軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

本編その後番外編【海と少年とハネムーン】⑧

私たちが伯爵邸に用意された貴賓室に戻ると、中ではすでにノアが待っていた。

とっくに会議を終えていたらしいノアは、長い足を組み、お茶を片手に本を読んでいる。分厚い本は終わり近くまできているようだった。

パラリ、パラリとページをめくる音がやけに部屋に大きく響く。その間、私は肩身の狭い思いで立ち尽くしていた。

やがて最後のページにたどり着き、パタリとノアは本を閉じると、私を振り向きにこりと笑顔を作った。

「随分とゆっくり羽を伸ばしてきたみたいだねぇ。僕の可愛い小鳥は」

「ノ、ノア様……」

まるで温度を感じない笑顔に背筋が凍る。触れればその鋭い冷たさに切り刻まれてしまいそうだ。

怒っている。魔王が笑顔の下で怒りを静かに。

「確かに僕はゆっくりしていてと言ったけどね。こんなに遅くなるまで、一体どこを飛び回っていたのかな?」

「その、私もこんなに遅くなる予定ではなかったのですが、何というか、色々ありまして……」

「今夜のパーティーが終われば予定は何も入れていないから、明日から君とふたりで海を眺めたり街に出かけたり、のんびりと過ごすつもりだったんだけど……」

わざとらしいほど緩慢とした動きで足を組み直し、気だるげに肘をついて、ノアが笑顔のまま首を傾げる。

「君は僕がいないうちにひとりで全部楽しんでしまったのかな?」

「う……」

どうしよう。本気だ。ノアが本気で怒っている。

私は今更焦っていた。恐らく私は、どこか楽観視していた。

遅くなったことを怒るかもしれないけれど、ノアならきっと許してくれる、と。そんな甘えた予測をしていたのだ。

私のそんな不誠実さも彼には見抜かれているのではないか。そう考えると、焦燥感は強くなる一方だった。

ノアの気持ちを軽視するつもりはなかった。だが結果だけを見るとそうなってしまう。

浅はかだった。そう言うしかない。

誠意をもって謝ろう。そう決めて一歩踏み出そうとした時、ノアは殊更明るい声で言った。

「ああ、ひとりじゃなかったか。侍女とヴィンセント卿も一緒だったね」

「ノア様……」

私だけでなく、背後でケイトたちが息を飲むのが伝わってきた。

はっきりと線を引かれたのを感じた。

分厚く固い壁が見える。触れもしない、しかし明らかな拒絶。

その壁が怒りだけで作られたわけではないことが伝わり、私の胸は罪悪感で押しつぶされそうになった。

せっかくの新婚旅行なのに。私は何をしているのだろう。

「本当は……」

私は俯き、懺悔するように胸の前で両手を握りしめた。

「今日は、下見のつもりだったのです。明日からノア様とどう過ごそうか考えて、どこに良いお店があるか、どこで食事をとればいいか、どこで休憩できるか軽く調べておこうと思って。そうしたら、私がノア様をエスコート出来ますから……」

海岸、賑わう街道、品ぞろえの良い土産物屋、美味しい郷土料理を振舞う店。どこを訪れる時も、ノアのことを考えていた。

ノアをここに案内したい。ノアはどんな顔をするだろうか。ノアもきっと喜んでくれる。

自分でもあきれるくらい、ノアのことばかりを考えていた。

「私とは違い、ノア様は何だかんだこちらでもお仕事があるようでしたので、計画を立てるのは私の役目だと思ったのです」

はりきっていた。その分冷静ではなかったかもしれない。

ケイトたちが私に強く言えないことはわかっていたのだから、自分でブレーキを踏めるようにしていなければならなかったのに。

自分が情けなくなる。王太子妃失格だ。

「これ……お土産です」

私は持っていた箱をノアに差し出した。

アーサーに案内してもらった店で購入した、ノアへのプレゼントだ。

「この辺りでしか採れない、希少な貝の首飾りです。きっとノア様に似合うと思って選びました」

ノアが普段つけているような高価なものではないけれど、どこか品があり、神秘的で、彼にぴったりだと思ったのだ。

この首飾りをつけたノアが見たい。どんな顔をして喜んでくれるだろうか。

そんなことを考えている間、ひとり勝手に幸せを感じて浮かれていた。ただのオリヴィアとして、愛する人のことだけを考えていられる時間は満たされていた。

「私もちゃんとノア様のことを考えていたつもりでしたが……」

でもそれは、私だけの話。

私がノアを一方的に思って楽しむよりも、ふたり一緒に過ごしたほうが、お互いが同時に幸せになれる。そんな簡単なことがわからなかった。

「私が、身勝手でした。申し訳ありま――」

頭を下げる途中で、勢いよく体を抱き寄せられた。

ノアの温もりに包まれて、後悔と自己嫌悪、それから安堵でぐちゃぐちゃだ。

浮かんだ涙が次々と、彼の胸に吸い込まれていく。

「ごめんなさい……ノア様」

「ごめん! 謝るのは僕のほうだ!」

私を力いっぱい抱きしめながら、ノアが叫ぶ。

焦ったような声に、私は嗚咽をこらえながら首を振った。

「ノア様は何も悪くありません」

声を絞り出した私の頬を、ノアが両手で包みこみ、顔を覗き込んでくる。

「お願いだ……ノアと呼んでくれ」

「……ノア」

「ああ、愛しいヴィア。君にそんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。許して」

どうしてノアが泣きそうな顔をしているのだろう。

私だって、彼にそんな顔をさせたかったわけじゃない。

「でも、怒っているでしょう? 私にがっかりしたでしょう?」

「怒ってないよ。がっかりなんて、するわけない。ただ……ちょっと君の周りの存在に嫉妬しただけなんだ」

私の背後で「ちょっと……?」と呟く疑わしげな声がいくつか聞こえたような気がしたけれど、今はそれどころではない。