作品タイトル不明
111 猫の爪とバスケット
ちゃぽっ!
流石、日々鍛えているアルヘルムの浮きは遠くに飛ぶ。
アデライーデは子ども用の竿だが、アルヘルムは大人用の竿を軽々と使い、竿置きに置いた。
湖畔にはテントが設営され、中には3人がけの長椅子が置かれている。アルヘルムはフットレストに長い足を投げ出すと、手を組んで湖面の浮きを眺めだした。
後ろの森で 雲雀(ひばり) が賑やかに囀っている。
「ここは、のんびりしているな。昔は退屈なところだと思っていたが、何もしない時間と言うのは贅沢なのだな」
そう言ってアルヘルムは目を瞑った。
「そうですわね…」
--王様が日々何をしているかはよく知らないけど、毎日忙しそうだったからここではゆっくり過ごすのもいいんじゃないかしら。
二人が湖畔でのゆったりとした時間を楽しんでいる頃
離宮の厨房では、戦場の様な忙しさでアルトを始めとした調理人達が賄いを作りまくっていた。
使用人と兵士達の食事全ての賄いを作るのもアルト達の仕事で、食事は時間の空いた者達から順番に食べる。料理が大皿に置いてあって、それを自分で好きな量をとって食べるいわゆるセルフ方式で食べるのだが、作っても作っても足りないぞーとカウンターの向こうから文句を言うのだ。
「アイツら、どんだけ食うんだよ!」
今日のメニューは、王宮から来ている騎士達の「ここでしか食べることができないから」と言うリクエストもあって、フイッシュアンドチップスとトンカツとキャベツの千切りとパンとスープ。結構ボリュームのあるメニューのはずなのだが…。
揚げたはしから無くなっていくのだ。
すでにあれだけ昨日大量に注文していた魚は無くなりつつある。
「朝から芋しか剥いてねぇ」
「オレはキャベツの千切りしか作ってない…」
「自分は魚しか触ってないです」
後ろで泣き言を言いながら仕事をしている仲間を声を聞きつつ、アルトは大鍋3つを駆使してトンカツと魚と芋を揚げていく。
じゅわっと、揚がったトンカツをアツアツのうちにデミグラスソースに浸して大皿に乗せて出すと皆はキャベツの千切りと共に挟んで分厚いサンドイッチを作って食べていく。
「王宮の兵舎の食事より、ここのは美味いよな」
普段ならそんな言葉を聞けば、フフンと嬉しくなるが今日はちっとも嬉しくない。熱い鍋の前で汗を拭いながら、終わりの見えない作業を続けているのだ。
元々身体を鍛えるのが仕事の兵士と騎士達。
その胃袋は美味いものとなれば、普段より大きくなる。まして騎士たちは離宮でしか食べられないとわかっているので普段より大きくなっているのであろう。兵士たちより優雅に食べるが、まるで飲むように分厚いトンカツサンドが消えてゆくのだ。
恐ろしい…。
「アルヘルム様は月に一度くらい離宮に来られると言っていたな」
「あぁ。これからそうすると聞いている」
「じゃあ、これから毎月ここでの食事が楽しめるのだな」
「昨日警備隊の兵士に聞いたが、村の食堂でも同じものが食べられるらしいぞ」
「ほう…」
「お付きで来るときは流石に出かけられないが、ここは王都からそれほど遠くないから今度非番の時にでも行ってみようか」
騎士達は、そんな話をしながら食事を済ませ仕事に戻って行った。
アデライーデは、村の皆の楽しみになるかもとアルトに伝えたレシピを食堂のおばちゃんに譲っている。すでにフイッシュアンドチップスは食堂の名物になっているのだ。
アデライーデ様たちが口にする物と同じ物が村で食べられる。そんな話が、騎士や兵士達の口から少ずつ広まっていくようになるのは少し先の話である。
「ん、美味いな」
カツサンドを始めとした様々なサンドイッチが詰められたバスケットが、アルヘルムのもとに届けられアルヘルムは満足げにそれを頰張っていた。
「どうやら、さかな釣りの才能は私には無いようだ」
朝から釣り糸を垂らしているが浮きはピクリとも動かず、今日の釣りの成果は坊主だったアルヘルムは、残念そうにサンドイッチを食べながらアデライーデにそう言った。
「そういう時もございますわ」
アデライーデは、甘みを抑えたレモネードをアルヘルムに差し出しながらそう答えた。
レモネードを受け取ったアルヘルムは、隣で分厚いカツサンドを上品に食べようと格闘しているアデライーデをグラス越しに見ていた。
王宮の生活には張りがある。
頼られアルヘルム自身が決めないと進まない国の仕事は今でこそやり甲斐があり面白いと思えるようになったが、一時は自分の 采配(さいはい) ひとつで国の運命すら変えてしまうという責任という重圧に押しつぶされそうになった。
王族に生まれなければそれなりに違う道を選べたかもと何度も思ったが、それを飲み込みいつの間にかそれなりの王になりつつある。
縁あってアデライーデと婚姻し、白い結婚で別居生活という一風変わった結婚生活をしているが、アデライーデに会うと楽しく穏やかに過ごせる。いや、目を離すとふらふらと何をやらかすかわからない危なっかしさと、自分の知らない事を始める面白さもある。
--目が離せないな。
王宮に戻って欲しいとも思ったが、離宮に来てからのアデライーデの方が、生き生きしているのを見ると離宮で生活するのは正解なのだろう。自分がここに来た方が良いと思い直した。
新しいものをしようとするアデライーデを見るのが楽しい。楽しそうに孤児院や子供達のことを話すアデライーデを見ていると、嬉しい反面チクリと胸が痛むのを昨日から何度も自覚していた。
暖かい気持ちの中に、時折感じる乾いたような焦るような猫の爪で軽く引っかかれたような感覚。
もっと、自分を見て欲しい。
アルヘルムは、やっと自分の気持ちに気がついたのだ。
それが恋と言う名だとは知らずに。