作品タイトル不明
125話 今日はパン! パン、パン、パパン!
「えぐ、ひっく、ひく、ずず……」
「あ、あの、ストルさん」
「ずず、ひぐ、すす」
ダメだ、ストルが泣き止まない。
遠山鳴人は日曜日のショッピングモールでちびっこの相手をしているお父さんの偉大さを噛み締めていた。
「見て、あの人、お祭りなのに女の子泣かせてる」
「ママー、あのお姉ちゃん、泣いてる、あのおじさんに泣かされたんだよきっと」
「しっ、見ちゃダメ。お昼からの屋台広場連れて行ってあげるからね」
ひそ、ひそ、ひそ。
泣き止まないストルの腕を引いて歩く遠山に、善良なアガトラの人々からの視線が突き刺さり続ける。
「ストル、ほら、ストルさん。見られてる、ものっすごい周りから見られてるから。泣くのやめよっか、ね?」
「ずずっ、ぐすっ、でも、でも……あんな、ものを見せられたら……」
「あ? 俺の未来の姿とやらの話してんのか? 確かに印象悪かったけどーー」
「だって、あの頭……あの見た目……ウオエ」
ストルが何かを思い出す素振りを見せた後、うぷっとえづいた。
「ねえ、ストル! ちょっと、マジでお前アレが何に見えてたの!? 恐いんだけど! 少し目つき悪かったけどあれだったよ、そんな吐きそうになるほどの!?」
「だって、だって、あんな、訳の分からない姿に……」
「ええ……ほんと何に見えたんだよ」
「それは……あれ、えっと、 ど(・) ん(・) な(・) の(・) で(・) し(・) た(・) っ(・) け(・) 。(・) …(・) …(・) わ(・) す(・) れ(・) 、(・) ま(・) し(・) た(・) 」
1、2、3、ぽかん! ストルは全てを忘れた! みたいな顔で呟く彼女。それでもすぐそのまま泣きっ面のまま、うーん、うーんと頭を捻ってる。
「コワー」
もうあまり蒸し返さない方がいい、遠山はそう判断し、道を急ぐ。
目的地は、もちろん彼らの屋台。もう屋台通りも近くーー。
「あ、お兄さんにストルちゃん! お帰りなさい! って、え?」
「あー、ストルお姉ちゃんが泣いてるー」
喧騒の中から、こっちへ向けてよちよち走ってくるちびっこ2名。遠山の一味の中でも陽キャオブ陽キャの2人だ。ほわほわ町娘のニコと、ふわふわ少年のペロだ。
「ぐず、ニコちゃん、ペロくん……」
「……またお兄さん?」
ぐずぐずしているストルを見て、目を細めた
「おっと、とうとうまたって言われちゃった」
ぼそりと呟き、その場にしゃがみ込む遠山の肩をペロがぽんぽんと無言で肩を叩く。
「ドンマーイ、お兄さん。女の子の評価って僕らが思うよりもシビアだよー、気づいた時には手遅れな評価されてることが多いよ―」
「ぺ、ペロさん……」
「もう、ストルちゃんはこっち、ペロ、お兄さんと一緒に屋台へ戻ってて! あ、お兄さん、ストルちゃんは任せてね。この子、割と繊細なところあるからあまり気にしなくてもいいのだわ!」
「に、ニコさん……」
ニコとペロは妙に優しかった。
遠山の一味はだいたい戦闘力の高さに日常生活においての発言力が反比例している、悲しいことに。そのままちびっこ達に介護されたり、励まされたりされながら歩き続ける竜殺しと第一の騎士。
屋台広場を少し歩くとそれはすぐに見えてきた。
三角型の天幕に開いた穴からは煙突が伸びている。
竜祭りのために用意したラザールベーカリーの屋台だ。
「ラザールの旦那! こっちの生地が膨らんできたぞ!」
「……ラザールさん、こっちの生地も膨らんできた」
「了解だ」
まるでそう決められた機械のように正確に動くラザールの両腕。
もちもちの生地が、手の中でくるくると舞っていく、残像でしか追えないほどの速度、ラザールの右手が丸められた生地をぽいっと宙へ。
「よっと」
かと思えば左手がその生地に触れる、それだけでコッペパンの形になっていく生地たち。ジャグリングのように生地がいくつもすぽぽっと、ラザールの目の前を舞う。
「ほっ」
ぎょろ、ぎょろ。赤い瞳が宙に舞う丸い生地を追う。しゅばっ、ラザールの腕が瞬き、宙に舞う生地たちをほぼ同時にコッペパンの形に変えていく。
「ほぼ魔法だな、おい」
「む、ナルヒトか」
とととと。あらかじめ計算されていたかのように、木の板の上にきれいに整列されながら着地していく生地たち。屋台の奥を見れば同じように成型された生地が並ぶ木の板が長机に置かれている。
「おお、達人技」
「おっと、ナルヒト。お帰り、竜祭りの盛り上がりはどう……ストル?」
作業の手を止め、こちらに気付いたラザール。泣いているストルを見て、目をぎょっと開く。
「あー、すまん、ほら、男子は敷居を跨げば7人の敵ってな。いろいろあったんだ」
「色々、ね。まあ。その、仲がよさそうで何よりだ」
またか、みたいな顔でラザールもまた目を細めて遠山を見つめる。最近、一味の仲間たちは無意識に遠山の癖を真似することが多くなっていた。
「言葉を選ばせて悪い。おお、にしても、すげえ。もう準備は完全OKってか?」
