軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

116話 大罪vs大罪

――ウィルバート隊長視点。

鈍い痛みに眉を寄せながら目を開いた。

視界に広がるのは、嵐が過ぎ去った後のような大地と、雷雲が何層にも連なった濁った空。

凄まじい戦いの余韻が残る中、風が土煙を静かにさらっていく。耳鳴りの中で、かすかな呼吸音だけが残っていた。

傍らでは、ヘーゼルナッツ博士が喉を鳴らしている。口の端から、黒い血といや、“黒い魔力”が混じった液体を吐き出し、胸元が赤黒く濡れていた。彼はまだ意識を保っているが、指先は震え、魔力の制御がきかない様子だ。魔獣が持っているマグ・ノワールをその体内に入れてしまったのだ。

そして、その向こう。

護衛のイレイザー先生は地面に叩きつけられたまま、微動だにしない。砂に半ば埋もれた銀髪が、わずかに差し込む陽光に鈍く光っている。体勢からして、途中で防御姿勢を取る暇もなかったのだろう。喉が、ひゅっ、と音を立てた。彼の胸が、かすかに上下していることに気づいた瞬間、ようやく安堵息を吐けた。

……生きている。

だが、その呼吸は、ひどく浅い。

自分が意識を失っている間に、一体何が起きたのか。あの強いイレイザー先生に起きた出来事……、想像するだけで背筋が震えそうだった。

少し離れた場所では、先ほどまで暴れ回っていた神と魔獣である姉妹が、互いに寄り添うように座り込んでいた。

片方は呆けた目で空を見上げ、もう片方は泣き腫らした頬を押さえている。まるで、ただの少女たちのようだった。

「あれが……神と魔獣?」

この静けさが、つい先ほどまで地獄だったとは信じられないほどに、穏やかで、どこか、悲しい。

自分の感じていた悲しさの理由がすぐにわかった。

戦いは終わった。だが、勝った感じはしない。

ゆっくりと体を起こした。

全身が痛む。骨が軋む。だが、それ以上に胸の奥が重かった。

何かがどうしようもなく、悲しい。

理由もわからぬまま、その感情が内側から滲み出してくる。

目を伏せると、凝縮された濃い魔力で焦げた地面に、倒れた少年の姿があった。

ハチ!!

唇が乾く。喉が詰まる。

少年は、まるで深い眠りに入ったように動かない。

手足はだらりと伸び、胸は……上がっていなかった。

ああ、そうか。

自分は、こいつが死んだと思って悲しんでいたのか。イレイザー先生のときに感じたような生の力が無い。

気づいた瞬間、体が勝手に動いた。自身の傷も軽くはない。骨が何本か折れている。やはり、魔獣相手には力不足だった。うぬぼれていたわけじゃない。けれど、もう少しばかりやれるんじゃないかという思いもあった。

地を這い、泥と血をかき分け、少年の傍までたどり着く。

震える手で頬を叩き、呼びかける。

「ハチ……! おい、ハチ! 聞こえるか!」

返事はない。

喉の奥が焼ける程に叫んでも、反応はない。

歯を食いしばり、両手を胸に当てた。

心臓マッサージ。

何度も、何度も。

骨の軋む音がする。だが少年は動かない。

手から血と泥が飛び散り、口の中に鉄の苦い味が広がる。

「頼む……お前は、こんなところで……! 戦いは終わったんだ。どうして俺が生きて、お前が死ななきゃならん! ハチ、起きろ! 起きてくれ!」

声が震え、視界が滲む。

堪えていたものが溢れた。涙が、頬を伝って落ちた。

その時だった。

強風が吹いた。

重い空気を裂くように、突風が戦場を駆け抜ける。

砂と灰が巻き上がり、音を失っていた世界に新たな気配が差し込む。

音がした方へと顔を向けた。

遠く、黒い外套を翻す影がいくつか立っていた。

人の形をしている。だが、まとっている気配は明らかに異質。それが何かわかったとき、ぞくりと鳥肌が立つ。王都の辺境調査隊に所属している身だ。王城で何度かその外套を見かけたことがあった。

