軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百十話「長崎暗闘編―長崎の蜘蛛の巣、あるいは海への大博打」

話は、遡る――

文久元年、初春。

寒風の残る品川宿の波止場から、坂本龍馬、高田陽三郎、小野寺順平の三人は、海路を南へと向かった。

彼らが乗り込んだのは、当時の国内輸送の主力であった「 弁才船(べざいせん) 」、いわゆる千石船である。洋式帆船とは異なり、大きな一枚帆で風を受けるこの和船は、追い風(順風)には強いが、向かい風や横風には極めて弱い。そのため、文久元年の海路は、天候と 風配(かぜくばり) にすべてを握られていた。

船内は決して快適な旅路とは言えなかった。上客用の狭い客間(上段の間)を除けば、一般の乗客は「 下乗(したのり) 」と呼ばれる船倉の雑魚寝である。薄暗く、常に潮の香りと油の匂いが立ち込める空間で、三人は荒波の揺れに耐えた。

食事も単調そのものだった。船内での火の扱いは厳重に制限されていたため、 時化(しけ) で船が激しく揺れる日は火を使えず、冷えた 干飯(ほしいい) や、塩辛い漬物、梅干しで飢えをしのぐしかない。

天候が穏やかな日にようやく、飯を炊き、船底に蓄えたわずかな真水で味噌汁を作ることができた。それさえも旅が長引けば水は傷み、ボウフラが湧く寸前のものを騙し騙し飲むことになった。

さらに、日本の沿岸航海で最も恐れられたのが「 遠州灘(えんしゅうなだ) 」や「 熊野灘(くまのなだ) 」といった難所である。

ひとたび時化に捕まれば、船頭たちは神仏に祈るほかなかった。船が転覆の危機に瀕した際、船を軽くするために積荷を海へ投げ捨てる「はね荷(荷切り)」や、風圧を減らすために大切な帆柱を斧で切り落とす「柱切り」が本気で行われていた時代である。龍馬たちも、船底を叩く凄まじい波音を聞きながら、文字通り命がけの夜を過ごした。

天候が崩れる予兆があれば、船はすぐに最寄りの港へと逃げ込む「風待ち」や「潮待ち」を余儀なくされた。下田、御前崎、あるいは紀州の港。寄港地での足止めは数日から、長ければ一週間以上に及ぶ。しかし、この足止めこそが、旅人にとっては唯一の息抜きであり、同時に各地の生きた情勢や、尊王攘夷に揺れる世論の熱気を肌で感じる情報収集の場でもあった。

順風なら二、三週間で済むはずの航路。しかし、度重なる時化と風待ちに阻まれ、三人が荒波に揺られながら九州の陸路へと辿り着くまでには、一ヶ月を超える歳月が流れていた。

季節は巡り、旧暦四月。

江戸を出て、およそ二ヶ月。暦の上で初夏を迎える頃、三人の眼前に——長崎の港が、広がった。

龍馬の足が、桟橋の上で、ぴたりと止まった。

潮風の中に、石炭の煤の匂いが、はっきりと混じっている。それから、どこかの厨房から漂う、香辛料の甘辛い匂い。それから——カフィと呼ばれる、どこか焦げたような、なれど不思議と惹かれる、香ばしい匂い。

「ここは、日の本の、においじゃないきに」

龍馬は、ふっと、笑った。

高田陽三郎が龍馬の隣で、港の景色を目を大きく開けて見ていた。

二十五。細身だが、肩の骨格に、剣の修行の跡がはっきりと刻まれている。動きは少なく、常に目だけが動いている——旭狼衛隊士らしい、神経の張り方だった。

その高田が、今、珍しく目の動きが止まっていた。

「……すごい」

呟いた声は、低かった。高田が「すごい」と声に出す光景は、龍馬もあまり見たことがなかった。

「高田殿、初めてじゃろ」

「左様。これほどとは、思いもしませんでした」

「じゃろのう」

小野寺順平も、龍馬の反対側で、桟橋の先をじっと見つめていた。

元勘定方の子弟。帳簿と算盤の世界で育った若者の目に、今、長崎の港は、全く別の数字として映っていた。

あの蒸気船の船腹に、どれだけの荷が入るか。

あの黒煙の一時間分が、石炭に換算していくらか。

あの桟橋に停泊している時間、一日あたりの滞港料は——

「坂本殿」

小野寺が、龍馬を呼んだ。

「何じゃ」

「あの蒸気船、見てください。一隻で百人、いや、もっと乗れますね。日本の廻船では、到底及ばない」

「じゃのう」

「あれが毎日、あの数だけ出入りしているとすれば——この港の取引量は、江戸の問屋街の、三倍では利かないはずです」

「鋭いぜよ、小野寺殿」

「いえ、数を見るとつい…」

「それで構わん。その目が、これからいる」

三人は桟橋を渡り、石畳の坂道へと足を向けた。

道の両側に、瓦屋根の家並みが続く。なれど、ところどころに、白壁の洋館が頭を覗かせていた。大浦の丘の方角に目をやれば、その洋館の群れが、午前の陽光を白く跳ね返しながら、ずらりと並んでいる。

