作品タイトル不明
第6話 父からの返書、離縁の意思
朝の使者が運んできたのは、お父様の筆跡だった。
ベルタが受け取った封筒を、私はお義母様のいらっしゃる客間まで運んだ。ブランシェ家の家紋の封蝋を見て、お義母様は湯気の立った紅茶の器を一度置いた。
「お父様からのお返事ね」
「はい」
私は封を切った。便箋は二枚あった。
一枚目はブランシェ家の家長として、義母エレオノール様あての正式な礼状。二枚目は、私個人あての、お父様の私的な手紙だった。
——娘の意思を尊重したい。両家のご合意による離縁の申し入れにつきましては、家門として正式にお受けする用意がある。手続きの細部については、ヴァランタン家のご判断に従う。ブランシェ家の代理人を、必要な時に派遣する。
短い書面だった。けれど、ブランシェの家紋の下に、お父様ご自身の署名があった。代筆ではなかった。私個人あての便箋の末尾には、お父様の手で短く書き添えがあった。
——お前の判断を、私は信じている。
それだけだった。
お義母様は一枚目の便箋をご自分の手元に置き、二枚目は私の手に戻してくださった。
「整いましたね」
「……はい」
「あとは、あなたの言葉を、私の息子にちゃんと届けるだけ」
お義母様はそれ以上は言わなかった。書斎に夫を呼ぶようベルタに伝えてくださったのも、お義母様だった。
書斎に夫が入ってきたのは、昼前のことだった。
「アデライン、何かあったのか? 母上が、急ぎだと」
夫はいつもの上着姿で、まだ植物園へ行くつもりの軽い顔をしていた。彼の机の端に、ヴァランタン領の最新の収支帳簿が、開かれたまま置かれている。三日前に私が頁を開いて置いた状態で、誰の手も入っていなかった。
「お席にお掛けください」
私は自分の机の前に立った。夫は少し驚いた顔をしたが、素直に座った。
「セドリック様」
「うん」
「私、離縁を申し入れます」
書斎の中の音が、一拍だけ、抜けた気がした。
夫は私を見た。何かの冗談だと思って、続く言葉を待った。私は続けなかった。
「……アデライン」
夫が、ようやく口を開いた。
「君らしくないよ。何が気に入らなかったんだ? 夜会の席のことなら、リゼットが初めての社交だから——」
「夜会のことではないのです」
「じゃあ、何だ」
夫の声が、わずかに高くなった。困惑というよりは、戸惑いに近かった。
「俺は君のことを、ちゃんと——」
「セドリック様」
私は彼の言葉を、初めて遮った。
「怒っているのではありません」
そこで一度、息を整えた。
「疲れたのです」
短い言葉だった。けれど、声の出し方は、思っていたよりずっと落ち着いていた。三年分の重みは、声を震わせる方向ではなく、声を低くする方向に積もっていたらしい。
夫は私を見つめた。三秒くらい、彼の口は半分開いたまま動かなかった。それから、苦笑混じりに首を振った。
「アデライン、そんなに大げさに考えることじゃないだろう。リゼットとは、家族同然なんだ。君なら分かってくれると思っていた」
家族同然なんだ。
その言葉を、夫がこの三年で何度口にしたのか、私はもう数えていない。
「私には、大げさです」
「……」
「お父様から返書が届きました。両家のご合意による離縁を、正式にお受けする用意があるとのことです。お義母様もご同席のもと、手続きを進めます」
「父上が?」
夫が初めて、声の調子を変えた。
「お父様、ではありません。私のお父様、ブランシェ伯爵のお返事です」
書斎の扉の向こうで、廊下に控えていた従僕が、一歩、足を引いた音がした。
「アデライン、待ってくれ。話し合おう」
「話し合いはもう、三年分いたしました」
夫は何も返せなかった。机の端の帳簿に視線が落ちて、けれど、彼はその数字を読まなかった。三日前に私が開いて置いた頁のまま、彼はその開きが何を示しているのかを、最後まで分からなかった。
書斎の外、廊下のほうから、足音と、それを追う声が聞こえた。
「セディ! あたしのせいですか?」
リゼットだった。「私」ではなく「あたし」が混じっている。彼女の中の壁が、もう全部、馬車の中になっていた。
「セディ、あたしが悪かったから、こうなったの?」
私は廊下の音のほうを、見なかった。
夫が立ち上がりかけて、私のほうを一度だけ振り返った。けれど私が何も言わなかったので、彼は結局そのまま廊下へ出ていった。書斎の扉が閉まった後、廊下で「アデライン様、お話しさせてください」と泣く声がした。私は扉に背を向けて、机の前に座った。
それからしばらくして、ベルタが盆を運んできた。
盆の上には、宰相府の正式な封筒が一通と、ロードヴィック伯爵家の家紋が押された私的な便箋が一通、並んで置かれていた。
正式な封筒は、宰相府の立会人申請書状だった。
両家家長の合意離縁について、宰相府の上級文官ロードヴィック伯爵を立会人として申請する旨。手続き、提出書類、必要な署名欄が、すべて整っていた。日付と捺印を入れるだけで足りる書類だった。
私的な便箋は、一枚だった。
「ご決断を尊重します。手続きはこちらで整えます」
それだけだった。前のお手紙と同じく、署名はなかった。
私は二通の書類を、机の上で少し離して置いた。一通は宰相府の名で書かれた、私の決断を制度として支える書類。もう一通は、書いた人の名さえ書かれていない、ただの便箋。
書斎の外で、リゼットの泣き声はもう聞こえなくなっていた。
夫が彼女をどう宥めたのか、私には分からなかった。私が振り向かなかったので、夫がどんな顔で廊下に出ていったのかも、見ていなかった。
セドリックは最後まで、何が起きているのか理解していないようだった。それが、答えだった。