「ああ、アンタが教えてくれた二次発酵に最終発酵……おっと、違う違う。祝福でパンが膨らむタイミングを段階ごとに分けて生地を作成するやり方、これはいいな。大量に生地を作る効率もいいし、何より焼き上がりの完成度が段違いだ」
遠山が夢の中のパン文書館で得た知識をラザールはからからのスポンジが水を吸いあげるようにどんどん吸収していった。
加えて、ドワーフの工房に特注で作らせた移動式のパン窯は焼成中に水を注水できる仕組みになっている。水蒸気を利用し焼成する仕組みは現代のパン窯と同じものだ。
「へえ、そりゃ楽しみだ、ソーセージやケチャップも……ああ、準備は万端ってか?」
「ああ、楽しみで仕方ないよ。ああ、その、ナルヒト」
「あ?」
もごもごと口を濁らすラザール。彼が目を泳がせたあと、息を吸い込み、遠山に向けて頭を下げた。
「さっきは、すまなかった。ストルもそうだが、半ば追い出すような形になってしまって」
「ああ、よしてくれ。あれはさすがに俺とストルがおかしい、まさかここまでパン作りが下手だとは自分でも思わなかったんだ」
「そういってくれると助かるが……つい、気が入りすぎてしまって……こんなものまで作ってくれているとはね」
言いながら、ラザールがテントの天幕と、看板を見つめる。
そこにはある意匠があった。デフォルメされたトカゲの影が大きな口を開けバケットのようなパンを頬張ろうとしているデザイン。
それはあの工房の一人息子
「お、気にいってくれたみたいで何よりだ。工房のあの親方の一人息子、あいつが天才でな。他にも仕事を頼んでるんだが――」
『あーあー、起動テストー、起動テストー、アガトラの都市機能、”副葬品・山びこの壁”が起動します。アガトラのみな様ご機嫌よう、こちらは南部領領主、サパン・フォン・ティーチ辺境伯の政務室です』
突如、街中に響く女性の声。拡声器にも似た響きの声がどこからか聞こえてくる。
「これは……」
「始まったな、そろそろ昼の時間だ」
『あー、あー。こんにちは、冒険都市アガトラの皆様。今、皆さまに皇帝閣下の権限の下と天使教会の協力を持って届けられた副葬品によって声を届けています』
「副葬品って」
「わたし、アガトラ生まれだけどそんなのあったのね」
「大貴族、ティーチ家、やはり侮れないな」
ざわざわと屋台通りも色めき立つ。どうやらこの街の住人達にとってもこの声の機能は初見のものらしい。
『竜祭り初日のお昼になります、これよりアガトラ商業区屋台通りにて都市と商業ギルドに許可されたものによる” 自由市場(フリマ) ”が開催されます。竜祭りの一週間、自由市場にて最も多くの売り上げと敬意を獲得した者には 市場王(メル―カリー) の称号が与えられ、アガトラの権限が許す範囲での希望を叶えることが出来ます』
「やっぱ今メルカリって――」
「しっ、ナルヒト」
『それに先立ち、冒険都市アガトラの長、サパン・フォン・ティーチ辺境伯より開催の挨拶を行います。どうぞ、辺境伯』
『……あっ、これ、もう話していいの? ミレー君。え、もう聞こえてる? ――ウォッホン! アガトラの愛すべき市民の皆様、この素晴らしい鳥唄の月をどうお過ごしでしょうか? きっとあなたの隣、そしてあなた自身も笑顔であることを祈ってやみません。さて、皆さまもご存じのように去るひと月前、われらが竜が」
響き続ける領主の声、校長の話と似た雰囲気がする。
「どこの世界も偉い奴の話は長いな」
「彼らはそれが仕事だからね、仕方ないさ」
軽快に返事をしつつ、また生地の仕込みに戻るラザール。彼の尻尾はるんるんと横に縦に揺れている。
「調子はどうだ? ラザール」
「絶好調さ。今から楽しみで仕方ない。我々の作るパンは本当に 良(・) い(・) モ(・) ノ(・) だ(・) 。(・) 必(・) ず(・) こ(・) の(・) 冒(・) 険(・) 都(・) 市(・) を(・) 満(・) 足(・) さ(・) せ(・) る(・) こ(・) と(・) が(・) 出(・) 来(・) る(・) は(・) ず(・) だ(・) 」
「……ああ、そうだな」
満面の笑みのラザールの言葉に遠山は頷く。
ラザールとは対照的に無表情のまま、今まさに始まった自由市場になだれ込んで来る人々を眺める。
「さあ! みんな、がんばろう! 忙しい一日になると思うが力を貸してくれ!」
「「「「「おー!!」」」」」
いつになく張り切っているラザールとそれに応える子ども達。
和気藹々とした空気の中で、カチリ、遠山鳴人は自分の中でスイッチが切り替わっていくのを感じる。
「……さて、正念場、だな」
その元気な返事に、遠山鳴人が参加する事はなかった
竜祭り、初日、自由市場が始まる。
◇◇◇◇
~同時刻、竜大使館、蒐集竜の寝室の前で~
「お姉様〜アリスお姉様〜! もー! いつまでお部屋にいらっしゃるのですか! もうお祭りは始まってしまいますわよ〜!」
どんどんどんどん!
