作品タイトル不明
第38話 右腕のシールを交換する
外壁ハッチを閉めたあと、レンはしばらく床に座り込んでいた。
回収袋は足元にある。保守棟から持ち帰ったシールリング候補が三つ、粉塵フィルタ候補が二本、固定具、手動工具。それから端末から抜き取った在庫記録と外部マップの断片。
袋は重かった。
その重さだけは、はっきり成果だった。
『レン、外部作業スーツの脱装を推奨します』
「分かってる」
『右腕シールの暫定補修部に微細な変形があります』
「……分かってる」
『早期交換を推奨します』
「今からやる」
レンは立ち上がった。
脚が重い。保守棟の床が沈んだ時の感触が、まだ膝に残っている。がしゃん、と落ちた天井パネルの音も、耳の奥に残っていた。
それでも、今日は進んだ。
中に入った。部品を見つけた。使えるかもしれない。
整備室の作業台に回収物を並べると、それだけで少し気分が変わった。
空っぽではない。
選べる部品がある。
[RECOVERED PARTS CHECK]
――――――――――
シールリング候補:三
粉塵フィルタ候補:二
固定具:二
手動工具:一
在庫記録:部分取得
外部マップ:断片取得
――――――――――
「シールリングから確認」
『了解しました。右腕接合部の寸法照合を開始します』
「三つのうち、どれか当たれ」
レンはヘルメットを外し、外部作業スーツの右腕だけを整備台に固定した。
すぐに脱ぎたいところだが、接合部を開けるにはスーツ側の圧力を落とし、シールを段階的に剥がす必要がある。雑に外すと、古い補修材ごと接続面を傷める。
右腕は、前回からずっと気になっていた。
そこに問題があると分かっているだけで、外にいる間ずっと意識を持っていかれる。今度こそ直せるなら、それだけで外に出る時の怖さが少し減る。
「候補一」
『外径一致。内径不一致。使用不可』
「早いな」
『明確に違います』
「じゃあ次」
レンは一つ目のリングを脇に置いた。
候補二。
『外径一致。内径近似。材質硬化あり』
「使える?」
『短時間なら使用可能。ただし長期使用は非推奨』
「また暫定か」
候補三。
リングは少し変色していたが、弾力は残っている。レンは指で押してみた。硬すぎない。割れも見えない。
「候補三」
『外径一致。内径一致。材質劣化、許容範囲内』
「当たり?」
『最も適合します』
「よし」
レンは思わず息を吐いた。
[SEAL RING MATCH]
――――――――――
候補一:不適合
候補二:短時間使用可
候補三:適合
推奨:候補三
――――――――――
「候補二も予備にする」
『推奨します』
「候補一は?」
『現在の右腕接合部には使用不可です』
「でも何かに使えるかもしれない」
『汎用保管へ分類します』
「捨てない」
『了解しました』
レンは候補三を作業台の中央に置いた。
次は、古い暫定シールを外す作業だ。
これが一番嫌だった。
右腕の接合部は、前に急いで補修した。補修テープ、仮シール、上から巻いた補強材。安全のために重ねたものが、今度は剥がす時の邪魔になる。
レンは細いカッターを持った。
『補修材を切開します。接続面を傷つけないよう注意してください』
「言われなくても分かってる」
『右側の補強テープに応力が残っています』
「剥がしたら跳ねる?」
『可能性があります』
「嫌な罠だな」
カッターを入れる。
ぎ、という小さな感触。
補修テープの表面だけを切る。深く入れない。下には本体の接続面がある。そこを傷つけたら、せっかくのシールリングも意味がない。
レンは肩を丸め、息を止めた。
一枚目。
二枚目。
補強材が剥がれる。
ぺり、と音がした。
そこまではよかった。
三枚目を剥がした瞬間、右腕側の圧力表示が小さく揺れた。
『圧力低下』
「どのくらい」
『微小。ただし継続』
「まずいな」
レンは手を止めた。
まだ完全には開けていない。だが、古いシールの端が浮き、そこから圧が逃げている。作業台上の局所圧力は保たれているが、このまま長引けば、スーツ側の確認が面倒になる。
「一度押さえるか」
『仮押さえを推奨します』
「固定具」
保守棟から持ち帰った固定具を一つ取る。
形が合うか分からない。だが、挟むだけなら使えるはずだ。レンは浮いたシールの端を固定具で押さえ、補助クリップをかけた。
