作品タイトル不明
第百十一話「長崎暗闘編―月琴と篆刻」
一
大浦慶の声が座敷の空気を揺らしてから、しばらくの間、油屋の奥座敷には不思議な静けさが満ちていた。
長崎の初夏は、息が詰まるほど湿気がこもる。窓の外、大浦の坂の石畳に反射する陽光は、すでに刺すような白さを帯び始めており、部屋の中にまで薄く黄色い熱を運んでいた。
どこかの厨房から漂う胡麻油の香りと、慶が燻らせる煙管の紫煙が混じり合い、座敷の隅でゆっくりと渦を巻いている。遠くからは、製鉄所の「ガシャン、ガシャン」という金属音が、絶え間なく鳴り続けていた。
大浦慶は、膝の上に置いた書状を、指先で丁寧に折り畳んでいた。その動作は、先ほどまでの激情が嘘のように、静かで、しかし確固としていた。
乾いた音を立てて折り目が入るたびに、慶の口元に、何とも言えない笑みが浮かんでは、消えた。
長次郎と惣之丞は、互いに体を寄せ合うようにして座っていた。二人ともまだ、さっきまでの慶の凄まじい気迫から完全には立ち直れていない。
長次郎などは、口を半開きにしたまま、ときおり惣之丞の袖を引っ張って何か耳打ちしようとするのだが、言葉が出てくる前に喉が詰まるらしく、また黙り込んでしまう。
惣之丞は惣之丞で、懐の煙草入れをいじりながら、視線を宙に漂わせていた。
そんな二人の様子を横目に見ながら、小野寺順平は静かに帳面を開いた。
パチン…と鉛筆を取り出す音が、座敷の静寂を小さく割った。その音で、一同の視線が順平に集まった。
小野寺順平という人間は、見た目は至って地味である。背は龍馬より頭一つ低く、色白で、眉の薄い、どちらかといえば書生風の面立ちをしている。
剣の修行で体を鍛え上げた高田陽三郎とも、豪放な気配を漂わせる龍馬とも、どこか趣が違う。しかし、この男が帳面を広げて鉛筆を走らせ始めると、部屋の空気の質が微妙に変わる。数字を扱う人間特有の、無駄を一切省いた集中力が、そこから発散されるのだった。
「まず、 身形(みなり) から整えましょう」
順平が言った。声は抑えてあるが、明確だった。
「身形?」
長次郎が、眉を寄せた。
「はい。近藤殿、沢村殿。二人の現在の衣は——」
順平は帳面から顔を上げ、二人をしげしげと眺めた。その視線は、商品の目利きをする商人のように、冷静で、一切の感傷がなかった。
「失礼ながら、油屋の奉公人にしか見えません。いや、それ以下かもしれない」
「こら、何ちゅう言いようじゃ!」
長次郎が即座に反論した。惣之丞も、むっとした顔で順平を見る。
「事実を申しております。二人には本日より、天朝物産会所長崎支部の代官として動いていただく。代官が奉公人の身なりでは、話の入り口から相手に舐められます。
大浦殿に紹介していただく商人や、居留地の外国商人と対峙する時、衣装というのは言葉と同じく武器です。むしろ最初の武器です」
順平は、懐から一通の書付を取り出し、長次郎の前に静かに置いた。
「これが、姫様から二人への給金の目録と、初期費用の手形です。月四両。それに加え、長崎・大坂間で即時引き換え可能な天朝為替手形が三十両分、同封されております。まずこの三十両の一部を、衣の仕立てに使ってください」
長次郎と惣之丞が、同時に書付を覗き込んだ。
一拍おいて——二人の顔色が変わった。
三十両、という数字が、二人の目に入った瞬間のことだった。
長次郎の喉から、かすかな、音にならない声が漏れた。
惣之丞は膝の上に置いていた煙草入れを、音を立てて畳に落とした。
「……さ、三十両……?」
惣之丞が、ひっくり返った声で言った。
「あ、あの……これ、わしら二人に、ということじゃろか?」
「初期費用ですので、二人でお使いください。衣装代と、当面の活動資金です」
順平は、帳面に何かを書き付けながら、淡々と答えた。
龍馬は、その様子を座敷の端からにやにやしながら眺めていた。ちらりと高田を見ると、高田も珍しく、口の端がかすかに上がっていた。
「こ、これは……」
長次郎は、書付を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。三十両。
長崎の物価を考えても、一介の浪人が半年以上、食うや食わずで稼いでようやく手が届くかどうかという金額だ。それが、目の前に、紙切れ一枚として、さらりと置かれている。
その感覚を、順平は「札束で頬を叩かれるようなものだ」と、内心では思っていた。しかしそれを口に出すほど、この男は無粋ではない。
「誤解しないでください」
順平は鉛筆を止め、二人を正面から見た。
「これは施しではありません。恵みでもない。京の巨大資本が、長崎に打つ楔の、その先端部分に立つ者への、投資です。あるいは——お召し物代、とでも呼べばいいかもしれない」
「お召し物……代?」
「はい。あなた方はこれから、坂本殿の補佐として、大浦殿の紹介を携え、長崎の商人や外国商人と直接交渉に当たることになる。
その際、あなた方の衣は『天朝物産会所』という看板そのものになる。安普請では、看板が泣く。だから、最高のものを着ていただく。それだけのことです」
順平の言葉は短く、しかし、一音も無駄がなかった。
長次郎は、じっとその言葉を噛み締めた。隣で惣之丞が落とした煙草入れを拾い上げ、ふうと息を吐いた。
「……わかった。小野寺殿の言う通りじゃ」
長次郎が、静かに言った。その目の奥に、何か、火のようなものが点った。
「わしらは、ボロを脱ぐ。でも——」
長次郎は、龍馬を見た。
「龍馬。わしらは、いつまでも土佐の者じゃきに」
