作品タイトル不明
第二百三話
***頼信(23)***
自分ならこの問題を解決できる。
それは、買いかぶり過ぎというものだ。
今までも確かに問題を解決してきたが、今回のものは次元が違う。
一介のサラリーマンが異世界からやってきただけで、いきなりとてつもない問題を解決することなど、できるはずがない。
マヨネーズを作るのとはわけがちがうのだ。
環境が異なればいきなり天才になれるだなんていうのは、科学に対する愚弄とも言える特大の傲慢さだろう。
「あ、のですね、ファルオーネさん」
自分が言葉を考えるその一瞬のうちに、せっかちな錬金術師が言葉を押し付けてくる。
「ヨリノブ殿が教えてくれたことだ。比較実験、というのだろう?」
「……」
言葉を呑んだ視線の先には、あらゆる知識を飲み込む男がいた。
前の世界での、与太話とも思われそうな話を延々聞いてくれるファルオーネ。
その中には、科学的アプローチの話もあった。
仮説、実験、検証。そしてまた仮説。
それはファルオーネにもなじみのあることのようで、とても楽しそうに話を聞いていた。
そして実験とは、一部の条件を変え、結果を比較することだ。
それこそ。
ある世界と、異世界のよう………に?
「この世界と前の世界でなにが違うのか、その差を誰よりもわかるのが、ヨリノブ殿だ。いや、ヨリノブ殿しかいないと言うべきだ」
「そう、かも、で、すが……」
二つの世界を見比べたうえで、自分はわからないのだ。
少なくとも魔石は万能エネルギーではない。
それでは炎魔法と氷魔法の時点で破綻する。
するとファルオーネは、さらにこう言った。
「考え方を変えてみたらどうだ? 私はヨリノブ殿から教えてもらった背理法、あれが実に気に入っていてな」
諦めることなど毛頭考えていない様子の錬金術が、にんまりと笑う。
「あることが正しいのかと確かめるために、わざと正しくないことを仮定する。不思議な発想の逆転だ。だからヨリノブ殿も、こう考えるべきではないか?」
――前の世界で魔法が成立しないとすれば、それはなにが原因なのか?
「ヨリノブ殿がその知識で魔法を否定しても、魔法はこの世界に現に存在する。つまり魔法とは、そこを解決するナニモノかだとわかるだろう! 背理法だ!」
それは多分背理法とは違うのだが、言わんとすることは伝わってきた。
前の世界とこの世界では共通することが多い。
でも、魔法は明らかに異質な存在だ。
前の世界の基準では、魔法というのはまさに魔法である。
でも、そうだ。
そ(・) れ(・) は(・) 一(・) 体(・) 、(・) な(・) ぜ(・) な(・) の(・) だ(・) ?
「この世界の、魔法を……」
「否定する、なにかだ」
今にもつまずいて倒れそうなこちらを励ますように、伴走するように、ファルオーネが言葉を繋ぐ。
「特に、大精霊が使ったという大規模魔法だ。ヨリノブ殿の世界は、我々からするとなんでもできる世界なのだ。我々からすれば、豚の心臓と自分の心臓を入れ替えて健康になることは、死者を蘇らせるのと大差ないように感じるのだ。そして恐るべきことに、それはこの世界でも実現可能らしいというではないか!」
興奮するファルオーネは、笑っていた。
楽しくて仕方ないという顔をしていた。
まるで、前の世界で、魔法の能力を授けられた子供のように。
「だが、そのヨリノブ殿の世界では逆に、魔法が存在できないという。ということは、ヨリノブ殿の世界で禁じられていることが、この世界で許可されていることのはずだ!」
それは発想の転換だったし、確かに、一介のサラリーマンがどんな偉大な科学者よりも有利になれる点かもしれなかった。
異世界から転生してきた人物にしかできない、文字どおりの転生者チートなのだから。