腰まである緑色の髪がドアをノックするたびにふりふりと揺れている。
黒を基調とした格式高いメイド服に身を包むフォルトナ・ロイド・アームストロングは困っていた、なぜかーー。
『むー、むー。むむむむむむ。のう、フォルトナ、やはり、その明日、明日にせぬか? な、ナルヒトに会いにいくのは、やはり、今日は、なんか、その、アレだ。日が悪いのではないか?』
彼女の仮の主人、蒐集竜、アリス・ドラル・フレアテイルが部屋から中々出てこないのだ。
「お、おい、バカひ……いや、フォルトナさん、流石にいくらなんでも、蒐集竜様に失礼じゃァ、ねえかなァ……」
「なーにを言っているんですか! もうベルナル様が馬車をお庭にご用意してらっしゃいますわ! 竜殺し殿の屋台始まってしまいますよ! それに! 一昨日から頑張って仲直りのためのお菓子とか作られたでしょう! 大丈夫! 大丈夫ですから!」
ドンドコドンドンドンドンドドン。
「あ、だから、そんなに叩くなってェ……」
ドンドンドドンどんどんどん!! 竜の棲家である自室の部屋をフォルトナは殴るような勢いでノックしまくる。
ウィスのか細い制止の声はノックの音に消されていく。
『む、むむむむむ。わ、わかった、わかったぞ。だ、が、も、もう少し、もう少し待て、フォルトナ。正確に言うと後10分ほど……』
扉の向こうから弱々しい声が届く。なんとなくあの青い瞳が少しウルウルしているような光景が扉越しに見えるようだ。
「だーめーでーす! お姉様! さっきも貴女様あと5分って言っていましたのよ! なんっで10分に増やしてるんですかっ!」
『だ、だが、フォルトナ。まだ、まだな、オレにも心の準備というものがあるのだ……こ、これ、お菓子だが、本当にナルヒトは受け取ってくれるのだろうか?』
「受け取りますっよ! 貴女が手作りしたお菓子なんか、竜からの贈答品をもし断るような奴いたらうちのウィスがミンチ肉のようにしますからっ! だっかっらっ! このドアを開けてくださいまし!」
『ーーナルヒトをミンチ肉に、だと?』
ぱちん。
竜のスイッチが切り替わる。つい先程まで笑い合っていた者を次の瞬間には噛み殺しているかも知れない。
ヒトとは明らかに生命そのものが、そのルール自体が違う異質の殺気が分厚いドア越しにどろりと広がりーー。
「ヒッ」
フォルトナが緑の髪の毛を逆立たせて固まる。
「待て待て待て待て待て、おかしいおかしいおかしい。なんで今の会話の流れでこんな殺気を浴びんといけねえんだよ。もう怖えよ、竜。スイッチ入る場所と速度がヒトの範疇じゃねえからコミュニケーションが辛えよォ。あとバカ姫、今更ビビるのやめろマジで、てめえの言葉のせいで俺様が竜様に殺されたらマジでてめえ末代まで呪うぞォ」
ウィスが目を細めてため息をつきながらぼやく。ついでに固まっているフォルトナの首筋をぽんっと気付け代わりに叩いて元に戻していた。
『む、すまぬ。つい、な。だ、だが、やはりもう少し改良を……いや、そも、そもそも、ナルヒトは、その忙しいだろうし、オレが行っては迷惑に』
すんっ、と。竜からはもう殺気が消えていた。本気であの瞬間、もし、フォルトナとウィスの目の前にこの分厚いドアがなければ、きっと竜は2人を殺していただろう。
そんな殺気すら、竜にとっては他者とのコミュニケーションの起伏に過ぎない。
「う、……ふぅ〜.ふ〜……。いえ、お恐れながらそれはないです、お姉様。というか、多分、 あ(・) の(・) 人(・) の(・) 屋(・) 台(・) に(・) は(・) 竜(・) が(・) 必(・) ず(・) 必(・) 要(・) な(・) は(・) ず(・) で(・) す(・) よ(・) 」
『む。フォルトナ、それはどう言う意味だ』
淡々と言い切るフォルトナの言葉にドア向こうの竜が興味を示す。
「行ってみたら分かります! あのお方はきっと貴女を待っておられるはずです! お友達なのでしょう! お姉様!」
『友達……そ、そうだ! ナルヒトは我が友! そ、そうだとも、そうだ、そうだ……行く。行くぞ。もう行くったら行くのだ』
「はあ、この拗らせドラゴン。きっとまだ時間かかりますわ……ウィス、ベルナル様にもう少し時間がかかると伝えてきてくれますか?」
ドアガチャを一旦やめたフォルトナが肩で息をしながら、ウィスに指示をする。
「お、おう……なあ、お姫様よお」
「はい?」
こちらに振り向いたウィスからの問いかけにフォルトナが首を傾げて。
「いま、たのしいかァ?」
「ーー」
窓の外、小鳥が3羽戯れて。
「ええ! とっても!」
春の陽射しよりも確かな笑顔を、フォルトナが浮かべる。
「そぉかァ」
頷いたウィスはそれ以上は言わず、去っていく。
フォルトナの星形の虹彩が、その背中を見送る。一度、二度、閉じられた瞼。
彼女の小さな唇が、その背中に向けて何かをーー。
『むむむむ、服、服はこれで良い。だ、だが、むむ、髪、髪が少しふわふわしてるのだ……どうしよう』
「んもおおお! だぁかぁらァ! 貴女様そう言う生活力とか身だしなみとか基本できない超お嬢なんだから、わたくしがしますって! それ込みで急がないと、自由市場は始まっちゃいますし、それに貴女は貴女で、今日地下の闘技場で御前試しの主賓がありますでしょうがあああ! 竜祭りの主役がなんでまだお部屋でウダウダしている、んです、かあああ!!」
またドアの向こうから聞こえてきたビビりドラゴンの呟きに、ついにフォルトナは取り繕う余裕を忘れた。
それは彼女すら知らない彼女のほんとうの一面の一つ。
『むむむむむむむむむむむむ、だって、もし、オレ、ナルヒトに会いに行って、アレだぞ、冷たくされたらほんと、何するかわからんぞ』
「びびりながら脅そうとするのはやめましょうね! どちらにせよほんと、ほんっと! 部屋から出てくださいな! 巣篭もりドラゴン!」
『むむむむむむむむむむむむむむむむ』
結局、竜が諦めて部屋から出てくるのはこれより1時間後のことだった。
ああ、竜祭りはもう始まっている。始まってしまっているのだ。
◇◇◇◇
「ローレル商店の焼き菓子でーす!