天壊旅団。神を殺す者たち。

瞳孔が震えた。

彼らが来てくれた安心感と同時に、なぜもう少し早く到着してくれなかったのかという怒りにも似た思いもある。

しかし、その一団の先頭、鋭い眼光をもつ男の姿を見た瞬間、血の気が引いた。

「少し遅れたか」

冷静な男の声。銀青色の長い髪の毛。深い碧色の瞳。彼の名も知っていた。天壊旅団団長、ゼルヴァン様。神を斬った男。

この国で、グラン学長、リュミエル王子と並ぶか、それ以上の器と言われているお方。

ゼルヴァン様は無言で周囲を見渡す。

焼けた大地、座り込んだ神と元魔獣の姉妹、沈黙する魔獣の残滓。

そこには暴走も、狂気もなかった。

あまりに静かで、あまりに均衡が取れている。

「魔獣どころか、神の魔力も感じたのだが……どうやったのか、今は両方大人しい」

ゼルヴァン様の低い声が、風に混じって響いた。

その眼に、わずかな驚きが宿る。

部下たちがざわつく。

「この気配……神も魔獣も、鎮まってる……?」

明確には応えず、ただ前を見据えた。

その口元には、かすかな笑みが浮かぶ。

「あいつか……」

称賛に似た声音だった。

だが、誰に向けられた言葉なのかは分からない。

少し怖くはあったが、それでも気持ちが抑えきれない。歯を食いしばって立ち上がる。

「なんで……遅れたんだ! あんたら程の組織が最初から動いてくれれば、ハチは!」

ゼルヴァン団長はこちらに視線を向けるが、返事はしない。

背後の天壊旅団の面々が周囲を警戒する。

風が止み、空気が重くなる。

「俺たちの仕事は『神殺し』だ。魔獣との戦いに遅れて、文句を言われる筋合いはない」

淡々と、しかし圧のある声でゼルヴァン様が言う。

「今はリュミエールの頼みで来ただけに過ぎない。ここは王都が近い。魔獣が王都に近づけば想像も出来ない程被害が出る。我々は軍が動くまでの時間稼ぎ。それだけだ」

「リュミエール王子の……だと?」

ゼルヴァン様は静かに頷く。

「リュミエールは先年直接魔獣を見ているだけあってかなり慎重だ。我々にも手出しするなと言ってある。あくまで時間稼ぎ。魔獣は簡単には止まらない。……俺たちでさえな」

神殺しですら止められない。その言葉の重みが、骨にまで響く。

拳を握りしめ、沈黙の中で立ち尽くす。

ゼルヴァン様はそんな俺に背を向け、ゆっくりと歩き出した。

「しかし、来てみれば魔獣騒動が収まっている。驚きはしたが、ここにいる面々を見て納得も行った。辺境調査隊ウィルバート隊長。そなたの優秀さは日頃より聞いている」

「自分は何も……」

謙遜している訳ではない。

英雄である父親のように、仲間を守るために時間を稼いだ訳ではない。

魔獣の前に、たったの二回の衝突で意識を失い、満身創痍。自分の力で立ち上がるだけで精一杯な程追い込まれている。……本当に役立たずだと自分を貶してやりたかった。

「マグ・ノワールの専門家ヘーゼルナッツ博士に、そこで寝ているのはイレイザーだな。まだ生きているのだろう?」

気遣うように呼び掛けた言葉。

それに反応して、地面にめり込んでいたイレイザー先生が片手を上げて応える。わずかに声も出ている。

「ふん。ぬるい環境にいるからだ。常日頃より鍛錬は怠るなと言ってあったのに」

「……団長。あんまりです。こんな時くらい、労ってゴッホッゴ……!」

イレイザー先生は苦言を呈されて言い返すも、やはり臓器に損傷を追っているらしい。最後は吐血しながら言葉を言い切れなかった。

自分はなんとか立ち上がれているが、今尚寝込んだままなのも、やはりダメージの重さが違うのだろう。

「そして、一番不思議なようで、妙に納得が行く存在でもある。……ハチ・ワレンジャール。こいつはまた魔獣の前に姿を現したのだな」

また?

