作品タイトル不明
第52話 自然が教える「安全第一」
その夜、ラインハルトは領主館のアルベルトの執務室に向かった。
「アルベルト様。サジが魔石を見つけてから、村人たちが完全に浮き足立っています。今日のように陣形を崩して泥沼に飛び込めば、このままでは訓練はおろか、確実に死人が出ます」
「……やはりか」
アルベルトは深くため息をつき、頭を抱えた。
「彼らも生活が懸かっているのは分かる。だが、『危ないからやめろ』という正論だけでは、金貨一枚の魅力には勝てないということか……」
(ふぉっふぉっ。パパもラインハルトも真面目じゃのう。だが、人間の欲を止めるには『絶対的な無駄』を突きつけてやらんと)
執務室の床で積み木で遊んでいたカイトは、わざとらしく積み木を遠くにポーンと投げた。
「パパ、ヘビにかまれたらどうなるの?」
「そうだな、王都のお医者さんに見てもらわないと死んじゃうかもしれないな」
「 おうと(王都)って、とーい?」
「え? ああ、カイト。王都は遠いぞ。馬車で何日もかかるからな」
「じゃあ、おへびさんにガブッてされて、おうとのおいしゃさんよんでも、おうまさん、つかれちゃうね? まにあわないね?」
「……っ!」
カイトの無邪気な言葉に、ラインハルトの動きがピタリと止まった。
(……そうだ。いくら金貨一枚の価値がある魔石を拾おうと、無属性魔法を持つ医者は王都にしかいない。ここから百キロの距離を駆け、医者を連れて戻る頃には、とっくに毒が回って死んでいる……!)
ラインハルトの鋭い目に、理知的な光が戻った。
「アルベルト様。明日の朝、村人全員を集めてください。連中の目を覚まさせる方法が見つかりました」
***
翌朝。村の広場。
整列した工兵隊の周りに村人たちが集まってくる。村人たちの前に立ったラインハルトは、氷のような現実を叩きつけた。
「いいか。昨日お前たちを襲った鎖蛇に噛まれたら、助かる道はただ一つ。王都の有名な医者が持つ『アポーツ』の魔石で毒を引き抜くことだけだ。呼ぶ費用と治療代を合わせれば、金貨一枚を軽く超える」
「だ、だから、その魔石を拾えば……」
「馬鹿者」
ラインハルトは、金貨の幻にすがりつこうとする男の言葉を冷酷に遮った。
「ここから王都までは約百キロだ。馬を何頭潰して使いを走らせたところで、医者がこの村に到着する頃には、お前たちの葬式すら終わっている。……お前たちが命を懸けて拾うその石は、自分自身の墓標代にもならんのだぞ」
男たちの顔から、サァッと血の気が引いた。
「金貨があれば助かる」のではなく「金貨があっても時間切れで死ぬ」。その絶対的な事実に、ようやく彼らの目が覚め始めた時だった。
「……騎士様の言う通りだ」
静まり返った広場に、老村長のモズがゆっくりと歩み出てきた。
彼は広場から湿地の奥を、悲しげな目で見つめていた。
「お前ら、昔、沼鉄や泥炭を掘る時はどうしていた? 大人数でわざと音を立てて沼地に入っていただろう? あれは危険から守るために音を立てていたのにもう忘れてしまったのか? 音に気づいた蛇の方から逃げていくから犠牲が少なく済んでいるんだぞ」
モズの声に、年配の村人たちが苦い顔でうつむく。
「一昨年の夏だ。ベラドはみんなと一緒に、沼鉄を掘りに出ていた。あいつは独り身だったが、真面目で誰よりも先に現場に来るいい男だった。だが、作業中に運悪く草陰の鎖蛇を踏んじまった。……みんなで代わる代わる担いで、必死で村まで連れ帰ったが、家に着く前にあいつは冷たくなっていた。それを忘れたか?」
モズは、今、モーガンが仮住まいしている空き家だった家を指差した。
「あの家を見るたびに、ワシは今でも、あいつを助けられなかった悔しさで胸が締め付けられる。……一人で死んでいったベラドの後に続くか。それとも、着実にこの道を造り、今夜も生きて家へ帰って飯を食うか。好きな方を選べ」
「「「…………っ」」」
ベラドという、かつて一緒に泥にまみれて笑い合った男の孤独な死。
「魔石を拾えば金持ちになれる」という浮ついた空気は完全に消え去り、広場に集まった村人たちは無言でうつむいた。
(ふぉっふぉっ。外部から来たエリートが『数字と罰則』でショートカットのメリットをへし折り、現場のベテラン管理職が『過去のリアルな労災の事例』で感情にトドメを刺す。……これぞ完璧な組織マネジメントじゃ。これで余計な事故は起きんわい)
***
その日の夕方。領主館の執務室にサジがやってきた。
サジは机の上に、あの黄色い魔石を置いた。
「旦那様。……これ、持っていたくありません。村長や騎士様の話を聞いたら、なんだか呪いの石みたいに見えてきてしまって」
サジは決まり悪そうに頭を掻いた。
「これ、旦那様に預けます。適正な価格で買い取ってもらうか、村のために役立ててください。俺たちは、地道に道を造って、ちゃんと給金をもらう方が性に合ってるみたいです」
アルベルトは、サジの差し出した石を手に取り、まじまじと見つめた。
「サジ……。分かった、その心意気、確かに受け取った。この石の価値は、責任を持って村の防衛や今後の発展のために充てさせてもらおう」
「へへ、助かります。じゃ、失礼します!」
サジが晴れやかな顔で部屋を去った後、アルベルトは手の中の石を転がしながら、ふと奇妙な感覚に襲われた。
「……それにしても、見事な魔石だ。ハルバードの工房へ持っていけば、あのバッカス殿が目の色を変えて喜びそうな……。」
アルベルトは眉間に皺を寄せ、霧のかかった記憶を必死に手繰り寄せる。何か、非常に重大な約束をしていた気がする。
そこへ、茶を持ってきたエレナが、机の上の石を見て微笑んだ。
「あら、綺麗な魔石。……でもあなた、魔石といえば、バッカスがそろそろ来るんじゃないかしら? 確かカイトのお披露目が終わった頃に『機材を積んで乗り込む』と言っていたわよね」
「………………あっ!」
アルベルトの動きが、彫像のように固まった。
顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
次の日の工兵訓練のメニューに物置の掃除が決まった瞬間だった。