「フリンデークスの新商品! 竜祭り限定、トラム味はここでしか食べれないよ!」
「天使砂糖をまぶしたパンペルデュ! あのアガトラの名店、ゴールデンハニーブレッドの名パン職人、ズーマ・ズマの新作! もう売り切れます!」
「ドワーフ工房直営店、アイアンメジャイ! 竜祭りの自由市場記念で全品半額! 今しかないよ!
「2級冒険者パーティー、ホーレイカンパニーとスクラギズの同盟屋台! 希少なモンスター素材売りますよー!」
竜祭りのいくつかある催しのひとつ、自由市場が始まった。どの屋台もヒトでごった返し、溢れている。
普段から商売をしている商人ギルド所属の商人はもちろんのこと、本来なら商売には携わることのない者も参加し、商いを行えるこの催し。
「おおおおおお! 美味い! やばい! 全部美味い!」
「自由市場すげええ、普段なら貴族だけ食えるお菓子とか普通に売ってんじゃあねえか!」
「あ、これずっと欲しかったんだよ! え、この値段!?」
「お姉さん、このスノースパイダーの牙、ほんとに銀貨2枚でいいのか?」
イベント好きでミーハー気質な帝国市民はうっきうきだ。流通に乗らない珍しいものから、ここでしか食べられない商品などであふれる自由市場は、ヒトを呼び寄せ大盛況だった。
「「「「「……」」」」」
ある一つの屋台を除いて、の話だが。
「誰も、来ないディス……」
ストルの呟きすら、はっきり聞こえるほどのひとの気配のなさ。
それはまるで、谷だ。それはまるで穴だ。
竜祭りの屋台広場。数多の市民であふれる屋台の中で、ラザールベーカリーの屋台の前だけ、誰もいない。
「え、えっと」
「あ、あらー」
「…………」
「くそ、なんで……」
こどもたちが茫然と自分たちを無視していく市民たちを眺める。
市民たちが何度も屋台の前を通り過ぎていく。だがそのほとんどは一瞥もしない。たまに屋台を眺める者もいるが――。
「お、あそこにも屋台ある。自由市場の屋台だ。行ってみる?」
「パンの屋台か……どうする?」
足を止めた男2人、屋台に立つラザールがぱっと顔を上げて――。
「よ、良かったらどうぞ! 純度の高い天使粉を使って丁寧に焼き上げたパンと肉詰めの味は――」
「……うわ、リザドニアンだ。もしかしてアレが作ってるのか? ……別のとこにしようぜ」
「勘弁してくれよ。一気に食欲なくなったわ」
すっと離れる。嫌悪感を隠そうともしない顔を浮かべそそくさといなくなってしまった。
「あ……」
その光景を見て、声を聴いたラザールが俯く。尻尾はしょげて石畳にだらんと落ちる、手は力なく降ろされていて。
ついさっきまで期待と興奮にうきうきしていたラザールが、背を向けて去っていく市民を見て固まっていた。
昔のラザールならば何も感じなかっただろう、己の人生の絶望を受け入れてすべてを諦めていたころの彼ならばこの程度のことなんともなかっただろう。
でも、今は違う。もう、影の牙ではない。
「っ! あの! パン屋です! とっても、とっても美味しいパン屋です!」
「ニコ……」
たまらなくなって飛び出したのは、ニコだ。客が寄り付かない屋台の前で小さな身体で必死に叫ぶ。
「あの、あの! ラザールさん、とってもパン作り上手なんです! 私たちも食べて、それで、本当に美味しくて……だから、皆さんも、その! 是非食べてください!」
「そ、そうだ! どうぞ! ラザールベーカリーです! アガトラにまだ存在しないパンです! すごく新しくて!」
「あ、あ、あの! 一生懸命、作りました! ラザールさんが、頑張ってその、生地とか、その!」
「おいしいよ~あのね~ほんと~においしんだよ~」
「だぶ! ぶっだ!」
口々に、子ども達が屋台の前で懸命に呼び込みを行う。彼らにとって、ラザールのパンとは只の食品ではない。
はじめてだった。心から美味しいと思えるものを安心できる環境で食べることが出来たのは。
はじめてだった。頑張って働いて、その後に食べるふわふわのパンの味は。
彼らにとって、ラザールのパンはそんな思い出と幸せの象徴でーー。
「見ろよ、必死だな……」
「わたし、ああいうの逆にきついのよね」
「子どもにあんな必死に宣伝させんなよ」
「なんかああいう風に言われると萎えるわ」
「別のとこにしようよ」
「みてらんね~」
「知るかよ」
だが、そんなものは客には関係ない。
子ども達にとってどれだけ大切で尊いものでも、客には一切関係ないのだ。
商売とはいつも公平で、自由で、残酷だ。
甘くはない。モノを作り、それを選び、買ってもらうということは。
だが、それがルールで、当たり前で、健全なことだ。
「クソ……どうして、あんなに準備したのに」
「……絶対に美味しいのに」
リダとルカは知っている。ラザールの腕前がどれほど卓越したものかと言うことを。
