軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11章(1817年):土地購入と土壌改良プロジェクト

■1817年1月初旬。

ロンドンの空は、前年の絶望的な気候を引きずるかのように、重く冷たい灰色の雲に覆われていた。

通りを吹き抜ける風には鋭い冷気が混じり、道行く人々は皆、外套の襟を固く合わせて足早に歩いている。

さらに、大通りには、寒さに身を震わせながら物乞いをする労働者や子供たちの姿が数多く見られた。

前年の1816年、夏のない年と呼ばれた異常気象は、イギリスのみならずヨーロッパ全土に破滅的な大凶作をもたらした。

結果として小麦の価格は天井知らずに暴騰し、労働者階級の人々は日々のパンを買うことすら困難な状況に陥っていたのである。

フランスで起きたような革命を恐れた上流階級による迅速な救済措置が功を奏し、餓死者こそ殆ど出ていないものの栄養失調により病気で死亡する人間が続出し、都市部においては職を失った製造業の労働者たちが不満を爆発させ、パン屋を襲撃する暴動が頻発していた。

昨年末にはロンドンのスパ・フィールズで大規模な集会が暴動に発展し、軍隊が出動する騒ぎにまでなっている。

深刻な食料不足と物価高騰は、大英帝国の足元を揺るがすほどの社会不安を生み出していた。

パーシバル・シャルトンは、自身の馬車の窓からその殺伐としたロンドンの風景を静かに見つめながら、ロンバード・ストリートにあるバークレイズ銀行へと向かっていた。

彼自身は、この歴史的な凶作を予測し、いち早くフランスから小麦を輸入して保税倉庫に保管するという取引によって、莫大な利益を手にした側の人間である。

しかし、彼とて冷血漢ではない。惨状を見て陰鬱な気分であった。

バークレイズ銀行に到着したパーシバルは、すぐに奥の個室へと案内された。

「新年おめでとうございます、サー・パーシバル。今年も当行をよろしくお願い申し上げます」

顔なじみの銀行家、ジェームズ・ベリエフ氏が温かい笑みを浮かべて出迎えた。

「おめでとう、ベリエフ氏。外の寒さと暴動の噂に比べれば、この個室は相変わらず平和で何よりだ」

パーシバルは帽子と手袋を外し、勧められた革張りの椅子に腰を下ろした。

「全くいけませんな。小麦の価格は高止まりしたままで、失業者は増える一方です。

昨年末のスパ・フィールズの暴動の際は、当行も暴徒に襲われるのではないかと肝を冷やしましたよ」

ベリエフ氏は紅茶を注ぎながら、嘆息した。

「政府も治安維持に神経を尖らせておりますが、腹を空かせた人間に法や秩序を説いても意味がありません。

パンがなければ人は狂暴になるものです」

「その通りだ。だからこそ、我々ジェントルマン階級が動かねばならないのだよ」

パーシバルは手元の鞄から一枚の書類を取り出し、机の上に置いた。

「昨年末、ロンドンで『製造・労働貧民救済委員会』、通称『ロンドン委員会』が立ち上げられたことは知っているな?」

「ええ、存じております。カンタベリー大主教や公爵家、それにシティの富豪たちが発起人となり、困窮した労働者たちに食料や石炭を配給するための基金を募っている組織ですね」

「そのロンドン委員会の基金へ、私から寄付を行いたい。手続きを頼めるか」

パーシバルはさらりと書き込まれた小切手をベリエフ氏に差し出した。そこには150ポンドという数字が記されている。

当時の熟練労働者が休まず一年間働いて得られる年収のおよそ3倍に相当する大金である。

「150ポンドですか! これはまた、大変な大盤振る舞いですね」

ベリエフ氏は小切手を受け取り、驚きの声を上げた。

「サー・パーシバルの慈善の精神には頭が下がります。

フランスから輸入した小麦でロンドンの食料危機を救っただけでは飽き足らず、これほどの現金を寄付されるとは」

「現に街には飢えた者が溢れており、何らかの救済が必要なのは事実だからな。称号を持つ者としての高貴なる義務だ」

パーシバルは紅茶のカップを手に取り、静かに口をつけた。砂糖を入れていない、渋みの強い紅茶の味が口の中に広がる。

パーシバルは言葉を続けた。

「サーの称号を得た以上、私は特権階級の一員として見なされている。

特権階級がその富を独占し、飢えた民衆を放置すれば、フランスで起きたような革命がこの国でも起こりかねない。

それに、委員会の名簿に私の名が150ポンドの大口寄付者として記載されれば、ロンドンの社交界で侮られることも無くなるだろう」

ベリエフ氏は深く頷いた。

「まさに、真のジェントルマンに相応しいお考えです」

「さて、寄付の手続きは任せるとして、今日ここへ来た本題はもう一つある」

パーシバルはカップを置き、居住まいを正した。

「私に優秀な弁護士を紹介してほしいのだ。

できれば、個人ではなく事務所を構えており、顔が広く、特に土地取引と議会への法案提出の交渉力に長けた男が良い」

「弁護士ですか」

ベリエフ氏は少し意外そうな顔をした。

「サー・パーシバルであれば、高位の法曹界にも伝手はおありかと思いますが」

「いや、私が求めているのは、法廷で雄弁に演説する 法廷弁護士(バリスター) ではなく、契約書を作成し、交渉をまとめてくれる 事務弁護士(ソリシター) だ。

金融の取引は貴行に任せておけば安心だが、これからの計画には法律と議会の専門家が不可欠になる」

「これからの計画、とおっしゃいますと?」

パーシバルは少し身を乗り出し、声を低くした。

「私は現在、コンソル公債とフランス国債から年間約2000ポンドの利息収入を得ている。

しかし、それらはあくまで紙の資産だ。

大英帝国における真の支配階級、として確固たる地位を築くためには、何が足りないか。

お分かりだろう、ベリエフ氏」

「……なるほど。大規模な地所(領地)のご購入ですね」

ベリエフ氏は得心がいったように手を打った。

「全くもっておっしゃる通りです。

いかに莫大な現金や国債を持っていようと、土地を所有していなければ根無し草の成金と見なされてしまいます。

サー・パーシバルのお立場には、相応しい領地が必要だと私も常々考えておりました」

当時のイギリス社会において、真に尊敬を集め、議会への影響力を持つためには、広大な土地を所有していることが絶対条件であった。

地主階級こそが国の骨格を成しており、土地こそが不変の価値とされていたのである。

「土地の購入だけではない」

パーシバルはさらに計画の全貌を明かした。

「私が狙っているのは、綺麗に整地された豊かだが高価な農地ではなく、誰にも見向きされない荒れ地だ。

それを底値で買い取り、最新の農法と資本を投下して豊かな農地へと改良する。

しかし、イングランドの土地制度は複雑極まりない。

古い慣習による共有地が含まれていれば、それを私有地化するために 囲い込み法(エンクロージャー) と呼ばれる個別の私法を国会で成立させなければならない。これが厄介なのだ」