「分かっちゅうきに」
龍馬は、にっと笑った。
「土佐の魂は、どんな衣を着ても変わらん。じゃが——その魂を、世の中に示す方法は、何も一つじゃないきに。長次郎、惣之丞。わしらは今日から、長崎の海に網を張る蜘蛛になるぜよ」
大浦慶が、その言葉を聞いて、煙管をぽんと叩いた。
「坂本さん、ええことを言うたね」
慶は立ち上がると、長次郎と惣之丞を順繰りに眺め、それから奥の廊下に向かって声を張り上げた。
「おーい、お美代! お美代、いるね!?」
「はい、ここにおります」
廊下の向こうから、女中の声が返った。
「今日中に、仕立屋に連絡ばしてくれんね。上等の絹、しかも京から取り寄せたやつ。この二人の男衆に、一式ずつ揃えてもらわにゃならんけん。急いでもらいたい。分かった?」
「かしこまりました」
「あ、それと——」
慶が付け加えた。
「小野寺さん、衣の種類は、何を指定しなさると?」
順平は帳面から顔を上げ、一言で答えた。
「京風の最高級絹で、お願いします。長崎の商人とは、一目で質が違うと分かるものを」
女中の「はい」という声が遠ざかっていく。
長次郎と惣之丞は、再び顔を見合わせた。今度は、震えではなく——何とも言えない、複雑な表情だった。困惑と、屈辱と、しかしその奥底に、じわりと燃え上がりつつある、何か熱いものの混じった顔。
龍馬は、その顔を見て、胸の中でそっと呟いた。
(よし。火がついたがよ)
二
翌日の午前。
長崎の空は、前日にも増して白く晴れ渡っていた。海からの風が石畳の坂道を上ってくるたびに、潮の香りと、どこかの樹木の青葉の匂いが混じり合って通り抜けていく。
その風は、心地よいというより、少し甘ったるい熱気を含んでいて、初夏の長崎特有の、むっとした生温かさがあった。
龍馬、高田、小野寺、そして昨日とは打って変わった姿の長次郎・惣之丞の五人は、南山手の丘の方角へ向かって、坂道を登っていた。
長次郎と惣之丞の衣が、朝の光の中でひと際目を引いた。深い紺色と鼠色の、上質な絹の着物。帯の締め方から袖の折り具合まで、大浦慶の女中たちが丁寧に整えたそれは、昨日までの薄汚れた浪人の身なりとは別人のようだった。
二人とも、どこか落ち着かなさそうに、ときおり袖を引っ張ったり、帯の位置を確かめたりしている。
「なんか、くすぐったい感じがするぜよ……」
長次郎が、小声でぼやいた。
「慣れい」
龍馬が、あっさりと返した。
「でも龍馬、お前はそのままじゃき」
「わしはこれでいい。わしの仕事は、おまんらとは違うきに」
龍馬の衣は、昨日と大差なかった。浪人風ではあるが、どこか飄々としたその身なりが、彼の場合は却って人を引きつける。
「場に溶け込まない」ことが、龍馬という人間の最大の武器だった。
高田陽三郎は、一行のやや後方を、静かに歩いていた。一見、足取りは穏やかだが、その目だけが、路地の向こう、屋根の上、行き交う人の顔——あらゆる場所を、絶え間なく、しかし目立たないように確認している。
小野寺は龍馬の隣に並び、懐の帳面を時折確認しながら歩いていた。
「小曽根邸は、この先ですね」
「そうじゃ。南山手の丘、大浦天主堂の裾野あたりじゃ」
大浦天主堂の白亜の姿が、坂の上に見え始めた頃、龍馬の鼻腔に、かすかな香りが届いた。
花ではない。線香でもない。どこかで焚かれている—— 沈香(じんこう) の、深く静かな薫り。
小曽根邸は、遠目から見ても、他の商家とは趣が違っていた。
長崎の豪商の邸宅というのは、概して、唐風の影響を受けた重厚な造りをしていることが多い。しかし小曽根邸は、その重厚さの中に、どこか文人の繊細さが滲んでいた。門構えは立派だが、過度な飾りがない。
門扉の脇の柱には、小ぶりの篆刻が施された表札がかかっていた。「小曽根」の二文字が、力強く、しかし品を失わず彫り込まれている。
龍馬は、その表札を眺めながら、ふうと息を吐いた。
(小曽根乾堂。勝先生が惚れ込んだ男じゃと言うとった。じゃが——)
門の外から見ても、邸内の空気は、容易に人を寄せ付けない何かを帯びていた。
その時、高田が龍馬の袖を、ごく軽く引いた。合図だった。
龍馬は高田の目線を追った。
邸の周囲——塀の角に立つ人影。路地に面した茶屋の軒先に座る男。向かいの商家の暖簾の陰に、何気なく寄りかかる人物。
どれも、普通の町人のように見える。しかし、高田の目には、それが分かる。
(奉行所の目付じゃ……)
龍馬は内心で舌打ちした。三方向から、少なくとも四人。
こんな密度で邸を囲んでいるということは——乾堂は相当、奉行所に目をつけられている。
龍馬は、何事もないように、門扉に近づいた。
番人が、すぐに立ちはだかった。三十がらみの、がっしりとした体格の男だ。
「何の御用で」
「勝海舟先生の御紹介で参った者じゃ。坂本龍馬と申す。小曽根乾堂殿にお取り次ぎを願いたい」
番人の顔色は、微塵も変わらなかった。
「旦那様は、本日、お客を取りません。難聴のご不調も続いておられ、異客との面会は一切お断り申しております」
「じゃが、勝先生のご紹介じゃきに——」
「いかなるご紹介も、同様でございます。お引き取りください」
番人は、深々と一礼した。丁寧ではあるが、一切の揺らぎがなかった。これは、一度や二度ではない、繰り返し練習された対応だと、龍馬は直感した。
五人は、門の前で立ち往生した。
長次郎が、小声で龍馬の耳に口を寄せた。
「どうする? 強引に?」
「あかん」
龍馬は即座に首を振った。
「今、わしらの周りに目付が四人おる。ここで強引なことをしたら、捕縛される前に、乾堂殿の面会どころか、長崎に居られんようになるきに」