悔しそうに行き来する人々を見つめるこどもたち。
良いモノが常に売れるとは限らない、そして――
「あれだけ頑張って作ったのに……」
当人たちがどれだけ頑張ったか、創作者の努力など、購買者には関係ない。当然の事だった。
「なんで」
漏れたルカの問いかけに、答えてくれるものはいない。これは別に誰が悪いという話ではない。ただ、当たり前の世の中の仕組み。
ヒトは自由に自分が手に入れるものを選ぶ権利がある。それはつまり、この世には必ず誰にも届かず、必要とされないものも存在してしまう。
ただ、それだけのこと。
「き、いてくれ、みんな」
立ち尽くすラザールが、バカみたいに長いコック帽子を外した。
乾いた声はたどたどしく。
「え、ラザールさん?」
「お、俺が……俺は、一目につかない所に居てもいいかな。はははは、いや、参ったな。リザドニアンの嫌われようには参った、あ、ああ、そうだ、少し、俺は、外そうかな、そっちの方が、もしかしたら安心してお客さんが来てくれるかも――」
ラザールの声は明るい。ラザールの声は震えている。ふる、ふる。頼りなく揺れている。なのに明るい。
絶望とは簡単にヒトを侵す。
自らが心血注いでうみだした創作物が誰にも届かない、選んでもらえない。このシンプルな事実は、本当にきつい。
それまで大事で、素晴らしいとおもえていたものが一気に色褪せ、ゴミに変わっていく絶望。
「ら。ラザールさん」
どうしようもない徒労感がラザールを追い詰めていく。
「はは、すまない、お、俺がリザドニアンだったせい――」
赤い瞳が潤んでいたのは、絶望か悔しさか、悲しさか。それでも明るく、乾いた声で笑いながら自らの生まれを――。
「ラザール」
遠山の冷たい声が、ラザールに最後まで言わせるのを赦さなかった。
「ストップだ」
「――いや、今回は、今回はどう考えても、お、俺のせいだ。 ここまであんたが、みんなが助けてくれて、こんな立派な屋台まで、俺を押し上げてくれた! 夢を見たんだ、アンタがここまで連れてきてくれた! だが、現実はこれだ! そうさ、この通りだ! リザドニアンの作ったパンなどやはり誰も必要としてな――むぐ」
「……」
遠山がラザールの口を両手で抑える。鋭く、虚無の目、茶色の虹彩がわずかにかけて、白い靄が漏れている。
「ストップ、だ。ネガティブ白トカゲ」
「む、ぐ」
ぱっと、遠山がラザールの口から手を離す。
モノを売るためには想いや願いや正しさだけでは足りない。真摯さは必要だろう、素朴な想いも必要だろう。自らの創作物に対する信念も必要だろう。だが、それだけでは圧倒的に足りない。
ラザール達はそれを知らなかった。良いものを作れば、真摯に努力すれば報われる、そう思っていた。
だが、それは間違いだ。人にモノを買ってもらうということはそんな簡単なことじゃない。
「うろたえんなよ。ラザール」
その難しさを遠山鳴人が知っている。それだけが唯一の逆転の目だ。
「な、ナルヒト……」
「職人がしょぼくれた顔すんな、消費者が不安がる」
「だ、だが、現実は、現実は――」
「おい、俺がここまでどれだけ考えてやってきたと思ってるんだよ」
「え?」
「簡単に売れるわけねえだろ。現実は甘くねえ。なんの実績も、名声もない飛び入りの商売人の屋台が、ただ良いモノ作っただけで売れてたまるか」
遠山がぷひーとため息をつく。細い目は先ほどから行き交う人々と、空とを交互に見つめている。
まるで、誰かを探すかのように。
「え、いや、ナルヒト、何を、言ってるんだ、う、売れないって。だって、アンタが、言ってくれたんじゃないか。俺の。パンは――」
「美味いよ、ラザール。それは嘘じゃない」
「じゃあ、なんで、今――売れないって」
「いや、だから良いモノ作っただけで物が売れるわけないだろって」
ここまでは予想通りだ。 予(・) 想(・) 通(・) り(・) 、(・) パ(・) ン(・) は(・) 全(・) く(・) 売(・) れ(・) て(・) い(・) な(・) い(・) 。(・)
「え――」
「大丈夫だ、俺、今回は本気だから」
モノを売るために必要なモノ、想いや、真摯さだけでは足りない。
ラザールはそれを知らなかった。だから、当たり前の現実を目の当たりにして折れかけた。
けど、問題ない。
ここには、遠山鳴人がいるのだから。
「だいたい予想通りだ。無視が5割、興味が3割、興味のうちの大半は恐いもの見たさ、そして残りは嫌悪。今までのアガトラのミーハー根性を考えれば、全部うまくいけば、見込み8割取り込めるな」
「え、何を?」
ビジョンと戦略と戦術。無機質で無感情で乾燥した概念。思わず目を逸らしたくなる生々しさ。
それから逃げずに向き合う度胸と覚悟を決めることでしか、たどり着けない場所がある。
「ラザール、忙しくなる。準備しようや」