パーシバルが顔をしかめた。

「囲い込み法を国会に通すには、議会の委員会に根回しをし、地元の権利者との交渉を行い、数多くの法的手続きを踏まなければならない。

政治と契約と交渉の泥沼だ。だからこそ、その泥沼をうまく泳ぎ切ることのできる、腕利きの事務弁護士が必要なのだ」

ベリエフ氏はしばらく考え込み、やがて確信を持ったように頷いた。

「サー・パーシバルのご要望にぴったりの人物がおります。

当行の顧客の法務もいくつか依頼したことがあるのですが、ロンドンのチェンサリー・レーンに中規模の事務所を構える、ラルフ・ハンストンという事務弁護士です」

「ハンストン氏か。どのような男だ?」

パーシバルが尋ねた。

「極めて優秀な事務弁護士です。

大手の事務所のように法外な着手金を要求することはありませんし、仕事の正確さと交渉の粘り強さには定評があります。

貴族の代理人として土地売買の契約を何度もまとめており、議会の議員たちの懐事情や裏の繋がりにも顔が広い。

何より、余計な自己主張をせず、依頼人の利益を第一に動く男です。

サー・パーシバルの手足となって働くには、これ以上の適任者はおりますまい」

「素晴らしい。私の求める条件を完璧に満たしているな」

パーシバルは満足げに微笑んだ。

「早速、そのラルフ・ハンストン氏との面会の場を設けてくれないか。

事は急を要する。今年の夏には、私の新しい領地で土壌改良の第一歩を踏み出したいからな」

「承知いたしました。すぐに手紙を書き、近日中にブルームズベリーの邸宅へ伺わせるよう手配いたします」

ベリエフ氏は一礼し、パーシバルの小切手と依頼を書き留めるための羽ペンを手にとった。

■1817年1月中旬。

ブルームズベリーにあるパーシバル・シャルトンの邸宅では、朝の静寂が心地よく漂っていた。

書斎の暖炉には石炭が赤々と燃え、冷え切った外気を完全に遮断している。

パーシバルは、家令のウィリアムが淹れた紅茶を一口飲み、アイロンがけされたばかりの朝のタイムズ紙を広げた。

インクの匂いが微かに漂う真新しい紙面をめくると、彼が探していた記事が社会面の目立つ位置に掲載されていた。

『製造・労働貧民救済委員会(ロンドン委員会)寄付者名簿』

前年の異常な冷夏と長雨がもたらした大凶作により、ロンドンの物価は暴騰し、労働者階級は深刻な飢えに苦しんでいた。

その救済を目的として昨年末に組織されたこの委員会の名簿には、大英帝国を支配する特権階級の錚々たる顔ぶれが並んでいた。

発起人であるカンタベリー大主教、ヨーク大主教。そして 摂政皇太子(プリンス・レジェント) 殿下。

さらに視線を下げると、公爵家の名前に混じって、シティの金融街を牛耳るネイサン・メイヤー・ロスチャイルドの名もある。

そして、その名だたるリストの中段に、はっきりと彼自身の名前が刻まれていた。

『サー・パーシバル・シャルトン名誉中佐 150ポンド』

パーシバルは静かに紙面から目を離し、背もたれに深く寄りかかった。

普通の家庭であれば数年は生活できる大金を彼は惜しげもなく寄付として差し出したのだ。

もちろん、飢えた民衆に対する純粋な慈悲の念が全くないわけではない。

しかし、パーシバルにとってこの寄付の最大の目的は、自身の社会的信用の可視化であった。

摂政皇太子や公爵たちと同列の紙面に「150ポンドの寄付者」として名前が載ること。

それは、彼が単なる成り上がり者ではなく、大英帝国の秩序を支える高貴なる 義務(ノブレス・オブリージュ) を果たす資格と財力を備えた、真の 特権階級(エスタブリッシュメント) の一員であることをロンドンの社交界や政治の世界に対して声高らかに宣言するものであった。

この150ポンドは、これから彼が莫大な富を投じて土地という権力の源泉を手に入れるための入場券のようなものである。

「旦那様、お客様でございます」

扉をノックして書斎に入ってきたウィリアムが銀の盆に載せた一枚の訪問者のカードを差し出した。

「バークレイズ銀行のベリエフ様からのご紹介で、事務弁護士のラルフ・ハンストン氏が参られました」

「通してくれ。素晴らしいタイミングだ」

パーシバルはタイムズ紙をきれいに折りたたみ、机の隅に置いた。

すぐに書斎に案内されてきた男は、パーシバルが求めていた交渉力の高い勤勉な事務弁護士という言葉をそのまま絵に描いたような姿をしていた。

ラルフ・ハンストン氏は年齢は40代の半ばほどだろうか。

顎の髭は青白くなるほど完璧に剃り上げられており、髪も短く几帳面に整えられている。

身に纏っている黒のフロックコートは、生地も上質で仕立ても良く、デザインは地味ではあるが実直さが表れた装いであった。

「お初にお目にかかります、サー・パーシバル。

ロンドンのチェンサリー・レーンで弁護士事務所を開いております、ラルフ・ハンストンと申します」

ハンストン氏は深く、しかし無駄のない動作で一礼した。

「よく来てくれた、ハンストン氏。ベリエフ氏からは、極めて優秀な事務弁護士であると聞いている。どうぞ掛けてくれ」

パーシバルは向かいの椅子を勧めた。

ハンストン氏は着席するなり、机の隅に置かれたタイムズ紙に目を留め、微かに口角を上げた。

「本日は、ご面会の機会をいただき光栄の至りに存じます。

……実は今朝、私どもも事務所でそのタイムズ紙を拝見いたしました。

名だたる名簿の中に、サー・パーシバルのお名前を見つけたとき、私のような時には冷酷に農民と交渉する事務弁護士でさえ胸が熱くなりました。

150ポンドという多額の寄付、あなたの高潔な精神と慈悲深さに、ロンドン市民の一人として深く敬意を表します」

「ありがとう。だが、当然の義務を果たしたにすぎないよ」

パーシバルは薄く笑みを浮かべ、自信をもって返した。

ハンストン氏はその言葉の裏にある意図を即座に理解し、ニヤリと笑った。

「さて、ハンストン氏。私の計画を進めるにあたり、法律と議会の専門家が必要なのだ。

しかし、私は法廷で仰々しいカツラを被り、ラテン語の格言を大声で叫ぶような男を探しているわけではない。

私の資産を法的に守り、複雑な手続きを静かにかつ確実に片付けてくれる男が必要なのだ」

当時のイギリスの法曹界は、二つの階層に厳格に分かれていた。

法廷に立ち弁論を行う 法廷弁護士(バリスター) と、法廷には立たずに依頼人から直接相談を受け、契約書の作成や財産管理、不動産取引の手続きなどを専門に行う 事務弁護士(ソリシター) である。