「ほんとか……」
惣之丞が、さりげなく周囲に目を走らせた。確かに——言われてみれば、妙に人の動きが少ない。通り過ぎる人間が、皆、自然すぎるほど自然に歩いている。
「どうするんですか、坂本殿」
小野寺が、帳面を持ったまま、静かに聞いた。
龍馬は、腕を組んで、しばらく考えた。
その時だった。
門の奥から——かすかな音が、聞こえてきた。
弦の音だった。高く、しかし芯のある、澄んだ弦の音。何本もの弦が重なって、独特の旋律を奏でている。
それは龍馬が聞いたことのある音楽とは、全く異なっていた。どこか中国風でありながら、しかし日本の雅楽とも違う、不思議な、懐かしいような、遠いような音だった。
高田が、静かに言った。
「 明清楽(みんしんがく) です」
「なんじゃ、それは」
「大陸から伝わった音楽です。長崎では、唐館の人間だけでなく、地元の文人たちも嗜む。主に 月琴(げっきん) という弦楽器で奏でます。あの音は——月琴の音です」
龍馬は、その音に耳を澄ませた。
門の奥から、月琴の旋律は絶えることなく流れ続けていた。それは演奏というより、思索しながら弦を爪弾いているような、自由で、しかしどこか孤独な音だった。
龍馬の脳裏に、船上で勝海舟から聞いた話が蘇った。
(そうじゃ——勝先生は言っちょった。「乾堂はな、儂が伝習所にいた頃から、明清楽に惚れ込んでいてな。危機の時に使う、符牒があるんだ」と——)
龍馬は、懐を探った。
三
龍馬は、二歩だけ、門の前に進み出た。
番人が「お引き取りを」と言いかけた。龍馬はそれを、軽く手で制した。
「何も無理を言わんきに。ただ、少しだけ待ってくれ」
そして、静かに——唇を、軽く尖らせた。
口笛だった。
しかしそれは、普通の口笛ではなかった。特定の音程と、特定のリズムで紡がれたその旋律は、門の奥から漏れ聞こえる月琴の音と、不思議な形で溶け合い始めた。まるで、月琴の旋律に対する、問いかけのように。
長次郎が、あっけにとられた顔で龍馬を見た。
「……龍馬、それは何じゃ」
「符牒じゃ」
龍馬は、口笛を吹きながら、短く答えた。
番人が、訝しげな顔をして、龍馬と門の奥を交互に見た。
月琴の音が、変わった。
旋律が、わずかに止まった。一拍の沈黙。そして——応えるように、同じ音型が、月琴から返ってきた。
龍馬の口笛が、止まった。
沈黙。
番人が何か言おうとした、その時。
邸内から、足音が近づいてきた。
門扉が、静かに開いた。
現れたのは、六十がらみの男だった。
その人物を見た瞬間、龍馬は直感した。これが小曽根乾堂だと。
乾堂は、背筋の伸びた、細身の男だった。白髪交じりの頭髪を丁寧に整え、薄墨色の着物に、書家らしい墨の染みが袖に一筋残っている。指が長く、節くれだっていた。篆刻と書の積み重ねが、その指に刻み込まれていた。
その目が——問題だった。
乾堂の目は、静かで、しかし恐ろしく鋭かった。難聴という、世界との一つの繋がりを欠いた分だけ、この男の目は、人の細部を見抜く能力を研ぎ澄ませてきた。その視線が、龍馬を、上から下まで、一瞬で舐め回した。
「……勝安房守の弟子か」
乾堂の声は、低く、かつ、妙に平板だった。難聴の人間が自分の声の抑揚を調整するのに、独特の労力を要しているのだと、龍馬には分かった。
「わしは坂本龍馬と申す。勝先生のご紹介と、勝先生からの書状を持参しちょります。お会いしていただけませんろうか」
乾堂の目が、細くなった。
「勝先生の不躾な弟子め」
声に、刺があった。
「その符牒を、どこで知った」
「伝習所の頃、先生が直接教えてくださいましたぜよ」
「ほう……」
乾堂は、龍馬の顔を、また見た。その目の奥で、何かが計算されていた。そして——視線が、龍馬の背後にいる四人へと移った。
龍馬の護衛たちを見る目が、わずかに変わった。高田の佇まいを、一瞬、注意深く観察した。
「……私を奉行所の生贄にしに来たのか」
それは問いというより、告発に近かった。
「いんや。全く逆じゃ」
龍馬は、まっすぐに答えた。
「詳しい話は、中で。表でしていい話じゃないきに」
乾堂は、しばらく龍馬を見ていた。
沈黙は、十秒ほどだったろうか。門の外から見ていた龍馬には、その十秒が、妙に長く感じられた。製鉄所の音が、遠くで鳴り続けている。
やがて、乾堂は無言で門の内側に引き返した。
番人が、困惑した顔で乾堂を見た。乾堂は振り向かず、低く言った。
「通せ」
四
通された部屋は、邸の奥まった場所にある書斎だった。
一歩入った瞬間、空気の密度が変わる気がした。それは、無数の書と物が積み重なった部屋特有の、圧縮された沈黙だった。
棚には書が所狭しと並んでいた。中国の古典、蘭語の書物、日本の地図、そして、無数の印影が捺された半紙の束。
机の上には、篆刻に使う石材が幾つか置かれ、傍らに朱肉の入った小さな皿。部屋の隅には月琴が立てかけてあり、弦の一本がまだかすかに振動しているように見えた。
部屋の中央に、奉行所の役人が一人、すでに座っていた。
龍馬は、その男を見た瞬間、内心で「まずい」と思った。
男は三十代の後半、肉付きのよい、眠たそうな顔をしていた。だが、眼光だけは油断ならない。着物の家紋から、奉行所の 目付(めつけ) ——つまり、監察の役人だと分かった。
「商談の検分として、同席させていただきます」
男が、愛想よく言った。
龍馬の横で、高田の気配が微妙に変わった。長次郎と惣之丞は、顔を強張らせた。
