軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第30話 「早退令嬢と、大広間②」

大広間の扉の前に立った。

中からざわめきが聞こえた。ルーカスの声が、遠くに聞こえた。イザドラが何かを言い返している。取り巻きたちの声が続いた。

扉一枚を隔てて、場が動いていた。

(……よし)

エリーゼは一度だけ、息を吸った。

長く、ゆっくりと。

それから、目を細めた。視線の角度を、わずかに変えた。顎を、少しだけ上げた。

扇を手に取った。ゆっくりと、音を立てずに開いた。

十七年間、やり続けてきた動作だった。嫌いだったその動作が、今日だけは、ためらいなくできた。

今は、誰かに強いられたキャラではない。令嬢としての仮面でもない。今日だけ、自分の意思でこれを纏う。守るために。誰かのために。

胸の中が、不思議と静かだった。怒っていなかった。震えてもいなかった。ただ、やるべきことがある。それだけだった。

(……行こう)

扉を開けた。

広間に入った瞬間、空気が変わったのがわかった。

ざわめきが、しんと静まった。

エリーゼは歩いた。広間の中央に向かって、真っ直ぐ。視線を前に固定したまま。扇を手に持ったまま。足音だけが、静かな広間に響いた。

誰かが息を呑む音がした。

一学期のあの頃を知っている者は、覚えているはずだった。この歩き方を。この視線の角度を。ヴァルドラン侯爵家の令嬢が、大広間の中心を歩くときの、あの空気を。

エリーゼはルーカスの隣に立った。ルーカスを一度だけ見た。

「続きは、私が」

ルーカスが一歩、横に退いた。

エリーゼはイザドラを見た。

イザドラが、エリーゼを見ていた。

笑顔のままだった。でも、その奥に今まではなかったものが混じっていた。

「まあ、エリーゼ様」

穏やかな声だった。

「どういうご用件かしら。ヴァイセンベルク様のお話は、今ちょうど整理がついたところで」

「整理がついた、とは言えないと思いますよ」

エリーゼが言った。感情を乗せない声で。

「筆跡の断言ができないとおっしゃった。証言者が今ここにいないとおっしゃった。それはその通りです。では、私が持っているものをご覧いただきましょう」

エリーゼは持っていた書類を、静かに取り出した。

「今学期、私はイザドラ様の行動についての記録を持っております。日付、場所、内容、関係者の名前。事実だけを書いたものです」

広間がまたざわめいた。

「ヴァイセンベルク様が集めた証拠と、この記録を照合していただければ、一致していることがわかります」

イザドラの笑顔が、少しだけ揺れた。でも、立て直した。

「まあ。記録をつけていたのですね。でも、エリーゼ様の記録というだけでは……信憑性について、皆さまはどう思われるかしら」

取り巻きたちから、同意の声が上がった。

「そうですわ」

「一方的な記録では」

(……私の証言では確かに信頼性はない)

エリーゼは内心で思った。たが、この言葉が来ると予想していた。

「おっしゃる通りです」

エリーゼが言った。

広間が静まった。認めたのかと、誰かが思ったらしかった。

「ですから、私が作成した記録ではございません。あなたのことをよく知る人物の記録です」

「そのような簡単な嘘に、騙されませんわよ」

エリーゼはイザドラを見た。

「証拠なら、他にもありますわ」

イザドラが、広間を見渡した。

ここまで来ても、まだ余裕があった。取り巻きたちがいる。ルーカスの証拠は崩した。エリーゼの記録も信憑性に疑問を呈した。場の空気は、まだ自分に傾いている部分がある。

少しばかり証拠を突きつけられたとしても、今日この場で完全に覆せなくてもいい。あとでリナを使えばいい。広間の空気を戻すことくらい、リナならできる。今は自分の側にいる。名誉挽回など、リナが動けば容易いことだった。

リナには逃げ場がないはず。自分の側にいる限り、動き続けるしかない。そういう計算だった。

だから、今は堂々としていればいい。

そう思っていた。

「証拠とおっしゃるなら、ぜひ見せていただきたいわ」

イザドラが笑顔で言った。

「それでは、入ってきてください」

エリーゼが静かに言った。

その瞬間、大広間の扉が、また開いた。

広間の全員が、扉の方を向いた。

姿を現した人物は、

リナであった。

いつもと変わらない、笑顔だった。でも、手に小さな装置を持っている。

広間がざわめいた。

「……リナ様?」

誰かが呟いた。

「なぜ今ここに」

「イザドラ様の取り巻きのはずでは」

囁き声が広間に広がった。生徒たちが顔を見合わせた。一学期の大広間で全部が暴かれたリナが、今日はイザドラの側ではなく、エリーゼの側に立っている。その意味を、誰もがわかろうとしていた。