ハンストン氏は静かに頷いた。

「ご安心ください、サー・パーシバル。

私は 法廷弁護士(バリスター) のような目立ちたがり屋ではありません。

我々 事務弁護士(ソリシター) の仕事は、そもそも依頼人が泥沼の法廷に立たずに済むよう、完璧な契約書を作成し、権利を未然に保全することにあります。

チェンサリー・レーンの私の事務所では、主に大規模な土地の売買契約、財産管理、そして議会への私法案提出のための裏工作……失礼、合法的な根回しを専門としております。

サー・パーシバルがこれからどのような領地をお求めになるにせよ、私の知識と人脈は必ずお役に立つことでしょう」

「頼もしい言葉だ。ベリエフ氏の推薦に狂いはなかったようだな」

パーシバルは満足げに腕を組んだ。

「単刀直入に言おう。あなたの事務所と、私の個人的な顧問契約を結びたい」

ハンストン氏は目を見開き、そして深く頭を下げた。

「ありがとうございます。これほど名誉なことはございません。

戦争で活躍されウェリントン公爵にも認められたサー・パーシバルの代理人を務めることは、我が事務所にとっても大きな箔となります」

「それで、そちらの料金について聞かせてくれないか。法律家の請求書というのは、時にフランス軍の砲弾よりも恐ろしいと聞くからな」

パーシバルが冗談めかして尋ねると、ハンストン氏は少し申し訳なさそうな顔をした。

「おっしゃる通りでございます。当事務所の料金体系ですが、まずは事案ごとのスポット対応での報酬がございます。

それに加えまして、書類の作成費用については、イングランド法曹界の古くからの慣習に従い、文字数と羊皮紙の枚数によって計算されることになっております。

具体的には、1フォリオ、つまり約72語あたり何ペンス、といった具合に課金されます」

ハンストン氏は肩をすくめた。

「したがって、我々弁護士という生き物は、極めて簡単な契約であっても、わざと回りくどく、同じ意味の単語を何度も繰り返し、可能な限り長く書類を書く習性がございます。

例えば『譲渡する』という言葉一つに、『譲渡し、引き渡し、移転し、かつ付与する』と書き連ねるのです。どうかご容赦ください」

「それは恐ろしいシステムだ」

パーシバルは声を立てて笑った。

「それでは、私がくしゃみをしたことに対する免責条項だけで、何ページにもわたる書類が作成され、5ポンドの請求書が届きかねないな」

「ご安心ください、サー・パーシバル」

ハンストン氏も微かに笑い声を漏らした。

「私どもは、他の弁護士と違い無駄な修飾語で依頼人の財布から小銭を掠め取るよりも、依頼人の利益を最大化する強固な契約書を作成し、長く太い関係を築くことを売りにしております」

「結構だ。あなたを信頼しよう」

パーシバルは羽ペンを取り、メモ用紙を引き寄せた。

「とはいえ、私は今のところまだ1エーカーの土地も所有していない。

これから購入する土地の選定と交渉を始める段階だ。

したがって、まずは私の日常的な法務相談と、簡単な調査を請け負うための基本的な顧問契約としよう。

年間20ポンド、これでどうかな」

20ポンドという金額は、日常的な顧問料としては十分に適正な額であった。

当時の住み込みの家庭教師の年俸に匹敵する。

「もちろん、実際の土地取引の契約や、議会への法案提出などの大規模な手続きが発生した場合は、その都度、別途適正な報酬と実費を支払うことを約束する」

「喜んでお受けいたします、サー・パーシバル」

ハンストン氏は再び深く頭を下げ、契約の合意が成立した。

「さて、ハンストン氏」

パーシバルはペンを置き、鋭い視線を事務弁護士に向けた。

「契約が成立したところで、早速最初の仕事を頼みたい。

あなたに調査し、交渉に入ってほしい土地の目星は、実はすでについているのだ」

「何と。さすがお仕事が早いですね。どちらの地所でございましょうか」

「サリー州のウォーキング周辺だ」

パーシバルの口から出た地名に、ハンストン氏はプロフェッショナルな顔つきを崩し、怪訝な表情を浮かべた。

「サリー州のウォーキング、ですか? あの一帯は、オンスロー伯爵の領地が広がっておりますが……」

ハンストン氏はプロフェッショナルな顔つきを崩し、明らかな困惑の表情を浮かべた。

「その通りだ。私はそのオンスロー伯爵から、ウォーキング周辺の約3,000エーカーの土地を買い取りたいと考えている」

パーシバルが平然と答えると、ハンストン氏は思わず身を乗り出した。

「サー・パーシバル、お言葉を返すようですが、あの一帯はロンドン近郊でありながら、見渡す限りのヒース(ツツジ科の常緑低木の総称)が生い茂る砂地の荒野です。

農業には全く適さない不毛の土地として知られております。

いかに安く買い叩けたとしても、借りたいと思うものはおらず地代の徴収は不可能であり利益を生み出すことは困難です」

ハンストン氏は強い懸念を口にした。

「それに、問題は土壌だけではありません。

あの辺りの土地には、古くからの農民の権利が絡む 共有地(コモン) が複雑に混在しております。

そのような土地を完全な私有地として開発するためには、国会で個別の 囲い込み法(エンクロージャー) を通過させなければなりません」

当時のイギリスにおいて、農民たちが共同で放牧や薪拾いに使っていた共有地を地主が柵で囲い込み、私有地化するためには、議会に個別の私法案を提出して承認を得る必要があった。

