軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第39話 「旅する少女と、その後」

卒業から、数年が経った。

王城の廊下は長い。

石畳の床に、自分の足音が響く。燭台の光が両側から照らして、廊下の先まで続いている。

最初にここを歩いたとき、足が震えた。

右に曲がるのか左に曲がるのか。どこで頭を下げるのか。誰に対してどの言葉を使うのか。わからないことだらけで、一歩踏み出すたびに頭の中で確認していた。

今は、足が自然に動く。

変わったんだ、と思う。少しずつ、確かに。

王城に入ることが決まったとき、最初に感じたのは緊張ではなく、覚悟だった。

平民が王家に関わる。前代未聞だということは、自分が一番わかっていた。だから、絶対に恥ずかしいことはできないと思った。

毎朝、侍女たちより早く起きた。礼儀の書物を読んだ。王家の歴史を覚えた。各貴族家の関係を頭に入れた。言葉の選び方、立ち居振る舞い、場の読み方。

教えてもらえることは全部吸収した。教えてもらえないことは、見て覚えた。

最初は、王城の侍女たちも戸惑っていた。

「あの方は、平民なのでしょ……」

廊下の向こうで、そういう声が聞こえたこともあった。聞こえていないふりをして、歩き続けた。

証明するしかない、と思っていた。

言葉ではなく、毎日の積み重ねで。

半年が経つ頃には、侍女の何人かが自然に話しかけてくれるようになった。一年が経つ頃には、以前は距離を置いていた貴族の令嬢たちも、少しずつ声をかけてくれるようになった。

じわじわと、周囲が変わっていった。

劇的なことは何もなかった。ただ、一日一日を丁寧に積み重ねた。それだけだった。

ある日の午後、執務室にクロードから呼ばれた。

「座ってくれ」

私は椅子に座った。クロードが向かいに座った。窓から王都が見えた。午後の光の中で、街並みが広がっていた。

「父上から、正式な話があった」

私は少し間を置いた。

「……なんでしょうか」

「ようやくだ」

クロードが、私を真っ直ぐに見た。

「正式に、リナを婚約者として認める、と。王家として発表する準備が整ったと言っていた」

念願の話だった。この数年間、そこに向かって動いていた。でも、正式に言葉にされると、また違う重さがあった。

「……本当によかったんですか。私でも」

「何度同じことを聞くんだ」

「大事なことなので」

「私が選んだ。リナにしか務まらない」

クロードが、少し間を置いた。

「それに、誠実に動いてきたことは、周りが一番よく見ている。リナ自身が、ここに立つだけのものを積み上げてきた。それが全てだ」

私は少し俯いた。

一学期のあの大広間で、全部が暴かれた夜のことを思い出した。あそこから、ここまで来た。

(遠かった。でも、ようやく来られた)

