軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第27話 泥の神童と極楽の公共浴場

穀倉地帯の北西、ベルノー子爵領。

子爵は、届けられたばかりの調査報告書をデスクに叩きつけた。

「……やはりか! あのハルバードのタヌキ、フェルメール家に仕立て屋を寄こしおったな! しかも、あつらえさせたのは『フリルのついたシャツ』だと!?」

「はい。閣下の読み通り、伯爵は流行の装いでカイト坊ちゃまを飾り、自分の影響力を誇示するつもりのようですな。フリルで自らの『色』を付けようという魂胆でしょう」

執事がもっともらしく頷くと、子爵は鼻を鳴らした。

寄親である伯爵への敬意など、この瞬間の彼には微塵もなかった。

「甘いわ! あんなヒラヒラした落ち着きのない装い、我がベルノーの家宝である蒼い 魔石(アスコットタイ) には一ミリも合わん! すぐにその仕立て屋に特急で縫わせろ! 立ち襟だ。タイの輝きを一番引き立てる、最高級のリネンを使え!! それとそれが出来上がったらフェルメール領に行くぞ。準備せい!」

それからしばらくして。

湿地の中心へ向かって、 粗朶(そだ) を敷き詰める作業が続く現場。

カイトが泥にまみれて「そこ、もうちょっと右! ぎゅっ、だよ!」と指示を飛ばしていたその時。

泥靴村の入り口に、見慣れぬ――だが、圧倒的な品格を漂わせる馬車が、護衛を伴い、ガタゴトと音を立ててフェルメールの屋敷に向かっていった。

「……ありゃあ、どこの貴族様だ? フェルメール様の知り合いか?」

「いや、伯爵様やロラン様とも紋章が違うぞ。あれは誰だ……?」

作業の手を止めた村人たちが首を傾げる中、馬車は屋敷の門をくぐった。

泥靴領の屋敷の玄関ホールは、一気に北西の風が吹き抜けたような緊張感に包まれていた。

馬車から降り立ち、凄まじい勢いで踏み込んできたのは、ベルノー子爵ジルと、その妻マルグリットである。

「……ここか。我が孫が、この泥の中で奇跡を起こしているという場所は!」

ジルは杖を突き、周囲を値踏みするように見渡した。

「お、お父様!? それに、お母様まで……!? どうして、こんなに急に……」

駆け出してきたエレナの驚きを無視して、ジルは鼻息荒くまくしたてる。

「エレナ、遅いぞ! あのハルバードのタヌキが、カイトに変なフリルを着せようとしておると聞いて、居ても立ってもいられんかったわ! ベルノーの血を引く天才を、あんな落ち着きのない恰好で社交界に出せるか!」

「……お父様」

エレナの温度が、すっと下がった。

「あのフリルのシャツは、私がカイトに似合うと思って選んだものですわ」

「……う、……むっ?」

ジルの動きがピタリと止まった。

勇ましく振り上げていた杖が、心なしか震えている。

「お、お前が選んだのか、エレナ……? いや、しかし……」

「ええ。伯爵様の領地で一番の仕立て屋さんに相談して、カイトの可愛らしさを引き立てるようにデザインしていただいたんです。……お父様、私のセンスが『落ち着きがない』と仰るの?」

「い、いや、そうは言っておらん! け、決してそうではないがな!」

ジルの額に冷や汗が浮かぶ。隣でマルグリットが、扇で口元を隠しながら「あらあら」と楽しげに目を細めた。

ジルが必死に娘を説得していた、その時。

玄関の重い扉が開き、一人の小さな「塊」が飛び込んできた。

「ただいまー! パパ、お外のおみち、バッチリだよ!」

頭から足の先まで、見事なまでに泥を塗りたくった四歳児。

手には奇妙な木の道具を握り、首には使い古したタオル。現場の熱気と泥の匂いを全身から放つカイトの姿に、ジルとマルグリットは言葉を失った。

「……カ、カイト……なのか?」

ジルが震える声で問いかける。文通では「三歳で文字を書き、測量を行う神童」と聞いていた。想像の中では、図書室で静かに本をめくる、透き通るような美少年だったはずだ。

「あ、だれかいる! ……おじいちゃんと、おばあちゃん?」

カイトは首を傾げ、泥のついた顔でニコリと笑った。

「……ああ、なんてこと! 文面通りの聡明そうな瞳……。でも、その格好は一体どうしたの!?」

マルグリットは、驚きに目を見開きながらも、すぐさま懐から白いハンカチを取り出した。そして、泥だらけの孫の前に膝をつくと、 躊躇(ためら) うことなくその小さな頬に手を添えた。

「はじめまして、カイトちゃん。……ふふ、本当に逞しい子。でも、これじゃあ可愛いお顔が見えないわね」

マルグリットは優しく微笑みながら、高級な刺繍が施されたハンカチで、カイトの顔の泥を丁寧に拭い始めた。真っ白だった布地が一瞬で茶色く染まっていくが、彼女は全く気にする様子もない。

「……あら、やっぱり。お 母様(エレナ) に似て、なんて綺麗なお目々なのかしら」

「ばあば、ありがとう! ハンカチ、汚れちゃってごめんね」

「いいのよ、カイトちゃん。これはね、頑張ってお仕事をした『勲章』を拭いた、世界で一番価値のあるハンカチになったんですもの」

その言葉に、後ろで見ていたジルもようやく我に返ったように深く頷いた。

「……おお、おお! そうだ、マルグリットの言う通りだ!