「国会に法案を通すとなれば、測量士や弁護士の費用だけでなく、法案を審査する委員会の議員たちに対する莫大な工作資金と、膨大な時間が必要になります。

そのような手間暇をかけて不毛な砂地を手に入れるのは、資金をドブに捨てるようなものです。

私があなたの顧問弁護士である以上、この購入計画には猛反対せざるを得ません」

ハンストン氏の忠告は、当時の常識に照らし合わせれば100パーセント正しいものであった。

しかし、パーシバルは全く動じることなく、静かに微笑んだ。

「あなたの忠告は極めて妥当だ、ハンストン氏。普通の地主であれば、あの土地は避けるべきだろう。

だが、私には勝算があるのだ」

パーシバルは机の上にあった白紙を引き寄せ、ペンで簡単な地図を描き始めた。

「まず、立地だ。ウォーキングの荒れ地のすぐ脇には、1794年に開通したバッシングストーク運河が通っている。

この運河を使えば、テムズ川を経由して重量物を安価かつ大量に水運で運ぶことができる。この利点は計り知れない」

「確かに運河はございますが、運ぶべき農作物が育たなければ意味がありません」

「土地は、私が育ててみせる」

パーシバルは自信に満ちた声で断言した。

「不毛な砂地であることは承知している。

だが、十分な資本を投下してノーフォーク農法を応用し、適切な土壌改良を行えば、必ず豊かな農地に生まれ変わる。

運河を使えば、ロンドンから大量の肥料を安く運び込むこともできるからな」

パーシバルの脳内には、前世の現代知識である「過リン酸石灰」という強力な化学肥料の製造計画がすでに出来上がっていた。

しかし、当然ながらその秘密をここで明かすことはせず、あくまで資本投下と既存の農法の応用という形で説明を留めた。

「土壌改良に莫大な費用がかかることは承知の上だ。

だが、今の私にはコンソル公債とフランス国債から生み出される確実な収入がある。

数年間赤字を垂れ流してもビクともしないだけの体力があるのだよ」

パーシバルはペンを置き、ハンストン氏の目を見据えた。

「それに、今オンスロー伯爵を狙うのには、確固たる理由がある」

「理由、ですか?」

「現在のオンスロー伯爵の道楽ぶりは、ロンドンの社交界でも有名だ。

あの男は重度の馬車狂いで、御者台に座って四輪馬車を走らせることと、新しい馬車を買い集めることしか頭にない。その道楽のせいで、彼にはすでに多額の借金があるはずだ」

パーシバルの口元に、冷徹な資本家の笑みが浮かんだ。

「そこへ、昨年の夏のない年による大凶作だ。

伯爵の他の豊かな領地からの地代収入も、今年は激減しているに違いない。

彼は今、喉から手が出るほど現金を欲している。

利益を生まないウォーキングの荒れ地など、まとまった現金を積まれれば、喜んで手放すはずだ」

ハンストン氏は息を呑んだ。

パーシバルの計画は、単なる思いつきではない。

相手の財政事情の弱点(足元)を見透かし、自身の強固な資金力を背景にした、完全な包囲網であった。

「では、具体的な数字を提示しよう」

パーシバルはメモ用紙に数字を書き込んだ。

「オンスロー伯爵から購入するウォーキングの荒れ地、約3,000エーカー。

これに対する支払いは、足元を見て6,000ポンドを上限とする。

1エーカーあたりわずか2ポンドだ。これ以上は1ペニーたりとも払う気はない」

ハンストン氏は素早く頭の中で計算を走らせ、小さく頷いた。

「伯爵の窮状を突けば、不可能ではない数字ですね。そもそも、あの辺りの荒れ地を所有していてもまともな地代収入は見込めませんので救貧税や維持費だけで赤字のはずです」

「次に、これが最も重要だ。土地の購入と同時に、その土地の 聖職禄(アドヴァウソン) も買い取る。

これには1,500ポンドまで用意する」

パーシバルの言葉に、ハンストン氏は再び目を見開いた。

聖職禄とは、その教区の牧師を推薦し、任命する権利のことである。

当時のイギリスの地方社会において、教会は単なる宗教施設ではなく、行政や教育を担う中心であった。

教区牧師を自分の息のかかった人物にすげ替えることができる聖職禄は、地主がその土地の権力者として君臨するために不可欠な権利であったのだ。

「土地だけでなく、魂の管理権まで手に入れるおつもりですね。まさに、完璧な領主のお考えだ」

ハンストン氏は、目の前にいる青年の底知れぬ野心に、静かな畏怖の念を抱き始めていた。

「そして、共有地に関する農民からの権利購入と、立ち退きの補償費だ。

これも大凶作で農民たちが困窮している今なら、現金を見せれば容易に説得できるだろう。

これに1,500ポンドを上限として割り当てる」

パーシバルは数字の下に線を引いた。

「土地に6,000ポンド、聖職禄に1,500ポンド、農民の補償に1,500ポンド。

合計9,000ポンドがこの土地を物理的に手に入れるための予算だ。

そしてハンストン氏、あなたの仕事はここからだ」

パーシバルは身を乗り出し、声を一段低くした。

「あなたが懸念した通り、これを完全な私有地にするためには、国会に囲い込み法の私法案を通さなければならない。

そのためには、議会の委員会の連中に対するロビー活動が必要になる」

ロビー活動という聞こえの良い言葉の裏にあるのは、議員たちへの合法的、あるいは非合法な資金提供である。

法案をスムーズに通過させるためには、実務に通じた代理人が議員たちの懐を潤し、利益を誘導する必要があった。

「議会工作の費用と、測量士の費用、そしてあなたの事務所の報酬として、たっぷりと予算を用意しよう」

パーシバルは言い切った。

「あなたが私の資産状況と長期的な計画を知った上で、成功の見込みがあると考え直してくれたのなら、この交渉と議会工作の全権をあなたに委任したい」

ハンストン氏は沈黙し、自身の銀の懐中時計を取り出して無意識に蓋を開け閉めした。

弁護士としての計算が彼の頭の中を駆け巡る。不毛な土地の購入と囲い込み法の議会工作。

通常であれば避けるべき泥沼の案件だ。

しかし、依頼人であるサー・パーシバルには、借金まみれの貴族をねじ伏せ、議会工作に耐えうるだけの莫大な現金に加えて継続的な利息収入がある。

そして何より、この男は、過去に驚くような投機を行い成功させてきたという噂も聞いている。

「……サー・パーシバル」

ハンストンは懐中時計をポケットにしまい、笑みを浮かべは姿勢を正した。

「お引き受けいたしましょう。

オンスロー伯爵の代理人との交渉、農民たちの権利処理、そして議会への法案提出とロビー活動。

ハンストン法律事務所が、全責任をもって遂行いたします」

「素晴らしい。やはりあなたを見込んで正解だった」

パーシバルは満足げに頷き、机の引き出しから小切手帳を取り出した。

「これは当面の活動資金と、手付金としての500ポンドだ。

必要であれば、いつでも追加の資金を用意しよう。

もし今年中の早期に、囲い込み法の通過と土地購入のすべてを成約させることができれば、あなたの事務所には法外な成功報酬を支払うと約束する」

「ありがとうございます。サー・パーシバルのご期待に沿えるよう、ただちにチェンサリー・レーンに戻り、オンスロー伯爵の財政状況の裏付け調査から取り掛かります」

ハンストン氏は手付金の小切手を丁寧に折りたたみ、内ポケットにしまった。

「頼んだぞ、ハンストン氏」

パーシバルは立ち上がり、事務弁護士と固い握手を交わした。

領地獲得という計画がついに本格的な始動を迎えたのである。

■1817年3月。

春の訪れを告げるはずの季節を迎えても、ハンプシャーの田園地帯には重苦しい空気が漂っていた。

パーシバル・シャルトンを乗せた馬車がロンドンからウィンチェスター郊外へと向かう道中、車窓から見える風景は、およそ春の豊穣とは程遠いものであった。

前年の夏のない年がもたらした冷害と長雨の爪痕は深く、農地はぬかるんだまま放置され、道端にはやせ細った家畜の姿が散見された。

行き交う農民たちの顔には色濃い疲労と絶望が刻まれており、地方の経済がいかに深刻な打撃を受けているかを如実に物語っていた。

馬車がシャルトン家の領地に入り、見慣れた堅牢な石造りのマナーハウスの車回しに到着すると、玄関の扉が開いて家族が出迎えた。

「よく帰ってきた、パーシバル」

当主である父ヘンリー・エドワード・シャルトンが少し疲れたような、しかし安堵に満ちた笑顔でパーシバルと抱擁を交わした。

その傍らには、年を取り少し老けた母シャーロットと、今年17歳になる妹のマリアが立っていた。

「アーサーが大陸のグランドツアーから戻らない今、お前の顔を見ると本当にほっとするよ」

「ただいま戻りました、父上、母上。マリアも随分と淑女らしくなったな」

パーシバルは家族に温かい挨拶を返し、邸宅の中へと足を踏み入れた。

応接間に通され、温かい紅茶が振る舞われると、ヘンリーは深くため息をつき、領地の厳しい現状について語り始めた。

「ロンドンでも新聞で読んでいるだろうが、こちらの状況は凄惨の一言に尽きる。

昨年の異常気象で小麦は完全に腐り、小作人たちは収穫を全く得られなかった。

当然ながら、我がシャルトン家に入ってくるはずの地代収入は激減、いや、ほとんど皆無に近い状態だ。その一方で、飢えた農民たちを救済するための 救貧税(プア・レート) の負担は天井知らずに跳ね上がっている」