天壊旅団団長ゼルヴァン様程の方がハチのことを知っているのも驚きだったが、それよりも“また”という表現が特に気になった。

ハチはまだ青年期も迎えていない少年だ。王立魔法学園に入り、首席でなぜか辺境調査隊に職場体験に来た変わり者の男。

優秀かもしれない。しかし、ただの子供でしかないと思っていた。

「……また、とは一体どういうことでしょうか?」

「ウィルバート隊長が知らないのも無理はない。リュミエールのやつが先の魔獣討伐の情報を厳しく統制したからな」

頭の中を多くの疑問が過る。

なぜそんなことをするのか、と。ずっと抱えていた疑念でもある。

リュミエール様の魔獣討伐なんて目出度いことでしかない。人々に安心を与えるし、リュミエール様への支持も集まる。情報を隠す理由がどこにある!

「リュミエール様の魔獣討伐は素晴らしい行いです。もともと私はあの方……いいえ、魔獣討伐した方に忠誠を誓うと決めていた。私だけじゃない。魔獣討伐はそれだけ偉大なことだし、多くの戦士が敬意を表している。なぜ隠す必要があるのですか!」

なぜだか、苛立ちに似た感情で捲し立てた。自分の知らない事実があることになんだか不満を感じていたのかもしれない。

「いいや、それは事実ではない。先のローズマル家魔獣討伐戦は、リュミエールが魔獣を討ったのではない。歴史に類を見ない被害の少なさ。違和感はなかったのか?」

ゼルヴァン様が歩を進めながら、倒れたハチだけを見据えて返答する。

確かにそうだ。

魔獣討伐とは思えない程被害が少なかったとは聞いている。

死人はほとんど出ず、時間もさほどかからなかった。

しかし、それは全てリュミエール様が優秀だからこそのはず!

「ありました……けれど……では! リュミエール様が討伐したのではないのなら、一体だれが!」

ゼルヴァン団長が歩みを止める。その足元にハチの体があった。

首筋に指をあて、脈を確かめる。

「ここにいるハチだ。ローズマル家の魔獣討伐戦、リュミエールが到着したときには満身創痍のハチが魔獣を仕留めていた。神の被害を一名出し、紋章の覚醒者の協力も得たが、仕留めたのはこのハチ・ワレンジャール。しかし……。どうやら、こいつの強運もここで尽きたようだな……」

惜しいことだ。

しずかにゼルヴァン様がぼそりと呟いた言葉が聞こえた。立ち上がり、空を見上げる。その目には悲しみが浮かんでいるのか。それとも魔獣討伐が終わった安堵が浮かんでいるのか、こちらからは見えない。

「ハチが……?」

魔獣を討伐した、英雄だっただと?

ローズマル家の魔獣騒動は不可解な点が確かに多い。

しかし、ゼルヴァン様程の方が嘘を言う必要もない。

そして、直後情報がいろいろと結びつく。

先の魔獣戦にいた子供の存在。もしや、あれはハチだったのか?

仕事柄地理には詳しい。ヘンダー伯爵家の領地は遠いが、それでも位置はわかる。

ローズマルの領地と隣接しており、ワレンジャールの地も付近にある。ハチも当然その領地の出身だ。冷静になって考えてみればみるほど、魔獣戦にいた少年の正体がハチだという結論になる。

「嘘だろ……」

また涙が頬を伝った。

感情が溢れて抑えきれない。だって、ハチの真意に気づいてしまったから。

抱えていた疑問が一つずつ解消して、繋がっていく。

なぜ、ハチ程の優秀な生徒がこんな人気のない辺境調査隊に志願したのか。

なぜ先日、一人で魔獣に立ち向かうような真似をしたのか。

そうか。ハチは、ハチは!

最初から“魔獣討伐”を目的にここへやって来ていたのだ!

どうやって情報を得たのかは知らない。

だが、確かにハチは知っていたのだ。この地に魔獣が現れることを。

我々辺境調査隊に紛れて、自分の使命を果たすため、ずっとずっと動いていた……!