乾堂は、その場に座って、煙草盆を手元に引き寄せながら、静かに言った。
「この者たちは、私への来客だ。何の商談かは、追って報告する」
「はあ、しかし——」
「追って、と言った」
乾堂の口調は穏やかだったが、相手は黙った。
龍馬は、まず、懐から一通の書状を取り出した。勝海舟からの書状である。
乾堂は、受け取って、目を走らせた。その目が、わずかに和らいだ。
「先生は、お変わりなく?」
「江戸でお元気でした。先生も、大浦殿と並んで、乾堂殿を頼れと言うちょりましたきに」
「ほう」
乾堂は、書状を丁寧に置いた。その仕草に、勝への深い親しみがにじんでいた。
龍馬は続いて、二通目を取り出した。
乾堂の視線が、封書の上で止まった。封書の表書きに、「堀田備中守正睦」の名がある。
目付の役人が、ぴくりと反応した。それを龍馬は見逃さなかった。
乾堂が、封書を受け取り開いた。
読み進めるにつれ、乾堂の表情に変化が生じた。最初の静かな顔が——何か、内側で計算が走っているような、複雑な緊張へと変わっていった。
読み終えた時、乾堂は書状を机に置き、目を閉じた。
一拍。
そして目を開けた。
「堀田様からの書状か」
その声に、さっきまでとは異なる重みがあった。老中首座。開国日本の最高峰の政治家として、国際情勢に通じた乾堂が、最も格式を認める名の一つが、そこにあった。
しかし——次の瞬間、乾堂の眉が、微かに寄った。
「坂本殿」
「は」
「幕府の権威で、この長崎の商人を従えようというのか」
乾堂の声が、低くなった。
「堀田様は、いかに老中首座の身であれ、江戸の役人。長崎会所の利権を貪る幕府の勝手な都合に過ぎぬ。そのような方の書状は——奉行所への言い訳には、確かになろう。しかし、私の心を動かす地金には、なるまい」
龍馬は、その言葉を、正面から受け止めた。
乾堂は間違っていない。堀田正睦様の名は、確かに長崎奉行に対しては圧力になる。
しかし、この男の心は——政治的な安全保障だけでは、動かない。
乾堂は、文人だ。
そしてこの場には、もう一つ切り札がある。
龍馬は、深く息を吸った。
五
龍馬が懐に手を入れた時、乾堂の目が、わずかに動いた。
取り出したのは——予想外のものだった。
書状でも、書付でも、証明書でもない。
それは、小さな布袋だった。白い絹の袋の口を解くと、中から現れたのは、半分ほどの大きさの、 白玉(はくぎょく) だった。磨いた玉石の、柔らかく光る白さ。印材——篆刻に使う石の素材だった。
そして、それに添えられた一枚の薄紙。
乾堂の目が、白玉に吸い寄せられた。
篆刻家にとって、良質の白玉印材は、それ自体が美術品だ。乾堂の長い指が、思わず、白玉に向かって伸びかけた。そして止まった。
「……これは?」
「我が主、近衛家の姫君様より、乾堂殿へのご贈物じゃ。もう一つ、薄紙もある。そちらを先に見てつかぁさい」
乾堂は、白玉から目を離さないまま、しかし薄紙を手に取った。
広げた。
そこに書かれていたのは——二種類のものだった。
一方は、音楽の符号だった。明清楽の特殊な記譜法である「 工尺譜(こうしゃくふ) 」で書かれた、龍馬には全く読めない記号の羅列。しかし乾堂は、それを見た瞬間に、目を見開いた。
もう一方は——数字だった。几帳面な、細かい文字で書き込まれた数字の列。収入と支出が、二列に並んでいる。
乾堂の顔が、血の気を失っていくのが、龍馬の目にも見えた。
目付の役人が、首を伸ばした。
「何が書いてありますか」
乾堂は、その問いに答えなかった。
その数字の列は——小曽根家の…表には出ていない取引の記録だった。清国との密貿易。幕府の長崎会所を通さない唐物の流通。
奉行所がずっと掴もうとして、掴みきれていない「裏の帳簿」の内容が、そこに、ほぼ完全に記されていた。
しかも——複式簿記の形式で。
江戸の…一橋上屋敷にいる公家の姫君が、長崎の海の向こうの数字を、江戸にいながらにして、正確に逆算してみせていた。
「……」
乾堂は、しばらく、薄紙を見つめたまま動かなかった。
目付の役人が、再び口を開こうとした。
その時、乾堂が動いた。
月琴を手に取った。
素早く、しかし自然に。まるで、それが当然の次の動作であるかのように。
六
乾堂が月琴を構えた瞬間、目付の役人が眉を上げた。
「あの——その紙は——」
「ただの楽譜だ」
乾堂が、遮った。
「新しい曲の、譜面だ。見て分かるだろう」
目付の役人は、確かに楽譜らしき記号が書き連ねられているのを見て、少し迷った顔をした。
「しかし、もう一方の数字は——」
「 楽理(がくり) の符号だ。私の流儀での記法だから、分かる者には分かる」
乾堂は、それだけ言って、月琴を爪弾き始めた。
最初の一音が、書斎に満ちた瞬間、龍馬は感じた。空気の密度が変わった、と。
乾堂が奏でているのは、薄紙に記されていた工尺譜の音楽だった。
一つ一つの音が積み重なるにつれ、不思議なことが起きた。弦の音の重なりが、書斎の柱や壁、庭の石組みで反響し、ある特定の周波数の「雑音」を作り出していく。
それは、室内に聴いている者の耳には、美しい旋律として届く。しかし——
高田が、ごく小さく、龍馬の耳に囁いた。
「外で聴いている者には、これは——雑音か、あるいは何も聞こえないかのどちらかになります。庭の石組みの配置を計算した上で、反響が外に漏れる音を打ち消すよう、音程と強弱が設計されている。これは——」
高田は言葉を止めた。
龍馬は分かった。
