作品タイトル不明
第8話 社交界の値段
王都の夜会に出たのは、四十五日ぶりだった。
馬車を降りた時点で、空気が違うとわかった。いつもなら門前で声をかけてくる顔見知りの伯爵が、今日は目を逸らした。視線はあった。あったが、逸らした。あの男は俺と目が合ったら必ず「やあ」と手を上げる男だ。それが、逸らした。
会場に入った。シャンデリアが眩しい。蝋燭が何百本も灯されていて、天井の装飾が金色に光っている。楽団が何かを演奏している。聞き慣れた旋律。
俺に近づいてくる男が、いつもの半分だった。
取引の話を持ちかけてくる商人もいない。冬の社交シーズンの招待状も、例年より三割減った。エルザが「今年はお招きが少のうございます」と淡々と報告していたのは、これのことだったか。
「ヴァルフォート伯爵。お久しぶりですな」
声をかけてきたのはランベール侯爵だ。太った男で、手に持ったワインの杯が小さく見える。酒の匂いがすでに強い。
「ご夫人が出て行かれたそうで」
直球だった。社交界の男にしては珍しい。普通はもう少し遠回しに探る。
「ああ」
「大変ですなぁ。あの奥方は評判が良かったですからな。うちの妻も、ヴァルフォート夫人の収穫祭の料理を一度食べたいと言っておったが」
知らなかった。マリアージュの料理の評判が社交界にまで届いていたことを。収穫祭の料理が話題に上がるほど、マリアージュの名は知られていたのか。
「まあ、男は台所のことはわからんものですな。ははは」
ランベール侯爵は笑って去っていった。
男はわからない。台所のことは。
その通りだ。反論のしようがない。
◇◇◇
夫人たちの視線は、もっと厳しかった。
俺に向けられる目ではない。俺の隣にいるナディアに向けられる目だ。
ナディアは薄い桃色のドレスを着て、いつもの笑顔を保っていた。背筋が伸びている。社交界で三年間生き残ってきた女の、完璧な姿勢。顎の角度。微笑みの深さ。全部、計算されている。
だが彼女に話しかける夫人は、一人もいなかった。
遠巻きに見ている。扇の陰で何か囁いている。聞こえないふりをしたが、「後釜」という言葉が扇の隙間から漏れていた。「愛人に負けて追い出されたんですって」。事実と違う。マリアージュは自分から出た。だが噂にそんな区別はない。
ベルモント伯爵夫人が俺の前を通り過ぎた。あの夫人はマリアージュと親しかったはずだ。夜会で何度か話しているのを見た。何を話していたかは知らない。
ベルモント夫人は俺を見て、微笑んだ。微笑んだが、目は笑っていなかった。
「伯爵。お一人ですか。……ああ、ブランシュ嬢がいらっしゃるのね」
それだけ言って通り過ぎた。ナディアの名前を呼ぶ時の声に、棘があった。ナディアは気づいたはずだ。気づいて、笑顔を崩さなかった。
三年間、こういう空気の中を歩いてきた女なのだ。
夜会の終盤。隅の席で酒を飲んでいると、若い伯爵が隣に来た。
「ヴァルフォート殿。失礼ですが——奥方が管理されていたアレルギー対応のノートのようなものは、お手元にありませんか。実はうちの息子も食物アレルギーがありまして、奥方のお知恵を借りたいと妻が」
ノートは、マリアージュが持って出た。
「ない」
「そうですか。……それは残念です。奥方のアレルギー管理は、社交界でも評判でしたので」
社交界で、評判だった。
俺が知らなかっただけで、マリアージュの仕事は外から見えていた。見ていなかったのは、一番近くにいた俺だけだった。
◇◇◇
帰りの馬車の中で、ナディアが泣いた。
声を出さなかった。窓の外を向いたまま、肩を小さく震わせていた。暗い馬車の中で、街灯の光が断続的に差し込むたびに、頬の濡れが光った。
俺は何も言わなかった。言葉が見つからなかった。
「……大丈夫ですわ」
ナディアが先に口を開いた。鼻声だった。
「慣れていますの。こういうのは」
三年間、愛人として過ごす間にも、似たような視線を浴びていたのだろう。社交界の女たちは容赦がない。「あの方の愛人よ」という囁きの中を、三年間、笑顔で歩いてきた。
それを知っていて、俺は何もしなかった。三年間。
マリアージュにも、何もしなかった。八年間。
二人の女に対して、俺がやったことは同じだ。——何もしなかった。
◇◇◇
五十日目の夕食。
トマスが新しいスープを出してきた。玉葱と鶏肉の、オーソドックスな仕立てだ。湯気が立ち上っている。
一口飲んだ。
不味くはない。トマスは着実に腕を上げている。蕎麦粉の一件以来、食材の選定も慎重になった。調理の工程も丁寧になっている。
だが、足りない。何かが足りない。
二口目。三口目。
口の中でスープを転がした。塩加減は悪くない。出汁も出ている。温度も——今日はそこそこいい。前よりぬるくない。
何が足りないのか。舌の奥で、ずっと探している。二ヶ月間、毎食探している。
——蜂蜜。
口をついて出た。無意識に。
「蜂蜜」
トマスが振り向いた。
「旦那様?」
「スープに——蜂蜜を入れていなかったか。あいつは」
トマスの目が見開かれた。
「……入れておりました。奥様は、スープの仕上げに蜂蜜をほんの少しだけ。量は……奥様しかご存じありませんが」
蜂蜜の味を、俺の舌が覚えていた。
八年間、「ああ」と言いながら飲んでいたスープの中に、蜂蜜が入っていたことを。味としては認識せず、ただ「いつもの味」として舌に刻まれていた。
なくなって初めて、気づいた。
「トマス。蜂蜜を入れてみろ」
「量は——」
「適当でいい」
翌日のスープに、蜂蜜が入っていた。
甘すぎた。
舌の上で、違うと即座にわかった。これではない。もっと——かすかに。気づくか気づかないかの境目に、あの味はあった。
「トマス。多い」
「……かしこまりました」
翌日。まだ甘い。その翌日。今度は入っているのかどうかわからない。
「小さじ半分より気持ち少なめ」。マリアージュの精度は、数字では表せない。八年間の舌と手が覚えた量だ。
蜂蜜の壺を棚に戻した。手が少し乱暴になっていた。壺が棚板にぶつかって、がちんと音を立てた。
何だ、これは。何に苛ついている。蜂蜜か。トマスか。マリアージュか。
違う。違う。そうじゃない。
蜂蜜の量がわからない。食卓の味が戻らない。社交界で顔が立たない。全部が、自分の都合だった。自分の面子と快適さの問題だった。
苛つきの正体はそこだ。思い通りにならないことへの、ただの苛立ち。
マリアージュが八年間何をしていたかへの感謝は。まだ、なかった。
まだ、そこまで辿り着いていなかった。