俺はただ、父親の背中を追いかけて来た。自分も英雄になりたかった。誰かに誇られたかった。テミアの前で格好をつけたかっただけなのかもしれない。

けれど、ハチは違う。

ハチは自分が英雄になろうなんて、これっぽっち考えていなかった。その証拠に、前回の魔獣討伐でさえ一切名を残していない。きっとリュミエール王子に頼んで名を伏せて貰ったのだろう。

ハチは……ハチはただ、人々のことを想い、己を犠牲にして魔獣と戦うことだけを考えていたのだ。

……真の英雄。

その言葉が、脳裏をかすめた。

戦力にもならなかった自分。魔獣と戦う理由も自分のため。

その差を、嫌というほど思い知らされる。

膝が崩れ、地面に手をついた。

ああ、今すぐハチにこの思いを伝えたい。

なんでもっと会話をしなかったんだ。もっと話しをしたい。

自分が忠誠を誓うべき存在は、ずっとずっと、傍にいたというのに。

私欲もなく、ただ人々のために戦う男。ハチ・ワレンジャール。

俺はずっとあんたみたいな人に忠誠を誓い、あんたみたいな人のために働きたかったんだ。ずっとずっと、あんたとの出会いを待って生きて来たんだ。

目の前の少年――ハチ。

その胸は上下せず、肌は血の気を失って白い。

ああっ、どうしてっ。

自分が忠誠を誓うべき存在は、もう死んでしまったのだ。

胸の奥が焼ける。

涙が、また滲んだ。

そのときだった。

ぴん、と音がした。

それは弦が鳴るような、微かな空気の震え。

次の瞬間、ハチの体が、ありえない角度で――起き上がった。

倒れた姿勢のまま、宙に吊られたように。

頭も腕も、重力を無視して持ち上がる。

まるで、見えない糸に引かれて立たされる人形のようだった。

その異様な動きに、天壊旅団の面々が即座に反応する。

複数の武器が一斉に構えられ、魔力の淀みが空気中を走る。

空気が一瞬で緊張に満たされた。

「……生きている?」

誰かが呟く。

彼らの警戒心は自分に影響を与えなかった。

それを遥かに上回る喜びが込み上げてくる。

立った。生きている!

「ハチっ!!」

少し離れたハチに、咄嗟に駆け寄る。

だが、脚が悲鳴を上げた。

鈍い音と共に、膝が崩れる。骨がずれている。

重心を支えきれず、地面に叩きつけられた。今になって、自分の脚が折れていることに気が付いた。立つだけでも精いっぱいだったのに、走り出したことで限界が来た。

前のほうで何か音がした。

咄嗟に天壊旅団の団長ゼルヴァン様が動く。

黒い外套が風を裂き、飛び退きざまに満身創痍のこの体を抱え上げる。

「皆、下がれ!」

怒声と同時に、地鳴りが響いた。

先ほどまで自分が倒れていた地面が……抉れた。

黒い閃光。爆ぜる音。

そこに、巨大な黒い魔力弾が撃ち込まれていた。

焦げた大地がえぐれ、熱風が頬を焼く。

もしゼルヴァン様の判断が一瞬でも遅れていれば、自分の体は跡形もなく消えていただろう。

自分を抱えたゼルヴァン様が息を吐く音がする。その視線は鋭く、立ち上がったハチを睨みつける。

立ち上がったハチの瞳は、焦点を失って闇の光を宿していた。

「なるほど、魔獣騒動は終わっていなかったか。本来、魔獣は精霊王の体を器とし顕現する。だが、今回は魔獣の器となった少女は……」

その視線は、神である妹の腕の中で抱擁される少女へと向けられる。

「器が死んでいない。ということは、マグ・ノワールは昇華されていない。……なるほど、ハチが全てを引き受けたというわけか」

言っていることが分からなかった。

どういうことだ。

いいや、これは理解したくないという方が近いかもしれない。

しかし、全員に言い聞かせるように、ゼルヴァン様が非情な現実を告げる。

「ハチ・ワレンジャールが魔獣になった。これより作戦を変更する。リュミエール到着まで時間を稼ぐ。ただし、魔獣の器の脅威、そして王都が誓いことも考慮し、犠牲を払ってでも我々で仕留めることも念頭に置くぞ」

天壊旅団がその外套を脱ぎ去る。

戦闘態勢に入ったということだ。

なんでだ。なぜこうなった!

