軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 徳川家、水神様を囲む

KAMI様からのありがた迷惑な未来予知を受け、頭を抱えて朝を迎えた俺を待っていたのは、江戸初期の通信速度の限界を無視した「情報の拡散」だった。

最初は「国松様が榎戸村で井戸の場所を示された」程度だったはずの噂が、わずか数日で変異し、爆発的に燃え広がっていたのだ。

『国松様は、朽ちた祠の前で地下深くの水脈を見通された』

『水守り様が、国松様の御身を通じて御告げを下されたのだ』

『いや、国松様ご自身が、水神様の生まれ変わりであらせられる!』

「……情報伝達速度がおかしいだろ。江戸時代にSNSはないはずだぞ」

朝餉の後、自室で頭を抱える俺の前に、小栗半兵衛が神妙な面持ちで正座していた。

「若君。もはや榎戸村の井戸の件は、御料地周辺の百姓どもの噂だけでは収まりませぬ。城内の武士や奥女中たちにも広まり……上様、そして大御所様の御耳にも入っております」

上様。

二代将軍・徳川秀忠。

俺の父。

大御所様。

初代将軍にして、この国の絶対的支配者・徳川家康。

俺の祖父。

「終わった」

俺が崩れ落ちそうになった瞬間、廊下から足音が近づき、小姓がふすま越しに声を張り上げた。

「国松様! 大御所様より、御前へ参れとの御沙汰にございます!」

(家康公直々!? 生存戦略のラスボス戦がいきなり来た!?)

俺の寿命がマッハで削れていくのを感じながら、俺は重い足を引きずって奥の座敷へと向かった。

江戸城の奥まった座敷。

そこに足を踏み入れた瞬間、俺はあまりの威圧感にそのまま踵を返して逃げ出したくなった。

上座には、齢七十を超えてなお、隠居どころか日ノ本の全てを牛耳る天下人・徳川家康がどっかりと座っている。

その隣には、少し神経質そうな顔をした現将軍・秀忠。

少し離れて、俺の母であるお江の方。

そして、兄である竹千代と、彼の乳母であり奥向きの実力者である春日局。

さらには、家康の側近であり宗教顧問でもある黒衣の怪僧・天海の姿まである。

数名の老臣たちが、部屋の隅でじっと息を潜めていた。

(徳川オールスター感謝祭かよ……。ただの井戸掘りの報告で、なんでこんなメンツが揃ってるんだ。史実ならこれ、改易前の査問会だろ!)

俺がガチガチに緊張して平伏すると、家康が白髪の混じった顎髭を撫でながら、穏やかに笑った。

「国松、そう固くなるでない。今日はそなたの首を取るために呼んだのではない。ただの、身内の集まりよ」

(首を取るという単語を笑顔で出さないでください大御所様!)

「面を上げよ」

秀忠の声に促され、俺は恐る恐る顔を上げた。

家康は、本当に孫の成長を喜ぶ好々爺のような顔で、俺に語りかけてきた。

「水の乏しい村に、見事に井戸を掘り当てたそうじゃな。しかも、水路の争いも札を用いて上手く治めているとか。見事なことよ。我が孫ながら、あっぱれな働きじゃ」

大御所様からの、直々の称賛。

普通の武家の子供なら、ここで「ははっ!」と胸を張って喜ぶところだ。

だが、俺は知っている。

この狸親父の「褒め言葉」ほど恐ろしいものはないということを。

ここで少しでも増長すれば、俺は「身内の火種」として処理される。

「恐れながら、大御所様。それは過分なお言葉にございます」

俺は即座に、全力の火消し――三下ムーブを発動させた。

「私の功など、微塵もございませぬ。私がしたことと言えば、ただ思いつきで場所を示しただけ。実際に硬い岩盤を砕き、水を掘り当てたのは江戸から呼んだ職人の源七であり、汗を流したのは村の者たちにございます。土を見た与平、記録を残した半兵衛の働きがなければ、決して水には届きませなんだ」

