軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話 「ヒロインの、崩れていく計算」

エリーゼ・ヴァルドランが孤立してから、学園は動きやすくなった。

廊下を歩いていても、あの黒髪が視界に入らない。食堂に入っても、取り巻きたちの固まりがない。授業中に嫌みを言われることもない。

(……清々する)

正直、そう思った。あの存在に神経を削ってきた。困った顔を作るたびに、あの翡翠色の目が計算するように動くのを感じていた。他の令嬢たちとは違う種類の視線だった。怒りでも嫉妬でもなく、ただ静かに「見ている」目。

それがなくなった。

ただ一つ、誤算があるとすれば、「悪役令嬢ボーナス」が消えたことだった。

エリーゼがいびるたびに、リナへの同情が集まった。エリーゼが声を上げるたびに、殿下がリナの側に来た。「傷ついている側」に立ち続けるために、エリーゼの存在は都合よく機能していた。ある意味で、エリーゼはリナにとって最大の舞台装置だった。

それが今、なくなった。

(……でも、どうにかなる)

リナは楽観していた。積み上げた土台は、エリーゼ一人がいなくなった程度では揺るがない。殿下との距離も近い。学園での立場も固まっている。令嬢たちの中にも、自分の味方は十分にいる。

むしろ今は、次の手を打つ絶好の機会だ。

(……ただ、一つだけ確かめておきたいことがある)

エリーゼが本当に「ただ折れただけ」なのか。それとも、まだ何かを企んでいるのか。

あの書類のことが、頭の端に引っかかっていた。あの広間で床に散らばった書類。セドリックが拾い上げた書類。フローラたちが用意したものとは、明らかに性質が違うものが混ざっているように、遠目には見えた。

でも確証はなかった。確証がないから、確かめなければならなかった。

数日後、廊下ですれ違った生徒たちの会話が耳に入った。

「エリーゼ様、最近図書室にいるらしいよ」

「一人で? 取り巻きもいないの?」

「そうみたい。なんか本読んでるって」

「ほんと、急に変ったわよね」

(……図書室)

リナは少し立ち止まった。

本を読んでいる。一人で。取り巻きもいない。

(……本当に、ただ折れただけ?)

判断がつかなかった。エリーゼという人間は、ずっと読みにくかった。怒りで動く人間でも、感情で崩れる人間でもない。あの広間での早退も、リナには最後まで意図が読めなかった。疲れ果てた顔でも、捨てゼリフを吐く顔でもなく、ただ静かに出ていった。あの表情の意味が、今もわからない。

(……直接、確かめに行こう)

リナはいつもの笑顔を作り、足を図書室の方へ向けた。

本当に何も考えていないのか。それとも静かに何かを準備しているのか。どちらにせよ、今の状況を自分の目で確認する必要があった。

図書室の扉を静かに開けた。

本の匂いがした。静かな部屋だった。午後の光が窓から差し込んで、埃がゆっくりと浮かんでいた。

入ってすぐ、リナは棚の間を見回した。どこにいるかを先に把握してから、近づきたかった。

窓際の席に、黒髪が見えた。

エリーゼが、本を読んでいた。

(……本当に読んでいる)

意外だった。何かを調べているとか、誰かと密談しているとか、そういう場面を想定していた。でもただ、本を読んでいた。ページをめくるたびに、ほんの少し表情が柔らかくなっていた。

(……あんな顔をするのか、あの人)

リナは少しの間、棚の陰からそれを見ていた。

令嬢としての仮面をつけていないエリーゼを見るのは、初めてだった。顎も上がっていない。扇もない。背中が少し丸まっていた。ただ本を読んでいる、それだけの顔だった。

観察してきたエリーゼの顔と、全然違った。いつも廊下の中心を歩いていた、強気で偉そうなあの令嬢とは、別人のように見えた。

(……これが、本来の顔?)

その疑問が一瞬だけ頭を過ぎった。でもリナはすぐに脇に置いた。今はそれより、確かめることがある。

リナはいつもの笑顔を作って、エリーゼに近づいた。

「エリーゼ様、最近お顔を見かけなくて心配していましたわ」

柔らかい声で言った。

エリーゼが顔を上げた。

リナは瞬時に、エリーゼの表情を読もうとした。動揺しているか。怒っているか。何かを隠しているか。傷ついているか。惨めそうにしているか。

(……読めない)

エリーゼの顔には、何もなかった。驚きも怒りも、警戒も、何もなかった。ただ静かに、リナを見ていた。それだけだった。

「……そうですか」

リナは続けた。ここで引くわけにはいかない。もう少し、何かを引き出さなければ。

「婚約のことも、耳に入りました。大変でしたね」

そう言いながら、エリーゼの表情を丁寧に探った。婚約破棄を言えば、何かが動くはずだった。悔しさでも、悲しみでも、怒りでも。何かが顔に出るはずだった。

エリーゼは少し間を置いた。

「ご心配なく。ちょうどよかったですので」

「……え?」

リナは一瞬、言葉を失った。

「婚約のことです。こちらからもそうしようと思っていましたので」

(……ちょうどよかった?)

想定していた反応ではなかった。婚約を破棄されて「ちょうどよかった」とは、どういう意味だ。強がりか。でも、あの顔は強がりではなかった。本当にそう思っている顔だった。悔しさも悲しみも、一切混ざっていない、澄んだ顔だった。

(……本当に、どうでもよかったのか)

そうだとしたら、エリーゼにとって婚約とは何だったのか。殿下との五年間は何だったのか。リナには理解できなかった。

エリーゼが本のページをめくった。話は終わった、という動作だった。視線が本に戻って、もうリナを見ていなかった。

(……追加で何か言うべきか)

リナはもう一言かけようとした。でも、何を言えばいいのかが浮かんでこなかった。どんな言葉をかけても、あの静かな目に跳ね返されそうな気がした。反応が読めない相手に言葉を重ねるのは、得策ではない。

リナはそっと踵を返した。

本を読んでいるエリーゼの邪魔をしないよう、静かに、音を立てずに図書室を出た。

扉をゆっくりと閉めた。

廊下に出てから、リナは少し立ち止まった。

(……ちょうどよかった)

あの言葉が、頭に残って離れなかった。

怒っていない。悲しんでいない。何かを企んでいる素振りもない。ただ本を読んで、静かにしている。傷ついた様子も、惨めな様子も、まるでなかった。

(……本当に、何もないのか?)