「魔法は……そう、明らかに、前の世界では……」
自分は、からからに乾いた唇を舐めて、言った。
「前の世界の神によって、禁じられていました」
ファルオーネは歯茎が見えるほど唇を上げ、目が血走るほど見開いた。
「それは、それは、どういうものなのだ⁉」
しかし自分は、開きかけた口を、閉じてしまった。
そのことに、自分自身驚いた。
なぜなら、語るべき言葉を持たなかったからではない。
口にするのが、恥ずかしかったからだ。
今更、この年齢になって、真面目に口に出すのが恥ずかしい知識というものがある。
世界を斜めから見て、宇宙の真理の裏をかいてやったと悦に浸る、青臭い時期にだけ刺さる特有の痛い知識というものがある。
そういうのはフィクションと相性が良く、前の世界でももちろんその手の知識を使ったコンテンツがたくさん存在した。
おまけに自分が思いついたそれは、一時期余りに人気になりすぎて、陳腐化して、今更口に出すのが憚られることだった。
その知識は、文字どおりに、魔法のような現象に一直線だから。
そしてだからこそ、自分にはあまりにイタイ。
イタイのだが、前の世界で魔法を禁じるのは、それしかなかった。
手に持つだけで痛む、高校生の頃の黒歴史。
三十路の男が真面目に口に出していいものではない。
けれど、ファルオーネは、そんな風に懊悩するこちらの顔を見て、笑った。
「ヨリノブ殿、そなたがいまさらなにを恥ずかしがることがある?」
そうだった。
ファルオーネは、ただ頭が良いだけではない。
勇気というものの使いどころを知っている。
だから、口にするのだ。
現代フィクションに慣れ親しんだ者ならば、いまさら口にするのが恥ずかしいけれど、みんな大好きなはずの、あの概念を。
前の世界で魔法を禁じていた、神が世界に課した、拘束具の名を!
「熱……り……く……」
「ん?」
「熱力学……第二、法則」
またの名を、エントロピーの増大則。
前の世界では、教科書に堂々と書かれているが、触れることも見ることもできないし、本当のところなんなのかと取り出すこともできないものがいくつかある。
中でもソイツは、熱や圧力といった手で感じられるものたちと一緒に、平気な顔で方程式の中に居座っていた。
それは、前の世界では、ひどく抽象的な概念として存在していた。
そのくせ、人類の夢を、たったひとりで封じ込めていた。
それは神の摂理の守護者だから。
あの世界をつまらないものにしていた意地悪な大天使の名こそ、エントロピーだ。
でも、そのエントロピーを操れるならば。
魔石とは、エントロピー的ななにかが実体となったものであり、魔法とは、そのエントロピー的ななにかを用いて、物質の状態に直接影響を与えるものなのだとしたら。
そう思った瞬間、自分の目の前に、大きな道が現れた。
そう考えると、魔石をエネルギーの塊で考えたときよりも、はるかに遠くまで行けるような気がしたのだ。
ある物理系の状態が、エネルギーの変化を伴わずに別の状態に移行した時、定義から言って、エネルギーの総和は変化しない。
しかしその時、なおなにかが変化する。
たとえば風呂の中で熱湯と冷水を混ぜ合わせてぬるい湯になったら、全体のエネルギー量は変わっていないのだが、それ以外のなにかが明らかに失われている。
それがエントロピーという枠組みで表現されるナニカであり、そのナニカは あ(・) る(・) 状(・) 態(・) に(・) 関(・) す(・) る(・) 情(・) 報(・) だとも言われている。
物質の状態とはすなわち、熱いとか、冷たいとか、右を向いているとか、左を向いているとか……。
これは、どこかで聞いたことのある話ではないか?