道を行き交う人間の顔が、江戸とはまるで違っていた。

シルクハットを被り、燕尾服の裾を翻すイギリス人。軍服姿のロシア人らしき二人組。長い辮髪を垂らした清国人。そして、その間を縫うように歩く、長崎の町人たち——その歩き方が、外国人を見慣れた者の、飄々とした、動じない歩き方をしていた。

耳を澄ませば、押し寄せる音の洪水に眩暈がしそうになる。

出島や居留地の方角から風が吹くたび、異国の言葉がざわめきとなって通りを駆け抜けた。流暢な英語、重々しいロシア語、そして独特の抑揚を持つ唐言。それらが長崎特有の、どこか柔らかい長崎弁と混ざり合い、奇妙な和音を奏でている。

空気の匂いすらも、江戸のそれとは根底から異なっていた。

醤油や出汁の馴染み深い香りの隙間から、焙煎されたカフィの苦い香気や、嗅ぎ慣れない香水、清国人が燻らせる煙草の甘油っぽい匂いが鼻腔を突く。石畳の坂道を荷馬車がガタゴトと音を立てて上っていく傍らでは、異国の犬が吠え、どこかの洋館から、弾き手の拙いピアノの音がポロンと零れ落ちていた。

安政の開港から数年。この街はもはや、オランダ館という「箱庭」を覗き見るだけの場所ではなかった。

押し寄せる異人たちを、長崎の人間は驚きの目ではなく、したたかな商人の目で迎えている。外国人とすれ違っても、子供たちですら物怖じして逃げ出したりはしない。それどころか、着物の裾を端折った小商人が、覚えたての怪しげな英語で「ピカピカ(美しい)、ルック、ルック!」と、鼈甲細工や絹織物を堂々と売り込んでいた。

唐館(とうじんやしき) の近くでは、色鮮やかな衣装をまとった清国人が、天秤棒を担いで賑やかに笑い声を上げている。

ふと見上げれば、日本風の格子窓の奥から、バテレンの宗教を密かに守り続けてきた浦上の隠れキリシタンたちが、あるいは時代の先を見据えようとする若い地役人たちが、鋭い眼差しで通りを鋭く見下ろしていた。

ここは、日本でありながら日本ではない。

瓦屋根の波の向こう、紺碧の長崎港には、黒い煙を吐き出す蒸気船が何隻も停泊している。その巨大な鉄の船体が、この街が孕む「新しい時代」への期待と、底知れない不穏な熱気を、何よりも雄弁に物語っていた。

石畳の角から、「ガシャン、ガシャン」という、耳慣れぬ金属の響きが、打ち続けて聞こえてくる。

「長崎製鉄所じゃ」

龍馬が、その音の方角を、顎でしゃくった。

「あそこで、蒸気機関の修理や、鉄の鋳造をやっちゅう。わしも初めて来た時は、驚いたきに。今は聞き慣れたが」

「日本の音じゃないですね」

高田が、静かに言った。

「そうじゃ。日本の音やのうて、来年の日本の音じゃ」

龍馬は歩きながら、懐かしさとも、緊張とも、なんとも言いがたいものを、胸の底で、感じていた。

石畳の坂道を歩きながら、龍馬の頭の中で、船上で読んだ書状の文面が、また、ぐるりと回り始めた。

糸子からの、九箇条の書状。

あの厚さは、何だったか。普通の書状の三倍はあった。開いた瞬間、沈香の薄い匂いが、船の潮風の中でひと刷け、漂った。そして——あの書状の中身。

龍馬は、読みながら、ぞっとした。

ぞっとしながら、読み続けた。

読み終えて、高田に感想を求められた時、龍馬が口にできた言葉は、ひとつだけだった。

「……姫様は本気で、わしを使い倒すつもりじゃ」

引き攣りながら笑った。

高田が「何と書いてあったんですか?」と、傍らで聞いた。

「うん、まず長崎で到着したら長次郎たちと合流する。それから後日になるが、旭狼衛が四名、長崎に来てくれるそうじゃ。高田殿、小野寺殿はわしに付き従えと書いてある」

「地獄の底まで、お付き合いしますよ、坂本殿」

小野寺が、不敵に笑った。

「勘弁しとおせ、わしは地獄にはいきたくないきに!」

三人で、「わはははは!」と笑った。

その笑いが、長崎の潮風に、溶けていった。

書状の中身は、今も、龍馬の心の中で、ぐるぐると回っている。

【糸子から龍馬への書状・九箇条】

一、長崎での合流と給金:長次郎・惣之丞と合流せよ。二人の給金は月四両。物価高騰に対応するため、長崎・大坂間で即時引き換え可能な「天朝為替手形(金三十両分)」を同封する。まずは浪人の身なりを捨て、京の巨大商人の代弁者として動け。

二、大浦慶への公式書状の譲渡:油屋の大浦慶に近衛家公式の書状を渡せ。近衛牡丹の紋(盾)だけでなく、イギリス人商人に買い叩かれている茶の流通を会所が裏で一元管理(惣会所化)し、価格交渉に応じねば一斉に出荷を止める「代替案の形成(矛)」を提示し、彼女の野心に火をつけよ。