それともあの静けさ自体が、何かなのか。

エリーゼを読もうとしてきた。怒らせて、殿下に庇ってもらって、「傷ついている側」に立ち続けてきた。でもいつも、あの目だけは読めなかった。ただ静かに見ている、事実を積んでいるような、あの目。

(……深く考えすぎか)

リナは首を振った。今の自分には有利な状況が揃っている。エリーゼはもう孤立していて、一人で図書室で本を読んでいる。それだけのことだ。

廊下を歩き始めた。でも、「ちょうどよかった」という声が、しばらく耳の奥に残っていた。

エルヴィン・バーウェル男爵令息の様子が変わったのは、それから間もなくのことだった。

廊下で声をかけたとき、今まで必ず立ち止まって話してくれていたエルヴィンが、少し遠回りをするようにこちらを避けた。

「エルヴィン様、少しよろしいですか」

「あ、ちょっと今から急ぎで……」

視線がうまく合わなかった。足が止まらなかった。いつもの人懐こそうな笑顔が、今日はどこかぎこちなかった。

(……避けている)

リナはその背中を見ながら、胸の奥でゆっくりと何かが動くのを感じた。

エルヴィンがリナを避けたことは、これまで一度もなかった。何かにつけて声をかけてきて、贈り物をするほど好意を持っていた人間が、急に目を合わせなくなった。この変化は偶然ではない。

記憶を辿った。セドリックとエルヴィンが廊下で話していた日のことを。エルヴィンの顔が途中で変わったことを。驚きから困惑へ、そして何かを思い出したような、あの顔の変わり方を。

(……セドリックが、何かを聞いた)

エルヴィンが思い出した「何か」が、今のこの避け方に繋がっている。

では、何を思い出させられたのか。

リナの胸の中で、じわりと嫌な感触が広がった。

数日後、

クラウス子爵令息の様子も変わった。

食堂でたまたま隣の席になったとき、クラウスはいつもより明らかに口数が少なかった。こちらが話しかけても、返事は短かった。笑顔はあったが、目が笑っていなかった。どこかを見ているような、どこも見ていないような、そういう目だった。

「クラウス様、最近何かございました?」

「いや、別に」

「少し、元気がないように見えて」

「そんなことはないよ」

言葉だけ聞けば普通だった。でも声に温度がなかった。いつもならリナの言葉に乗ってきて、少し照れたように笑うクラウスが、今日は全くそうならなかった。

それだけではなかった。

食事の途中で、クラウスが立ち上がった。

「ごめん、用を思い出した」

それだけ言って、早々に食堂を出ていった。

(……クラウスまで)

リナは食堂に一人残って、冷めていく紅茶を見ていた。

エルヴィンが避けた。クラウスの態度が変わった。二人ともセドリックと話した後だ。そしてセドリックはリナの問いを「ただの雑談だ」ではぐらかした。

点が、線になりつつあった。

(……やはり、セドリックが動いている。そしてその動きが、私の周囲の人間を変えている)

見えない場所で、何かが着実に進んでいる。その感覚が、日に日に大きくなっていた。

エリーゼが用意した書類。セドリックがそれを拾い上げた瞬間。あの日からずっと、何かが静かに動いている。

(……エリーゼが集めていたものは、本物だったのかもしれない)

その考えが頭の端に浮かんで、消えなかった。

図書室でのエリーゼの顔を思い出した。ただ静かに本を読んでいた、あの顔。

(……あの人は本当に、ただ本を読んでいただけなのか)

翌朝、殿下の側近の一人がリナに声をかけてきた。

「リナ様。クロード殿下が、少しお時間をいただけないかとおっしゃっています。放課後、応接室にお越しいただけますか」

リナは笑顔で答えた。

「もちろんです。お伝えください」

側近が去った。

廊下に一人残った。

(……殿下が、呼んでいる)

今まで「殿下に呼ばれる」ことは、いつも殿下がリナを気にかけてくれているサインだった。心配してくれている。会いたがっている。「気分転換になれば」と言って、庭を一緒に歩いたこともあった。

でも今日は、その感覚が少し違った。

「少し話がある」ではなく「少しお時間をいただけないか」という言い方。

お時間を、いただく。

その言葉の選び方が、いつもと違った。いつもの殿下なら「少し話せるか」と直接声をかけてきた。側近を通して、丁寧な言葉で呼ぶのは、改まった話があるときの形だった。

(……いつもと、違う)

リナは廊下の先を見た。生徒たちが普通に歩いていた。いつも通りの学園の朝だった。

でもリナの胸の中だけが、静かではなかった。

エルヴィンの目が合わなかった日のことを思い出した。クラウスが早々に食堂を出ていった日のことを思い出した。セドリックに話しかけたとき、「ただの雑談だ」とはぐらかされた日のことを思い出した。

そして、エリーゼの書類の表紙を思い出した。床に落ちて、セドリックが拾い上げた、あの束。

(……放課後、応接室)

廊下の石畳が、今日は少し冷たく見えた。

殿下は何を話すつもりなのか。

放課後まで、まだ時間があった。その時間が、今日に限って、ひどく長く感じた。