糸子が指定したこの楽譜は、単なる音楽ではなかった。小曽根邸の庭の構造を事前に把握した上で、その反響特性を計算し、月琴で演奏された時に「外の盗聴者の耳に届く音を相殺する」よう設計されていた。
つまり——今、この書斎での会話は、外にいる目付の仲間たちには、全く聞こえていない。
目付の役人自身は邸内にいるが、乾堂の月琴の音に集中しているせいで、会話に意識が向いていない。
乾堂の指が、弦の上を走った。
その目が——月琴から離れ、龍馬を見た。
鳥肌が立っていた。
乾堂の腕に、袖の下から見える鳥肌が、龍馬にも分かった。この六十がらみの文人が、今、初めて震えていた。
それは恐怖だった。
自分が奉行所に隠し続けてきた密貿易の帳簿を、江戸にいながら完全に見通した「何者か」への、底知れない恐怖。
そして——同時に。
その「何者か」が、この音楽の楽譜を通して、自分の安全を守る術まで、先回りして用意してくれていることへの。
圧倒的な、戦慄を伴った感動。
七
月琴の音が、書斎を満たし続けている。
乾堂は弦を爪弾きながら、もう一方の手で——机の上の硯に、さらりと筆を浸した。
そして、白紙に、漢字を走らせた。
乾堂は龍馬に、それを差し出した。
『近衛の姫は何を望む。私を幕府に売るか。それとも操り人形にするか』
龍馬は、その文字を見た。
乾堂は、恐れていた。それは当然のことだった。自分の裏帳簿を握られた人間が、次に考えるのは脅迫だ。そして、脅迫の先にあるのは、従属か、あるいは破滅か。
長次郎と惣之丞は、息を詰めて二人を見守っている。小野寺は帳面を膝の上に置いたまま、ペンを止めて待っていた。高田は、目付の役人の動きを視野の隅で監視しながら、じっとしていた。
龍馬は、筆を取らなかった。
代わりに——乾堂の目を、まっすぐに見た。
月琴の音が、書斎に満ちる中。龍馬は、声ではなく、唇の動きだけで、言葉を形作った。難聴の乾堂が長年かけて身につけた唇読の技術を、龍馬は計算の上で使っていた。
『売るがじゃない』
唇が動く。
『おまんのその、抜け荷を』
一語一語、はっきりと。
『天下御免の天朝物産という、光に変えに来たがじゃ』
乾堂の月琴を弾く指が、一瞬止まった。
すぐに再開した。しかし、その目は——変わっていた。
乾堂は、ふたたび筆を取った。
今度の文字は、先ほどより、少し震えていた。
『証拠の持ち出しを要求するか』
龍馬は首を振った。
唇だけで答える。
『要らん。姫様は、もうすでに知っちゅうきに。隠す必要がなくなれば——その帳簿は、おまんの武器になる』
乾堂の目が、揺れた。
隠す必要がなくなれば。
その一言の意味を、乾堂は即座に理解した。密貿易を「合法的な天朝物産会所の取引」に組み込んでしまえば、奉行所が押さえようとしている証拠は、もはや証拠でなくなる。
それどころか、朝廷の御用商務として、正面から幕府に突き付けられるものになる。
乾堂は、しばらく、月琴を弾き続けた。
そして——筆を置いた。
代わりに、白玉の印材を、ゆっくりと手に取った。指先で、その滑らかさを確かめるように。
乾堂が、目付の役人に向かって、何でもない顔で言った。
「少し、疲れた。今日はここで失礼しよう」
「しかし——」
「帰れ」
声に、剃刀のような鋭さがあった。目付の役人は、ぱちりと目を開けて、乾堂を見た。しかしその目には、有無を言わさない何かが宿っていた。
役人は、立ち上がった。頭を下げて、部屋を出た。
廊下で足音が遠ざかり——やがて、玄関の引き戸が開閉する音がした。
完全な沈黙が来た。
乾堂は、月琴を置いた。
そして龍馬を見た。今度は、計算もなく、探りもなく。
「……面白いな」
低い声だった。
「私は長崎でずっと、男たちを相手にしてきた。幕府の役人、外国の商人、藩の武士。誰もが私の財布か、私の人脈か、私の安全かを何らかの形で求めてくる。そのたびに私は、何を差し出し何を隠すかを計算してきた。それが商売というものだ」
乾堂は、白玉を机の上に置いた。
「しかし、近衛家の姫君は——私の財布の底を覗いておきながら、私に差し出してきたのは脅迫ではなく、楽譜と印材だ」
乾堂は、小さく笑った。笑い方が、乾いていた。
「文人への侮辱として、私はそれを怒るべきだろうか。それとも——」
その目が、龍馬を見た。
「坂本殿。あなたの主人は、どんなお人だ」
龍馬は、少し考えた。
「……正直に言うがぜよ」
「ええ」
「わしも、最初は怖かったきに。あの方が見通す先が、あまりにも遠すぎて。じゃが——あの姫様は、この日本が好きなんじゃ。それだけは分かる。損得じゃなく、本当に、この国と、この国に生きる者たちが好きなんじゃ。
その上で——手を抜かない。頭を抜かない。全力で、先を見て、準備して、わしらに仕事をよこす」
龍馬の声に、ふだんの軽妙さがなかった。
「おまんを脅すためではない。おまんの力を、この国のために使いたいから、ここまで調べた。そういうことじゃと、わしは思うきに」
乾堂は、長い沈黙の後。
筆を取った。
白紙に、一行書いた。
龍馬に見せた。
そこには、こう書かれていた。
『勝先生のお眼鏡通りだ。坂本龍馬、あなたを信じよう』
八
合意が——形成されつつあった。
乾堂が白玉を手に取り、彫刻刀を引き出した瞬間だった。
廊下から、複数の足音がした。
重い。
規則正しい。
武士の足音だった。
「乾堂殿!」
番人の声が、廊下越しに聞こえた。
「奉行所の御役人様方が、複数お越しになりまして——」
引き戸が、勢いよく開かれた。
長崎奉行所の役人が、三人、入ってきた。その後ろに、さらに二人。手には十手ではなく——刀の柄に手をかけていた。