俺はさらに、視線を横にずらし、竹千代を指し示した。

「そして何より、兄上であらせられる竹千代様の御許しと、失敗を咎めぬという御裁許、さらには徳川の飯の手配があってこその試みにございました。全ては、竹千代様の御名がもたらした天下の益にございます」

言い切った。

自分の功績を極限まで薄め、現場の人間と、何より「未来の将軍たる兄」の功績へと全てを転嫁する、完璧なディフェンス。

家康は、目を細めて俺の言葉を聞いていた。

その穏やかな表情の裏で、天下人の観察眼が俺の魂の奥底まで値踏みしているのがわかる。

(才ある者が、才なきふりをする。功ある者が、功なきふりをする。……国松、そなたはまだ六つであろう。幼子が無能を演じるなど、むしろ危険なほど賢いということではないか?)

家康の目が、そう語っているように見えて、俺は内心で冷や汗を拭った。

「……ふむ」

家康は、ゆっくりと口を開いた。

「では、国松。そなたはなぜ、そこまで竹千代を立てる。そなたもまた、徳川の血を引く男子。上に立ちたいという望みは、微塵も持たぬと申すか」

ストレートな追撃。

秀忠が少し身を乗り出し、春日局の目が鋭く光った。

母のお江は、心配そうに俺を見つめている。

ここで少しでも野心を匂わせればアウトだ。

「とても、とても!!」

俺は、大袈裟なほど首と手を振って、全力で否定した。

「将軍の座など、私のような者には荷が重すぎます! 私は田んぼの泥にまみれ、水の深さを測るだけで毎日精一杯にございます! 天下を背負うだなんて、考えただけで胃が痛みまする!」

それは、打算でも何でもない、本心からの叫びだった。

「兄上こそが、徳川の御柱。私は、その足元の泥に転がる小石として、ただ平穏に兄上をお支えできれば、それで十分にございます!」

座敷に、奇妙な沈黙が落ちた。

俺のあまりにも必死な、情けないほどの天下拒否宣言。

秀忠は複雑そうな顔をし、お江は「国松……」と涙ぐみそうになっている。

春日局は、少しだけ警戒を解いたように肩の力を抜いた。

そして竹千代は、俺の言葉を聞いて、ひどく嬉しそうに目を瞬かせていた。

よし、完璧だ。

これで「将軍を狙う危険な弟」の疑いは完全に晴れたはず。

そう確信した、直後だった。

「大御所様。国松の申す通りでございます」

竹千代が、静かに、しかしはっきりとした声で口を開いた。

(おおっ、兄上! 援護射撃ありがとうございます!)

竹千代は、俺の方を優しげに見やりながら、家康に向かって言葉を続けた。

「将軍などという座では、国松には狭すぎましょう」

「……え?」

俺の思考が、一瞬停止した。

竹千代は、大真面目な顔で、どこか誇らしげに言い放った。

「我が弟は、水の乏しい村に水をもたらし、田を整え、泥にまみれて民に拝まれる者。将軍という人の座では、到底収まりませぬ。……なんと言っても、我が弟は水神様ですからね」

