作品タイトル不明
第60話 人が入る前に、線を通す
中間隔壁の前に置いた帰還マーカーは、今日も青く点いていた。
第一踊り場から下行階段を降り、曲がり角を抜け、緩いスロープの先へ進む。もう何度か通った経路だ。それでも、地下は慣れたと言える場所ではなかった。天井は低く、壁のケーブル束は古く、床下には南側管制補助線の主束が通っている。強く踏めば、何かを壊すかもしれない。
レンは中間隔壁の前で荷を下ろした。今日は扉を開けない。少なくとも、最初から開けない。まず、向こう側に線を通す。
『本日の目的を確認します。中間隔壁の開放前調査。換気中継、圧差測定、奥側通信プローブ投入。人員の進入は行いません』
「人員って俺だけだろ」
『はい。レンの進入は行いません』
『ガタの進入も行いません』
「そこは安心していい」
『高評価です』
『非常に高評価です』
ガタは中間隔壁から少し離れた位置にいた。帰還マーカーの横だ。前照灯は扉ではなく、床のケーブル束が通っていそうな場所を照らしている。地下に入るたび、ガタの嫌がり方は少し具体的になっている。
レンは工具パックを開いた。小型通信プローブ、細いセンサーケーブル、簡易圧差計、折りたたみ式の換気チューブ、低出力ファンユニット。通信塔の補助部品と、保守棟で拾った端子と、北東中継塔で使わなかった短尺ケーブルを組み合わせて作った。見た目は悪い。だが、動けばいい。
[BULKHEAD PREP]
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対象:南側管制補助線・中間隔壁
隔壁開放:未実施
本日作業:圧差測定/換気中継/通信プローブ投入
人員進入:禁止
帰還経路:確保済
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「まず圧差」
『推奨します。隔壁の向こう側とこちら側の圧力差が大きい場合、開放時に粉塵または気流が逆流します』
「前回のログ通りなら、それで閉じた可能性がある」
『はい』
『閉じたものは閉じておきましょう』
「調べてからな」
レンは隔壁横の端末盤を開けた。前回、ねじを一本だけ仮止めにしておいたので、すぐ外れた。補助端子はまだ弱い電圧を持っている。黄色い表示がゆっくり点滅していた。
圧差計の細い管を、端末盤の脇にある検査孔へ差し込む。検査孔の蓋は固かったが、完全には死んでいない。少し回すと、ぷし、と小さく空気が漏れた。レンは反射的に顔を引いた。
『危険ガス反応なし。微量の空気流出を確認。圧差は小。許容範囲内です』
「今の音、嫌だな」
『はい』
『とても嫌です』
「そこは合うんだな」
圧差計の数値は安定していた。大きな逆流はない。ただし、奥側の空気は冷たい。温度差がある。完全な安全ではない。
レンは次に、換気チューブを検査孔へつないだ。直径は細い。人が通るような換気ではない。向こう側の空気を少し吸い、こちらから少し送るだけのものだ。ファンユニットを床に置くと、帰還マーカーの青い光が金属面に映った。
『換気中継は低出力で行います。奥側の粉塵を舞い上げないでください』
「二パーセント?」
『一パーセントから開始します』
「さらに弱いな」
『隔壁向こうの状態が不明です』
『零パーセントでもいいです』
「それは換気してない」
レンは小型ファンユニットにケーブルを接続し、スイッチを入れた。ファンが、こ、と鳴る。一拍遅れて、細い風がチューブの中を動いた。音は小さい。耳を近づけなければ分からない程度だ。それでも、センサーの数値は変わり始めた。
[VENT LINE TEST]
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換気中継:一パーセント
圧差:小
危険ガス:未検出
粉塵濃度:奥側やや高
温度差:奥側低温
推奨:低出力維持
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「奥側、粉塵高めか」
『はい。ただし、逆流するほどではありません。低出力換気を維持すれば、徐々に低下する見込みです』
「どのくらい?」
『十分から十五分程度で、プローブ投入可能範囲まで下がる予測です』
『待ちましょう。待つのは安全です』
「珍しく前向きだな」
『待つだけなら得意です』
レンは壁にもたれず、床の主束を避けて座った。地下で座るのは好きではない。だが、立ったまま待つよりましだった。フェイスシールドの内側に、薄く息がかかる。換気チューブの小さな音が、静かな地下に混じる。
