軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 味が、違う

手紙が戻ってきたのは、七十八日目だった。

配達人が玄関に立っていた。「お相手の方が、そのままお返しくださいと」。

受け取った。封蝋が割れていない。開けてすらいない。

俺が三日かけて書いた手紙を、マリアージュは封も切らずに送り返した。

書斎に持ち帰った。テーブルの上に置いた。離縁届の隣に。離縁届にはまだ、俺の署名がない。封蝋のついた手紙と、空白の署名欄が、並んでいる。

封蝋を指で触った。自分が押した紋章の凹凸が、指先に伝わる。

開けてもらえなかった。

当然だ。当然だろう。そうだろう。

八年間。俺はマリアージュが毎朝差し出していた食事を、味わいもせず「ああ」で返した。新聞を広げたまま。顔も見ずに。

あれは手紙だった。

毎朝の朝食が手紙だった。俺はそれを「ああ」で返した。開封せずに。八年間。毎朝。毎朝。毎朝。

マリアージュが俺の手紙を開けなかったのは、されたことを返されただけだ。

それだけの話だ。それだけの、単純な話だ。

◇◇◇

八十日目。

ナディアが荷物をまとめていた。

応接間で、向かい合って座った。ナディアはいつもの薄い水色のドレスではなく、落ち着いた灰色の旅装だった。手袋をはめている。出発の支度がもう整っている。

「グレン様」

「ああ」

「私、実家に戻りますわ」

わかっていた。ここしばらくのナディアの態度で。厨房で焦がした玉葱のことも、夜会で泣いたことも、刺繍をしながら「お書きなさいませ」と言ったことも。全部が、この日に向かっていた。

「三年間、お側にいられて幸せでした」

ナディアの声は穏やかだった。泣いていなかった。目が乾いている。泣き尽くした後の目だ。

「でも。前の奥様の代わりにはなれませんし、なりたくもございません」

代わり。

この言葉を、俺は社交界でも、屋敷でも、何度も聞いた。「代わり」「後釜」「二番目」。ナディアに貼られた札。彼女が望んだ札ではない。

「私は私として愛されたかっただけですわ。……それは、贅沢なことでしたかしら」

贅沢ではない。当たり前のことだ。

だがその「当たり前」を、俺はマリアージュにもナディアにも渡さなかった。

「ナディア」

「はい」

「……すまなかった」

ナディアが少し笑った。首を傾ける癖は変わっていなかった。

「謝らないでくださいまし。私は——私の意思でお側にいました。誰に強制されたわけでもございません」

立ち上がった。スカートの裾を直した。背筋が伸びている。三年間、社交界を渡り歩いた女の背筋だ。

「一つだけ、お願いがございます」

「何だ」

「あの方のスープの蜂蜜の量——もし答えを見つけられたら、ちゃんと味わって召し上がってくださいませ。新聞を畳んで」

ナディアが出ていった。

馬車の音が遠ざかっていった。車輪が石畳を叩く音。やがて聞こえなくなった。

応接間に一人残った。ナディアが座っていた椅子の布地に、まだ僅かに温もりがあった。

◇◇◇

八十五日目。

夕食を一人で食べた。

トマスのスープ。パン。焼いた鶏。根菜の付け合わせ。

悪くない食事だ。トマスは三ヶ月で確実に腕を上げた。アレルギーの管理も慎重になった。ピエールも仕事を覚えてきている。仕入先のリストはトマスが作り直した。蜂蜜は市場で買った別の養蜂家のものだが、品質は悪くない。

食卓は機能している。人間が食べて生きていくための機能としては、何も問題がない。

スープを一口飲んだ。

味が、違う。

わかっている。もう何が違うか、わかっている。蜂蜜の量だけではない。

温度が違う。俺が一口目を掬った時にちょうどいい温度に——五分前に火を止めるという、あの精度が違う。マリアージュは俺が食堂に来る時間から逆算して火を止めていた。猫舌の俺が一口目で舌を火傷しないように。

根菜の切り方が違う。一つ一つが同じ大きさに揃っていた、あの均一さがない。

パンの温め直し方が違う。中までしっとり温まっていた、あの柔らかさがない。

全部が少しずつ違って、その少しずつが積み重なって、「食卓」という一つの空間を作っていたのだ。技術ではない。技術だけならトマスでも再現できる。再現できないのは——あの食卓に込められていた、八年分の観察と記憶だ。

蜂蜜の壺を棚から出した。

スプーンで掬った。小さじ半分。スープに入れた。

一口飲んだ。

甘い。まだ甘い。「気持ち少なめ」がわからない。

スプーンの先に残った蜂蜜を見た。琥珀色。ねっとりとした光沢。この蜂蜜は市場の品で、マリアージュが使っていた養蜂家の蜂蜜とは違う。産地が違えば甘さも違う。マリアージュは産地ごとの甘さの差を舌で把握して、毎回味見をしてから量を決めていた——と、トマスが言っていた。

蜂蜜一つ取っても、そこまで管理していたのか。

壺を棚に戻した。

◇◇◇

食事を終えた。

新聞を——広げなかった。

畳んだまま、テーブルの横に置いた。

向かいの椅子を見た。

空だ。座面の革が擦れている。俺の椅子より擦れが浅い。座っている時間が短かったからだ。

マリアージュは朝食以外の時間に、この椅子にほとんど座らなかった。厨房にいたからだ。俺の食事を作っていたからだ。

俺が新聞の向こう側にいたから——向かいに座る意味がなかったのだ。

今、新聞を畳んだ。初めて。

遅すぎた。

◇◇◇

書斎に戻った。

壁の時計が止まっていた。先月エルザに巻いてもらったが、また止まっている。

立ち上がって、時計の前に立った。裏の蓋を開けた。ゼンマイが見えた。

巻き方がわからなかった。右に回すのか、左に回すのか。どのくらいの力で、何回巻くのか。マリアージュが毎月やっていたことの手順を、俺は知らない。

蓋を閉めた。時計は止まったままだ。九時二十三分。先月と同じ時刻を指している。

離縁届を手に取った。テーブルの上で三ヶ月近く放置していた羊皮紙。パン籠の横に置かれたまま、埃を被り始めていた。

ペンを手に取った。インク壺に浸した。

署名した。

——グレン・ヴァルフォート。

インクが乾くのを待った。羊皮紙の上で、黒い文字が少しずつ色を落ち着かせていく。

これで終わる。八年間の婚姻が、紙の上では終わる。

紙の上では。

◇◇◇

食堂に戻った。灯りを消す前に、壁をもう一度見た。

壁掛けの三番目のフックが曲がっている。

ずっと曲がっていた。マリアージュが二年目の冬に大鍋をぶつけて曲げたフック。「直そう直そうと思って六年が過ぎた」と、マリアージュが出て行く日にエプロンをかけながら言っていた。

曲がったまま、残っている。

直す人間がいない。マリアージュがいない。俺にも直せない。どう曲がって、どう直せば元に戻るのか、大鍋をぶつけた記憶が俺にはないからわからない。

フックは曲がったまま、何もかかっていない。エプロンは持って出た。あの白いリネンの、左の裾に小さな油染みがあったエプロンは、もうここにはない。

灯りを消した。

暗い食堂に、止まった時計の沈黙と、曲がったフックと、空の椅子が残った。

窓の外で、風の音がした。冬の最初の風かもしれない。

蝋燭の煙が、暗がりの中でゆっくりと消えていった。