「ふぁあああああああああ!?」

俺は、徳川家康の御前であることも忘れ、素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。

「な、何を仰ってるんですか兄上!?」

座敷の空気が、一瞬で凍りついた。

お江が「まあっ」と口元を押さえる。

秀忠が「ごほっ、ごほっ」と激しくむせる。

春日局は完全に石化したように固まり、老臣たちは一斉に天井の木目を数え始めた。

天海だけが、黒衣の袖で口元を隠し、意味深に微笑んでいる。

そして家康は、一拍の沈黙の後。

「……ふふふふふ。ハハハハハハハハハ!!」

腹の底から、座敷が震えるような大笑いを響かせた。

「こやつめ、言うわ! 確かに竹千代の申す通りじゃ! 将軍の座なんぞ、水神様に比べれば大したことはないわな!」

「違います! 大御所様、そういう意味ではございません!」

「いやいや、分かっておる、分かっておるぞ国松」

「絶対分かってない顔です!!」

俺の必死の抗議も虚しく、竹千代はうんうんと真面目に頷いている。

「うむ。国松は将軍位など欲しておりませぬ。人の座ではなく、ただ水と田の方を見ております。私は弟を褒めているのです」

「兄上! 訂正してください! その褒め方、完全に別のベクトルで死刑宣告なんですが!」

俺の泣きそうな顔を見て、家康はさらに機嫌よく笑い転げた。

緊迫していた査問会の空気は、竹千代の天然の爆弾発言によって、完全に和やかな家族の団欒へと傾いていた。

「よいよい。国松が天下を望まず、水と泥を望むというなら、それはそれで徳川の利よ」

ひとしきり笑った後、家康は表情を引き締め、最終的な裁定を下した。

「国松の田法、水札、そして井戸掘りについては、今後も竹千代の『御試み』として続けさせる。ただし、事を広げる時は必ず小さく試し、半兵衛とやらに記録を取らせよ。決して、国松一人の奇跡として流布させてはならん。噂には必ず、職人、百姓、そして竹千代の名を混ぜよ」

「はっ……仰せの通りにいたします」

俺は平伏した。

俺がKAMI様に言われた通りの火消し方針を、家康は為政者の視点から、さらに老獪に整えてみせたのだ。

「噂とは、力で押さえつければ余計に膨らむものよ」

家康は、楽しそうに目を細めた。

「ならば、こちらから都合の良い流れを作ってやればよい。国松個人の神異としてではなく、竹千代の御世を助けるための『水守りの御加護』として整えるのだ」

(この狸親父……情報統制が上手すぎる。神仏の奇跡すらも、幕府の権威付けに利用する気か)

秀忠も「父上のお考え、最もにございます」と深く同意している。

ただ一人、母のお江だけが、少し寂しそうな声を出した。

「でも……国松が、神仏の使いだなどと持て囃されては、どこか遠いところへ行ってしまうようで、母は恐ろしゅうございます」

「母上、私はどこにも行きませぬ!」

俺は慌てて母の元へ擦り寄った。

「私はただ、竹千代兄上のそばで泥にまみれているだけの、ただの泥んこ小僧にございます。神仏の使いだなんて、とんでもない!」

必死に兄上を立て、母に甘える俺の姿を見て、春日局は何も言わなかった。

ただ、竹千代の背後で伏せた目元から、ほんのわずかに険が抜けていた。

それだけで、この場における俺の首の皮が一枚つながった気がした。

竹千代も、ひどく満足そうに俺を見ている。

だが、会議が和やかに終わろうとしたその時、部屋の隅に控えていた天海が、静かに口を開いた。

「……大御所様。水は、龍神にも、弁財天にも、滝に祀られる不動にも、そして地蔵にも通じる、古き力にございます」

低く、底知れぬ響きを持った声。

「若君様が榎戸村の地で、いかなるものを呼び覚まされたのか……拙僧にもまだ、明確には分かりませぬ。されど、決して粗末に扱うべきものではございますまい」

(やめて! 宗教専門家が意味深なコメントで変な補強しないで!)

俺が内心で叫ぶ中、家康は面白そうに天海を見た。

「天海よ。その榎戸村の祠、そちの目で一度見ておくがよい」

「承知仕りました」

最後に、家康は俺に向かって言った。

「国松。そなたは、自らを水神ではないと言うたな」

「はい! 当然にございます!」

「ならば、そなたが水神ではないということを自ら証明するためにも、これからもよく水を見て、田を見て、民を助けよ」

「……え? なぜそうなるのですか!?」

家康は、にやりと笑った。

「水を見て民を助ける者は、水神ではない。それは徳川の良き若君じゃろう?」

「そ、それは……理屈としてはそうかもしれませんが……」

「うむ。国松は徳川の良き若君だ。そして、私の大切な弟だ」

竹千代の追撃に、俺は照れと胃痛でどうにかなりそうだった。

「では、決まりじゃ」

家康の力強い一言で、家族会議は笑い声とともに幕を閉じた。

表向きには、俺の命を脅かす警戒感は、完全に払拭されたように見えた。

(生き延びた……のか?)

