作品タイトル不明
429.メガネ君、秋の初めに
額に浮かんだ汗が、頬を伝って落ちる。
大木を背に死角を消し、耳を澄まし、肌に感じる空気の流れを読む。
時折り吹く風に揺れ、柔らかくざわめく木の葉の音が煩わしい。
展開した魔力で空間探知領域を維持しているが、次の動作を考えると、あまり範囲を広げることはできない。
ザッ
左から地面を噛む足音が聞こえ。
展開した魔力が何かに触れたのは、真上。
いや――正面!
そう思った瞬間、灰色の影が一瞬だけ見えて、消えた。
(見えた! 左の木の裏!)
一歩を踏み出すと同時に、疾行術で瞬時に距離を塗りつぶして後を追う。
そして、木の裏を覗き込み――
「にゃあ」
…………
背後で 鳴かれた(・・・・) 。
……はあ、やれやれ。
気が抜けると同時に、全身の力も抜ける。
振り返れば、大きな灰色の猫がいる。
「また速くなった?」
こっちに逃げたのは確かに見た。見えた。見えたはずだ。
あれは残像だったか?
なら音はどう誤魔化した?
真上はフェイクだと思ったが、あれはもしかしたら移動した気配だったのか?
音が伴ったから確信したのに、完全に騙された。
……それとも、木の裏に逃げた上で、俺の後ろに回り込んだのか?
どれが正解にしろ、俺より技術が上なのは確かだ。
「これで俺の103勝669敗か。……だいぶ負け越してるなぁ」
顔には出てないかもしれないが、それなりに悔しい。
当の本人、いや、本猫は、勝敗などどうでもいいとばかりに顔を洗っているが。
人と、猫型の魔物。
基本的な運動能力が違うから、と言い訳すればそれまでだけど……
でも、そんなの本当に言い訳だよなぁ。
…………
まあ、可愛いからいいか。
「そろそろ帰ろうか、ネロ」
訓練は充分だろう。今日もしっかり負けたし。
ネロも思いっきり身体を動かせただろうから、今日のところはこんなものでいいだろう。
「にゃあ」と返事をしたのを確認して、俺はネロを召喚解除して消した。
さて、帰るか。
離れた場所に血抜きとして吊るしておいたオロ雉三羽を回収し、森の出口へ向かう。
すっかり風が冷たくなってきた。
先週くらいまでは少し汗ばむ陽気だったのに、ここ数日ではっきり季節の移り変わりを感じる。
もう秋か。
まだ日中なので太陽は高いところにあるが、これからどんどん日も短くなっていくのだろう。
「――お、坊主。今日もまた早く帰ってきたな」
寄り道する理由もないし、また擦れ違う者もなかったので、人目を憚らず全速力で走って帰ってきた。これもまた訓練の一環である。
すっかり顔見知りになった門番のおっさんに、「今日も運よく獲物が見つけられたから」と答えつつ、狩猟ギルドの身分証を提示する。
ほぼ毎日顔を合わせているので、もう普通に顔パスで行けそうな気もするが、規則は規則なので見せておく。
「すごいな。狩りに失敗した日はないんじゃないか?」
「そんなことないよ」
……まあ、ここ一年以上は、ないけど。
早朝に狩りに行き、獲物を仕留め、昼には帰ってくる。
そんな生活もずいぶん長くなった気がする。
門番のおっさんに許可を得て、俺は王都ナスティアラに帰るのだった。
狩猟ギルドに直行し、オロ雉三羽を納品する。
「はい、確かに」
やる気のなさそうなだらっとした受付嬢が、さりげなく、に見えるがかなりしっかりと獲物をチェックし、納品を認める。
見た目に寄らない人というのは存在する。
目の前のこの人は、間違いなくその分類に入る人だ。
……というか、裏の人はだいたいそうか。
王都で有名なレストランと、短期だが定期納入契約を結んでいるので、食肉用として傷が多すぎるとまずいのだ。あと鮮度とか。
厳密に言うと、仕留め方をしくじっていろんな部位を傷つけると、減額となる。ただ仕留めればいいわけではなく、できるだけ傷が少ないものが望ましいのだ。
かなり難易度が高い条件ではあるが、その代わり、報酬はかなりいい。
「いいねぇエイル君。ここ数年、王都でアクティブに動いてくれる狩人っていなかったから、すごく助かるよ」
なんでも、趣味でやっている狩人なら王都にもいるらしいが、毎日狩りを行うような狩りを本職にしている人はいなかったそうだ。
まあ、都会では狩人だけで食べて行けるのかって問われると、難しいのだろう。
「黒鳥」のアインリーセのように、冒険者に転向した者も多いらしいし。
「こういう仕事をちょくちょくやってると、周囲の受けも違うからね。大事なのよ」
「受け?」
「利用者のいない狩猟ギルドなんて閉めろ、みたいな声がね。いろんなところから飛んでくるわけ。ここ一応国営だから。皆さんの税金で運営してるから」
ああ……
「これも時代ですかね」
「そうかもね」
王都で本格的に狩人活動を始めて、もう一年弱くらいになるか。
本当にこの狩猟ギルドで、他の狩人や利用者を見ない。
一応ここで管理、保存している「匠の干し肉・燻製肉」なる、丹精込めた上に香辛料をふんだんに使った高級保存食を買い求める客はいるらしいが。でも俺は見たことがない。
「昔は大通りに近い良い場所に、結構大きな店を構えていたらしいんだけどね。今ではこの通り、目立たない場所で慎ましく経営してるし」
やはり手軽になれる冒険者の台頭は、狩猟ギルドに与えた影響が大きかったのだろう。
狩人は育てるのに時間が掛かるから。
今の時代、何年も修行しなければならない職業なんて、あまり人気はないのかもしれない。
そもそも師となる狩人自体がめっきり少なくなっている現状だし、弟子入りしたくてもできない状態でもある、のかもしれない。
このまま衰退し、いずれいなくなるのかな。
「はぁ……ここがなくなったら、私はどうなるんだろ……」
「冒険者に転職でしょ?」
というか、ここにこの人が座っていることこそ場違いすぎるだろう。これでも優秀な暗殺者なのに。なんでここで遊ばせているのか理解に苦しむ。
「……本職に戻りたいなぁ」
本職か。
そっちの世界も衰退が……って、もう切りがないな。
そろそろ行っていいかな?
このままここにいると、受付嬢の愚痴が止まらなくなりそうだ。暇そうだし。あんまり仕事もないんだろうし。
「いずれまた飲みに行きましょう。愚痴はその時聞きますよ」
「えー? でもエイル君もあの子も弱いからなぁ」
「じゃあなしで。お疲れ様です」
「ああ、うそうそ。いい酒おごるから行こう。都合のいい時を教えてよ。あの子にも声掛けといてね」
「はいはい、じゃあそれで」
狩猟ギルドを出て、狩りの道具類を置くために一旦家に戻ることにした。
住宅街にある、小さな一つの家。
なんの変哲もない普通の家だが、一軒家で、小さな庭先には洗濯物がはためき、小さな畑がある。
「――ただいま」
ノックもなくいきなりドアを開けると、
「――おかえりなさい、エイル君」
台所に立っていたセリエから、すぐに返事が返ってきた。