三、武器商人の徹底的な「数字」の監視:長次郎と惣之丞に市場調査を命じ、グラバーらが上海相場の何倍で型落ちのゲベール銃を売りつけているか「差額の数字」と、決済通貨(洋銀・金貨・生糸)の裏帳簿を割れ。将来的に武器流通を一本化するための恐喝の材料(弱み)とする。

四、オランダ大通詞・楢林栄左衛門の抱え込み:長崎奉行所支配下のトップ通詞・楢林に接触。彼の語学力と人脈を奉行所に伏せたまま「会所顧問」として引き込め。

五、小曽根乾堂の訪問と社交場の活用:勝海舟の紹介状と近衛家の書状を携え、豪商にして文人の小曽根乾堂を訪ねよ。彼の自尊心を刺激して味方に引き入れ、長崎奉行の介入を防ぐ「政治的防壁」とし、その邸宅を隠れ家・情報拠点とせよ。

六、松田屋(松田勝五郎)の決済網の掌握:大浦慶の紹介で松田屋を訪ね、幕府の長崎会所に捕捉されない「京・大坂・長崎」の隠密送金ルート(国内決済網)を構築せよ。

七、「フランス語の遣い手」の極秘勧誘:若手通詞の中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎を勧誘せよ。現在西洋ではカイコの病(微粒子病)で絹織物産業が全滅の危機にあり、フランスは日本の生糸を渇望している。彼らの経済的弱みと本国外交方針を直に翻訳し、奉行所内部に目を植え付けよ。

八、武器経路一本化の布石:大浦の物産、松田の為替、小曽根の庇護、通詞の情報を繋ぎ、長崎の闇に網を張れ。異国が内戦を煽って富を吸い上げるを阻止し、諸藩への武器窓口を会所が一手に出し入れする構造を作れ。貴殿の足で足場を固めてくること。

九、後日の増員:後日、京より旭狼衛隊士四名を長崎に派遣し、連絡・監視・諜報・護衛に当たらせる。高田、小野寺は坂本に付き従いなさい。

九箇条、全部を頭に入れて、龍馬は石畳の坂を登りながら、少し…しょんぼりしていた。

「……姫様、これから諸藩を巡る前から随分と指令が多い。わしを本気で使い倒す気ぜよ……」

「まっこと、人使いの荒いお人だにゃあ。わし姫様になんかしたのかのう…」

石畳の坂を曲がったところで、見慣れた油屋の店先が、見えてきた。

龍馬は、歩きながら、ふっと、胸の奥に、温かいものが広がるのを感じた。

以前来た時の記憶——大浦慶の、あの眼光と、あの強さ。

「大浦さんは元気かのう……」

龍馬が独り言のように呟いた時。

油屋の引き戸が、ちょうど、外から開いた。

商家の用事で外に出ようとしていた、一人の青年が、門の脇から姿を現した。

青年は、顔を上げた。

龍馬と、目が合った。

そのまま、瞬きの一息ほど、お互いに止まっていた。

「……ひょっとして、龍馬か!?」

近藤長次郎の目が、見開かれた。

二十歳を少し過ぎた、土佐の若者。油屋に預けられてから、わずかに頬の肉が、以前より引き締まっていた。着物は、商家の奉公人のものに近い。なれど、その目の奥の、妙な鋭さは、土佐浪人のままだった。