俺は、冷や汗でぐっしょりになった小袖の襟を握りしめながら、深く安堵の息を吐いた。

「兄上。……水神様などと申されては、心底困ります」

会議の後、長い廊下を歩きながら、俺は竹千代に小声で抗議した。

竹千代は、少し不思議そうな顔でこちらを振り向いた。

「なぜだ。お前は実際に、水のない村に水を見つけたではないか」

「ですから、それは源七たちが掘ったからです。私は何もしておりませぬ」

「だが、お前が『そこだ』と場所を示した。その見立ての妙を、私は誇りに思って言ったのだが」

「その誇りが、私の首を絞めるのです……」

俺が本気で項垂れると、竹千代は少し考えてから、ふっと笑った。

「相分かった。ならば、水神と呼ぶのは、これからは私とお前が二人の時だけにしておこう」

「兄上!?」

「冗談だ」

(兄上の冗談、心臓に悪すぎる……)

だが、その不器用な冗談の裏に、俺を何があっても守るという、強い兄弟の絆が形成されていることは痛いほど伝わってきた。

竹千代は、俺の肩に手を置いた。

「国松。私は、お前が本当に天下を欲していないことを知っている。だから、お前は周囲の雑音など気にせず、安心して田と水を見よ」

「……はい」

「その代わり、失敗も、不満も、決して私に隠すな。お前が泥を被るなら、私も同じように被る」

「ははっ、兄上」

俺は、今度こそ本心からの安堵の笑みを浮かべて、深く頭を下げた。

その夜。

江戸城の奥深く、行灯の薄暗い光だけが照らす部屋で、徳川家康は一人、静かに思索に耽っていた。

榎戸村の井戸の報告。

水札の運用を示す半兵衛の帳面。

そして今日の、必死に無能を演じ、天下を拒絶した孫・国松の姿。

家康の表情から、昼間の好々爺のような笑みは完全に消え去っていた。

(国松に、天下を取る野心はない。あれはおそらく真実じゃろう)

家康は、冷徹な天下人の目を取り戻していた。

(だが……天下が、国松を放っておくかは別問題よ)

家康は、自らが戦い抜いてきた激動の時代を思い返した。

織田信長は、比叡山を焼き、神仏の古い権威を徹底的に破壊することで、新しい時代を切り開いた。

豊臣秀吉は、農民の身から天下を掴み、太閤として日ノ本の形を力技で組み替えた。

そして自分は、その戦乱を終わらせ、武による秩序で徳川の世の骨組みを築いた。

では、国松は何か。

信長が壊したもの。

秀吉が踏み越えたもの。

自分が法で封じ、整えようとしたもの。

そのさらに奥深くにある、日ノ本の古い力――土と水に根ざした信仰を、あの六歳の子供は、無自覚のままに呼び起こしているのではないか。

「国松は……」

家康は、暗闇に向かって独り言ちた。

「信長殿や、あの太閤様と同じく……時代に選ばれし者なのか?」

いや、と家康は首を振る。

「あるいは、日ノ本の真の所有者たる神仏に……直接選ばれた者なのか」

その恐ろしい推論に行き着いたにもかかわらず。

戦国を生き抜いた老将の口元には、恐怖ではなく、どこか面白がるような笑みが浮かんでいた。

「信長殿が破壊した神仏を、我が孫が再び泥の中から呼び覚ますか。……ふふふ、あの世へ行った後、信長殿や太閤様に自慢することが増えたわい」

その笑みは、しばし老人の顔に残った。

だが、天下人の笑いは、長くは続かなかった。

すぐにその眼光は、戦場で敵味方の死に場所を見定めてきた男のものへと戻る。

「だが、選ばれし異物は、世を救うだけではない。時として、世の理を乱す猛毒にもなる。……国松よ。そなたが徳川の『利』であるうちに、竹千代の側に強く縛りつけておかねばならんな」

天下人は、ただの「水神様」の噂の裏側に潜む、歴史の大きなうねりを確実に見据えていた。

江戸の夜の闇は、まだ誰の目にも見えない未来の波乱を孕んだまま、静かに更けていった。