自分を抱えていたゼルヴァン様の腕が離れた途端、痛みも限界も超えて立ち上がり、天壊旅団の前に立ちふさがった。

精一杯両手を広げて、叫ぶ。

「やめろ! やめてくれ!」

「……どういうつもりだ? ウィルバート隊長」

ゼルヴァン様に睨まれる。その鋭い視線だけで普段の俺なら震え上がるだろう。けれど、今は全く恐怖がなかった。

死ぬことなんてちっとも怖くない。むしろ、ハチのために死ねるなら本望だとさえ思える。嬉しい気持ちすら湧いてくるのだ。

「なんで魔獣討伐のために動いたハチがこんな目に遭わなければならない! 彼は英雄であって、こんな扱いを受けて良いはずがない!」

「ハチはよくやった。それは同意だ。そして、俺も実に残念に思っている。ハチはいずれうちで引き取る予定だったからな」

ハチが天壊旅団に?

ほんと、お前そんなに優秀だったのかよ。全然知らなかったよ。だって、お前、飯のことばっかりでさ。もっとアピールしてくれよ。てっきり、お前は将来辺境調査隊に入ってくれるものとばかり……。

「だったら、どうして」

「このままハチを放置すれば王都に甚大な被害が出る恐れがある。ハチの才能を考えれば、史上最悪の魔獣騒動になる可能性さえあるのだ。それを我々が命を懸けて仕留める。俺とお前、どちらが正しいことを言っているかは明白なはずだ」

レイピアを片手に、もう片手に短剣構え、今にもハチに向かって斬りかかりそうなゼルヴァン様。

けれど、俺はその前をどくつもりはない。絶対に!

「あんたの言うことは正しい。正しいよ。けれど、俺の感情はどうしても、そうはさせてくれない。俺はハチと戦いたくないし、英雄がこんな目に遭うのは納得が行かない! だから、死んでもここはどかない! 天壊旅団だろうが、リュミエール王子の軍が来ようが、俺はここをどかない!」

「ならば、お前も斬るだけだ。ウィルバート隊長。合理的な判断だとお前も認めていることだからな」

低く響く声。

その瞳には、ためらいが一欠片もない。

ゼルヴァン様が一歩、前に出た。それと同時に、背後に、二つの人影が立った。

「……まったく、無茶ばかりだな」

疲れた声。

ボロボロの白衣を引きずりながら、ヘーゼルナッツ博士が歩み出てきた。

その隣では、イレイザー先生がふらふらと肩を回しながら立っていた。

額から血を流し、片目が腫れ上がっている。

それでも、口元にはいつもの皮肉染みた笑みが浮かんでいる。

ゼルヴァン様の眉がわずかに動く。

「……どういうつもりだ?」

ヘーゼルナッツ博士は短く息を吐いた。

「私もゼルヴァン殿の考えを支持する。けれど、今はまだ様子を見たい。あの子は、ハチ君は、それほど考えなしじゃない。今の状態もきっと想定済みだ。まだ他に手はあると思っている」

冷静な声色。ヘーゼルナッツ博士は終始落ち着いていてとても頼りになる感じがする。

「様子を見たいだと? 魔獣を前にそんな猶予があるとは思えないが」

ゼルヴァン様の怒りに呼応するように、地面の砂が震える。

「……イレイザー。お前も、俺に逆らうつもりか? まさかお前に裏切られるとはな」

その鋭い眼光が突き刺さる。

イレイザー先生は肩をすくめ、目をそらしながら小さく言った。

「先輩、怖いんで、あんま睨まないでほしいんですけど」

苦笑が滲む。

それでも、次の言葉ははっきりとしていた。

「悪いが……俺も、ハチをこのまま死なせたくない。こいつにはまだ何かあるって感じがするし、それにこいつとは腐れ縁だ。憎たらしい生徒だが、こんなところで死なれたら、寝覚めが悪くて仕方がない」