「おう、わしじゃ! 長次郎も元気じゃき!」

龍馬の声が、夏の長崎の空に、はじけた。

長次郎は、叫んだまま、油屋の引き戸を、勢いよく、また中に開けた。

「惣之丞 惣之丞!」

「何ぜよ、やかましい!!」

「龍馬が帰ってきたぜよ!!!」

「なに!?!?」

どたどた、という足音が、奥から走ってきた。

沢村惣之丞が、暖簾を頭からかき分けながら、飛び出してきた。

龍馬を見た瞬間、その顔が、ぱっと明るくなった。

「龍馬!!! 何ちゅー久しぶりじゃ!!!」

「ほんとじゃき!!!」

三人が、ごちゃごちゃと、手を掴み合い、肩を叩き合い、誰が何を言っているのか分からないような、再会の騒ぎになった。

その喧騒の、少し後ろで。

高田陽三郎と、小野寺順平が、並んで立っていた。

高田は、いつも通り、無表情に、しかし、わずかに、目に、笑いの色を隠していた。

小野寺は、帳面を懐に抱えたまま、三人のやり取りを、ちょっと、呆気に取られたような顔で、見ていた。

惣之丞が、ふと騒ぎの合間に、高田と小野寺の二人の存在に気づいた。

長次郎も、惣之丞に倣って、視線を向けた。

二人は確かに、どこか武士ではなく、しかし、ただの旅人でもない、独特の気配を持っていた。高田の動かない目と、小野寺の整った姿勢が、その気配を静かに主張していた。

「……彼らは?」

惣之丞が首を傾けた。

「わしの護衛の高田殿と、小野寺殿じゃ!」

龍馬が、あっさりと言った。

その言葉を受けた長次郎と惣之丞が、顔を見合わせた。

長次郎が、まず、龍馬を指差した。指の震えが、微妙だった。

「……護、衛」

「そうじゃ」

「龍馬に……護衛」

「そうじゃ」

次の瞬間、二人は、揃って、空に向かって叫んだ。

「「龍馬に護衛じゃと――――――!!!?」」

長崎の石畳の坂道に、その声が、こだました。

外を歩いていた町人が、振り返った。

居留地の方向から歩いてきたイギリス人が、何事かとぎょっとした顔をした。

「龍馬が、儂らの知っとる龍馬じゃなくなっとる……」

長次郎が、震える手で、龍馬を、指し続けていた。

「ほっとけちゅうに!!」

龍馬の鋭いツッコミが入った。

高田が一歩、前に出て、丁寧に頭を下げた。

「高田と申す。坂本殿と共に行動しております。以後、よしなに」

「同じく、小野寺と申します」

小野寺が、やや、帳面を脇に移し、頭を下げた。

長次郎と惣之丞は、二人の挨拶の、その落ち着いた洗練に、今度は別の種類のぞっとを感じた。

ごくりと、二人同時に唾を飲んだ。

「大浦殿はおいでか? おぬしらにも大事な話があるきに」

龍馬が言った。

「ちょっと待ってくれぜよ、今呼んでくる」

惣之丞が、また奥に走った。

残った長次郎が、龍馬を、まじまじと見た。

「……龍馬」

「なんじゃ」

「しばらく会わんうちに、なんか……大きくなったような気がする」

「江戸の飯はうまいきに、少し太ったんじゃろか?」

「龍馬は、相変わらずじゃな!!」

「そういう意味で言うたちゃあないがやけんどな…」

また笑い声が、夏の長崎の石畳に、弾んだ。

奥座敷に通されるのを待つ間、龍馬は立ったまま、ふと、最初にこの油屋に来た時の記憶に、引き込まれた。

あの時——中岡や岩崎を連れて、江戸に戻る前のことだった。

長崎に足場を作らなければならない。その時、龍馬の頭に、ためらいなく浮かんだのは、大浦慶の名前だった。単身で、直談判に来た。

油屋の奥座敷。

人払いを言いつけた慶が、煙管を、とんとん、と叩きながら、龍馬の正面に坐った。

油屋の大浦慶。

長崎の界隈で、その名を知らぬ商人はいない。

九州一円の茶を手中に収め、居留地の外国商人どもと、物怖じせず渡り合ってきた女傑だ。

「あんた、単なる飛び出し浪人じゃなかね。……一体、後ろに誰が付いとる?」

慶の目が、龍馬の目を、まっすぐに見ていた。

龍馬は、少しの間、沈黙した。

庭のつくばいに、水が滴る音が、薄く、聞こえていた。

龍馬は、懐から「それ」を取り出した。

純白の地に、金泥で描かれた、大輪の牡丹。近衛家の紋だった。

慶の目が、その紋様に、吸い込まれた瞬間、凍りついた。

「近衛牡丹の紋……そんな、まさか……!?」

「これで、どうなぜよ」

龍馬はにやりと笑い、扇をひっくり返して見せた。裏には、京の一流の能書家の手による、一筆の署名があった。

『この者、近衛家の関係者なり。最大限の支援を頼む。近衛忠房』

「っ……!」

慶の息が、止まった。

五摂家筆頭。朝廷の最高峰の名が、目の前の一介の浪人の手にある。商人として、一生かかっても、拝めない証明が、そこにあった。

慶は思わず畳に両手を突き、額を擦りつけた。肩がかすかに震えている。

「あんた……なんてものを、持っとるんだい。それ……偽物じゃなかろうね……?」

「もし偽物なら、わしの首はいつでもこれぜよ」

龍馬は自分の首筋に、手刀を当ててみせた。

慶は顔を上げ、ごくりと唾を飲んだ。

「ちょいと……確かめさせておくれ」

「構わんぜよ。じっくり見てつかあさい」

手渡された扇を、慶は絹を扱うように、両手で受け取った。指先で骨の削り、地紙の厚み、墨の沈み込みを確認する。長崎で、異国の最高級品から京の古物まで目利きしてきた、慶の目が、その「本物」の格式に、圧倒された。

