作品タイトル不明
第5話 義母の訪い、嫁入り道具
客間に通すなり、お義母様は私の手を強く取った。
ベルタが書状を送った一週間後の朝だった。領地の離れにご隠居中のお義母様が、お一人の侍女と二人だけで王都までお越しになるのは、嫁いでからの三年で初めてのことだった。本邸ではなく直接客間へお通しするよう、私は朝のうちにベルタへ伝えていた。お義母様は門前で馬車を降りると、出迎えに出た夫よりも先に私の名を呼んだ。
「アデラインさん」
低い、けれど深く響く声だった。
「お久しゅうございます」
「ええ、本当に」
お義母様の手は、思っていたより冷たかった。長旅の冷えだけではなかった。三年前、嫁入りの朝に廊下で私の頬に触れてくださった時より、ずっと冷たい手だった。
「お義母様、急にお越しくださって、何か……」
「アデラインさん、後で二人で話しましょう」
夫が客間に入ってきた。母上、と一度だけ呼んで、何かを言いかけて、止まった。お義母様は息子の挨拶を、いつもの微笑みで受けた。けれど、私の手は離さなかった。
「セドリック。あなたは植物園のご予定があるのでしょう。リゼットさんを案内してきなさい。私はアデラインさんと、屋敷の中を見て回りますから」
「……はい、母上」
夫は素直に背を向けた。お義母様が来た理由について、彼は最後まで尋ねなかった。
客間の扉が閉まると、お義母様は私の隣に座り直した。
「アデラインさん。一つ、聞いてくださる?」
「はい」
「一年前、私は息子に一度だけ、面と向かって申し上げたことがあるの」
私はお義母様のほうを見た。
「リゼットさんを屋敷に長くお置きするのは、家門として宜しくありません、と。あなたの妻はアデラインさんなのだから、と」
「……」
「あの子は笑ったわ。『母上は古い考えだ。リゼットは家族なんですよ』と。私はそれ以上、踏み込まなかった。当主の判断に隠居が口を挟むのは、家門の不文律として正しくない。私は正しさを守って、あなたを守らなかった」
お義母様の指が、私の指の上で一度だけ動いた。骨ばった、けれど震えていない指だった。
「ごめんなさいね、アデラインさん」
「お義母様」
私は何を言えばいいのか分からなくて、ただお義母様の指の上に、自分の指を重ねた。冷たい手は、私の指の重みで少しずつ温まっていった。
それから、お義母様はリゼットを別室に呼んだ。
私はその部屋へは入らなかった。廊下の角で、ベルタが盆を抱えたまま動かずに立っていた。私は彼女に小さく頷いて、書斎へ戻った。
別室から出てきたリゼットは、廊下で私を見て、一度、口を開きかけて、結局何も言わずに自分の部屋へ戻った。お義母様が何を告げたのか、私は聞かなかった。聞かなくても、リゼットの肩の力の入り方で、半分くらいは分かった気がした。
お義母様は書斎にお越しになり、嫁入り道具の目録を求めた。
「あなたがヴァランタン家にお預けになっていたお品のうち、ブランシェ家へお戻しすべきものを整理しましょう」
「お義母様」
「先回りに見えるかしらね。けれど、書類というのは、必要になってから整えると間に合わないものよ」
お義母様は目録を一頁ずつ確かめながら、三年分の帳簿の写しも取るよう、ベルタに手配を頼んだ。署名の入っていない頁の余白を、お義母様は一度、指先で軽くなぞった。
「あなたが書いたのね」
「はい」
「全部?」
「……はい」
「分かっていたわ」
それだけだった。
夕方、お義母様はブランシェのお父様あてに、ご自身の筆で書状をしたためた。封蝋を押す前に、便箋を一度だけ私に見せてくださった。「娘さんのご意思を尊重したいと存じます」とだけ書かれていた。私が何度も書き直してきた、丁寧で、でも一歩踏み込んだ文体だった。お義母様の字は私のものより力強くて、けれど書き慣れた手の形は、どこか似ていた。
夜になって、宰相府からの正式な使者が屋敷を訪ねた。
ロードヴィック伯爵が、明日提出の書類について最終確認のため、本日中にお目通りを願いたいとのこと。お義母様がそれを聞いて、私のほうを一度だけ見て、頷いた。
書斎の扉を開けて、アンセル様が入ってきた時、私は机のそばに立っていた。
「ヴァランタン侯爵夫人。夜分に申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ。お越しくださって、ありがとうございます」
机の上には、写し終えた三年分の帳簿が積まれていた。アンセル様はそれを一頁ずつ確かめながら、宰相府の書類と照合していった。彼の指は、私の書いた数字の上を、急がず、けれど止まらずに動いた。
途中で、私が書斎机の角に置いていた帳簿の一冊の、角がわずかに折れていることに、アンセル様は気づいた。手を伸ばし、折れ目を丁寧に開いて、上下に少し撫でて直した。
「これは大切な記録ですから」
それだけ言って、書類の確認に戻った。
最後の頁を閉じた時、夜は深かった。
書斎の窓の外で、王都の屋敷町の灯が、いくつか落ち始めていた。
「お疲れになりましたでしょう」
「いいえ」
私はそう答えてから、自分の声が小さかったことに気づいた。
「……アンセル様」
「はい」
「疲れました」
口にしてから、私は自分の声を聞き直すように、一度だけ息を吸った。三年間、誰の前でも言わなかった言葉だった。お義母様の前でも、ベルタの前でも、廊下の鏡の前でも、私はその言葉を口にしなかった。
アンセル様は何も言わなかった。
私の言葉に対して、彼は何の慰めも、励ましも、共感の台詞も足さなかった。ただ、書斎の窓のそばまで歩いていって、片方の窓を静かに開けた。
夜風が、書斎の中へ入ってきた。
梨の花の匂いがした。