軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

398 ミトンと傷

「本当に傷跡が残らなければ良いのですが…」

もう何回聞いたかわからない言葉をマリアは口にしながら、アデライーデの頬の傷に薬を塗りつつ隣でブツブツ言っている。

昨日の夜、カトリーヌが出て行ったあと、裏口からマリアとアルヘルムがそっと入ってきた。

マリアはアデライーデの頬の傷を見ると、弾かれたようにアデライーデに駆け寄って傷を確かめ「お待ちを!」と言って外に駆け出した。

「何があったんだい?」

「私が髪飾りを落として、欠片がちょっとかすってしまったんです」

アルヘルムは困ったように笑うアデライーデに近づき、アデライーデの頬に手を添え傷を確かめると難しい顔をして「ふむ」と言った。

幸い薄皮を少し切った程度で、もう血は固まりつつある。剣の稽古で小キズは慣れっこのアルヘルムにとっては怪我のうちにも入らないような小さな傷だが、アデライーデは違う。

女性の、しかも貴族女性の顔に傷がつく。それはどんな小さな傷でも大きな衝撃のはずなのにアデライーデは意にも介さない顔をしていたからだ。

ー本当に事故での怪我なら、真っ先に公爵夫人が誰かを呼ぶだろうな…。

先ほど出て行ったカトリーヌは夜目で表情は分からなかったが、何事もなかったかのように夫であるクレーヴェ公爵と共に静かに正門の方に向かって行った。

アデライーデの行き先変更の知らせが来て、急いで馬を駆けてここに着いた時に、ちょうど裏口の扉に耳をつけているマリアを見つけた。

何があったかの報告を受け、扉を薄く開けて聞き耳を立てたが、聞こえたのはカトリーヌが扉を閉める音だけだった。

「公爵夫人となにを話していたのかい?」

「一つの家で一つしか買えない事の理由と…、ちょっとした『姉妹でのおしゃべり』ですわ」

にっこり笑って返すアデライーデに、アルヘルムは苦笑した。きっとこれ以上聞いてもアデライーデはのらりくらりとはぐらかすだろうと思ったからだ。

「楽しいおしゃべりだった?」

「楽しくは…なかったですね。ただ、話は聞いてはもらえました」

アルヘルムの問いにアデライーデも苦笑いで返す。それだけでアルヘルムはアデライーデの意図を察した。

「そうか」

「あと、今後カトリーヌ様とお手紙のやりとりをすると思います。頻繁にではないかもですが」

「手紙の…やりとりか」

「ええ、読んだ本の感想やバルクの海の話とかになると思います」

「良い話題だね。私的な交流の話題にふさわしい」

と、アルヘルムが答えた時、扉がばたん!と大きな音をして開いた。

「お医者様をお連れしました!」

マリアが、妖精の格好をした女医者を連れて駆け込んできた。

気分が悪くなったり暗さに足を取られ怪我をしたお客様用に、ここには一定の距離を置いて救護所が設置されている。

テレサが作った緊急マニュアルには、妖精の家で何か不測の事態が起こった時に、誰か一人が見回りの妖精に連絡し、すぐにその家を庭妖精が取り囲みおしゃべりや休憩をしている風を装って「この家は今準備中なの」と言って封鎖し、他の客に気が付かれないようにする手順になっている。

呼ばれる警備担当の妖精に混じって、医者も一人必ず呼ばれるようになっていた。

呼ばれた女医者はアデライーデを椅子に座らせると、「失礼致します」と、持ってきた鞄からきれいな布と消毒薬を取り出して傷を洗浄した。

ちょっぴり 沁(し) みるが、食い入るように見つめるマリアの手前アデライーデは、なんともないふりをした。

消毒が終わった女医者は高級そうな入れ物に入った軟膏を鞄から取り出すと、うすーくアデライーデの頬の傷に塗った。

「処置は終わりました」

「それで?! 傷は残りませんか?!」

噛みつくような勢いで尋ねるマリアに、女医者はにっこりと笑った。

「こちらの軟膏を日に3回お使いください。数日であとも残らず消えると思います」

そう言ってマリアに軟膏を手渡し、お辞儀をして下がっていった。

鏡を見ると、軟膏の下の赤い線が先ほどより細くなっていた。

「良かった…。今後どのような事があろうと絶対にお側は離れません! お命じになってもです!」

自分が傷ついた訳でもないのにマリアは、ぽろぽろと涙をこぼしながらアデライーデの傷を見つめていた。

「わかったわ。もうそんな事言わないわ。だから泣かないで」

アデライーデは、優しくマリアの肩を抱いた。

マリアは自分が思っている以上に、アデライーデを大事に思ってくれている。こんな小さな傷なんか放っておいても数日もすれば跡形もなく治る事は知っているが、マリアの気持ちが嬉しかった。

マリアもアルヘルムも、ここで何が起こったかは察しているだろうが、黙っていてくれる事にも。

その日は、頬の傷を妖精達に見られないように人払いしてもらってからアデライーデはアルヘルムに離宮まで送ってもらった。

出迎えたレナード達も目敏く傷を見つけて珍しく動揺した顔をしたが、アルヘルムの「大丈夫だ」の一言で何も口にすることはなかった。

だから、翌日から傷が治るまで外出も陽の光を浴びないように窓に近づく事も禁止されたが、陽子さんも黙って受け入れた。

ーそう言えば、まだ赤ん坊だった薫の爪を切り忘れて伸びた爪で初めて頬に傷をつけた時に、私も随分落ち込んだっけ。

すぐに爪を切りベビーミトンをはめてやったが、傷が消えるまで女の子なのに顔に傷が残ったらどうしようと気が気でなかった。 裕人(ゆうと) の時は「引っ掻いたのね」と、動じる事もなくなったが。

「大丈夫よ。きっと、残らないわよ」

マリアを安心させようと、にっこりと微笑むとマリアから雷が落ちた。

「笑ってはいけません! 傷口が開いたら跡が残ります!」

アデライーデはミトンの代わりに笑う事を禁じられた。