「……これは確かに、京の特級品だ。一介の浪人風情が、持てる代物じゃなか……」

慶は扇を丁寧に折り畳み、龍馬の前の畳に、捧げるように、置いた。

「ちなみに、わしらの後ろに近衛様がおることは、他言無用ぜよ。大浦さんを信用したからこそ、わしも命を懸けてこれを見せちょる」

「……あの二人は、知っているのかい?」

慶が、聞いた。長次郎と惣之丞のことだった。

龍馬は、首を横に振った。

「いんや。主からは、『仲間にもまだ知らせるな』ときつく言われちゅう」

「主……? 近衛のお公家様かい?」

「そうじゃが……」

龍馬の目が、深く、畏怖を込めた光を帯びた。

「わしの正式な主は……近衛家の、姫様じゃき」

「姫、様……?」

慶は、訝しげに眉をひそめた。京の姫君が、なぜ、土佐の荒くれ浪人を、手足のように使っているのか。

「その姫様は、あんたらを使って長崎で何をさせようとしとるんだい?」

「わしも、その絵の全てはわからん。……じゃが、強いて言えば、『この日本を、異国の好きにはさせん』ということじゃろ」

「よお分からんとに、あんたはその姫様にこき使われとるって言うとな?」

「大浦さん」

龍馬の口調から、いつもの軽妙さが、消えた。

「これだけは言い切れるきに。あの姫様は、この日本で、誰よりも遥か先の世を見通せるお方じゃ。それは、関わった者全員が、骨の髄まで知っちゅう事実ぜよ」

言い切った龍馬の眼力に、慶の背筋に、冷たいものが走った。女傑として、男たちを圧してきた自分が、その背後にいる「姫君」の影に、気圧され始めている。

龍馬は、そこで、かつて長次郎から「会所の名前は人前で出すな」と警告されたことを思い出しつつ、あえて、不敵に微笑んだ。

「大浦さん、ちいと聞きたいんじゃが……『天朝物産会所』という名は、聞いたことはないか?」

その名が出た瞬間、慶の目が、カッと見開かれた。

煙管を握る指に、力がこもる。

「……天朝物産会所! 知らんわけなかろうが。最近、うちが流しとる九州の茶ば、京の市場で根こそぎ買い支えて、異国に値段ば調整させんごと言いよる、大きな惣会所やろ。主上様の御用達ば認められとるとは聞いとったばってん……あれが、何て言うとな!?」

龍馬は、にんまりと、笑った。

「大浦さん。その『天朝物産会所』の真の主こそが、わしの主たる、近衛家の姫様じゃきに」

大浦慶の口が、開いた。

「な、なんちゅうたかーーー!!?」

その声は、油屋の奥座敷を突き抜け、廊下を越え、外にまで届いた。

長次郎と惣之丞が、顔を見合わせた。

「誰かが驚いて大声だしとるぜよ」

「ほんとじゃき」

二人は、首を傾げながら、油屋から龍馬が出て来るのを待っていた。

奥座敷の中で、慶が、胸を押さえていた。

「はぁ、はぁ……あまりの衝撃に、我ば忘れて大声ば出してしもうたじゃなかね……」

「すまんきに、すまんきに。あっ、今の話も、他言無用で頼むちゃ」

龍馬が、申し訳なさそうに、頭をかいた。

「ばってん、たまげたね。まさかお公家さまが商売ばしよるとね?」

「そうっちゃ! 姫様はお公家様には珍しい、もの凄い実利のお人じゃ。まっこと、お公家さんの皮をかぶった商人かと思うたぜよ」

「へぇ……」

慶が、ものすごく興味を持った目で、龍馬を見た。

「……最初は、妙な風来坊の来たと思ったたい。面白そうやけん、ちょっと突っついてみようっち気軽に応じてみれば……あんた、とんでもなかよ!」

「すまんきに、そいで大浦さん、わしらのお願い聞いてもらえるじゃろか?」

「近藤長次郎と、沢村惣之丞だったね。うちでほんとにこき使って構わないんだね」

「まったく構わんきに、頼めるじゃろうかのう?」

慶は、煙管を、ゆっくりと仕舞った。龍馬を、真っ直ぐに見据えた。

「分かった! あんたば信用しよう! 坂本殿……」

こうして、二人の若者が、油屋に預けられた。

長次郎と惣之丞が、将来、会所の長崎支部を担う実務家へと、牙を研ぐ期間が、ここから始まったのだった。

回想から戻ると、龍馬は油屋の奥座敷に、通されていた。

座敷は、以前と変わらない。

床の間に、古い掛け軸。脇の棚に、几帳面に並べられた帳面の束。窓の向こうに、大浦の坂の、白壁の洋館の屋根が、ちらりと見えた。

初夏の日差しが、窓から斜めに入って、畳の上に、長い四角の光を、作っていた。

大浦慶が、上座に、どっしりと坐っていた。

四十路の、しかし、年齢に媚びることを知らない、凜とした姿勢。煙管を手の中で、くるりと回しながら、龍馬一行の入室を、静かに待っていた。

「元気そうだね、坂本殿」

「大浦さんも、お変わりないきに」

軽い世間話を、二言、三言。

それから、龍馬は、高田と小野寺を紹介した。

「某は近衛家守護集団、旭狼衛隊士、高田陽三郎と申す。坂本殿の護衛のため、共に行動しております。どうぞよしなに」

「同じく小野寺順平と申す。どうぞよしなに」

高田の挨拶は短く、しかし、油断のなさが一言ずつに滲んでいた。

隣でその挨拶をじっと聞いていた長次郎と惣之丞は、思わず同時にごくりと唾を飲み込み、息を詰めた。

「旭狼衛」――その禍々しくも厳かな響きを持つ名は、市井に生きる彼らの耳にまで、かすかな噂として届いていた。それが具体的にどんな役割を担い、どのような闇を抱えた組織なのか、詳しい実態までは二 人の知るところではない。

