作品タイトル不明
第二百二十四話
コールの対面の席に、クルルと頼信が座っている。
いつもはイーリアや健吾がやきもきし、つい意地悪なちょっかいをだしたくなるくらい仲睦まじいのに、今は狭い車内で最大限距離を開けようと、席の端と端に座っている。
クルルが不機嫌なのはもちろん、頼信がこき使われていた理由も、コールにはわかっていた。
元凶は、あの会議にあった。
奴隷交易停止を奇貨として、ヴォーデン属州側と大規模な交易をするための土台作りに持ち込みたい。
それは突拍子もない大胆な案に思えて、話を聞けば合理的だった。
ジレーヌ領がこの先も走り続けるなら、帝国と事を構えることは避けられない。
そこから逆算すれば、ジレーヌ領に足りないのは圧倒的な物資である。
少し足りないくらいならば奪って事足りるが、そもそもどこにもないくらいの量だとすると、周囲を略奪で疲弊させている場合ではない。
みんなで頑張って生産するしかないのです、と頼信は楽しそうに説明していた。
コールはその理屈のひとつひとつについていくのが精いっぱいだったが、確かに反論は難しいと感じたし、それは無思慮な戦とは明らかに違うものだった。
けれど異界からやってきた大宰相殿は、はるか遠くを冷徹に見据える目を持つくせに、いや、あまりに遠くを見ているせいか、ひどく間抜けなところがある。
だからあのカラアゲとやらを食べながらの会議の最後、頼信はついでのように、ある話を持ち出したのだ。
「イーリアさん、今後のために、御父上のことを聞きたいのですが」
本人的には気を使っているつもりだったろう、というのはコールにもわかった。
イーリアが驚き、凍り付いている様子に、いつもの長々とした説明を淀みなく浴びせかけていたので、あの大宰相的には気を使ったつもりなのだ。
イーリアの父親については、コールもうっすら聞いたことがある。
帝国中央のかなりの高位貴族らしく、少なくとも落とし子を魔石鉱山のある領地にぽんと据えられるだけの権力を持っている。
ジレーヌ領がこの先帝国と戦うのならば、避けては通れぬ存在になるのは間違いなく、早めに調べておくべきだということに異論はない。
頼信は大宰相として、次の次の次の手くらいまでを見据えて、最善手を選ぼうとしている。
それはイーリアも、重々理解しているはず。
しかし、それにしたって、切り出し方というものがある。
突然、こんなついでのように切り出す話ではない。
でも、イーリアは、苦労を経てきた良き領主であった。
瞬時に頼信の考えを把握し、その合理性に納得し、感情はひとまず脇に置こうとしたのだから。
「わかったわ。でも、私も名前くらいしか知らないの」
イーリアはそう言ってから、一度深呼吸を挟んだ。
「だから、あなたの目的のためには、あ、改め……て、その……。ぐす……。あはは。ご、ごめんなさい」
大きく息を吸い、困ったように笑いながら謝罪を入れる。
「お、お父様のことは、改めて、調べ、て……も……」
そこまでイーリアが言った時、押しとどめていた感情が、涙と嗚咽になって溢れ出た。
その直後には、椅子を蹴倒したクルルが頼信に飛び掛かっていた。
間抜けな大宰相以外は、その場にいた全員が、クルルの耳と尻尾の毛が信じられないほど逆立っているのに気がついていたので、驚きはなかった。
けれど主人の悲痛な表情に怒り狂った“鉄槌の猫姫”をなだめられる人物は、ジレーヌ領内で限られている。
今まさに襲い掛かられている頼信か、師匠のゲラリオだ。
「クルル、おい。ああ、わかったわかった、おら、あっちに行くぞ」
いつもはクルルに叱られてばかりのゲラリオだが、騒ぎに気がつくと、面倒くさそうに大あくびをしてから、のそりと立ち上がった。
