軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

27.烽火

刺繍をする手を止めて、顔を上げて窓の外を見る。

オレンジ色の太陽が山々の向こうに姿を隠しかけるこの時間が、以前は苦手だった。

一人になってからは、夜が怖かったし寂しかったから。特に冬は日が落ちると冷え込むから、また夜が始まると思うと気分が沈んだ。

でも今は日が沈みゆくこの光景を美しいと思える。

暖かい部屋の中、いつも誰かの気配を感じながら、美味しい夕食と最高の入浴を控えたこの時間は至福のひと時。

こんなに幸せでいいのかと時々怖くなる。

ここを去っても、この光景と幸福感を忘れずに生きていこう。

そういえば昼間挨拶にきた家令のオウル。

まさか結婚式の牧師様が家令だなんて思いもしなかったわ。

アルフレッド様も教えてくださればいいのに、もう。

でも、優しい目元と白いお髭がロンおじいさまと少しだけ重なって、胸が温かくなった。

シリルのおじい様だということだけれど、優しくてお茶目な方だったわね。今度ゆっくりお話してみたいわ。

刺繍を再開しようと針を持ち直したとき、ノックの音が聞こえて再び顔を上げる。

この時間ならラナかしら?

「どうぞ」

予想に反して、部屋に入ってきたのはアルフレッド様だった。

こんな時間に部屋に来るのも、廊下に面した扉から入ってくるのも珍しい。

「刺繍の邪魔をしてしまったか?」

「いいえ、暇つぶしのようなものなのでお気になさらず」

「座ってもいいか?」

「ええもちろんです、どうぞ」

「ああ、その前にこれを君に。開けてみてくれ」

アルフレッド様が可愛らしい箱を差し出す。受け取って蓋を開けると、紫色の花が載ったクッキーが六枚入っていた。

「わあ、きれいですね。お花のクッキーですか?」

「ああ。街で一番人気の店で買ってきた、スミレの砂糖漬けのクッキーだ。よかったら食べてくれ」

「うれしいです! ありがとうございます」

いつもよくしていただいているけれど、アルフレッド様が直接何かを買ってきてくださるのは初めてだからすごくうれしい。

あまりのうれしさに、へらへらとしまりのない笑みが浮かんでしまう。

ひとまずラナをベルで呼んで、お茶を用意してもらった。

お茶を飲むから今日は向かい合わせに座ったのだけれど、アルフレッド様の前にお茶を出したラナとアルフレッド様の視線が一瞬合った。

アルフレッド様がなぜか苦い顔をする。どうしたのかしら?

ラナは口元にかすかに笑みを浮かべながらぺこりと頭を下げて出て行った。

「さっそく食べてみてもいいですか?」

「もちろんだ。君のために買ったのだから」

「ありがとうございます。では三枚ずつ食べましょう?」

アルフレッド様が微笑する。

眉間にしわばかり寄っていた最初のころと違って、本当にやさしい表情をしてくださるようになった。

とてもうれしいし、……ドキドキしてしまう。

「! 美味しいです」

「ああ、俺も好きな味だ。こういうのもいいな」

幸せな気持ちでクッキーを食べる。

期間限定とはいえ、こんなに幸せなことばかりだと悪いことも起きるのではないかと少し不安になってしまう。

「そういえば。今朝訓練所に行ったら、君が弓の練習をしているのが見えた」

「見られてしまったのですね。まだ下手なので恥ずかしいです。上達したらお見せするつもりだったのですが」

「そうか。カインが教えてくれているのか?」

「そうですね。つきっきりではありませんが、時々アドバイスをくださいます」

「そうか。その……君はカイン……」

「?」

「いや……そうじゃないな。言うべきことはそれじゃない」

「……?」

カイン卿がどうかしたのかしら。アルフレッド様が黙り込んでしまった。

また再婚の話だったらどうしようかと思ったけれど、もうそのお話はしないと約束してくださったし。

カイン卿はたしかに素敵な男性だと思うわ。優しいけれどちゃんと距離もとってくれる、気遣いの人。

微笑を向けられたとき、たしかに女性にもてそうな笑顔だと思った。

けれど同時に、「でも私はアルフレッド様の笑顔のほうが好き」という考えが頭の中に浮かんできて、そんな自分に驚くと同時に恥ずかしくなってしまった。

私……もしかしてアルフレッド様に恋してしまったのかしら。

「フローラ」

そんな胸の内を読まれたかのようなタイミングで呼びかけられ、驚いて顔を上げる。

「は、はい」

「その……俺は……」

深い緑色の瞳が、どこか切なげに揺れている。

アルフレッド様は何を仰ろうとしているの?

「俺は、君」

言いかけた言葉は、ノックの音にさえぎられた。

アルフレッド様が脱力したようにうなだれて長く長く息を吐いた。

「誰だ」

少し不機嫌そうなアルフレッド様の声。

「失礼します」

入ってきたのはシリルだった。

「お楽しみ中のところ申し訳ありません。こちらだと思ったので」

「誤解を招くような言い方をするな。……何かあったのか」

たしかに、シリルが用もなく私の部屋に来たことはないわ。

「 烽火(のろし) です」

「!」

アルフレッド様が勢いよく立ち上がる。

「すぐ出る、支度を」

「はい」

烽火ということは、北の砦で何かあったの?

アルフレッド様の横顔は、私の知らない男性のように見えた。

騎士の顔とでも言うのか、ぴりりとした空気をまとっている。

「すまないフローラ、少しの間留守にする。話は帰ってからしよう」

「魔獣、なのですか?」

「ああ。だが何も心配はいらない。そう珍しいことじゃないから、気にせず普段通りに過ごしていてくれ」

安心させるように、私に向けて微笑する。

「アルフレッド様、ご武運を」

「ああ、ありがとう」

そのままアルフレッド様は部屋を出て行った。

現れた魔獣が少なければ北の砦にいる騎士たちで対応するけれど、彼らの手に余るようなら城からも騎士が出るということだった。

ということは、数が多いか、あるいは手を焼くほどの強い魔獣か、その両方か。

そんな魔獣のところに向かうなんて、アルフレッド様が心配だわ。

いくらお強くて戦い慣れているとはいえ、もし大きな怪我でもしたら……。騎士の母や妻はいつもこんな思いをしているの?

魔獣の出る地であること、アルフレッド様や騎士たちが魔獣からこの地を守ってくださっていること。

それは事実として知っていたけれど、実感したのは初めてだわ。

アルフレッド様が危険な地に赴くというのに、自分には何もできないのがもどかしい。だからといってクロスボウひとつ持って戦場に出たところで場を乱すだけだから、私はおとなしく待っているしかない。

「アルフレッド様……どうかご無事で」

つぶやいた言葉が、静寂の部屋にやけにひびく。

祈るしかできない私は、ズキズキと痛む胸の前でただ手を組んだ。