地方の 地主階級(ジェントリー) にとって、農作物の不作は即座に財政の危機を意味する。

天候に左右されない国債の利息収入で莫大な利益を上げているパーシバルとは対照的に、伝統的な土地持ちのジェントルマンたちは、文字通り泥にまみれて苦境に立たされていた。

「しかしな、パーシバル」

ヘンリーは居住まいを正し、息子に告げた。

「我が家が暴動に巻き込まれず、今こうして平静を保っていられるのは、お前のおかげだ。心から感謝している」

「私の手紙のことですね」

パーシバルが紅茶のカップを置いて答えると、ヘンリーは強く頷いた。

「そうだ。

春が訪れる前の時期、いや正確に言えば春は訪れなかったのだが、

『気候が異常だ、今年は致命的な凶作になるかもしれないから小麦を手元に残しておけ』

と何度も警告の手紙をくれただろう。

確かにあの冬の寒さは異常であったからな、私も不安になり我が家の 直営農場(ホーム・ファーム) で収穫した小麦の備蓄を売らずに確保しておいたのだ」

ヘンリーの言葉に、誇らしげな感情が滲んだ。

「その備蓄していた小麦を貧困にあえぐ小作人たちに配給してやることができた。

おかげで彼らは餓死を免れ、シャルトン家の当主に対する敬意と忠誠心を保ってくれている。

地主としての高貴なる 義務(ノブレス・オブリージュ) を果たし、名誉を守り抜くことができたのは、お前の先見の明があったからこそだ」

「お役に立てたのなら何よりです。家族と領地を守るのは当然のことですから」

パーシバルは静かに微笑んだ。

せめて実家の領地だけは飢餓から守ろうと、事前に助言をしておいたのが功を奏したのである。

「それにしても、アリスは結婚して早々に大変な苦労をしているようね」

母シャーロットが気遣うような声で話題を変えた。

「ウィロビー家に嫁いだのは良いけれど、あちらは2000エーカーの大地主だから、救済しなければならない小作人の数も桁違いなのよ。

向こうのご当主も地代が入ってこないのに支出ばかりが膨らんで、頭を抱えておられるそうだわ」

「アリスの持参金も有るはずですから当座は大丈夫でしょう」

ヘンリーが少し笑いを含んで言った。

「アリスの持参金で救われるのだから、当然アリスの発言に重みがつくというものだ。

計算高いあの娘なら家内での地位も盤石になるはずだ」

「マリアの社交界デビューも、無事に済みましたよ」

シャーロットが隣で少し退屈そうにしている次女を見つめながら言った。

「バースの冬のシーズンでお披露目をしたのだけれど、容姿の美しさはアリス以上だと大変な評判でしたのよ」

「それは当然ですね。良い縁談が舞い込むといいな」

パーシバルが妹に向かって言うと、マリアは少し誇らしげに胸を張った。

ヘンリーが苦笑しながら声を潜めてパーシバルに囁く。

「評判が良いのは外見だけだ。

ダンスのステップは完璧だが、少し込み入った文学の話を振られると、すぐにボロが出る。

あの頭の空っぽ具合が知れ渡る前に、なんとか条件の良い相手を見つけなければならん。

まあ、幸いなことに浪費の才能はないから、どこかの小さくとも堅実な地主の家あたりがもらい受けてくれると良いのだが」

ヘンリーの遠慮のない親としての評価に、パーシバルは肩をすくめて笑った。

その日の夜。

たっぷりのローストビーフのディナーを終え、女性陣が居間へ退室した後、パーシバルとヘンリーは食堂に残り、葉巻とポートワインを楽しんでいた。

男だけの空間となり、パーシバルは少し居住まいを正した。

「父上。実は今日、実家に帰ってきたのには、一つご相談したいことがあったのです」

「相談? お前が私に相談事とは珍しいな。金のことなら、今の私には1ペニーも出してやれんぞ」

ヘンリーが冗談めかして言うと、パーシバルは首を横に振った。

「資金の心配は全くありません。

実は現在、サリー州のウォーキング周辺で約3,000エーカーの土地の購入手続きを進めているところなのです」

その言葉を聞いた瞬間、ヘンリーは持っていたポートワインのグラスを危うく落としそうになった。

「3,000エーカーだと!? ウォーキングと言えば、オンスロー伯爵の領地ではないか。

あそこは砂地とヒースばかりの不毛な荒れ地だぞ。なぜそのような利益を生まない土地を……」

「安く買えるからです」

パーシバルは冷静に答えた。

「すでに私の顧問弁護士がオンスロー伯爵の代理人と交渉に入っており、囲い込み法の議会手続きも進めています。

確かにあそこは現状では農業に適さない荒れ地ですが、私は時間をかけて徹底的な土壌改良を行い、豊かな農地へと生まれ変わらせる計画を立てているのです。

それに、ロンドンに近くバッシングストーク運河に接しているという利点は、将来的に莫大な利益を生むはずです」

ヘンリーは言葉を失い、ただ息子を凝視した。

若くして名誉中佐の階級とナイトの称号を得ただけでなく、ついに3,000エーカーもの領地を持つ「ランデッド・ジェントリー(土地持ちのジェントルマン)」になろうとしている。