そしてもしも前の世界のエネルギーのように、エントロピー的ななにかを用いて「仕事」をするのが魔法だとしたら。
その場合、炎と氷魔法は両立してもなにもおかしくはなかった。
なぜなら、エントロピーを任意に増減させられるのならば、ぬるくなった水を熱い湯と冷たい氷に分離できるから。
十分な空気量に影響を与えられれば、目の前の空気からだって、超高温と超低温を取り出すことができるから。
空気中のランダムに分布する水分を、任意の一か所に集中させることだってできる。
つまり炎魔法と氷魔法であり、そして空気の動きからランダム性を減らして一方向に動くような状態にすることは、すなわち風魔法だ。
しかも魔法を起こした後、エントロピー的ななにかを使い果たした魔石は、きちんと消滅する。
この解釈なら、少なくとも無から有は生み出していないし、エネルギーの総和も世界全体としては変わっていない……気がする。
魔法で生み出された炎や氷が、物理法則と一部そぐわない動きをするのも、魔法は「ある状態」を生み出そうと物理状態に干渉することと理解すれば、すでに変化したものはそれ以上変化させられないからではないか。
そして魔法で生み出された炎も、炎は炎なので、魔石がエントロピー的ななにかの「仕事」を終えた後は、物理法則に従って散っていき、氷は溶け、塵は塵に、灰は灰に還っていく。
こうして、一時的に減少したエントロピーは、再び熱力学第二法則に従って増大していく。
親しみなれた物理法則とも、共存しているように見える。
そして、この解釈で最も重要な点だ。
もしも魔石がエントロピー的ななにかで、魔法がそれを自在に操る方法だとすれば、それはそのまま、大精霊の大規模魔法に直結するのだ。
なぜなら、エントロピーをいじれるということは、ぬるくなった水を沸騰する部分と凍結する部分に分けられることを意味するのであり、床にぶちまけた小麦粉を一粒残らず元の袋に戻すことや、珈琲に混ざったミルクを分離することだって朝飯前。
これは言い方を変えると、 部(・) 分(・) 的(・) に(・) 時(・) 間(・) を(・) 巻(・) き(・) 戻(・) し(・) て(・) い(・) る(・) の(・) と(・) 同(・) 値(・) な(・) の(・) だ(・) 。
だから、大精霊の魔法の中に時間遡行があるのは、むしろ当然のことだった。
死者を生き返らせることだって、できてもなにもおかしくない。
肉体のすべての配置を、正しく健康な時のものに戻せばいいだけなのだから。
エントロピーが常に増大する前の世界では、人が死んで、朽ちて、世界にかき混ぜられてしまったら、もう二度と世界の中からその誰かを連れ戻すことはできなかった。
けれど分子はランダムな動きをしているから、理論的には、たまたま空気中の各分子が元の健康な誰かの肉体と同じ配置にぴったり並んで、そのまま誰かが目を覚ます可能性も、ないわけではない。
でも、前の宇宙は冷たく無慈悲で、それはただの可能性の話でしかなかった。
しかし魔石と魔法陣でエントロピーを任意の形で減少させられるならば、世界に拡散してしまった誰かを、一粒ずつ正しい元の配置に戻すことができる。
それこそ、珈琲に混ざった、ミルクを分離するかのように。
こう考えていくと、ほとんどすべての魔法効果も包摂できる気がする。
物理的に起こりうることは、すべて引き起こせるのが、エントロピーを自在に操れることの真価なのであり、所詮生命体でさえ、化学反応の塊に過ぎないのだから。
だから魔法。
そう、魔法なのだ。
この世界の言葉でも、前の世界の「魔法」と同じニュアンスがある。
それが偶然のことなのか、自分は少しいぶかった。
というのも、魔法を使うのは魔法使いと、それと、悪魔と相場が決まっているから。
そして前の世界でも、熱力学第二法則をあざ笑い、エントロピーを自在に操るとされた存在には、悪魔の名が冠されていた。
しかし前の世界では、思考実験の中にしか、その悪魔は住むことができなかった。
自分はそう思い、場違いにも笑った。
この世界には、その悪魔の体の欠片が山に埋まっているのではないか?
魔石とは、『マクスウェルの悪魔』の化石なのではあるまいか、と。
「ファルオーネさん」
「なんだね」
怪しげな占星術師は、こちらを見てにんまり笑っている。
多分、それくらい、自分はわかりやすい顔をしていたのだろう。
「伝説の大規模魔法は、存在します」
それは、願望や、歴史的な傍証ではない。
論理的な帰結だ。
「詳しく聞こう」
ゼゼルやルアーノを呼び、知っている限りのことを話していく。
切羽詰まっていたのは、今までとは危機感が違うから。
もしもこの仮説が正しければ、世界が一変するという話ですらない。
自分たちは、文字どおりに、世界を操る技術を手にしていることになる。
自分たちは、とてつもない道具で、そうと知らずに火遊びをしていたことになる。
――魔法の知識を追いかけるな。
唐突に、大規模魔法陣に刻まれた古代のメッセージを思い出した。
だが、知ってしまった。
ああ、聖書は正しかったのだ、と思った。
知恵の実を食べてしまえば、楽園から出るほかない。
この魔法という存在は、この異世界から出られることさえ示唆しているのだ。
ならば自分は、邪悪な蛇の役目か?
いや。
「ヨリノブ殿、この話を掘り下げるには、どうしたらいい?」
悪い蛇は、たくさんいる。
その蛇たちは、誰も彼もが、子供みたいに目を輝かせていた。
そして人はその蛇に、好奇心という名をつけたのだった。