遠山鳴人はまず、世の中を信じていない。遠山鳴人はまず他人を信じていない。遠山鳴人はまず自分にとっての良い未来を信じていない。
「え」
「仕込みはもう、出来ている」
故に遠山は計算していた、遠山は準備していた、そして、だからこそ、遠山は賭けた。
最後に全て上手くいくように。
想いと真摯さだけでは足りない、ヒトはそんなに甘くない。
ロジックと戦略だけでは届かない。ヒトはそんなに簡単ではない。
必要なものは。
「俺たちは自分たちにできることは全てやった。ラザールはホットドッグを完成させた、がきんちょどもはそれを精一杯に手伝ってくれた。そして、俺は、賭けた」
全て、だ。
モノを売るために必要なモノはそのすべてだ。
自らが作りだしたものが良いモノに違いないという青臭い希望も、それを届けることで誰かに喜んで欲しいという献身も、そのモノに賭ける熱い想いも、それにこだわる狂気も。
そしてそれをどのように知ってもらうか、選んでもらうか、売れるかどうかを考える厭らしい打算も。
その全てが必要だ。どれを欠けても、足りない。
モノを売るのに打算はふさわしくないなどとは、傲慢の言葉に等しい。
だが、ここまでしてなお、この全てを行っても結果なんて分からない。
「正直、モノが売れるかなんて、結果的には運かもしれねえ」
遠山がにべもないことをボソリと呟く。それはこの世界のヒトでは経験しえないほどのモノとコトに溢れた現代にいた者だからこその言葉。
数多の消費されていくコンテンツに囲まれて過ごしてきたオタクだからこそ感じる難しさ。
「いや、多分運だ。モノが売れるか、自分が何かを作り出して、成功するなんざ、全部運だ。その時の時流や流行り、情勢、個人にはどうしようもない大きなうねりで決まっちまうのかもな。でも」
遠山は知っている。この場にいる全員がベストを尽くしたことを。
「でもだからと言って。何もしないわけにはいかない。人事は尽くした」
ずいっと、遠山がしょぼくれトカゲに詰め寄る。
「ナルヒト……」
「いいじゃねえか。やれることは全てやった。まずはその事実を誇ろうぜ。それで。ほら、いっちょやってみようや。ラザール」
きっと、遠山のその言葉、すべての意味をラザールは理解していない。それでも、ラザールの目に力が戻って――。
ぱーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。
大きな音が空で鳴った。
空。そう、空だ。アガトラ中に響いた音に、アガトラの民がみんな上を見上げて。
「あ」
”祝!!! ラザールベーカリー屋台、開店!!! おめでとう!!! 魔術学院一同より”
文字は読める全員がそれを認知した。アガトラの空に拡がる光の文字を、そのメッセージを。いや、読めるのに、意味が分からないそのメッセージ。
空に浮かぶ大きな島。魔術学院から打ち上げられた光と音。
「……天命だ」
遠山が呟く。
ぱぱぱぱぱぱぱぱん。どーーん、どーーん。
青空に拡がるのは7色の光。魔術学院から次々に打ちあがる。
遠山が、一瞬、誰かを探すように驚愕の顔で空を見上げる人だかりを見つめる。でも、すぐにそこから目線を切った。
「ラザール、こっから忙しくなるぞ」
「え?」
――天命がやってきた。
《♪〜☆★★》
音楽が鳴った。
ふっ、と。
蝋燭が吹き消されるように、 昼(・) が(・) 終(・) わ(・) っ(・) た(・) 。
《♪♪♪
空が歌っている。冒険都市の誰もが、いや、帝国の全ての意思と心ある存在たちが、ただ驚愕する。
夜が来た。星と月を引き連れ従え、この世界に唐突に夜が来た。
《♪♪♪
鳴り響き続ける音楽、星が歌い、月がそれを指揮しているかのように。
《 術式、仮設構築開始(デ・ザイン) 》
魔術学院が星を吐き出した。
次々に夜の帷を彩る色とりどりの流れ星ーーいや、違う。
「きれい……うん?」
「おい、あれ、まさか」
「ヒト?」
「いや、違う」
観衆たちは最初はその光景にただ見とれていた。そして次に気づく。夜のカーテンを自由自在に飛び回るいくつもの星たち。
それが星ではないことに。
「魔術師だ……」
魔術学院。空に浮かぶ島、そこから聳えるお城から次々に光り輝くヒトが空に飛んでいく。
ある者は箒に跨り、あるものは絨毯に乗り、またある者は何かでかい棒、柱のようなものに乗り。
様々な方法で、夜空に飛び立つ魔術師達。色とりどりに輝く彼らが夜の星に混じり、新たな輝きとなって舞う。
「あ、あ……」
「な、なんだ、こりゃ」
「ま、魔術師が、魔術師が攻めてきたのか?」
「ぎゃああああ、大聖堂の方を飛んでたのうちのバカ魔術師だったよな!? 今の!? なんであいつ他の魔術師が箒とか絨毯で乗ってるのに、棒で飛んでんの!? バカなの!?」