シャルトン家の当主である自分自身よりも、遥かに広大な地所を持つことになるのだ。

「……お前がそこまで言うのなら、私には想像もつかないような勝算があるのだろう。

それで、私にできる相談事とはなんだ?」

ようやく気を取り直したヘンリーが尋ねた。

「人の斡旋をお願いしたいのです」

パーシバルは本題に入った。

「購入に成功したら、私はすぐにでも現地の荒れ地に農場を建設し、土壌改良を始めたいと考えています。

しかし、私が常に現場に張り付いているわけにはいきません。

私の指示を正確に理解し、土壌改良と農場建設の現場を指揮できる優秀な農場管理人が必要です。

同時に、開拓作業に従事してくれる労働者も何人か集めなければなりません」

ヘンリーは顎に手を当て、深く頷いた。

「なるほど。それは私の得意分野だ。

労働者に関しては、いくらでも集まるだろう。

今のハンプシャーには、凶作で職を失い、救貧院に入るか餓死するかの瀬戸際に立たされている農民がいくらでもいる。

お前が彼らを雇い、賃金を払ってくれるというなら、困窮する彼らにとっても最高の仕事の斡旋になる。

私が責任をもって、真面目でよく働く若者を選んで送り出そう」

「助かります。

では、現場を指揮する農場管理人はどうでしょうか。

読み書きと計算ができ、労働者たちを束ねる力のある男が必要なのですが」

「それならば、ぴったりの男がいる」

ヘンリーは自信ありげに微笑んだ。

「代々、我がシャルトン家の 直営農場(ホーム・ファーム) を預かってきてくれたエバンス家を知っているだろう。

現在の総管理人は長男のトーマスだが、彼の弟にジョージ・エバンスという29歳になる男がいる。

このジョージがまさにうってつけだ」

「ジョージ・エバンスですか。知っておりますが仕事ぶりはどうでしょうか?」

「まず、体格が良い。身長が高く筋骨隆々の巨漢でな、腕っ節の強さでは村の誰にも負けん。

荒くれ者の労働者を力で従わせるには十分すぎるほどの迫力がある。

だが、ただの筋肉馬鹿ではない。

兄のトーマスと同様に農務の実務経験は豊富で読み書きはもちろん、帳簿づけなどの事務仕事も極めて正確にこなす男だ」

ヘンリーはポートワインを一口飲んだ。

「次男であるため、いずれシャルトン家の農場を出て独立しなければならない立場でな。

私もどこか良い働き口を探してやらねばと考えていたところなのだ。

お前の新しい領地を任せるには、これ以上ない人材だろう」

「腕力が強く、事務計算もできる。現場の監督としては理想的ですね」

パーシバルは満足げに頷いた。

「次男坊同士、気が合うかもしれません。

ジョージ・エバンスをぜひ私のサリー州の農場の管理人として雇用させてください。

給与は十分に支払いますし、農場が完成した暁には、彼が住むための立派な管理人家屋も建設するとお伝えください」

「承知した。ジョージには私から話をして、準備ができ次第、彼と労働者たちをロンドンのお前の元へ向かわせよう」

ヘンリーは葉巻の灰を落とし、息子に向かって誇らしげな笑みを向けた。

「しかし、まさかお前が地主になるとはな。

これでシャルトン家は、私とお前の二つの地所を持つことになる。

ご先祖様も、さぞかし驚いておられることだろう」

「私はまだ、領主としての第一歩を踏み出そうとしているに過ぎませんよ、父上。

ですが、必ずやあの荒れ地を豊かな領地へと変えてみせます」

■1817年4月。

春の訪れとともに、ロンドンの街にはようやく柔らかな日差しが戻り始めていた。

しかし、前年の夏のない年が残した傷跡は極めて深く、テムズ川沿いの市場では依然として小麦が高い値札を下げたまま、人々の生活を激しく圧迫し続けている。

実家のハンプシャーからロンドンへ戻って数週間。

パーシバルは、ジョージ・エバンスという力強く有能な現場監督を獲得できたことに深く満足しながら、自身の野望の次なる展開を静かに待っていた。

「旦那様。ハンストン法律事務所のラルフ・ハンストン氏がお見えでございます」

家令のウィリアムが書斎の重厚な扉を開け、静かな声で告げた。

「通してくれ。彼のことだ、きっと素晴らしい吉報を持ってきてくれたに違いない」

パーシバルが応じると、黒の地味なフロックコートに身を包み、髭を完璧に剃り上げた事務弁護士が部屋に入ってきた。

「ご機嫌麗しゅう、サー・パーシバル。春の心地よい陽気とともに、最高のご報告をお持ちいたしました」

ハンストン氏は深々と頭を下げ、勧められた革張りの椅子に腰を下ろした。

「その様子からすると、オンスロー伯爵の代理人との交渉は、私の思惑通りに上手くいったようだな」

パーシバルが紅茶のカップを置きながら尋ねると、ハンストン氏は誇らしげに頷いた。

「はい。サーの見立ては、まさに恐ろしいほど正確でございました。

オンスロー伯爵の財政状況は、完全に火の車であったのです。

新しい四輪馬車を複数購入した直後に大凶作に見舞われ、伯爵の金庫は完全に空になっておりました。

代理人は最初こそ価格の引き上げを求めて渋りましたが、私が即金で支払う用意があると伝えると、彼らの目の色が変わったのです。

借金に追われる貴族にとって、現金ほど魅力的なものはありませんからね」

ハンストン氏は鞄から、何枚もの署名が記された合意書を取り出して机の上に置いた。

「サリー州ウォーキングの荒れ地、3,000エーカーの購入費として6,000ポンド。

その土地の牧師任命権である聖職禄の購入費として1,500ポンド。

そして、共有地に関する農民の権利買い上げと立ち退き補償費として1,500ポンド。

すべて、サー・パーシバルが提示された金額の通りに完全なる合意を取り付けることができました」

「見事な仕事ぶりだ、ハンストン氏。あなたの実務能力を信じて正解だった」

パーシバルは合意書に目を通し、満足げに微笑んだ。

「だが、真の難関はここからだろう。

その3,000エーカーの荒れ地に混在する共有地を完全に排除し、私有地化するための囲い込み法の議会手続きはどうなっている?

泥沼のロビー活動に、いくらの資金が必要になりそうだ」

パーシバルが鋭く問いかけると、ハンストン氏は愛用のブレゲ製の銀の懐中時計を取り出して時間を確認するような仕草を見せ笑みを浮かべた。

「その点につきましても、拍子抜けするほど順調に進んでおります。

すでに国会へ私法案を提出し、委員会での審査が始まりましたが法案の通過は確実な情勢でございます」

「ほう。ロンドンの議員連中が、そこまで素直に首を縦に振るとは思えなかったが」

パーシバルは少し驚いたように眉を上げた。通常であれば、法案を通すためには、利権に群がる議員たちに多額の賄賂や接待をばら撒かなければならない。

「ええ、通常の土地取引であれば、あなたの仰る通り泥沼の交渉になります。

しかし、今回は極めて特別な事情がございました」

ハンストン氏は少し身を乗り出し、声を潜めた。

「サー・パーシバル。あなたが今年の1月に新聞に掲載させた、ロンドン委員会への150ポンドの寄付。

あれが、議会工作において絶大な威力を発揮したのです」

「私の寄付が、囲い込み法案の審査に影響を与えたと?」

「その通りでございます。法案を審査する委員会の議員たちの中にも、ロンドン委員会の発起人や関係者が多数含まれております。

彼らは新聞の紙面でサー・パーシバル・シャルトン名誉中佐の名前と150ポンドという破格の金額をはっきりと目にしていたのです。

議会の委員会に法案を提出した際、彼らはあなたのことを飢えた民衆から土地を奪う強欲な投機家ではなく、高貴なる義務を率先して果たす、極めて高潔で信用に足るジェントルマンとして歓迎してくれました」

ハンストン氏は楽しげに言葉を続けた。

「本来であれば反対に回るはずの地元の有力者たちも、あなたが救済委員会の大口寄付者であると知ると急に態度を軟化させました。

おかげで、彼らの懐を潤すための工作資金は、予想の半分以下で済んだのです。

まさに、見事な信用の相乗効果でございます。

慈善事業への投資がこれほど早く、しかも巨大な利益を生むとは、私のような法務の人間にも驚きでした」

パーシバルは声を立てて笑った。

「それは実に面白い。

150ポンドで買った名誉が、1,000ポンドのロビー活動費を節約し、法案を滑らかに通してくれたというわけか。

やはり、信用というものは最も利回りの高い強力な武器だな」

「全くもってその通りでございます。

これで、あなたがサリー州の3,000エーカーの絶対的な領主となるのは、単なる時間の問題となりました」

「さて、土地が手に入る目処が立ったのなら、いつまでも祝杯を挙げている暇はない」

パーシバルは笑みを収め、真顔に戻った。

「ハンストン氏、すぐさま次の仕事に取り掛かってほしい。

あなたに工場を1棟購入してもらいたいのだ」

「工場、でございますか?」

ハンストン氏は予想外の言葉に目を丸くした。

「サー・パーシバル。あなたはこれから、広大な土地で農場経営を始められるのではありませんか?