そしてそれこそ子猫でも拾うように、クルルの首根っこを掴まえてひょいと担ぎ上げ、部屋から運び出していった。
クルルは牙を剥いて唸り、暴れていたが、戦場で生きていた男に敵うはずもない。
主人の涙を見て怒り狂った猫娘がいなくなり、妙な沈黙が部屋に下りた。
頼信はといえば、床にへたり込み、呆然としていた。
そんな頼信の前で動いたのは、同じ世界から来たとは思えないほど紳士な健吾だ。
ノドン時代の苦しい時期、いつもそうしていたと思わせる様子で声を出さず泣いているイーリアの肩を抱き、クルルが連れ出されたのとは反対側の扉から連れ出していった。
イーリアの父親を調査する件をフロストと話した時、コールはフロストに「イーリア様は大変困惑されていた」なんて言ったが、真相はこんな感じだ。
およそ領地を率いる俊英たちの集いとはいえず、子供みたいな感情が剥きだしだった。
ロランで見てきた支配階級の姿とは、似ても似つかない異質なもの。
貴族社会というのは、些細な言葉の選び間違いで地位を失い、一時の感情による誤った判断が、一族郎党を死に追いやる無慈悲な場所だ。
それゆえに誰も本音を言わず、誰も相手を心から信用せず、極限まで研ぎ澄ませた言葉には、一切の感情がない。
それは三家会議のような場だけではなく、家の中でも同様だ。
歴史ある大きな家であれば、腹違いの兄弟姉妹が大勢いるのが当たり前。それぞれに実家の思惑だの生まれへの鬱屈した思いだのがあり、同じ家族といえど誰もが敵となる可能性があった。
兄弟同士で手を組んで、邪魔な兄弟を陥れようとする者が珍しくなく、敵の醜聞を手に入れるため、屋敷の中の使用人たちは二重三重に買収されていた。
その重苦しさは、その場にいるすべての者の笑顔を、歪ませる。
だからジレーヌ領で暮らすことになったコールは、頼信を筆頭にした間抜けな騒ぎを傍観していて、ふと気がついたのだ。
なぜ自分が、イーリアに一目惚れしたのかと。
以前のイーリアは、コール以上に厳しい環境にあったはずなのに、その笑顔にはいつも感情があった。
もちろん立場的に晴れ晴れとしたものは少なかったけれど、決して感情を失ってはいなかったし、よく笑う少女だった。
だから、鳥の雛は初めて見たものを親と思い込むらしいが、それに近いものだったのだろうとコールは思う。
初めて目の当たりにした感情豊かな女の子というものが、イーリアだったのだ。
なので運が悪かったら、クルルに惚れていたかもしれないと思うと、コールは変な笑いが出てしまう。
そんなコールの前で、ジレーヌ領では最も無防備に感情を晒している頼信が食堂の床にへたり込んでいた。
その様は、皆が食べ残して冷えて硬くなった唐揚げのようだ。
頼信に向け、コールはため息をついたのを覚えている。
けれどそれは、嘲りや侮蔑のものではない。
もしかしたら、呆れですらなかったかもしれない。
ならばなにかと問われると、コールにもよくわからない。
わかっているのは、暗い感情ではないということだけ。
きっと他の者たちも同様だろう。
ジレーヌ領がこれだけ強大になってもみんなの笑顔が歪まないのは、この頼信が余りに間抜けだからだ。
その抜けた間から、色々なよくないモノがどんどん抜けていく。
皆に残されるのは、せいぜいが苦笑いだけ。
それゆえに、コールは椅子から立ち上がり、あの時、へたり込んでいる頼信に言ったのだ。
「イーリアさんの父親を調べたいという、君の理屈は正しいと思う。帝国を向こうに回すならば、絶対に知っておくべき存在だからだ」
それに頼信は、イーリアの父親を捜す理由に、帝国の中枢に悪魔がいるのかいないのかというあの話も絡めていた。
