軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十話 名前を呼ばれて

秋の王宮の招待状の宛名には、私の名前がはっきりと書かれていた。

サン=クレール伯爵様、エルダー侯爵令嬢様。

王宮の正式な書面のうえに、二人分のお名前が、同じ大きさの文字で並べて書かれていた。

連名で受け取る招待状は、これが私にとって、初めてのものだった。

夜会の前夜、私はその招待状を、もう一度書斎の机のうえに置いて、しばらく眺めていた。

封蝋はすでに開けられていた。

ただ、文字の並びそのものを、もう一度ゆっくりと目でなぞった。

「お母様にも、ご覧になっていただきたい」

私はそう申し上げた。

母は書面を一度ご覧になってから、わずかに微笑まれ、何もおっしゃらなかった。

そのお微笑のなかに、三年前の春に流された涙の続きが、ようやくほどけた色があった気がした。

夜会の当日、私はサン=クレール邸へ伺った。

王宮の儀礼として、婚約発表に立つお二人は、同じお邸からご出立される。

邸の侍女が、私のお召し物の最後の整えを手伝ってくださった。

鏡のなかの私は、いつもよりも、わずかに肩のあたりが楽だった。

誰かの隣に控える日のドレスとは、肩の落ち方が違っていた。

控えの間に、ガブリエル様がいらした。

正装の上着の袖口には、いつもの徽章。

本日は、儀礼長補佐としての公務と、私の婚約相手としての立場の、両方を担っていらした。

「お時間になりました」

ガブリエル様がお手をお差し出しになった。

形式どおりのご案内だった。

私はそのお手に、自分の手をそっと添えた。

お手のひらは、思っていたよりも少しだけ温かかった。

王宮の大広間に入った瞬間、空気の流れが、別のものに変わった気がした。

第二王子レイモンド殿下が、お入り口の少し奥のところでお待ちくださっていた。

本日は王太子殿下のご名代として、婚約発表のお席にご臨席くださる。

殿下は私とガブリエル様に短く頷かれ、それから、私たちを大広間の中央へ導いてくださった。

「皆様、本日は」

殿下のお声が、大広間に静かに通った。

「両家の合意のもと、本日、サン=クレール伯爵閣下と、エルダー侯爵令嬢ローズマリー様のご婚約を、王家としてお祝い申し上げます」

大広間の方々が、一斉に深く礼をしてくださった。

その礼のなかに、ベルナール公爵家のお席があった。

ジョセフィーヌ様と、フィリップ様。

夫人は私と目が合うと、深く頷いてくださった。

フィリップ様は、お目を合わせないまま、お席で深く頭を下げていらした。

それで充分だった。

王妃陛下が、大広間の奥のお席からこちらへ歩いて来てくださった。

「ローズマリー」

陛下は私の手をお取りになった。

お取りになる手の重みは、思っていたよりずっと軽かった。

「あなたのお仕事を、これからも見ていますよ」

陛下はそうおっしゃった。

「王宮春の茶会も、夏の差配も、これまでどおり、お願いいたしますね」

「謹んで、お引き受け申し上げます」

私はそうお返事申し上げた。

陛下はもう一度わずかに頷かれ、ガブリエル様のほうへも、短くお声をお掛けになった。

「ガブリエル、儀礼長補佐の職務は、お続けになるおつもり」

「陛下のお許しが得られますれば、引き続きお務めいたします」

「そう。レイモンド、よろしくね」

陛下がお振り向きになると、レイモンド殿下が穏やかにお返事なさった。

「儀礼長補佐の代わりは、なかなか見つかりませんから、まだしばらくお願いするほかありません」

殿下の口元に、ほんの少しだけ、いつもの笑みのお気配があった。

ガブリエル様も、わずかに口元をお緩めになった。

それは、王宮の方々のなかに、これからも続いていく関係の確かさを、私がはじめて感じた瞬間だった。

大広間の終わりの時間が近づいた頃、私はもう一度だけ、人の流れの向こうにベルナール公爵家のお席を目で追った。

フィリップ様は、ジョセフィーヌ様と並んで、退出の支度をしておられた。

その時、フィリップ様が、こちらを向かれた。

お顔を上げ、それから、私のほうへ、深く一礼をなさった。

お声はなかった。

お言葉もなかった。

ただの一礼だった。

私はその礼を、同じ深さでお返しした。

顔を上げたとき、フィリップ様はすでに、ジョセフィーヌ様と共に、人の流れのなかに紛れていらした。

それ以上、お目が合うことは、もうなかった。

戻れない場所が、こうして遠くなるのか、と思った。

胸の奥は、思っていたよりも、静かだった。

あの三年も、私の三年として、そこに残っているとだけ感じた。

夜会の余興の最中、ガブリエル様が私を庭の四阿へお誘いくださった。

「少しだけ、人気のないところで」

そうおっしゃってくださった。

秋の庭の四阿には、すでに灯りがひとつだけ灯されていた。

卓のうえに、薄い銀の盆が一枚。

盆のなかに、小さな銀の徽章が置かれていた。

ガブリエル様が、それをお手に取られた。

「これは儀礼の証でございます」

ガブリエル様はそう前置きされてから、徽章を、もう一度、盆の中央へお戻しになった。

「あなたといるときは、外したいのです」

それだけだった。

夜風が、四阿の灯りを、わずかに揺らした。

銀の徽章は、その揺らぎのなかで、ほんの少しだけ光を返した。

私は徽章を見つめてから、お顔を上げた。

「ローズマリー」

ガブリエル様が、私の名を呼ばれた。

姓も、家名も、ご婚約者の肩書もつけずに、ただ私の名だけを。

その響きは、長く準備されていた響きだった。

二年のあいだ、王宮の控えのうえで何度も書かれ、本日この四阿で、はじめて口に出された響きだった。

私は深く息を吸ってから、お返事を申し上げた。

「ガブリエル様」

そうお呼びすると、ガブリエル様はもう一度、わずかに目を伏せられた。

私が王宮の準備の場で初めてお名前をお呼びした、あの日と同じ伏せ方だった。

私はその時、自分の歩幅のことを思い出した。

公爵邸で縮めて歩いていた歩幅のことを、なぜか今、思い出した。

王宮の廊下では、たしか、はじめて自分のものに戻った気がした。

この四阿で隣に並んで止まっているのは、その続きの歩幅なのかもしれない。

四阿の灯りが、もう一度だけ風に揺れた。

銀の徽章は、卓のうえに、外されたまま、静かに残されていた。