作品タイトル不明
3.
逃げると決めたなら、まず私が整えるべきは――体力だった。
若い身体とはいえ、私は貴族夫人である。
日常の移動は馬車、長距離を歩くことも、ましてや走ることなど、大人になってからはほとんどなかった。
着替えも、入浴も、当たり前のように使用人が手を貸す生活だ。
屋敷の中で過ごす日々は、安全で快適だが、その分、身体は確実に甘やかされていく。
だから私が最初に選んだのは、庭遊びだった。
といっても、鍛錬でも訓練でもない。
ただ、日常の延長にある動きを、ほんの少しずつ増やしていくだけだ。
「ほら、ルカ。あっちまで行ってみましょうか。きれいなお花が咲いているわ」
庭の端に立ち、手を振る。
最初は、よちよちとした歩幅で近づいてくる。
次は、小走り。
そして、追いかけっこ。
私が追うと、ルカは声を上げて笑った。
振り返り、また走り、転びそうになっても踏みとどまる。
転んでも、すぐ立ち上がる。
息が切れても、もう一度走ろうとする。
(……強くなってる)
それは、単に脚力がついたという話ではない。
走り終えたあと、ルカは必ず私の方を見る。
迷いなく私を目指し、胸を張って戻ってくる。
その様子に、私は確かな変化を感じていた。
私自身も、息が上がる。
(あら、しんどい)
けれど、不思議と嫌ではなかった。
前世で、孫と一緒に公園を走り回った記憶がよみがえる。
遊んでいる最中は夢中で、翌日になってから筋肉痛に気づいた、あの感覚。
(まあ、それも含めて人生よね)
体力づくりは、こうした庭遊びを続けることで確実に積み上がっていった。
次に手を付けたのは、外出だった。
貴族夫人の外出には、当然ながら護衛騎士が一人は付く。
名目は安全確保だが、実態は監視でもある。
何人か候補はいた。
その中から、私が選んだのは――一番不真面目そうで、でも見目の良い男だった。
ディートリヒ。
勤務態度は適当で、金遣いが荒い。
(信用できない? いいえ、逆)
真面目な人間ほど、余計なことを考える。
使命感が強い人間ほど、忠告や報告を欠かさない。
ディートリヒは違った。
面倒ごとを嫌い、楽な方へ流れる。
外出のたびに、私は彼に小さな袋を渡した。
「これで、少し時間をもらえるかしら」
中身は銀貨。
決して大金ではないが、彼にとっては十分な額だ。
彼は一瞬だけ目を見開き、それから、にやりと笑った。
「……かしこまりました」
それだけでいい。
彼は適当なところでそばを離れ、市場で酒を飲むなり、知り合いと話し込むなりして時間を潰す。
結果として、私とルカは自然に彼と別行動になる。
きっと彼は、こう思っているのだろう。
――奥様は、愛人に会っている。
思い込みは、時に最良の防壁になる。
街では、少しずつ小金を作った。
指輪。
ネックレス。
伯爵夫人として身に着けていた装飾品を、ひとつずつ。
一気には売らない。
目立つ額にもならないよう、時期をずらす。
それから、ルカには街の食べ物を経験させた。
硬めの黒パン、豆と根菜を煮込んだ素朴なスープ、塩気の強い保存食。
貴族の食卓に並ぶ、柔らかく整えられた料理とは、まるで別物だ。
最初にパンを渡したとき、ルカは少しだけ眉をひそめた。
「……かたい」
「ええ、そうね。でも噛むと味が出るわよ」
言いながら、自分も同じものを口にする。
それを見て、ルカはもう一度パンを噛みしめた。
「……ちょっと、あじする」
「でしょう? お腹も、長く持つの」
次の時はスープだった。
湯気の立つ木椀を両手で抱え、慎重に口をつける。
「……あつい」
「ふふ、ゆっくりでいいのよ」
一口、また一口。
やがて、ルカは顔を上げた。
「これ、すきかも」
私は思わず微笑んだ。
保存食を渡したときには、さすがにウェッといいながらすごい顔をしていたが、
これは徐々に慣れてもらうしかない。
「これも、たべる?」
「ええ。慣れておくと、あとで困らないから」
「ふうん……」
納得したのかどうかは分からない。
けれど、二度目、三度目と口にするうちに、何も言わずに食べるようになった。
(順応性、あるわね)
街を歩きながら、少しずつ、少しずつ。
店先で焼かれたものを分け合い、
屋台の端に腰掛けて同じ器を覗き込む。
それは訓練というより、ささやかな散歩だった。
貴族の食卓しか知らない子は、きっと環境の変化に耐えられない。
逃げるつもりなら、舌も身体も、怖がらせないように慣らしておく必要がある。
ルカはパンをかじりながら、ぽつりと言った。
「かあさま、ぼくこれ好きだよ」
「そう言ってもらえて良かったわ」
「また、たべようね」
私は、その言葉に小さく頷いた。
「そうしましょう。ゆっくり、ね」
外出を重ねるうちに、私は町外れに小さな部屋を借りた。
古い建物だが、手入れは行き届いており、人の出入りも多く、特別目立つことはない。
市場で少しずつ揃えた旅支度は、すべてそこに集めた。
丈夫な靴、簡素な服、薬草、保存食。
一つずつ、確実に。
ディートリヒは、その部屋の存在を知っている。
……いや、正確には「奥様の密会場所」だと思っている。
(なんて素敵な護衛なのかしら)
自分の怠慢が露見するのを恐れて、彼はきっと言いふらさない。
屋敷に戻れば、私はいつもの伯爵夫人だった。
息子に依存している、可哀想な女。
捨てられた妻。
そう見られている間に、私は地盤を固める。
体力、金、食、逃げ場所。
すべてを、一度にではなく、少しずつ。
準備を始めてから、すでに数か月が過ぎていた。
クラリスの学園入学まで、残りはおよそ九か月。
夜、疲れ切って椅子に腰掛けながら、私は思う。
(逃亡って、派手じゃないのね)
剣も魔法もいらない。
必要なのは、生活力。
前世で身に付けた、一番の武器だ。
この頃から、私とルカは一緒に眠ることが増えた。
「今日ね、楽しかった。またお外いける?」
「ええ。またね」
彼はこくりと頷き、やがて規則正しい寝息を立て始める。
(大丈夫)
逃げる準備は、着実に進んでいる。
期限は一年。正確には、あと九か月ほど。
――この時間を、私は無駄にしない。
ヒロインは、きっとヒーローが幸せにしてくれる。
けれど、屋敷の中で何かが起きる可能性を思うと、胸の奥が疼いた。
私は比較的信頼できる侍女に、ブローチなどの装身具を渡し、感情的な口調を装って告げた。
「夫とあの娘が二人きりになるのは耐えられないの。
あの二人、絶対に二人きりにさせないで」
端から見れば、嫉妬に狂った厄介な奥様だろう。
それでいい。
疑われるより、疎まれる方が安全なのだから。