軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第13話 「ヒロインの、終わりの午後」

放課後の廊下は、いつもと同じだった。

授業が終わった生徒たちの話し声。窓から差し込む夕方の光。制服の裾が石畳を擦れる音。

全部いつも通りだった。

私だけが、いつも通りではなかった。

応接室への廊下を歩きながら、頭の中で整理していた。想定できる話の種類を、一つひとつ並べた。エリーゼへの件について何か言われるのか。フローラたちの件か。それとも別の何かか。

どんな話が来ても、対処できる。その自信は、まだあった。入学してから今日まで、想定外の状況を幾度も乗り越えてきた。感情で動く人間には感情を返し、事実を求める人間には感情で揺さぶった。それで、ここまで来た。

今日だって、きっとそうなる。

(……大丈夫だ)

自分に言い聞かせながら、応接室の扉の前に立った。

一度だけ、息を整えた。笑顔を作った。いつもの、柔らかい笑顔を。

扉をノックした。

「失礼いたします」

扉を開けた。

クロード殿下がいた。その隣に、セドリック・ランフォードが立っていた。

机の上に、書類の束が置かれていた。

(……書類)

笑顔が、一瞬だけ止まった。止まったことに気づいて、すぐに戻した。でも、その一瞬が、私には永遠のように感じられた。

「リナ、座ってくれ」

殿下が言った。声は静かだった。怒っている声ではなかった。でも、いつもの温かさが、そこにはなかった。

椅子に座った。背筋を伸ばした。笑顔を保った。

(……落ち着け。まだ何も決まっていない)

セドリックが机の上の書類に手を置いた。

「今日この場に呼んだのは、公的な場ではなく、まず事実を確かめたかったからだ」

殿下が口を開いた。

「本件が広間などで公になれば、関係する家柄全てに余計な傷がつく。王家としても、その点は避けたい。だから今日は、まずここだけで事実を確かめたいと思っている」

穏便に。公にせず。事実だけを確かめたい。

(……そういうことか)

私は内心でその言葉を分解した。殿下は王家の体裁を守りたい。それは私にとって、まだ交渉の余地があるということだ。感情に訴えかければ、まだ動かせるかもしれない。

「少し前に、大広間でエリーゼ・ヴァルドラン嬢が書類を読み上げた。その際、書類が床に落ちた」

セドリックが事務的な声で続けた。

「私はそれを拾った。フローラ嬢たちが用意したものと、もう一種類が混ざっていた。表紙に『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』と書かれたものだ」

「……それが、どうかしましたか」

笑顔のまま言った。声は震えていなかった。

「フローラ嬢たちの書類とは、精度が全然違った。だから、書かれている内容を一件ずつ確かめることにした」

その書類の束を手に取り、確認した。

セドリックが話を続ける。

「エルヴィン・バーウェル男爵令息に確認した。リナ嬢から届いた手紙のことを。同じ時期に、クラウス・レイン子爵令息にも同種の言葉が送られていたことを伝えると、二人とも証言に応じた。署名もいただいた」

私の胸の奥で、何かが静かに落ちた気がした。

「調査の過程で、他にも複数の生徒への同様の働きかけが確認された。令嬢たちへの孤立工作についても、当事者の複数から証言を得た。対象を孤立させてから近づくという手口が、今学期だけで少なくとも二件、記録と一致して確認できた」

また一枚。また一枚。

書類をめくるたびに、私の内側で何かが少しずつ削れていった。

(……あの女だけは、見抜いていたのか)

慎重に、丁寧に、誰にも疑われないように積み上げてきた。誰も全体像を見渡せないよう、一人ひとりに合わせて動いてきた。それがうまくいっていると、ずっと思っていた。

なのに、エリーゼだけは。

ただ静かに見ていたあの目だけが、騙されていなかった。

(……待って)

笑顔の裏で、急速に考えを巡らせていた。

この書類はあのエリーゼ・ヴァルドランが作ったものだ。ずっと自分に嫌がらせをしてきたあの令嬢が。

(……でっちあげだ)

最初から私を陥れるために作られたものに違いない。エリーゼが私への嫌がらせを続けてきたことは、殿下も分かってくれているはずだ。

少し前に出た。

「……少し、よろしいですか」

「聞こう」

「この書類を作ったのは、エリーゼ・ヴァルドラン様ですよね」

「そうだ」

「エリーゼ様は、私に嫌がらせを続けてきた方です。殿下もご存知のはずです。そのような方が作った書類が、本当に信頼できるものでしょうか」

声に感情を乗せた。傷ついた、でも必死に訴えようとしている声を。

「それに……エルヴィン様やクラウス様の証言も、もしかしたら誰かに誘導されたのではないでしょうか。セドリック様がお話を聞かれた際に、何か先に情報を与えられたのであれば、その方向で証言してしまうことだって」

「誘導はしていない」

セドリックが静かに言った。

「事実を確認しただけだ。先に情報を与えたのは、ヴァルドラン嬢の書類に記録されていた事柄のみ。それに対して、各自が自分の言葉で答えた」

「でも!」

声が出た。自分でも気づかないうちに、声が大きくなっていた。

「あの方は、ずっと私を傷つけてきたんです。大広間で皆の前で恥をかかせて、殿下の前で私を悪者にしようとして。その方が作った書類を、なぜそのまま信じられるんですか。全部、でっちあげかもしれないじゃないですか」

