作品タイトル不明
113 コーエンと習い事
「アデライーデ様、 指物師(さしものし) が試作品を持ってお目通りを願いに来ております」
「指物師…あぁ、そろばんのね。お通ししてくれる?」
--この間棟梁を介して依頼して1週間くらいかしら…。早かったわね。
レナードに頼むと、使用人部屋の方から若い職人が従僕に連れられホールにやってきた。まだ20代後半に見えるその職人はアデライーデの前まで来ると恭しく頭を下げ挨拶をした。
「お初にお目にかかります。私、指物師のコーエンと申します。アデライーデ様のご依頼を受ける光栄を賜り、恐悦至極でございます」
細身で長髪を後ろで結んだ優しげな顔の青年は、少し足が不自由なのか右足を引きずって歩いていた。
「初めまして、アデライーデです。お掛けになって」
アデライーデがソファを勧めると、コーエンは少しぎこちなくソファに座り、持ってきたカバンから布に包まれたそろばんを出してきた。
陽子さんの知るそろばんより一回り大きめで珠も枠も茶色だが、見た目は完璧にそろばんだった。
「まぁ…」
--すごいわ!あの絵からよくここまでそっくりに作れるなんて…
コーエンは布を敷いたままアデライーデの前に差し出すと、じっとアデライーデの方を伺った。宮廷に出入りする棟梁が師匠に持ってきたこの依頼を、師匠は工房でやっと一人前の仕事をしだした自分に「この仕事はお前がやってみろ。お前が1番向いている」そう言ってこの仕事を任せてくれた。
任せてくれた師匠の期待に応えるためにも、どうしてもこの仕事はやり遂げたい。そう思ってこの1週間、未知なるそろばんの作製に寝食を忘れるほど没頭していた。
特に菱形の珠と呼ばれるものを作るのには、本当に苦労したのだ。うまく削れても中心に穴を開けると割れてしまうことが多く、木の選定を何度もやり直した。
そうやって作ったそろばんがアデライーデ様の望み通りのものが出来たか、本人に確認してもらうまではわからない。コーエンの心臓が早鐘のように鳴っていた。
アデライーデは、そろばんを手に取りパチパチと珠を指で弾き始めた。アデライーデの指の動きをレナード達も興味深げにじっと見ていた。
「願いましては… 1.2.3.4.5…」
パチパチパチパチパチパチパチ
じゃらっ
「願いましては… 1.2.3.4.5…」
パチパチパチパチパチパチパチ
じゃらっ
アデライーデが呪文のように何かを願いながらそろばんを弾いていく。そんなアデライーデの指先をコーエンは食い入る様に見つめていた。
「良いわね。とてもいいわ」
アデライーデがそう言って、コーエンにニッコリ笑うとコーエンは止めていた息をほっーと吐いた。
「これはこのままもらって、軸をもう少しだけ太くできるかしら?」
「あの…お望みどおりではなかったのでしょうか」
「望んだとおりよ。ただ少し動きがスムーズすぎるのね。こうやって弾いたときに少し珠が戻ってしまうの。もう少しだけ軸が太ければ戻らないかと思うの」
「珠が戻る…」
確かにアデライーデが珠を弾くと、少し戻るのだ。
「初めてで、ここまで再現してもらえるとは思わなかったわ。見た事もないどんな風に使うかもわからないものを、ここまで作ってくれてありがとう。大変だったでしょう?」
アデライーデはそろばんを撫でながらコーエンに感謝の言葉を口にした。
「いえ…仕事ですので…」
アデライーデからの思わぬ感謝の言葉に、コーエンは戸惑ってとっさにそう答えた。
コーエンは、師匠の工房で宝石箱や木の小箱等を作っている。貴族相手のオーダーの品を受ける事も多いが依頼主の考えと少しでも違うと酷く罵倒されたり、腕が悪いとバカにされる事も多い。
気が変わったからと、最初の依頼とは全く違う事を完成間近に言い出され作り直す事もザラにある。
今回は帝国から来た正妃様の仕事。それも見た事がないものを作るので、うまくやらなければと緊張してやってきたのだ。
多分、ほぼ正妃様の思われたものは出来ている…。しかし、細かいところではご満足いただけてないのだ…。それなのに、それを責めるでもなく労をねぎらってくれ、さらりと改善点を教えてくださるとは…。
試作品を完全品ではないと雑に扱う貴族も多い。しかし職人にとって試作は作品ではないが、大事に作ったものの1つだ。
その試作のそろばんを、正妃様は大事そうに扱ってくれていた。
是非、正妃様のご満足いくものをつくりたい。コーエンの職人魂がムクムクと湧き上がってきた。
「アデライーデ様。必ずご満足いただけるものを作りますので、また試作を作ってまいります」
コーエンがそう言ってアデライーデに挨拶をすると、すぐに試作を作るべく工房に戻って行った。
コーエンがホールを出ていくのを見送るとマリアが興味津々にアデライーデに聞いてきた。
「アデライーデ様、そろばんってどのように使いますの?」
「そろばんはね、上の珠が5で、下の珠は1を表しているの。ケタが位を表しててね。こうやって1から10までを足すと55、1から20までを足すと210……」
パチパチパチパチパチパチパチ
「ほぅ…」
「まぁ…」
「実際に計算してみせた方が早いわね。レナード、何か計算するものあるかしら」
「少々お待ちを…」
レナードが執事室から、先日納品された食品の請求書を持ってきた。
「このようなものでよろしいでしょうか?」
「ええ、良いわ。読み上げてみて」
「では…」
パチパチパチパチパチパチ
「はい、これが合計額」
2回読み上げてもらった合計額を、メモに書いて渡すとレナードが目を見張った。
「素晴らしい…こんなに早く計算ができるとは…」
「ね、そろばんって便利でしょ? ちょっと練習は必要なんだけどね」
習わされていた時は全然好きじゃなかった。寧ろ嫌いだったけど、パソコンも電卓もないこの世界で久しぶりに触れてみるとやはり習っておいて良かったと思う。
足し算引き算と掛け算は自信があるが、割り算はちょっと後で練習しようと思った事は、内緒にしておこうと思った陽子さんであった。