かち。
圧力表示の揺れが小さくなる。
[SEAL WORK STATUS]
――――――――――
旧シール:部分剥離
圧力低下:微小
仮押さえ:有効
作業継続:可能
――――――――――
「保守棟の固定具、いきなり役に立ったな」
『適合範囲内です』
「拾ってよかった」
『はい』
ノアの返事が短かった。
けれど、少しだけ肯定が早い気がした。
レンは旧シールを少しずつ剥がした。
ここからは急げない。接着面を温め、端を起こし、カッターで切る。固まった補修材がところどころ残る。焦げたような臭いがした。整備室の空気に、古い樹脂の匂いが混じる。
レンは鼻をしかめた。
「くさい」
『加熱した補修材の揮発成分です。換気を上げます』
「頼む」
送風音が少し強くなる。
ごう、と低い音が壁の中を通った。
古い樹脂の匂いが薄れる。
右腕の接合面が見えてきた。
思ったより傷んでいる。
レンは言葉を止めた。
細い傷。前回の作業で入ったものか、もっと前からあったものか分からない。接合面の端が一部削れている。これでは、暫定シールが不安定になるのも当然だった。
「ノア」
『確認しています』
「これ、俺がやった傷か」
『判別不能です』
「そうか」
『ただし、前回補修時の工具接触記録と一致する傷が一部あります』
「そこはぼかしてくれてもよかった」
『正確性を優先しました』
「だよな」
レンは小さく息を吐いた。
失敗の跡だ。
でも、それも含めて直すしかない。
『接合面の軽研磨を推奨します』
「削りすぎたら?」
『密閉性能が低下します』
「怖いことを普通に言うな」
『必要情報です』
レンは研磨パッドを取り出した。
保守棟から回収した手動工具のひとつだ。細かい面取りに使うものらしい。持ち手は古いが、先端はまだ使えた。
傷の周囲だけをなでる。
しゃり。
軽い音。
削るというより、荒れを整える。深い傷は消えない。だが、シールが乗る面だけは少し滑らかになる。
一回。
二回。
三回。
『削り量、許容範囲』
「助かる」
『継続可能』
「この手の情報は、もっと早めにくれ」
『現在、リアルタイムで提示しています』
「まあ、そうだけど」
接合面を拭き、候補三のシールリングを持つ。
リングは黒く、少しだけ艶がある。新品ではない。古い。だが、今の暫定補修材よりはずっといい。
「入れるぞ」
『位置合わせ補助を表示します』
作業台の小さな投影に、青い線が出た。
右腕接合部の溝。リングの向き。合わせるべき切り欠き。
レンはリングを溝へ当てた。
入らない。
「……入らない」
『角度が二度ずれています』
「二度って細かいな」
『少し左です』
「それでいい」
少し左。
押す。
まだ入らない。
『奥側が浮いています』
「見えてる」
『均等に圧をかけてください』
「手が二本しかない」
レンは固定具をもう一つ使った。
片側を軽く押さえ、反対側を指でならす。リングが溝に沿って少しずつ入っていく。
ぬるり、ではない。
ぐ、ぐ、という硬い感触だった。
古いリングだ。
完全に素直ではない。
「ここ、硬い」
『材質硬化部です。局所加温を推奨』
「溶かすなよ」
『溶融温度には達しません』
「ほんとだな」
レンは加温プローブを近づけた。
リングの一部が少し柔らかくなる。そこを押し込む。
かち。
小さな音がした。
リングが溝に収まった。
「入った」
『全周確認中』
レンは手を離さず待った。
ここで気を抜いて外れたら、かなり悲しい。
[SEAL RING INSTALL]
――――――――――
装着位置:一致
浮き:微小
材質状態:許容
圧着処理:必要
――――――――――
「浮き、あるのか」
『微小です。圧着処理で解消可能』
「よし」
圧着処理。
これも嫌だった。
接合部を閉じ、スーツ側の圧力を段階的にかけて、リングをなじませる。失敗すると、シールがずれる。最悪、また剥がして最初からだ。
レンは右腕ユニットをゆっくり戻した。
合わせる。
閉じる。
ロックを半分だけかける。
「圧力、低段階」
『開始します』
小さな音がした。
しゅう。
空気が入る。
リングが押される。
表示が揺れる。
「漏れてる?」
『圧力安定待ち』
「漏れてるか聞いてる」
『現時点では判断不能』
「嫌な返事だな」
レンは作業台に両手をついた。