「いや! ラッド! よくみろ! 棒じゃない! 丸太だアレ!」
「バカなことには変わりないんですけど! せめて箒とかで飛んで! あいつのオリジナリティ、パーティメンバーとして恥ずかしすぎるんですけど!?」
街の住人が、今、竜祭りに盛り上がる全ての人々がその魔術が生み出した奇跡の光景を見上げている。
あまりにも現実離れした光景、魔術師が夜空を飛ぶたびに、箒の軌跡が、絨毯の揺めきが、丸太の輪郭が、夜空に光の線を引いていく。
そしてーー。
「あっ」
「おい、あれ」
「え、なに?」
「わーきれーふうせんだあ」
《豕募援縲∬オキ蜍輔?よ?縲∵弌縺ョ螳夂炊繧貞ョ壹a繧玖?》
それは突如、現れた。アガトラの各所から湧き出る光の泡。
それは空に浮かび、ゆっくり、ゆっくり形を模ってゆく。
ヒトの形にーー
「あ、え」
「あれ、なに」
そして、幼いこどもたちが目を輝かせる。星空に現れ、星空の手を伸ばす巨大な光の人影に。
「――てんしさまみたーい」
『あーあーあー!!? ……ごほん、親愛なる冒険都市アガトラの皆様! ご機嫌よう! 天使教会主教、カノサ・テイエル・フイルドです』
竜祭りの始まりを告げたあの副葬品のよる声の響き。今度は辺境伯ではなく女性の声だ。
「あ、このお声、主教様……」
「おお、なんとありがたい……」
「お、我らが銭ゲバ様のお言葉だ」
街の市民たちの反応は様々だ。基本的に教養が高く、もとから裕福な生活をしている市民たちは統一宗教の長へ純粋な敬意を。そして目端が利いて金勘定が得意だったりする平民たちは、愛すべき同類に軽口を叩く。
『お、お、落ち着いてください。い、今、空に浮かんでいる光は天使教会から竜祭りを祝う祝砲のようなものです。――決して魔術学院への自動迎撃法術式が勝手に作動したりとか、魔術学院と天使教会が争うための防衛機構が作動したとかではございませんので――』
《縺雁燕縺溘■縺ッ霈昴¥縺ケ縺阪〒縺ッ縺ェ縺》
『あ、っべ』
主教の放送が終る前にそれが動き出した。
《譏シ縺ッ螟懊→縺ッ驕輔≧》
長い髪をかたどる女型の光の影が夜空に手を伸ばす。
空を走る魔術の輩を、天使の定めた世界の定理を己が願いによって歪める外法の使い手をその巨大な光の手が追いかけて。
『あ、ちょ、ストップ! ほんとにやめてっ! 終わる! 魔術師に手出したら終わる! なんっで止まんないのウォウ!? てかこれ何よ! 聞いてないわよ! 天使聖典って何よ! 前の主教から引継ぎ受けてないんですけど! こんなことなら処刑する前に――テヘペロ!!!! 大聖堂の地下、魔窟すぎワロ――ザザザ』
マジの主教の焦り声、でももう、アガトラの市民はそんなもの聞こえてすらいない。空で起きているそのスペクタルに、目を奪われていた。
《莠コ縺ッ遨コ繧帝」帙∋縺ェ縺》
星が堕ちていく。
箒で、絨毯で、翼で、丸太で。夜空を駆けていく魔術師達が、光の手に触れられた瞬間、その輝きを失っていく。
天使教会が魔術学院との戦争のために用意していた古いシステム、その一つ。
その手に触れられた魔術師達は光を失い、ふわり、ふわり、夜空を漂い始める。自ら動くことの出来ない星が、石ころと変わらないのと同じように。
「ああ……
魔術師達が生み出した空のスペクタルが終わっていく。この世界の定理を定めた力が、世界を歪ませる不埒者を眠らせ、惚けさせてゆく。
「あ、おい」
遠山もまた思わず呟く。
空を舞う魔術師を大きな手で撫でるように触れていく人影が、ついにそれを見つけたようだ。
空に浮かぶ島、そこに聳え立つ魔術師たちの故郷。魔術学院。
《蟲カ縺ッ遨コ縺ォ豬ョ縺九?縺ェ縺》
光の人影が、長い髪を煌かせ、その巨大な手を、魔術学院をそのまま包めそうな手のひらを開いてーー。
「あ、魔術学院が……」
その手が、振り下ろされて。
《すぷぷーー》
笑い声がした。深海からほんの一掴みだけの泡が浮き上がるように。
《興味深いねえい》
パンッ。
しょうもない風船が弾けたような間抜けな音がした。
あの巨大な光の掌が、魔術学院の一際高い尖塔に触れようとした瞬間、弾け飛んだ。
《繧翫e縺》
《ふむ、何々? ーー天使聖典4ページ目。"我、星の理を定める者"……すぷぷぷぷ。理? 傲慢なものだねい》
女が、いた。
魔術学院の尖塔に腰掛け、その光の人影を見つめている。
黒いローブに、黒い三角のとんがり帽子。揺蕩う銀の髪が、星空に揺れる。
人々は、一瞬で視界が狭まった。
もう、冒険都市の人々の目には彼女しか映っていない。月よりも星よりも、どうしようもなくヒトはその存在に魅せられる。
《ふうん。定める理か。たしかに、昼を夜に変えたり、星の如く勝手に輝くヒトの存在など、認めるわけには行かないよねえい》
彼女の昏い瞳が夜空を見上げている。強すぎる一つの光に照らされ、触れられ、その輝きを奪われた魔術師たちを。