しかし、その名が口にされた瞬間に周囲の空気がピリッと張り詰めるような、言葉では言い表せない圧倒的な重圧と威圧感だけは、肌に刺さるほどリアルに感じていた。

一息ついた龍馬は、いまこの場で明かせる限りの状況を、順を追ってひとつひとつ慶に伝えた。緊迫した情勢が言葉にされるたび、部屋の空気はさらに密度を増していく。

ひと通りの説明を終えると、龍馬は懐へゆっくりと手を差し入れ、一通の書状を厳かに取り出した。

「実はな……我が主より、大浦殿宛てに書状を預かってきちょるがじゃ」

龍馬の口調は穏やかだが、その眼差しには確かな重みがあった。

その言葉を聞いた瞬間、慶の纏う空気がガラリと変わった。

すっと背筋を伸ばして居住まいを正すと、差し出された書状に対して深く一礼し、まるで壊れ物を扱うかのように両手で恭しくそれを受け取った。

手元に収まったその書状は、まるで今朝降った雪のようにどこまでも白く、表面には繊細で細かな皺が美しく走る、見事な厚手の檀紙だった。それだけで、送り主の身分の高さが容易に知れるというものだ。

慶が慎重に包みを解くと、中からふわりと、格式高い沈香の微かな薫りが鼻腔をくすぐるように漂った。

折り目正しく丁寧に広げられた紙の上には、流れるように美しく、それでいて見る者を気圧すような威厳に満ちた、公家独特の連綿体が生き生きと躍っていた。墨の濃淡ひとつにまで、高貴な血筋のプライドが宿っているかのようだ。

慶は高鳴る鼓動を抑えながら、その書状を再び両手でしっかりと持ち直し、一文字たりとも見落とさぬよう、静かに、そして丁寧に開き、目を落とした。

【書状 本文】

[一、現状の看破 ―― 異国に流るる「黄金の川」のこと]

長崎油屋、大浦慶。

そなたが女の身を以て、九州一円より茶葉を集め、 異国(いこく) との交易を切り拓いたその胆力、実に見事なり。

なれど、そなたが築いたその交易の川、川下に座す海の向こうの狐ども(異国商人)に、甘き汁を全て吸われてはいまいか。

近衛家の調べによれば、ロンドンの市(市場)において、我が国の茶は、そなたが長崎の居留地で渡されている値の「実に入倍(十倍)」の高値で商われておる。異国商人は、本国の市場価格をそなたらに隠し、数分の一の不当な安値で買い叩き、暴利を貪っているのが実情なり。

さらに、不平等なる条約による 洋銀(ドル) と我が国の銀の為替相場を見れば、そなたが流した血汗の五割以上が、交渉の席につく前に、異国の懐へと自動的に流れ落ちる仕組みになっておる。

そなたは長崎の海を仕切っているつもりであろが、その実は、異国の仕掛けた見えざる「檻」の中で踊らされているに過ぎぬ。悔しくはなきか。

[二、朝廷の盾 ―― 天朝御用商務惣会所・九州総差配役の特権]

異国商人が不遜な態度を崩さぬのは、長崎奉行所や会所が「お上(幕府)」の腰抜けなるが故、商人の味方をせぬからなり。奉行らが異国の圧迫を恐れ、そなたらの足を引っ張るならば、こちらに策がある。

本日より、大浦慶、そなたを「天朝御用商務九州惣会所・総差配役」に任ずる。

天朝御用商務惣会所とは御門様の綸旨を受けた。異国の商人たちに対抗するために作らせた商家を束ねる組織なり。すでに江戸では、組織として動いて実績も出しておる。また、京、大阪でもそれぞれ天朝御用商務惣会所を作らせている最中である。いずれは日本全土にその網は拡大し、日本すべての商家に加入してもらうこととなる。

これは「命令」ではない。そなたの商いに、御門様の「大義名分」という絶対の盾を授けるものである。

今後、長崎奉行所がそなたの交易に不当な介入や規制を仕掛けてこば、この「十六八重表菊の御紋」を突きつけ、「これは内裏の御用達、および御所の財政を賄うための国策事業である。文句ばあるなら、京の公家門跡へ直接談判に来られよ」と言い放つがよい。

幕府の役人とて、勅命の看板を掲げた荷には、指一本触れることは叶わぬ。幕府の法網をかいくぐりし、そなたの商いを公認の「国策」へと格上げせよ。

[三、朝廷の矛 ―― 惣会所化(仕入れ網の一本化)と「売り止め」の法]

異国商人が交渉において常に強気なのは、彼らが「油屋から買わずとも、他の小商人から買えばよい」という逃げ道(代替案)を持っているからなり。ならば、我らが為すべきはただ一つ。九州の茶をすべて「一つの一束」にすることなり。

一、川上の掌握(仕入れの独占)

近衛家が、大坂・京の金融網から調達した巨額の「天朝為替手形(資金)」をそなたに貸与する。そなたはその圧倒的な資本力を以て、肥前(嬉野など)や肥後の茶農家、地方の小商人らが抱える茶葉を、異国商人が提示するよりも「常に二割高く、かつ年中安定した価格」で、すべて事前に買い占め(先物・独占契約)なされ。地方の農家は、目先の現金と安定を求め、必ずそなたに茶を収める。

二、「なら、売らんばい」の法(売り止め)