表示を見る。
数字が下がる。
少し下がる。
止まる。
また少し上がる。
ノアが処理を続ける。
[PRESSURE TEST:LOW]
――――――――――
圧力:低段階
漏れ:未検出
リング位置:安定
次段階:可能
――――――――――
「よし」
『中段階へ移行します』
「待って。こっちの心の準備」
『心の準備は測定対象外です』
「そこを測れとは言ってない」
中段階。
しゅう、という音が少し強くなる。
レンは右腕接合部に耳を近づけた。
漏れ音はしない。
いや、微かに聞こえる気もする。
整備室の送風音かもしれない。
自分の呼吸かもしれない。
「ノア、音」
『漏洩音は検出されていません』
「ほんとに?」
『はい』
「疑って悪い」
『問題ありません』
表示が安定する。
[PRESSURE TEST:MID]
――――――――――
圧力:中段階
漏れ:未検出
リング位置:安定
接合部負荷:正常
――――――――――
「高段階」
『移行します』
レンは無意識に右手を握った。
力を入れても意味はない。分かっている。でも、手がそうした。
しゅう。
圧力が上がる。
数字が揺れる。
ひとつ、警告が出た。
[WARNING]
――――――――――
右腕接合部:微小変位
圧力維持:継続
――――――――――
「変位?」
『リングがなじむ過程の変位です』
「大丈夫なのか」
『監視中』
「大丈夫って言え」
『現時点では許容範囲内です』
「それでいい」
レンは作業台の縁を握った。
数字が止まる。
一秒。
二秒。
三秒。
警告が消えた。
[PRESSURE TEST:HIGH]
――――――――――
圧力:高段階
漏れ:未検出
リング位置:安定
気密:確保
――――――――――
レンはしばらく画面を見た。
読めている。
気密、確保。
もう一度見る。
やっぱり、そう出ている。
「……直った?」
『右腕シール交換、成功です』
「ほんとに?」
『はい。暫定補修状態を解除します』
表示が切り替わった。
[SUIT SEAL STATUS]
――――――――――
右腕シール:交換済
暫定補修:解除
気密:安定
外部活動推奨時間:再計算中
――――――――――
レンは椅子に座り込んだ。
力が抜けた。
右腕をゆっくり曲げる。接合部は引っかからない。嫌な音もしない。補修テープで無理やり固めていた時の、あのぎこちなさが消えている。
動く。
普通に動く。
それがこんなにありがたいとは思わなかった。
「右腕、動作試験」
『曲げます』
レンは右腕を曲げ、伸ばし、手首を回した。
かすかな機械音。
それだけ。
漏れ音はない。
表示も安定。
「ノア」
『はい』
「これ、かなり助かる」
『はい。外部活動時のリスクは低下します』
「もっと喜べ」
『私は喜悦を表現する機能を持ちません』
「知ってる」
『ただし、成功と評価します』
「それでいい」
レンは小さく笑った。
整備室の送風音が、いつもより少しだけ静かに聞こえた。
ノアの再計算結果が出る。
[EVA TIME RECALCULATION]
――――――――――
右腕補修リスク:低下
粉塵フィルタ候補:追加
予備シール:一
推奨活動時間:十五分 → 二十二分
通信塔接近可能距離:拡大
――――――――――
「二十二分」
『はい』
「七分伸びた」
『外部活動計画の自由度が上がります』
「通信塔、行けるか?」
『現時点では、通信塔外縁への接近可能性が上昇しました。ただし、到達には追加準備が必要です』
「行けるかもしれない、だな」
『はい』
レンは右腕をもう一度見た。
補修テープだらけだった場所が、ちゃんとした接合部に戻っている。見た目はまだ古い。傷もある。新品とはほど遠い。
でも、暫定ではない。
それが大きかった。
レンは回収袋の中の粉塵フィルタを見た。
「次はフィルタ確認。それから外部マップ」
『推奨順序です』
「今日はまだやることあるな」
『休息も推奨します』
「それも分かってる」
レンは立ち上がろうとして、少しふらついた。
すぐに作業台へ手をつく。
『レン』
「休む。今のは、そういう合図だ」
『了解しました』
椅子に座り直す。
右腕は、ちゃんと動いた。
外へ出るための怖さが、ひとつ減った。
通信塔は、まだ遠い。
でも、さっきよりは近くなった。