――そう思った瞬間、胸の奥が、少しだけ揺れた。

「……っ」

声が、うまく出なかった。

「リナ?」

「いえ、その……」

言葉を整えようとして、できなかった。

ずっと、平気な顔をしてきた。

何を言われても、聞こえないふりをしてきた。

間違えないように、正しい振舞いをするために、ずっと気を張っていた。

「……怖かったんです」

気づけば、口から出ていた。

「少しでも、間違えたら終わりだと思って」

顔を上げられなかった。

「次は、失敗できないって……ずっと思ってました」

少しだけ、指先が震えた。

「だから……ちゃんとできてるのか、ずっと……」

言葉が途切れた。

少しの沈黙のあと、クロードが静かに言った。

「できている」

短く、はっきりと。

「やってきたことは、全部見ている」

一拍、間があった。

「だから、リナはこの場にいる」

私は俯き、目を閉じた。

張っていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。

「……お受けします。これからもっと精進しなければいけませんね」

「それだけか?もう少し、喜んでもいいんだが」

「ええ、でも」

少しだけ、息を整えてから、クロードを見た。

「……ちゃんと、受け取っています」

私は笑みを浮かべた。

けれど、頬を伝うものまでは止められなかった。

「そうか」

クロードも、微笑んだ。

発表の日、王都は騒然とした。

平民出身の娘が、王太子の婚約者に。前代未聞の話だった。

朝、城の廊下を歩いていると、外の声が聞こえてきた。窓から見下ろすと、王都の街に人が集まっていた。称賛の声が、波のように広がっていた。

反対の声は、ほとんどなかった。

この数年間、私がどのように振る舞ってきたかを、多くの人が見ていた。誰に対しても誠実で、努力を惜しまず、嘘をつかなかった。それが伝わっていた。

平民から王太子妃へ。この国に生きる多くの人間にとって、それは希望のような話になっていた。

私はその声を聞きながら、窓の縁に手を置いた。

(……ここまで来たんだ)

卒業パーティーの夜、一人で立ちながら決意したことを思い出した。

あのとき思い描いていたより、ずっと遠いところまで来ていた。

でも、まだ始まりだと思っていた。

私は机に向かった。

書くべき手紙が、一通あった。

ヴァイセンベルク家の庭に、午後の光が差し込んでいた。

エリーゼは庭の椅子に座って、手紙を読んでいた。

封を開けた瞬間から、読み終えるまで、何度か息が止まりそうになった。

リナからの手紙だった。

正式な婚約者として発表されたこと。王都が騒然としていること。でも、批判の声はほとんどないこと。クロードが支えてくれていること。

最後に、一行だけ添えてあった。

「あなたが話しかけてくれたあの夜がなければ、今日はなかったと思います」

エリーゼはしばらく、手紙を膝の上に置いていた。

「やはり、私よりもよほど向いているわね」

自然に、口から出た。

令嬢としての振る舞いも、人を動かす力も、逆境からの這い上がり方も、全部リナの方が上だった。あの夜、話しかけたのは正しかったと、改めて思った。

「外で手紙を読むとは、それほど大切な手紙だったのか」

声がした。

ルーカスが、屋敷から出てきたところだった。

「ええ。大切な友人からの手紙ですもの」

「そうか」

ルーカスが隣の椅子に座った。

「リナ殿か」

「うん。正式に婚約者として発表されたって」

「そうか。よかった」

エリーゼは手紙をもう一度、少しだけ見た。

(……よかった)

本当に、よかった。

「ママ、それ、だいじ?」

ルーカスの隣から、たどたどしい声がした。

小さな女の子が、よちよちと歩いてきた。二歳くらいだった。銀色の髪が、午後の光に照らされていた。

「大事よ。とっても」

エリーゼが答えた。

「だいじ」

「そう、大事なの」

女の子がエリーゼのそばに来た。エリーゼが手紙をそっとしまって、両腕で抱き上げた。

「ふぇ」

「重くなったわね」

「おもくないもん」

ルーカスが少し笑った。

「パパ、わらった」

「笑っていない」

「わらった」

「俺が、重くなったか確かめよう」

ルーカスが女の子の方に手を伸ばした。女の子を抱き上げて、膝に乗せた。

「まだ、軽いな。ここからもっと成長する」

「そうね……」

しばらく、三人で庭にいた。

風が吹いた。木の葉が揺れた。午後の光が、庭に長く差し込んでいた。

エリーゼはその光景を、少しの間、ただ見ていた。

「……この子には」

自然に、口から出た。

「あの本の……旅する少女みたいに、自由に生きてほしいわ」

「たび?」

女の子が見上げた。

「ええ。好きなところへ、好きなように」

「いっしょに?」

エリーゼは少し笑った。

「一緒に行けるところは、一緒に行くわ」

「ママもパパも?」

「私もルーカスも」

「やった」

女の子が、ルーカスの方を向いた。ルーカスが少し頷いた。

エリーゼは、また庭を見た。

あれから数年経った。

今は誰かの都合のいいキャラではない、エリーゼとして、ここにいる。

もうあの頃のような、疲れはない。

(この人と、この子との――穏やかな時間を、これからも大切にしていこう)

中庭に、心地の良い風が吹いた。

(完)