先頭の役人が、鋭い目で龍馬たちを見た。
「そこの者ども! 京の上等の 衣(きぬ) をまとった不審の浪人が小曽根邸に入ったとの通報を受け、検分に参った! 身分を——」
「不審者?」
その声は、龍馬のものではなかった。
小野寺順平が、静かに立ち上がり、役人の正面に立った。小柄で線の細い男が、帳面を一冊手に持ったまま、動じない顔で言った。
「失礼ながら、通報の内容は誤りです。私どもは京の 意匠師(いしょうし) 。天朝物産会所の衣の意匠を扱う職人衆です」
「なんと!?」
「この衣をご覧ください」
小野寺は、長次郎と惣之丞を前に出した。二人が着ている、深紺と鼠色の最高級絹が、部屋の光の中で艶やかに光った。
「京から特注で仕立てた、天朝物産会所長崎支部への正式納品物。私は経理担当として同行しており、小曽根乾堂様への納品のご挨拶と、衣の確認のため参上いたした次第です」
役人が、眉を寄せた。
「そのような話、事前に何の届けも——」
「届けを要しますか? 商人が商人に挨拶に行くのに、奉行所への届けが必要とは、存じませんでした」
小野寺の口調は、飽くまで丁寧だった。しかし、その言葉の選び方の一つ一つが、役人の論理の穴を突いていた。
役人が、乾堂に視線を移した。
乾堂は——その瞬間に動いた。
難聴ゆえの、彼独自の戦術だった。
「あんだってーーーー!?」
「何をおっしゃっているのかー、さっぱり聞こえませぬーーー!」
大声だった。意図的な、凄まじい大声だった。
九
乾堂の怒声が、書斎の空気を震わせた。
役人たちが、思わず体を引いた。
「え——乾堂殿、私どもは——」
「さっぱり聞こえーん! 私は耳が悪ーい! そのことは奉行所もご承知のはずだーー!」
乾堂は、耳に手を当て、また大声で言った。
「この方々はー! 私が京の近衛家からお招きしーたーー! 最高級の織物を扱うー正当な意匠師ーですぞーー!!」
役人が、当惑した顔で仲間と顔を見合わせた。
「乾堂殿、しかし——」
「なんとー!? 奉行所はー! 私の耳が悪いことを良いことにー! 近衛家をもってお招きした客人をー! 不審者呼ばわりするつもりなのでーすーかーー!!」
乾堂は、机から立ち上がって、さらに一歩、役人の方へ進んだ。難聴の老文人が、これほどの声量で怒鳴り込んでくるとは、役人も想定していなかったに違いない。体格差などものともしない気迫が、乾堂の全身から放たれていた。
「貴殿らはー! 近衛家を愚弄されるおつもりかー!? それともー、難聴の老人をーあざけり笑いーー! 正当な商取引を妨害する罪を犯すおつもりなのかーー!!」
「い、いえ、そのような——」
「ならばー! 帰ーれーー!!」
シン、と静まり返った。
役人たちは、互いを見た。
近衛家の名が出た。それが全てだった。
長崎奉行所の役人とて、朝廷の最高位の家名が出た以上、もはや無下にはできない。乾堂がわざと難聴を誇張し、全てを聞こえていないふりをして大声を出し続けている以上、「不審者」という言いがかりは通用しない。
先頭の役人が、深く一礼した。
「……失礼いたしました。誤認でございました」
一行は、静かに引き上げた。
引き戸が閉まる音がした。
足音が、廊下を遠ざかっていった。
玄関の引き戸が開き、そして閉じた。
沈黙。
長次郎が、長い息を、やっと吐き出した。
「……助かったきに……」
惣之丞は、膝の力が抜けて、その場に座り込みそうになった。
乾堂は、大声を出し続けた反動からか、少し、肩を上下させていた。しかしその口元には、老いた文人の不敵な笑いがあった。
龍馬は、乾堂を見て、笑った。
「さすがじゃのう、乾堂殿」
「ふん」
乾堂は、座り直しながら言った。
「あの時、小野寺殿が先に動いてくれなければ、私の台詞も半分は効かなかった。よくできた若者だ」
小野寺が、表情を変えずに、軽く頭を下げた。
「第一幕に、布石を打っておきました。長次郎殿と惣之丞殿の衣を、わざわざ京風の最高級絹に指定したのは——こういった時のためです。乾堂殿に言い訳をご用意するために」
長次郎と惣之丞が、同時に、自分の着物を見下ろした。
「……この衣が、そういう役目やったかい……」
長次郎が、ぽつりと言った。
「じゃあ——わしら最初から、その『伏線』として着せられていたということじゃろか」
「正確には、そうなります」
小野寺は、あっさりと答えた。
「姫様の書状に、そう書いてありましたので」
龍馬と高田が顔を見合わせた。
乾堂が、その様子を見て、再び、乾いた笑いをした。
「坂本殿、貴殿の主人は——随分と…型破りな御方のようだな」
十
役人たちが去った後の書斎は、不思議な静けさに包まれていた。
乾堂は、机に戻ると、白玉の印材を手に取った。
しばらく、その重さを確かめるように、手の中で転がした。
白玉は、滑らかで、冷たかった。まだ何も刻まれていない、真っ白な石。
「未完成の白玉を送ってくれたのは——つまり、私に彫れ、ということだな」
「そうじゃと思います。姫様の考えでは、この石を彫るのは、乾堂殿でなければならないということじゃろ」
乾堂は、白玉を机に置いた。
それから、篆刻用の彫刻刀を、引き出しから一本、取り出した。
この刀の柄は、使い込まれていた。乾堂の指に合わせて微妙に変形しているようにさえ見えるほど、何千、何万と握られてきた痕跡が、そこにあった。
「小曽根乾堂の印を彫ったのは、私だ」
乾堂は、白玉を固定しながら、独り言のように言った。