言ってから、気づいた。

部屋が静かになっていた。

殿下とセドリックが、私を見ていた。怒った顔ではなかった。責めた顔でもなかった。ただ、静かに見ていた。

(……しまった)

声が大きすぎた。笑顔が崩れていた。「傷ついている側」の顔ではなく、感情が剥き出しになった顔をしていた。

深呼吸をした。笑顔を戻そうとした。でも、うまく戻らなかった。

「リナ」

殿下が、静かに言った。

「エリーゼが大広間で書類を読み上げていたとき、私は名前も出所もないと言って遮った。信頼性がないと言った。……正直、あの場ではエリーゼのことをそこまで信じていなかった」

リナは殿下を見た。

「でも今こうして見ると、エリーゼが自分で作った書類は、全部裏付けが取れた。エリーゼは事実を持っていた。それを読もうとしていたが、遮った」

殿下が少し目を伏せた。

「私が間違っていた。その点は、エリーゼに詫びなければならない」

(……殿下が)

エリーゼの名前を出して、詫びると言っている。

一度言葉を切ると、殿下は縋るような、それでいてひどく遠い目で私を見た。

「……そして何より、リナ。ただ私だけを想っていたと、そう信じていた。君の真心だけは、本物だと思っていた」

(……殿下が)

エリーゼの名前を出して、詫びると言っている。

それ以上に、私の「真心」を信じていたと、悲しげに私を否定した。

私の中で、何かが決定的に、修復不可能な音を立てて崩れた。

この学園の頂にようやく手をかけたはずが、

最も強固な土台であった殿下の信頼を、自らの浅はかな行いで、一番無様に蹴り崩してしまったのだ。

(やってしまった……)

取り返しのつかない喪失感が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。

セドリックが付け加えた。感情のない、事務的な声だった。

「ヴァルドラン嬢がどういう意図で記録を作ったかはわからない。ただ、書かれていたことは事実だった」

口を開こうとした。

でも、言葉が出てこなかった。

否定しようとしたら、事実だと言われた。誘導だと言ったら、そうではないと返された。でっちあげだと叫んだら、裏付けが取れていると言われた。

どこにも、逃げ場がなかった。

しばらくの沈黙の後、殿下が口を開いた。

「今回確認した内容を踏まえて、私との関係については距離を置く。王家として、これ以上この件に関わることは適切ではないと判断した」

距離を置く。

その言葉が、ゆっくりと頭の中に落ちていった。

「今日の場での話は、ここだけに留める。学園への報告については、今後の状況を見て判断する。それが双方にとって最善だと考えている」

王家の体裁のために、表沙汰にはしない。でも、関係は終わる。静かに、誰も傷つかない形で、全部終わらせる。

それが、今日この部屋に呼ばれた理由だった。

怒鳴られたわけではなかった。責められたわけでもなかった。誰も声を荒げなかった。ただ、事実が積まれて、静かに結論が出た。

今まで積み上げてきたものが、今日この部屋の中で、音もなく崩れていった。

そのとき、

応接室の壁の向こう、廊下の端。

一人の白金色の髪の令嬢が、壁に背を預けて立っていた。

口の端が、ゆっくりと上がった。

(……いいことを、聞いた)

声には出さなかった。でも、その表情がそう言っていた。楽しそうに、何かを手の中に収めたときの顔で、静かに笑っていた。

令嬢はゆっくりと壁から背を離した。誰も来ない廊下を、一人で歩き始めた。足音は静かだった。振り返らなかった。

夕暮れの光の中に、白金色の髪が溶けていった。

席を立ち、お辞儀をした。扉を開けた。

廊下は、がらんとしている。

(……終わった)

誰もいない廊下で、そう思った。

生徒たちが向こうから歩いてきた。話し声があった。笑い声があった。全部いつも通りだった。

でも、その「いつも通り」の中に、もう私の居場所がない気がした。

エルヴィンはもう目を合わせない。クラウスは早々に席を立つ。殿下とは距離を置く。他の人たちも、時間の問題でこの話を知るかもしれない。

(……これ以上、広げてはいけない)

今ここで崩れるわけにはいかない。殿下との関係は終わった。でも、学園での立場はまだ終わっていない。この件がどこまで広まるかが、これからの全てを決める。

エリーゼ・ヴァルドランの顔が浮かんだ。大広間で静かに頭を下げて、扉を出ていった背中。図書室で本を読んでいた、仮面のない横顔。「ちょうどよかったです」と言ったときの、澄んだ声。

あの人は、全部失ったはずだった。

なのに今日、全部を動かしたのはあの人の書類だった。

何も持っていないように見えて、全部持っていた。

(……参った)

壁に手をついた。

夕方の光が長く伸びて、石畳に落ちていた。私の影が、その光の中で薄く伸びていた。

どこへ向かえばいいのか、今の私には、まだわからなかった。