イザドラが、リナを見た。

リナが、ゆっくりと広間の中央に歩いてきた。その足取りは、静かだった。迷っている様子はなかった。

取り巻きの令嬢たちが、顔を見合わせた。何が起きているのかわからない、という顔だった。イザドラも、同じだった。なぜリナがこのタイミングで出てきたのか。

「イザドラ様」

リナが声をかけた。いつも通りの、穏やかな声だった。

「何かしら。私、今少し立て込んでいて」

リナが、イザドラを見た。

笑顔のままだった。でもその目が、今日は少し違った。今日まで、ずっと作り続けてきた笑顔とは、何かが違っていた。

「申し訳ありません、イザドラ様」

リナが言った。声は静かだった。震えていなかった。

「これを、皆さまに聞いていただかなければなりません」

広間が、しんと静まった。

イザドラの笑顔が、初めて、完全に固まった。

エリーゼがリナを一度だけ見た。

リナは目を逸らさなかった。その目に、詫びているような色があった気がした。

エリーゼは広間を向いた。

「リナ様がお持ちくださったのは、この学期に起きた薬品事件に関するものです」

広間がざわめいた。

「科学の実習で、ある令嬢の実験台の薬品が危険なものにすり替えられていた件。もしそれがそのまま混合されていたなら、実習室にいた全員が巻き込まれる爆発が起きていたかもしれなかった件です」

広間が静まった。

「この録音装置には、その指示をした人物の声が記録されています。リナ様、お願いします」

エリーゼが静かに言った。

リナが装置を操作した。

静かな広間に、声が流れた。

イザドラの声だった。

『あの令嬢、本当に気に食わないの。次の実習で少し懲らしめてあげようかしら』

広間が、ざわりと動いた。

『薬品を入れ替えればいいわ。びっくりするくらいでいいの。……まあ、うまくいくでしょう』

声が、広間に広がった。

本人の声だった。誰もが、わかっていた。

イザドラが口を開いた。

「本当の音声だとしても……現に、爆発は起こらなかったでしょう。実際には何も起きていないのに、こんな録音だけで」

「そうですね」

エリーゼが静かに遮った。

「爆発は起こりませんでした。なぜか、おわかりですか」

イザドラが答えなかった。

「リナ様が、イザドラ様の用意した薬品を、安全なものにすり替えていたからです」

広間がどっとざわめいた。

「リナ様は、本来仕込まれるはずだった薬品が何であるかも把握していました。それも、この録音装置に残っています。リナ様、続きをお願いします」

リナがもう一度、装置を操作した。

再び、イザドラの声が流れた。今度は、具体的な薬品名が含まれていた。

広間が、完全に静まった。

もはや誰も声を上げなかった。それは、悪ふざけの話ではなかった。意図的に、危険なものを用意していた。その事実が、イザドラ自身の声によって証明されていた。

「爆発とまでは思っていなかったのかもしれません。少しお勉強不足でしたね」

エリーゼが言った。

「でも、本来の薬品が使われていたら、驚かせるだけでは済まなかった。この件は、悪ふざけでは済まない話です」

広間が、重く静まり返った。

誰も、声を上げなかった。

取り巻きたちも、今度は何も言えなかった。

イザドラが、口を開こうとした。

でも、言葉が出なかった。

筆跡の話は、ごまかせた。証言者の話も、ごまかせた。記録の信憑性も、疑問を呈した。でも、自分の声は違った。自分が指示を出した内容が、自分の声で流れた。言い逃れる言葉が、どこにも見つからなかった。

(……なぜ)

信用していた。リナには逃げ場がないと思っていた。だから動くと思っていた。なのに。

なぜ、この場でエリーゼの側に立っているのか。

イザドラは広間を見渡した。取り巻きたちがいた。でも、さっきまでとは違う顔をしていた。薬品事件という言葉が出た後、誰も声を上げなかった。そして今、自分の声が録音されていた事実が明らかになった。もう、誰もかばえない話だった。

広間の生徒たちが、イザドラを見ていた。さっきまでとは、全く違う目だった。

イザドラは、もう一度口を開こうとした。

でも、何を言えばいいのか、わからなかった。

エリーゼが、静かに言った。

「もう、終わりにしましょう」

感情のない声だった。怒りでも、勝ち誇った声でもなかった。ただ、解放するような、そういう声だった。

扇を、ゆっくりと閉じた。

広間に、静けさだけが残った。

エリーゼは動かなかった。

一学期のあの日、この広間で「早退させていただきます」と言って扉を出た。あのときとは、違った。今日は、最後まで立っていた。降りなかった。

それだけのことだったが、エリーゼにとっては満足だった。

(……やはり、このキャラは疲れますわ)

エリーゼは、静かに踵を返して大広間の扉へと向かった。

ルーカスが静かに立っていた。

エリーゼが視線を向けると、目が合った。

何も言わなかった。

でも、お互いに頷いた。

それで十分だった。