中間隔壁の向こうには、まだ誰も入っていない。だが、線は通った。空気の線だ。レンは端末でプローブの状態を確認した。小型通信プローブは、手のひらより少し大きい箱だった。車輪はない。細いケーブルで押し込むだけの、ほとんど棒の先につけるセンサーだ。映像、温度、粉塵、簡易通信。できることは少ない。だが、人が入る前には十分だった。
『粉塵濃度、低下傾向。プローブ投入準備が可能です』
「よし」
『繰り返します。プローブのみです』
『ガタではありません』
「分かってる」
レンは検査孔の幅を少し広げた。隔壁の本体は開けない。端末盤の下にある保守用の小孔だけを使う。プローブを入れるにはぎりぎりだ。
小型通信プローブをケーブルの先に固定し、ライトを点ける。小さな白い光が床を照らした。レンは息を整え、プローブをゆっくり押し込んだ。金属の縁に当たり、少し引っかかる。角度を変える。入る。ケーブル越しに、向こう側の床をこする感触が伝わってきた。ざり、ざり、と細かい音が端末に入る。
「投入する」
『記録開始』
画面に、隔壁の向こう側が映った。
まず見えたのは床だった。粉塵が薄く積もっている。地表の白い粉塵とは少し違う。灰色で、細かい。壁には太いケーブル束。天井の一部から、垂れた配管が斜めに下がっている。通路は狭いが、完全には潰れていない。
『映像取得。奥側通路を確認。崩落なし。ただし、天井配管の垂下あり。通行時は頭上注意』
「扉の向こう、通路か」
『はい。中間隔壁の奥は短い連絡通路と推定されます』
『短くても嫌です』
プローブをさらに押す。三十センチ。五十センチ。ケーブルが重くなる。映像が揺れ、粉塵がライトの中で舞う。
奥に、表示板が見えた。
南側管制施設 補助入口。
文字はかなり削れているが、読めた。レンは思わず息を止める。候補ではない。影でもない。扉の向こうに、名前が残っている。
「見えた」
『表示板を確認。南側管制施設補助入口。候補一致率が上昇しました』
「ここで当たりだな」
『はい。中間隔壁の先は、南側管制施設補助入口へ続いています』
『当たりでも嫌です』
「そこは変わらないか」
レンはプローブを止め、周囲のデータを取った。温度、粉塵、酸素、微弱電力、通信反射。奥側の空気はまだ冷たいが、危険ガスはない。粉塵は高いが、換気を続ければ下がる。床は見える範囲では崩れていない。ただし、通信が弱い。中間隔壁の向こうへ入るなら、扉の先にすぐ中継器を置く必要がある。
[PROBE SURVEY 01]
――――――――――
奥側通路:確認
崩落:映像範囲内なし
粉塵濃度:中
危険ガス:未検出
表示板:南側管制施設補助入口
通信:弱
推奨:隔壁開放前に換気継続/開放後すぐ中継器設置
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「開けられるか?」
『条件付きで可能です。ただし本日中の人員進入は推奨しません。開放、換気、閉鎖確認までで止めるべきです』
「開けて、空気を通して、閉める」
『はい。次回の進入準備としては適切です』
『開けるのですか』
「少しだけな」
『少しだけは危険な言葉です』
「分かってる。だから段取りを作る」
レンはプローブを少し戻し、検査孔の内側に固定した。奥側の映像を見ながら、隔壁の手動ハンドルを確認する。ロックは一部生きている。完全に開ける必要はない。十度。いや、五度でもいい。空気を通し、扉が動くか確かめる。
ノアが開放手順を表示する。
[BULKHEAD PARTIAL OPEN]
――――――――――
開放角度:五度以内
換気中継:継続
圧差:監視
奥側プローブ:固定
人員進入:禁止
異常時:即時閉鎖
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「五度」
『五度です』
『零度がいいです』
「ガタ基準は聞いてない」
レンはハンドルに手をかけた。冷たい。手袋越しでも分かる。ゆっくり回す。最初は動かない。もう少し力を入れる。金属の奥で、ぎ、と固い音がした。
止まる。
『ロック一段解除。圧差変化なし』
「続ける」
『慎重に』
もう一度、ハンドルを押す。今度は、がこん、と低い音がした。隔壁の縁から、灰色の粉塵が少し落ちる。ガタの前照灯が跳ねた。
『音が大きいです』
「聞こえてる」
『閉めましょう』
「まだ一段だ」