「長崎の商人たちに流通している契約書に捺されている印の、その殆どは、私が彫った。長崎奉行所の公印の一つにも、私の手が入っている。篆刻とは、信用の形だ。人の約束を、石と朱肉で保証する技だ」
彫刻刀が、白玉の表面に当てられた。
カン、と小さな音が鳴った。
乾堂の手が動く。彫刻刀が、白玉の表面を、一筋…削る。
長次郎と惣之丞は、その手元を、食い入るように見つめていた。書斎の中で、誰も話さなかった。
製鉄所の音が、窓の外から聞こえる。潮風が、窓の隙間から薄く入り込んで、書斎の空気を冷ます。朱肉の皿が、机の端で静かに待っている。
乾堂の指が動くたびに、白玉に文字が生まれた。
「天朝物産会所」
「長崎支部」
文字が、石の中に刻まれていく。それは、単なる文字ではなかった。乾堂の、六十年の人生が積み重ねてきた技術と、この国への思いが、一画一画に込められていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
乾堂の手が止まった。
白玉を持ち上げ、窓の光に透かした。
印面を確かめた。
そして、朱肉の皿に、印面を静かに当てた。
白紙の上に、押した。
持ち上げた。
白紙の上に、鮮やかな朱色の印影が——現れた。
「天朝物産会所・長崎支部」
の文字が、美しい篆書体で、そこにあった。
龍馬は、その印影を見て、言葉が出なかった。
高田が、一歩前に出て、印影を見た。その高田が、「美しい」と、小さく呟いた。
高田がそういう感想を口にするのは、珍しいことだった。
小野寺が、すでに懐から一枚の為替手形を取り出していた。
「乾堂殿、最初の為替手形に、捺印をお願いできますか」
「……ふん」
乾堂は、その為替手形を受け取った。
印を、朱肉に浸した。
為替手形の所定の位置に、押した。
それは——小曽根家が、天朝物産会所の長崎支部の後ろ盾となった瞬間だった。
乾堂は、印を置いた。
白玉の印材を、しばらく見つめた。
「この印は——」
独り言のように、しかし、全員が聞こえる声で、乾堂は言った。
「いつか、日本の 国璽(こくじ) をも超える重みを持つだろうな」
部屋に、沈黙が落ちた。
龍馬は、その言葉の意味を、即座には理解できなかった。
しかし、何か——途方もない先の時代を見通した言葉として、その一言は、胸の奥に刻まれた。
(この人は——本物じゃ)
十一
それから数日が経った。
小曽根邸の離れが静かに、その機能を変え始めた。
外から見れば、何も変わっていない。乾堂の書斎は相変わらず書と印材で溢れ、庭では時折月琴の音が流れる。番人は門の前に立ち、邸内の造りは昨日と変わらない。
しかし——その内側で。
情報が、流れ込み始めていた。
大浦慶の油屋から、九州各地の茶農家との交渉記録。
居留地の外国商人が、薩摩や長州に売り込んでいるゲベール銃の最新価格。
長崎奉行所の目付の交代情報と、新任目付の出身藩。
オランダ大通詞を通じた、上海の市場相場の速報。
これらが、小野寺順平の帳面へと、一つ一つ記録されていく。
小野寺は、離れの一室を書き物の場所として使い始めていた。朝から日暮れまで、窓の外の長崎の街を眺めながら、帳面と向き合っている。 その姿は、傍から見れば、ただの書生のようだった。
しかし、その帳面の中身は——長崎港を出入りする船の数から、居留地の商人の与信情報まで、膨大な情報が整理されつつあった。
長次郎と惣之丞が、変わった。
正確には——変わっていく途中にあった。
最高級の絹の衣を身につけ、小曽根家の「正当な代弁者」として居留地を歩き始めた二人は、最初の数日、まるで異国を旅するような顔をしていた。
外国人商人と言葉を交わすたびに、長次郎は緊張から土佐弁が出すぎて相手を困惑させ、惣之丞は逆に黙り込みすぎて愛想なしと思われた。
しかし一週間後、二人の歩き方が、変わっていた。
居留地の石畳を歩く足取りが、浪人のそれではなくなっていた。
背筋が伸びた。視線が、周囲の情報を自然に拾うようになった。外国商人に声をかけられても、すぐには答えず、一拍置いて相手の出方を見るようになった。
長次郎が、ある日、居留地の商館から戻ってきて、興奮を抑えた声で言った。
「龍馬、聞いてくれ。グラバーの商館で聞いた話じゃが——薩摩が、近々大量の銃の発注をするつもりらしいきに。ゲベール銃ではなく、新式のミニエー銃を。しかも、長崎奉行所を通さないルートで」
龍馬は、その言葉を聞いて、煙草を口から離した。
「どこから?」
「そこまでは分からん。じゃが、商館の番頭らしい男が、同僚に漏らしているのを、わしが偶然、聞いたきに。確かにそう言っちょったぜよ」
龍馬は、長次郎を見た。
三週間前、この男は、油屋の奉公人だった。
今は——居留地の外国商館の内部情報を拾ってくる。
「よくやったきに、長次郎」
「いや——わしが凄いのではなく、この衣が凄いんじゃろうと思うきに。この格好でなかったら、相手が油断して話さなかったじゃろうし……」
「それがわかっちゅうなら、十分じゃ」
龍馬は、長次郎の肩を叩いた。
その情報は、すぐに小野寺の帳面に記録された。そして——乾堂の書斎で、龍馬が慶宛の速報を書いた。慶から松田屋(松田源五郎)へ。松田屋から大坂の中継点へ。そして京の糸子の元へ。
蜘蛛の巣は、一本、また一本と…長崎の空に張られていった。
十二
一橋上屋敷の一室。
糸子は、窓の外の江戸の空を、しばらく眺めていた。
初夏の江戸は、長崎より蒸し暑い。部屋の中に入り込む風は、どこか湿気を帯びて、重かった。
机の上に、一通の書状が置かれていた。
長崎から届いた、龍馬の報告書だった。