九州の茶の物量をそなたの手元で一元管理(惣会所化)した上で、異国の居留地へ赴くべし。グラバーらが相も変わらず不当な安値を提示したならば、そなたはただ微笑み、こう告げればよい。

「ならば、本日の商いはこれまで。お引き取りくだされ」と。

三、異国の降伏

茶を売らねば油屋が干上がると思うか? 案ずるな。農家や小商人には、すでに天朝の資金から代金が支払われておる。蔵に眠る茶が腐るわけでもない。

本当に干上がるのは、長崎港に巨大な黒船(蒸気船)を停泊させている異国商人なり。彼らは、一日船を港に留めるごとに、巨額の「 滞船料(デマレージ) 」という赤字を垂れ流す。港の倉庫の鍵を閉め、一週間も売り止め(出荷停止)を続ければ、海の向こうの狐どもは青ざめ、パニックに陥る。

「茶を出してくれ。言い値で買うから売ってくれ」と、彼らのほうから頭を下げて地べたを這いつくばってくるまで、そなたはただ、長崎の空を眺めて 烟管(きせる) を吹かしていればよい。

[結び ―― 覇道の誘い]

異国を兵糧攻めにし、価格の決定権を我が国に取り戻す。これこそが、天朝物産会所の描く「経済戦」の全貌なり。

長崎の女傑・大浦慶。そなたの野心は、一介の商人として小金を稼ぐ程度で満足するものか。それとも、わたくしと手を組み、異国を相手に大博打を打ち、この国の海の覇者となるか。

文面に同封せし二人の若者(近藤長次郎・沢村惣之丞)は、勘定(帳簿管理)と地方商人との交渉に当たらせる、我が天朝物産会所の代官なり。そなたの右腕として、死ぬまでこき使うがよい。

そなたの「答え」を、坂本龍馬を通じて江戸にて待つ。

文久元年、二月

天朝物産会所 近衛糸子

大浦慶 殿

慶が、書状の最後の一字、最後の一画にまで視線を走らせ、ついに読み終えた。

そこからしばらくの間、部屋の中はしんと静まり返り、針が落ちても聞こえるほどの沈黙が支配した。誰も言葉を発することができない。

ふと見ると、慶の指先がわずかに、しかし確かに震えていた。

その手には愛用の煙管が握られていたが、落としてしまいそうなほどの強い力で、ぎりぎりと指の関節が白くなるまで握りしめられている。

慶の表情は、最初こそ予想だにしなかった事実への「驚愕」に染まっていた。しかし、時が経つにつれてその顔つきは、腹の底、いや魂の深奥からふつふつと湧き上がる「何か」激しい感情によって、劇的に塗り替えられていった。

「……なんね、これは」

慶の口から漏れた声は、地を這うように低かった。

「この『近衛糸子』様っちゅうお方様は……化け物かなにかね? なんでお公家の姫様が、うちがグラバーたちと命がけでやり合っとる長崎の帳簿の裏側や、海の向こうのロンドンの市場の数字まで、こうも正確に知っとるんだい……!」

抑えきれない激しい感情が、濁流となって慶の胸を突き上げてくる。

「『悔しくはなきか』……だと?」

慶の鋭い目が、書状に記されたその一節の上でピタリと止まった。次の瞬間、彼女の我慢は限界に達した。

「しゃあしかねぇ!!」

パシィィン、と激しい音が響いた。愛用の煙管が、容赦なく膝の上に叩きつけられたのだ。

「お公家様にここまで綺麗に手の内を見透かされて、悔しくないわけなかろうが! うちをただの、小金稼ぎの『一介の商人』と舐め腐りおって……!!」

大浦慶という女傑のプライドが、完全に火をつけられていた。

龍馬はそんな彼女の様子を、ただ黙って、じっと見つめていた。その隣に控える高田も小野寺も、あえて口を挟もうとはせず、部屋の空気を固唾をのんで見守っている。長次郎と惣之丞にいたっては、あまりの迫力に圧倒され、隣同士で顔を見合わせながら、ごくりと大きな唾を飲み込むのが精一杯だった。

だが、怒りに震えていた慶の口元が、やがて不敵に歪んだ。

それは、百戦錬磨の商人が見せる不敵な笑みだった。なれど、ただの商売の笑みではない。それはすべての退路を断ち、命を賭ける覚悟を決めた、獰猛な肉食獣の笑みそのものだった。

「長崎奉行所の腰抜けどもを『十六八重表菊の御紋』で黙らせ、海を渡ってきた異国の狐どもを地べたに這いつくばらせる、か……」

慶は広げた書状を、一度、愛おしむように強く胸へと押し付けた。

「ふっ、ハハハ! 面白い、面白いすぎるばい! たかが一介の油屋の女が、朝廷を後ろ盾にして異国相手の大博打を打つ、国策の首領になれと言うとかい」

慶の目が、らんらんと燃えていた。これまで幾多の修羅場をくぐり抜け、並み居る男たちをへこましていった長崎の女傑の目に、今、誰も見たことのない種類の、狂おしいほどギラついた光が宿っていた。

「――男たちの度肝を抜いて、長崎の海ばこの手で仕切ってきたつもりやったばってん……まさかお公家の姫様に、商売の骨の髄まで、魂の底まで見透かされとったとはね。まっこと……しゃあしかねぇ!!」