泥にまみれて領地を支えるとは、さすがはベルノーの血を引く男。ハルバードのタヌキが惚れ込むわけだ。よし、カイト、じいじのところへ来い!」

ジルは、泥がつくのも構わずにカイトを抱き上げた。

案の定、子爵の服にもべったりと湿地の泥がつくが、ジルは満足げに鼻を鳴らした。

「パパ! じいじとばあば、とっても優しいね!」

(……まぁ気持ちは分からんでもないがな。孫は何よりも可愛いもの。

本当に目の中に入れても良いほどに可愛いもんじゃ。少しサービスしてやろうかの)

「あのね、カイト、ふたりに見せたいものがあるの。カイトが作った『おふろ』、一緒に入ろう!」

「風呂、だと? カイト、お前が設計したというのか。……ふむ、アルベルトよ。この地は湿地で冷えると聞いていたが、まさか孫が暖を取るための算段まで整えているとはな」

「ええ……。まあ、正直に申し上げまして、私共も驚いているのです。カイトが指揮を執ったあの場所は、今や村人たちの憩いの場となっておりまして」

「パパ、じいじ! おふろはあっちだよ!」

泥まみれのカイトを抱えたジルは、アルベルトの案内で屋敷の外へと出た。向かったのは、村の中心にある「水汲み場」のすぐ隣だ。

「……アルベルト。風呂が、村の水汲み場にあるというのか?」

ジルが不思議そうに眉を寄せた。貴族にとって風呂とは、屋敷の奥まった場所で密かに行うもの。だが、目の前に現れたのは、威勢のいい村人たちの声が響く、活気に満ちた石造りの建物だった。

「はい。カイトが『お水がある場所の近くがいい』と言いまして。村の男たちも仕事帰りにそのまま入れるようにと、この場所に作ったのです」

建物の横では、巨大な鉄製の釜がパチパチと泥炭の炎を上げ、もうもうと湯気を吐き出している。水汲み場から引き込んだ水を、バルカス特製の釜で熱し、そのまま浴場へと流し込む合理的(システム的)な配置だ。

釜に水を入れるための作業だけは人力だが、ゆくゆくは滑車をつけて桶を自動で引き上げられるようにするつもりだ。

さらに余力ができれば、水車と連動させて汲み上げまで半自動化する。

「じいじ、ばあば、ここだよ! ぬぎぬぎして、入るんだよ!」

カイトが脱衣所でパパに泥の服を脱がせてもらっている間に、ジルもまた、高級な上着を躊躇なく脱ぎ捨てた。マルグリットも、エレナに案内されて女湯の方へと消えていく。

ガラリと木製の扉が開く。

そこに広がっていたのは、石造りの広い洗い場と、大人が五人は余裕で入れる、並々と湯を湛えた巨大な木製の浴槽だった。

「……な、なんだこれは!? これほど大量の湯を一度に……!? まるで王都の高級公衆浴場ではないか!」

ジルは絶句した。

村の水汲み場のすぐ横という「公共の場」に、これほど贅沢な空間があるとは想像もしていなかったのだ。

「じいじ、見てて! お湯がね、上からふってくるんだよ!」

カイトが壁から突き出した木のレバーを、エイッと手前に引いた。

すると、頭上の貯水タンクに繋がる木製の弁がスライドし、勢いよく熱い湯が注がれ始めた。

ジルは恐る恐る、だが導かれるように浴槽に足を入れた。

「……ッ、……はぁぁあああ……」

首までどっぷりと浸かった瞬間、ジルから子爵としての険しさが消えた。

北西の領地から数日間、ガタゴトと馬車に揺られてやってきた疲れが、お湯に溶け出していく。

「……カイト……。お前が、これを……。すごいな…………」

「じいじ、あったかい? カイト、みんなでお仕事のあとに入りたくて、作ったんだよ!」

「……ふぅ、極楽だ。だがカイト、この真ん中の分厚い板は一体なんだ? まるで浴槽を真っ二つに割っているようだが……」

ジルが不思議そうに指差したのは、浴槽の中央を横切る、まだ新しい木の仕切り板だった。

「あ、それはね。はじめは大きな、おけ一つだったの。でも村のおばちゃんたちが、男たちが終わるまで待ってたら体が冷えちゃうっておこっちゃって」

(ワシの完全な読み違えじゃったわい。時間交代制にすれば安上がりだと踏んだんじゃが、冬の湿地の女たちの怒りは、この釜より熱かったんじゃ。脱衣所も急遽、囲いをもう一つ横に建て増ししたくらいだからの)

「……なるほど、現場の声を即座に反映したというわけか。実用第一、そして不満を溜めぬための対応。……カイトよ、お前はやはり上に立つ者の素質がある」

ジルは感心したように、仕切り板を撫でた。

湯気の向こうから、女湯の笑い声が重なる。

「……ふむ。悪くない」

そう呟いた子爵の声は、先ほどまでの威圧をすっかり失っていた。