糸子は、その書状の封を丁寧に切り開いた。
中身を、広げた。
最初に目に入ったのは——朱色の印影だった。
「天朝物産会所・長崎支部」
見事な篆書体が、白紙の上で燃えるように輝いていた。
糸子の目が、その印影の上で止まった。
長い、沈黙。
糸子の口元に、ゆっくりと——微笑みが浮かんだ。
それは、少女の笑いではなかった。もっと深く、もっと遠いところを見ている者の、静かな笑いだった。
「流石…小曽根乾堂。やはり後世に名を残す方は違うわね……」
糸子は、印影を指先で、そっと触れた。
「仕掛けた歪な楽譜の意図を……完璧に読み解いてくれた」
「果たして分かってもらえるか?、正直…不安だったのよね」
「わたくしならば…絶対に無理……」
傍らに葵が控えていたが、糸子の独り言を聞いて、何も言わなかった。糸子がこういった表情をする時は、近くにいる人物はただ静かにしているのが最善だと、彼女は学んでいた。
糸子は、報告書を読み続けた。
大浦慶の了解。小曽根邸の確保。奉行所の目付の退去。長次郎と惣之丞の居留地での情報収集の開始。小野寺の帳面への情報集約。
一つ一つを読むたびに、糸子の目の奥で、何かが計算されていった。
龍馬の報告書は、饒舌ではなかった。むしろ、簡潔すぎるほど簡潔だった。しかし、その行間に、龍馬という人間の、肌で感じたものが、滲んでいた。
乾堂の鑑定眼を「本物じゃ」と書いた一行。
長次郎の居留地での変化を「火がついた」と書いた一節。
高田の観察力が奉行所の監視を正確に把握したことへの、短い賞賛。
(坂本は、本当によく人を見ている。見る目があるわ)
糸子は、報告書を折りたたんだ。
そして——新しい書状の用紙を取り出した。
筆を浸した。
次の指令を、書き始める。
「薩摩・長州への武器密輸ルートの把握」——それが、次の段階だった。
長次郎が居留地から拾ってきた情報は、予想より早く、核心に近いものだった。そのルートを掌握することができれば、諸藩の武器調達が、天朝物産会所を通る形に変わる。いや変えなければならない。
それは、単なる商売ではない。
武器がどの藩に、どの価格で、誰を通じて流れるかを知ることは——内戦の火種を、事前に把握することだ。
糸子は、書き終えた書状を、乾かしながら窓の外を見た。
江戸の空が、夕焼けで染まり始めていた。
橙色の光が、糸子の部屋の中に差し込んで、机の上の朱色の印影を、さらに赤く染めた。
糸子はその印影を、もう一度目に収めた。
長崎という遠い街で、今この瞬間も、坂本たちが動いている。蜘蛛の巣の糸を、一本一本、確実に張り続けている。
それは——誰かの命令に黙って従っているのではなく。
それぞれが、自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の頭で判断して、動いているのだ。
糸子が最も恐れるのは、自分の考えた企ての操り人形になってしまうことだ。企ては、現実に当たれば必ずどこかで歪む。その歪みに対応できるのは、現場にいる者の判断力だけだ。
龍馬には、その判断力がある。
糸子は確信していた。
(坂本——あなたは私の企てを実行しているのではなく、私の企てを超えていくのです。そうでなければいけないと思うの…)
その確信が、糸子の胸の奥で静かに、しかし確かに燃えていた。
十三 蜘蛛の巣の夜明け
長崎の夜が来ていた。
港の方から吹いてくる風は、昼間の熱を残しながらも、少しだけ涼しさを帯びていた。石畳の坂道から見下ろすと、長崎の港の灯りが、揺れながら水面に映っていた。蒸気船の黒い船体が、暗がりの中でも存在感を放っている。
龍馬は、小曽根邸の裏庭に、一人で出ていた。
庭の石の上に腰を下ろし、長崎の夜空を、ぼんやりと眺めていた。
この数日で、足場ができた。
大浦慶という、九州の茶を仕切る女傑。
小曽根乾堂という、長崎最高の情報拠点を持つ文人。
長次郎と惣之丞という、居留地を歩き回れる若い力。
小野寺の帳面に、情報が集まり始めている。
蜘蛛の巣は——張られ始めた。
龍馬は、膝の上に手を置いて、夜空を見上げた。
星が、多かった。江戸では煤煙と人いきれで見えにくい星も、長崎では、こんなにはっきりと見える。
(……姫様は——今頃、次の指令を書いちょるだろうか)
龍馬は、微かに笑った。
姫様がどういう人物かは……龍馬はまだ完全には理解できていない。あの小柄な体のどこに、あれほどの先を見通す力が宿っているのか。
なぜ、ここまで日本のことを——まるで自分の子のように、心から案じているのか……
「わしには、よう分からんがじゃ」
しかし——分からなくていい、と龍馬は思った。
なぜなら、龍馬には、自身の目がある。
糸子の企てた蜘蛛の巣の中で、龍馬は糸を辿るだけの存在ではない。その糸の先で、自分の目で見て、自分の足で動いて、糸子も予想しなかった何かに辿り着く——それが、龍馬という人間の使命だと、実感していた。
裏庭の門の向こうから、月琴の音が、かすかに聞こえた。
乾堂が、夜も、弦を爪弾いているらしかった。
その音が、長崎の夜の空気に溶けていく。
龍馬は、目を閉じた。
耳に月琴の音。鼻腔に、潮の香りと夜露の草の匂い。肌に長崎の夜の湿った風の感触。
「これからは刀の時代じゃない、帳簿と信用が天下を動かすがじゃ」
龍馬が、独り言のように呟いた。
「この長崎の、無音の社交の場から、新たな日本が始まるぜよ」
月琴の音が、続いていた。
港の蒸気船が、一つ、汽笛を鳴らした。
それは、遠く、しかし確かに……長崎の夜を切り裂いた。
第百十一話 了