もしもイーリアの父親が話の分かる人物ならば、彼を通じて帝国の最深部を覗き見ることができる。
そしてもしも皇帝のおわす御簾の奥の秘密を知ることができるのならば、自分たちは少なくとも最悪の事態を回避するための対策を取ることができる――。
頼信はそんなことを、滔々と、イーリアに語っていた。
その語られる話はすべて正しい、とコールは思う。
切り出す流れと場所が、絶望的に正しくなかっただけで。
だからコールはあの時、こう言ったのだ。
「君の語った話の正しさは、イーリアさんもわかっているだろう。後のことは、僕からイーリアさんに話しておくから、任せてくれないか」
クルルに胸ぐらを掴まれ、押し倒されたばかりのヨリノブは、間抜けな顔でコールを見上げていた。
多分、自分の失敗がなんなのか、わかっていなかったのだろう。
手を差し伸べると、よたよたと掴んでくる。
それが罠かもしれないとは、微塵も思っていない。
あまりに間抜けで、お人好し。
でも、だからこそ、ここでは深呼吸ができる。
「まあ、クルルのやつの怒りまでは、僕の手に負えないけれど」
その時に言った言葉を思い出し、コールは自分の判断が正しかったと思う。
ロランの市場で頼信が引っ張りまわされ、背負わされていた大量の荷物は、イーリアを慰めるためのお土産だろう。
その荷物を非力な頼信に背負わせていたのは、クソがつくほど間抜けの大宰相に罰を与えるため。
コールは重苦しい沈黙の漂う馬車の中で、窓枠に頬杖を突くふりをして、そっと口に手を当てる。
堪えたのは、笑いだ。
けれどその笑いは、きっと歪んでいないだろうと、コールは思う。
再びロランに来るのは気が重かったが、今はもうそんなことはない。
ジレーヌ領のためになるならば、どんな泥濘を歩くことも気にならない。
自分は彼らのことが好きらしいと、コールは改めて思うのだから。
「兄との話はうまくいったよ」
馬車の中でそう言うと、クルルは胡乱な目つきを、ヨリノブは卑屈な目を向けてきた。
「僕は兄と共にロランのほうをまとめておくから、君たちは君たちで、先にヴォーデン属州が差し向けているらしい兵をどうにかしておいてくれないか? 辺境領主たちの話では、僕たちの予想よりもかなり早く、兵が来そうとのことなんだ」
逃亡した奴隷獣人を追跡するだけでなく、見せしめのためにも武力が用いられているというのは、ジレーヌ領に逃げ込んできた獣人たちから聞いていた。
フロストが聞き集めておいてくれた獣人奴隷を扱う商人たちの話からの感じでも、ヴォーデン側の怒り心頭ぶりがうかがえた。
彼らとしては、奴隷の逃亡というより、反乱という認識に近いのだろうし、その反乱を煽っているのが、アズリア属州であり、ジレーヌ領なのだ。
ならば彼らが進める兵の中に、魔法使いがいないわけがない。
ただ、コールが心配なのは、こちらが負けることではない。
勝ち過ぎることだ。
「君たちが負けるなどと思っていない。だが、やり過ぎないで欲しい。あくまで撃退をして、震え上がらせ、交渉の材料にするのが目的だ。クルル、師匠からきつく言われているだろう? 八つ当たりはやめるようにと」
クルルはじろりとコールを睨み、そっぽを向く。
そんなクルルの側で、よほどクルルに怒られたのが堪えているのか、身を細らせている頼信。
コールは小さくため息をついて、木窓から空を見上げた。
大宰相殿がどんな人物かと言えば、彼らは大体いつもこんな感じですよ、兄上。
信じられないような大それたことをいくつも成し遂げているのに、普段は子供みたいなことばかり。
コールが見上げた先のロランの空は、大きな政変の前にしては、穏やかでよく晴れていたのだった。