ゼルヴァン様の表情が一瞬、無に戻る。

そして、辺り一帯の風が――爆ぜた。おそらく彼のスキル。

地面の砂が巻き上がり、空気が唸る。

視界が白く霞むほどの強風。立ち塞がる俺たちだけでなく、天壊旅団の面々まで被害を受ける程の威力だ。

なんとか両腕で顔を庇うが、立っていられない。

風の圧そのものが、重力のようにのしかかる。

呼吸が奪われる。

意識が遠のく。

地面が傾く感覚――そのとき。

誰かの手が、肩を支えた。

「命を拾って貰ったのに、悪いな。団長殿」

低く、抑えた声。だが含まれている決意は熱かった。

振り向くと、静かに肩を貸した人物が見えた。天壊旅団のメンバーである男。

コートを脱ぎ捨てた中にはボロボロの装束。浪人にも見えるその恰好にもかかわらず、彼の眼には揺るがぬ誠実さと熱き炎が宿っている。

ゼルヴァン様の表情が、一瞬だけ硬直した。

「ジン……!」

その声は刃のように冷たい。だが、その先にある言葉を飲み込む。強風が止み、世界が一瞬だけ静まる。

ジンと呼ばれた男がゆっくりと前に出る。ただ立つだけで存在が盾になるような安心感。当然だが、この人も相当強いんだろうなとわかる。

「悪いが、俺も何よりも、ハチを優先すると決めている。あの子を、このまま見殺しにはできねぇ。すまないな。あんたには命を拾って貰ったし、過去の因縁もあって力になると決めていたのに」

その言葉の端に、2人の複雑な因縁が滲む。

「前任の天壊旅団団長……ジンか。お前の師にして、俺の故郷を滅ぼした男。つくづく俺には因縁深いな、ジンと言う名は」

その言葉は、讃美にも、咎めにも聞こえた。だがゼルヴァン様は感傷に浸ることもなく、止まらない。

彼は、天壊旅団の他の者たちへ視線を向ける。隊列は整っている。魔力の緊張が増す。

「時間の無駄だ。他にも敵対する者は前に出ろ。俺は今気分が悪い。全員相手してやる」

短い問いかけ。すると、一人の隊員が吐き捨てるように言った。

「あんたと戦うわけないでしょ。命がいくつあっても足んねーよ」

「全員ガロムと同じ意見か?」

「その通りよ。とっとと魔獣を止めましょう。まさかあの坊やとこんな形で再会するなんてね」

すらりとした体系の女性が返事をする。彼女だけは、怒り狂うゼルヴァン様に全く臆していないように見えた。

「ジン。では、望みどおりにしてやろう。立ちはだかる全員――お前たちは、魔獣と共にこの地に眠るがいい」

その宣告は、死の勧告のように重く、同時に容赦がない。

ゼルヴァン様が静かに息を吐いた。

空気が揺れ、先ほど同様に砂が渦を巻いて宙に舞い上がる。

彼の背後で魔力と風が集まり、形を成した。

巨大な腕、うねる布、渦巻く髪。

空に届くほどの体躯を持つ、噂に聞く“風神”。

肌は嵐のように透け、目には雷光。

その呼吸ひとつで、大地が波打つ。

「……吠えろ、風神」

背後に現れた化け物が口を開けると、轟音が天を貫いた。

神の咆哮が風を操り、一瞬で空を暗く染める。

風神の腕がゆるりと動くだけで、林の奥まで風に吹かれて砂嵐が走り、巨岩が浮かび、潰れ、消えた。

しかも、悪いことにただの風ではない。

災厄そのものが、形を持っているような感覚。

風を遮るように守ってくれるジンの背後から炎の鬼が燃え上がる。こちらも見たことのない異形……。

ゼルヴァン様の背後では風神が唸る。こちらには鬼。

風と火、神と鬼。大罪の紋章が二つ。

二つの大罪が、世界の中心でぶつかり合おうとしていた。