なぜ、煙を吐くような薄汚い工場が必要なのです?

地主が製造業に手を出すなど、あまりにも常識外れかと存じますが」

「あの不毛な砂の荒れ地を豊かな農地に変えるためには、ただ牛や馬の糞を撒くだけの古いやり方では全く時間が足りないのだ。

私は、土壌改良のための特別な肥料を製造しようと考えている」

パーシバルは静かな声で答えた。

現代の化学知識である「過リン酸石灰」の製造。

それは、当時の世間の農業の常識を根底から覆すものであった。

不毛な土壌にリン酸を直接供給し、植物の生育を爆発的に促進する極めて強力な魔法の粉。

これを自らの手で製造し、サリー州の土地へ大量に投入するための拠点が必要なのだ。

しかし、その技術を他人に盗まれるわけにはいかない。

「ロンドン郊外、例えばテムズ川南岸のバーモンジーあたりが良いだろう」

パーシバルは具体的な場所を指示した。

「あそこなら、昔からなめし革工場や石鹸工場が立ち並び、獣の骨や悪臭が出ても誰にも怪しまれない。

それに、テムズ川の水運を使えば、完成した肥料を船に乗せてウォーキングの運河まで直接運ぶのにも都合が良い。

広さはそれほど必要ないが、周囲の目から完全に隔離された、閉鎖的な工場を見つけて買い取ってくれ」

「承知いたしました。そのような物件であれば、いくらでもあると思います。

不況の折ですから、安価で手に入るでしょう」

ハンストン氏は手帳に素早くメモを取った。

「それと、もう1つ極めて重要な依頼がある」

パーシバルはさらに言葉を重ねた。

「その工場を管理運営し、実際の製造作業を指揮する人物を探し出してほしい。

単なる労働者の監督ではなく、化学の知識を持つ男だ」

「化学、でございますか?」

「そうだ。特に危険な薬品の取り扱いに慣れている者が良い。

性質を理解し、危険な薬品を正確な分量で扱うことのできる、知識を持った男だ。

王立協会の学者先生である必要はない。身分が低くても構わないから、手が汚れることも厭わず、現場で私の指示通りに動ける男を見つけてくれ」

骨粉と硫酸を反応させて過リン酸石灰を作る。

その工程において、強酸である硫酸の取り扱いは最も危険であり、化学的な知識が不可欠であった。

ハンストン氏はしばらく考え込み、やがて頷いた。

「ロンドンの裏通りや工場地帯には、独学で化学を学んだり、怪しげな染料工場で働いたりしている人間が少なからずおります。

私の事務所の情報網を使えば、条件に合う人物を見つけ出すことは十分に可能でしょう。

身元をしっかりと調査した上で、後日、この邸宅へ連れてまいります」

「頼んだぞ、ハンストン氏。報酬は出し惜しみしない。

工場と人材が揃い次第、すぐにでも試験的な製造に取り掛かる」

パーシバルは立ち上がり、事務弁護士と固い握手を交わした。

自身の持つ未来の知識を物理的な力へと変換するため、まだ存在しない化学肥料の工場の設立という前代未聞の計画を力強く推し進めようとしていたのである。

■1817年5月。

ブルームズベリーに建つパーシバル・シャルトンの邸宅。

応接間には、ロンドンの春の柔らかな日差しが差し込んでいる。

パーシバルはソファに深く腰を下ろし、目の前に立つ1人の男を観察していた。

男の名前はギルバート・バレット。年齢は32歳。

ハンストン法律事務所のラルフ・ハンストンが、ロンドンの裏通りから探し出してきた工場管理人の候補である。

スコットランドのグラスゴーにある貧しい革なめし職人の家に生まれたというその男は、上流階級の洗練とは無縁の風貌をしていた。

仕立ての粗い、しかし清潔に保たれた労働者の服を着ている。

その両手は長年薬品に触れてきたためか、不自然に変色し、皮膚が硬く荒れ果てていた。

しかし、パーシバルの目を引いたのは彼の手ではなく、その眼差しであった。

バレットの瞳には、労働者階級特有の諦念ではなく、知的好奇心を感じさせる強い意思が宿っていた。

「遠いところをご苦労だった、バレット氏。どうぞ掛けてくれ」

パーシバルが静かな声で促すと、バレットは少し緊張した面持ちで向かいの椅子に腰を下ろした。

「ハンストン氏から、君が化学について実践的な知識を持っていると聞いた。

学校で教育を受けたことはないそうだが、複数の工場を渡り歩き、独学で知識を身につけたというのは本当か?」

パーシバルが尋ねると、バレットは少し掠れた声で答えた。

「はい、サー・パーシバル。私は大学の講義室には入ったことがありません。

ですが、染料工場や石鹸工場、そして硫酸工場で、朝から晩まで薬品の匂いを嗅ぎ、釜の温度を見張ってきました。

学者先生たちが本の中で書いている化学反応を私はこの両手で何度も経験しております」

「素晴らしい。

私が求めているのは、ラテン語の論文を読み上げる男ではなく、化学工場の現場を知っている男だ」

パーシバルは少し身を乗り出し、鋭い視線をバレットに向けた。

「では、君の基本的な知識を試させてもらおう。

私は新しい工場で、大量の硫酸を扱う予定だ。

硫酸を安全に保管し、他の物質と混ぜ合わせる作業を行う場合、どのような材質の容器を使えばいい?」

バレットは全く迷うことなく即答した。

「ガラスか、あるいは鉛で内張りした巨大な桶です。

鉄や銅の容器ではすぐに腐食して使い物にならなくなります。

現在主流となっている鉛室法で作られる硫酸は、鉛とは反応しない性質を持っておりますから」

「正解だ。では、濃硫酸を水で薄める作業をする際、最も注意すべき点は何だ?」

パーシバルがさらに問いを重ねる。

「決して、濃硫酸の中に水を注いではいけません」

バレットの表情が真剣なものになった。

「それをやれば、凄まじい熱を出して急激に沸騰し、有毒な酸が顔や身体に向かって飛び散ります。

失明するか、最悪の場合は命を落とします。

必ず、大量の水の中に濃硫酸を少しずつゆっくりと注ぎ入れていく必要があります。

それが現場の鉄則です」

その後もいくつか当時知られている化学の常識について質問を繰り返し、学校での教育は受けていないバレットが基本的な化学の知識を有していることを確認した。

パーシバルは満足げに深く頷いた。

「見事だ。君の知識は完全に本物だ。

化学に対する君の知識と能力は、私が望んでいた水準を十分に満たしている」

パーシバルはソファの背もたれに寄りかかり、雇用の条件を切り出した。

「バレット氏。君を私が新しく購入したバーモンジーの工場の管理人として正式に雇用しよう。

年俸は60ポンドだ。どうかな?」

「60ポンド、ですか!」

バレットは驚きのあまり声を上げた。

当時の職人であっても、年間に稼げる額は40ポンド程度である。

60ポンドという金額は、労働者階級の彼にとって破格の待遇であった。

「ありがとうございます、サー・パーシバル。この命に代えても、工場を立派に動かしてみせます」

「命を落としてもらっては困る。私が必要としているのは君の頭脳と経験だからな」

パーシバルは傍らに控えていた家令のウィリアムに視線を向けた。

「今後の経費の管理や、機械の購入資金については、すべてこの家令のウィリアムを通すように。

彼が帳簿の管理と金の支払いを行う」

「お見知りおきを、バレット氏。帳簿の数字には厳しいですので、領収書は必ず保管しておいてください」

ウィリアムが丁寧な口調で、しかし隙のない笑顔で挨拶をした。

「さて、本題に入ろう」

パーシバルはテーブルの上に置かれたメモ用紙を引き寄せ、自らのペンで肥料製造のプロセスを書き始めた。

「君に工場で作ってもらいたいのは、『新しい骨粉の肥料』だ。材料は2つ。獣の骨と硫酸だ」

バレットは目を丸くした。

「獣の骨、ですか?

