことを。お前の魔力量では防御も一度が限界だろう」

「一度で十分です」

ナディアは震えるフィオレンシアを庇うようにその前に立ちながら言った。

「あなたの秘密を暴くには、一度で十分です。ご自身にかけた術の綻びにも気づかないのですか」