慶は書状を破れんばかりに強く握りしめ、勢いよく顔を上げた。その瞳に燃え盛るのは、一世一代の大勝負に自ら飛び込もうとする、狂気にも似た野心だ。

「乗った。この大博打、うちが長崎の海で、最高の勝ち戦にしてみせるばい!!」

言うが早いか、慶はガシッと龍馬の手を力強く掴み、引き寄せた。

「坂本さん、やっぱりあんたはがばいおもしろか人ばい。あの時、おまんたちに出会うといて、ほんとに大正解やったわ!」

そして次の瞬間、慶の鋭い視線が、ぎらりと龍馬の背後に控える二人へと向けられた。

びくりと身体をこわばらせたのは、長次郎と、惣之丞だ。

「こん姫さんの書状にも、あんたいたちの名前のきっちり書いてあったばってん……長次郎、惣之丞」

慶の声が一段と低くなり、逃げ場をなくすような凄みを帯びて二人を捉えた。

「今まで以上に、骨ん髄までこき使うてやるけん……二人とも、死ぬ気で覚悟しいや!!」

「ひっ……!!」

手を取り合って龍馬の帰還を喜んでいたはずの近藤長次郎と沢村惣之丞は、女傑の凄まじい覇気と、「死ぬまでこき使う」という糸子の非情な文面の内容が今ようやく実感をもって刺さり、二人は抱き合ったまま、ガタガタと震え始めた。今にも泣きそうな顔で、惣之丞が小声で呟いた。

「……長次郎、わしら、これ大丈夫じゃろか」

「わからん。全然わからんきに……」

長次郎の声も、ひそひそだった。

龍馬は、その光景をすぐ横で見つめながら、心の内でしみじみと呟いていた。

(……二人には、まっことすまんきに)

慶の凄まじい気迫に圧倒され、完全に蛇に睨まれた蛙のようになっている長次郎と惣之丞。その哀れで、しかし頼もしい未来の同志たちに向けて、龍馬は心の中でそっと手を合わせた。

(じゃが、これが、この国のためじゃ。日本の夜明けのためながよ)

これから二人が味わうであろう、寝る間もないほどの激務を思えば同情を禁じ得ない。だが、これほどの狂瀾怒濤の時代だ。大浦慶という巨大な歯車を回し、長崎の、ひいては日本の歴史を動かすためには、彼らの若き力と才覚がどうしても必要だった。

(これも全部、あの姫様の描く『絵図』の中の、決まっちゅう一筆っちゅうことか……)

そう思うと、龍馬の背筋に冷やりとした、しかし心地よい震えが走った。遠く江戸にいながら、長崎の、世界の動きまでをも盤上の駒のように見立てて動かす姫君様という存在。その底知れなさに、改めて畏怖の念を抱かずにはいられない。

龍馬は小さく息を吐き出すと、視線を隣の高田と小野寺へと巡らせた。

高田は相変わらず、表情一つ変えずに泰然と佇んでいる。だがその鋭い眼光は、部屋の空気の微細な変化、全員の呼吸のタイミングに至るまで、すべてを完璧に把握し、不測の事態に備えていた。

一方で小野寺は、慶が首を縦に振った瞬間に、すでに実務家の顔に戻っていた。懐から手帳と鉛筆を取り出すと、カツカツと小気味よい音を立てながら、今後の具体的な段取りや人員の配置、資金の算段を素早い手つきで書きつけ始めている。その迷いのない鉛筆の動きが、この大博打がもはや単なる夢物語ではなく、動き出した現実であることを物語っていた。

「大浦さん」

龍馬は居住まいを正し、声音を一段落として口を開いた。その声には、土佐の荒波で鍛え上げられた独特の力強さと、どこか人を惹きつける不思議な人徳が宿っている。

「これから、この長崎の街に……姫様が張り巡らせる『蜘蛛の巣』の糸を、一本、また一本と、私共の手で着実に張っていきましょう。大浦さん、ここから先は息をつく暇もないほど、やることが文字通り山積みですよ」

「ふっ、望むところさね」

慶は不敵に笑うと、膝の上に叩きつけていた煙管を拾い上げ、手慣れた仕草で火をつけた。

チリチリと小気味よい音を立てて葉が燃え、紫煙が立ち上る。細く、しかし確固たる意志を持つかのように揺らめくその白煙は、初夏の、少し汗ばむような長崎の座敷の空気の中へ、ゆっくりと、しかし確実に溶け込み、広がっていった。まるで、これから彼女たちが長崎を侵食していく様を暗示するかのように。

その時、開け放たれた窓の向こう、遥か長崎の港の方から、重低音の蒸気船の汽笛が、ボーーッと一声、遠く響き渡った。

それは、新しい時代の到来を告げる 鬨(とき) の声か。それとも、これから始まる 大戦(おおいくさ) の幕開けの合図か。

異国への門戸であり、あらゆる欲望と野心が渦巻くこの長崎の地に、歴史を裏側から根底からひっくり返すための蜘蛛の巣が、今まさに、音もなく張り巡らされようとしていた。

第百十話 了