《縺翫%縺」縺滂シ?》
《おこってないよ。キミは只のシステムだ。そんなものにいちいち怒るほど狭量でもない、けれどね》
彼女の言葉がそこで遮られる。
光の人影が、裂けんばかりに口を開き、巨大な背中から一対の翼を生やし、銀髪の女を飲み込もうとーー。
《たった一つの強すぎる光だけの世界。そんな世界は面白くはないのさ》
パチン。
女が指を鳴らす。
《あ》
それだけだった。それだけで、空を掴み、地を踏み鳴らし、島を飲みこまんとする巨体が消えた。
《魔術師を舐めるなよ》
天使教会が大戦の終わりから用意していた竜との戦いへの備え。
聖典に遺された7ツの大法術式の中で、眷属の亡骸を利用し、50の聖人の心臓をささげて作り上げた最も古くて偉大な機構が、終わった。
文字通り、指先ひとつでそれを消し飛ばした女が、んーと背筋を伸ばす。
《さあ、起きて。行くよ、おいで、探求の同胞》
彼女が、力を失い夜を漂う魔術師たちを見つめて。
《そして、ボクの愛しい こども(魔術師) たち》
ふうーっと、女が夜空に向けて冷たい吐息を吹きかける。夜の空をさらっていく竜の吐息が星屑をかきあげ、彼らに届く。
「ああ……夜の声が聞こえる」
「おお、なんと光栄か」
「ああ。愛しさに満ち溢れている……」
動き出す、輝き出す、拡がり出す。
大いなる光によって輝きを奪われていた魔術師達がまたそれぞれ好き勝手に自由に夜空を飛び回りだす。彼女の吐息に触れた途端、魔術師たちが全てを取り戻して。
また、夜空が煌めき始めた。それは先ほどの強すぎる光だけが瞬く空よりも、もっと広大で、もっと深淵で。
《うん、やっぱり。こっちの方が綺麗だねえい》
満足そうに、彼女が微笑む。キラキラと輝く夜空の幕に彼女の小さな鼻唄が響き始める。
《ああ、少し働いたら、そうだねえい。……お腹が空いたかな》
ふん、ふんふん、ふん、ふん……。
くすぐるような鼻唄を歌いながら、彼女が立ち上がる。尖塔の上から一歩、足を空へと踏みいれて。夜が、彼女の鼻歌に共鳴しながらまた歌いだす。
「うわ、空を、歩いて……」
当たり前のように彼女が夜空を歩いている。ゆっくり、ゆっくり散歩でもするかのように。
「魔術師よ、我らに力をお与えになった母に敬意を。その肉、その血に奉公せよ」
今まで自由に各々が好き放題に輝き、飛び回っていた魔術師達が一斉に女の元へ集う。
箒星が、ブラックホールに吸い寄せられるかの如き光景。
ばきり、ぼきり。ぐしゃり。
その鈍い音は、魔術師達の献身の証。
それらを一斉に自らで壊し始める。
「我らが、祖よ」
「我らが、母よ」
「我らが、愛よ」
魔術師が自ら壊した、己で魔術で変えていく。
「並ぶもの無き、我らが魔術師の祖よ。我らに知識をお与えになられた貴女よ」
折れた箒が、砕けた丸太が、裂かれた絨毯が変容していく。それは輝く階段となってゆく。
《ありがとうねえ》
女の行先を、女の歩みに合わせて、魔術師達が壊したモノが材料となって、一つ一つ階段が編まれてゆく。
数多の魔術師が捧げたものを踏み鳴らし、彼女がゆっくり、ゆっくり夜空を降りていく。
色とりどりに輝く魔術師達が次々と空の中で片膝を突き、頭を下げて俯く。女の道を、首を垂れて、全てを捧げる魔術師という生き物全てが彩る。
「偉大なる竜よ、世界を焼く炎に立ち向かい、それでも我らをお護りくださる我らが竜よ」
「貴女の道に、貴女の足場に、貴女の贄に、愚かな我らをお加えください」
「貴女の昏い瞳に、例え映ることがなくとも我らは貴女の虜にお加えください」
「貴女の興を引けずとも、貴女の愛を受けれなくとも、我らは貴女を愛しています」
「我らの祖、我らの母、我らの愛」
「貴女を愛しています」
「お許しください、お許しください、貴女を愛してしまうことを」
騎士鎧に身を包み、一際強い輝きを纏うのは歴代の魔術学院長達。いずれも大戦の時代、帝国建国の時代、いずれの歴史にも名が残る偉人たち。
それらがそれぞれ向き合うように片膝をつく。夜に響く祈りの言葉を口ずさみながら。
その道の真ん中を女が、進む。魔術師がその道を捧げ、歌い、創り出す。魔術師を侍らせ、その真ん中を女が下りる。
その女の名前はアイ・ケルブレム・ドクトゥステイル。
その竜の名前は、人知の竜。
そして、その竜が見つめる先は、たった一つ。
さんかく帽子から零れる水銀を漉いた銀の髪、星と月と、太陽すら飲み込む暗黒を宿した瞳。ローブに包まれたしなやかな夜のような躰が星空を背景に、その屋台を見つめて。
《やあ、こんにちは。パン、一つくださいな》
茫然と空を見上げるアガトラの民。同じく口をあんぐり開けて空を仰ぐトカゲの友に、竜殺しが少し笑って。
「ラザール」
その名前を呼んだ。
「ーー石窯に火を灯せ」