三段目で、扉がわずかに動いた。
隙間は指一本ほど。そこから、冷たい空気が細く流れてきた。チューブの風とは違う。隔壁の向こう側の空気だ。レンは顔を近づけず、センサーを前に出す。
『圧差、小。危険ガス反応なし。粉塵濃度、一時上昇。換気中継を維持してください』
「五度まで開ける」
『現在、三度です』
「あと少し」
『あと少しは危険な言葉です』
「今日は言葉狩りが多いな」
『必要です』
レンは慎重に押した。
隔壁が五度だけ開いた。向こう側の暗い通路が、細く見えた。プローブの小さなライトが床を照らしている。灰色の粉塵が少し舞い、換気チューブに吸われていく。
扉の奥から、低い電子音が聞こえた。
ぴ、と一度だけ。
レンは固まった。
「今の」
『奥側端末の反応です。隔壁開放により、南側管制施設補助入口側の待機端末が一時応答しました』
「起きた?」
『起動ではありません。待機反応です』
『起きなくていいです』
プローブの映像が少し揺れた。奥の表示板の下、壁の端末に小さな橙色の点が灯っている。
[SOUTH CONTROL AUX RESPONSE]
――――――――――
南側管制施設補助入口:待機反応
通信強度:極微弱
端末状態:低出力
扉奥環境:換気中
進入条件:未達
次作業:奥側中継器設置/補助端末診断
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「南側管制施設の入口、反応した」
『はい。南側管制施設候補は、補助入口レベルで実在を確認しました』
レンは画面を見たまま、息を吐いた。
やっと、ただの候補ではなくなった。通信塔の南側。北東中継塔が残した警告。地下配線路。第一踊り場。中間隔壁。その向こうに、南側管制施設の補助入口がある。
線が、また一つ先へ伸びた。
『開放維持時間、六十秒経過。粉塵濃度は低下傾向ですが、人員進入条件は未達です』
「分かってる。閉める」
『適切です』
『非常に適切です』
レンは隔壁を閉めた。五度の隙間が、ゆっくり細くなる。最後に、重い金属音がして閉鎖位置へ戻った。完全ロックはかけない。次回、再開放できるよう、保守モードのままにする。
プローブは抜かず、検査孔の内側に残した。奥側の環境を監視し続けるためだ。人が入る前に、線を置いたままにする。
[BULKHEAD HOLD]
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中間隔壁:閉鎖位置
保守モード:維持
奥側プローブ:固定
換気中継:低出力維持
南側管制施設補助入口:待機反応確認
人員進入:未実施
――――――――――
『入っていません』
「入ってないな」
『高評価です』
「今日はそれでいい」
ガタがようやく前照灯を少し下げた。
レンは床に置いたファンユニットを固定し直し、換気チューブが外れないように結束した。帰還マーカーはそのまま。中継器もそのまま。奥側プローブも生かす。ここはもう、ただの行き止まりではない。次に進むための前線になった。
「戻るぞ。次は奥側中継器を入れて、補助端末を読む」
『了解しました。次回作業候補を記録します』
『私は入りません』
「まだ決めてない」
『先に言いました』
戻り道では、地下の音が少し違って聞こえた。ファンユニットの細い音。帰還マーカーの低い信号音。第一踊り場の弱い照明。どれも小さい。だが、前にはなかった音だ。
第一踊り場で、レンは一度振り返った。下行階段の先は暗い。中間隔壁は見えない。けれど、その奥でプローブが小さく動き続けている。
人が入る前に、線を通した。
それだけで、地下は少しだけこちら側になった。
通信塔基部管理室へ戻ると、ノアが地図を更新した。地下第一踊り場から中間隔壁へ。中間隔壁から、その向こうに小さな橙色の点。
南側管制施設補助入口。
レンはその点を見た。まだ本体ではない。まだ入口だ。起動もしていない。入ってすらいない。けれど、実在は確認した。
「ここまで来たな」
『はい。南側管制施設補助入口までの経路を確認しました』
『帰ってきました』
「それも大事だ」
『はい。非常に大事です』
レンは端末を保存した。保存完了の文字が出る。
外縁塔列へ直接行くな。半分沈んだ中継塔が残した警告は、正しかった。先に南側を見る。補正点を起こす。帰れる線を残しながら、少しずつ進む。
次は、南側管制施設補助入口の端末を読む。そこに、外縁塔列へ向かうための本当の補正情報が残っているはずだった。