骨を砕いて畑に撒く農家がいることは知っておりますが……それに硫酸を混ぜるのですか?」

「そうだ骨粉に含まれる油や肉を完全に取り去れば、より良い肥料になると学会でも話題でね。

硫酸が油や肉を溶かすのはしっているだろ?」

パーシバルは前世の現代知識である過リン酸石灰の製造を1817年の常識に当てはめて説明し始めた。

史実において、この革命的な水溶性のリン酸肥料が実用化され、農業に劇的な変化をもたらすのは1840年代のことである。パーシバルは歴史を約25年先取りしようとしていた。

パーシバルはメモ用紙の図をペンで指し示した。

「手順はこうだ。

まず、獣の骨を蒸気機関の粉砕機で可能な限り細かく粉砕し、骨粉にする。

それを鉛で内張りした巨大な桶に入れ、適度に水で薄めた硫酸を注ぎ込んでかき混ぜる。

酸が骨と反応して激しく発熱し、有毒な煙が出るから、換気には細心の注意を払うこと。

反応が終わると、ドロドロのペースト状の物質ができる。

それを乾燥させ、再び細かく砕いた粉が、我々の求める製品だ」

バレットは口を半開きにしたまま、パーシバルの説明を食い入るように聞いていた。

「普通の骨粉肥料に一手間を加えてより効果のある肥料を作るということですね。

さらに硫酸を扱う危険な作業ですから私が必要とされる理由もわかりました」

「さて、この製造計画を進めるにあたり、原材料の調達ルートと価格の相場について、君の知見を聞かせてほしい。

現在の市場ではどうなっている?」

「獣の骨でしたら、調達は容易です。

同じ工場地帯にある膠工場から一度に大量に購入可能です」

「硫酸はどうだ?」

「硫酸も問題ありません。

テムズ川沿いには大量生産を行っている硫酸工場がいくつも存在します。

大口の取引契約を結べば、1トンあたり20ポンド程度で安定して調達することが可能です」

パーシバルは頭の中で素早く数字を弾き出した。

比較的安価な獣骨、それに硫酸を反応させるだけで、農地を劇的に生まれ変わらせる高付加価値な化学肥料が完成する。

サリー州ウォーキングの3,000エーカーの不毛な荒れ地にこれを大量投入すれば、わずか数年で豊かな領地へと変貌するはずだ。

パーシバルはメモ用紙をバレットの方へ押しやった。

「よろしい。

工場に必要な蒸気機関の粉砕機、鉛の桶、そして労働者の雇用。

すべての準備を急いでくれ。準備が整い次第、ただちに試験的な製造を開始するのだ」

「承知いたしました、サー・パーシバル。

直ちにバーモンジーの工場へ向かい、機材の手配に取り掛かります」

バレットはメモ用紙を大事そうに胸のポケットにしまい、立ち上がって深く頭を下げた。

彼の目には、未知の肥料を生み出すという技術者としての熱い情熱が燃えたぎっていた。

ウィリアムがバレットを玄関まで案内するために部屋を出て行くと、応接間にはパーシバル1人が残された。

彼はソファに寄りかかり、窓の外の青空を見つめながら、資本家として計算を巡らせていた。

この過リン酸石灰の製造技術は、農業の常識を根底から覆すほどの圧倒的な価値を秘めている。

工場が稼働し、その絶大な効果が確認されれば、工場長であるバレットはこの技術の真の恐ろしさに気づくだろう。

しかし、パーシバルにはあまり不安がなかった。

なぜなら、この新しい肥料の製法は、農場管理人のジョージ・エバンスにすら教えるつもりはない完全な秘密であるからだ。

そして何より、バレットがその劇的な効果を知ったとしても、彼にはこの技術を盗み出して利益を得る手段が完全に欠如している。

当時のイギリスにおいて、特許を取得し、それを維持するためには、イングランド、スコットランド、アイルランドのそれぞれで個別の複雑な手続きと国会と国王からの承認が必要であり、総額で1,000ポンド以上にも上る莫大な費用を支払う必要があった。

年俸60ポンドの労働者階級であるバレットに、そのような大金を用意できるはずがない。

彼には特許を出願する資金も請願するために必要な社会的地位も存在しないのだ。

(金と特権を持たない者に革命的な技術は扱えない。この世界は、極めて残酷にできている)

パーシバルは冷たい笑みを浮かべ、紅茶のカップを手に取った。

身分制度と資本の論理という、大英帝国の分厚い壁が彼を守っている。

彼はこの現代知識という究極の兵器を独占し、誰にも邪魔されることなく、サリー州の荒れ地を莫大な富を生み出す土地へと造り変えることができるのだ。

1817年5月。

歴史の時計の針を25年進める秘密の工場が、ロンドンの片隅でひっそりと、しかし確実にその産声を上げようとしていた。

■1817年12月。

ロンドンの街は、テムズ川から吹き付ける凍てつくような冬の風に包まれていた。

通りを行き交う人々は分厚い外套に身を縮め、馬車の車輪は石畳に薄く張った氷を砕きながら進んでいく。

「旦那様。サリー州ウォーキングの農場より、ジョージ・エバンスが到着いたしました」

家令のウィリアムが書斎の扉を開け、静かに告げた。

「通してくれ。凍えているだろうから、温かい紅茶も用意してやってほしい」

パーシバルが応じると、ウィリアムに案内されて1人の男が書斎に入ってきた。

彼が、ハンプシャーの実家から呼び寄せ、購入したウォーキングの領地の農場管理人として現場の指揮を任せている男、ジョージ・エバンスである。

年齢は29歳。身長は190センチメートル近くあり、肩幅も極めて広い筋骨隆々の巨漢であった。

仕立ての良い分厚いウールのコートを着てはいるが、その服の下に隠された圧倒的な腕力は隠しようがない。

荒くれ者の多い農園の労働者たちを力で従わせるには、これ以上ないほどの説得力を持った体格である。

しかし、彼が小脇に抱えているのは、農具や鞭ではなく、極めて几帳面に革で装丁された分厚い帳簿であった。

「ご無沙汰しております、サー・パーシバル。ロンドンの冬は、ウォーキングの吹きさらしの荒野に比べれば随分と快適ですね」

エバンスは深く頭を下げ、実直な声で挨拶をした。

「よく来てくれた、エバンス。泥にまみれた開拓作業の最中にロンドンまで足を運ばせてすまなかったな。

さあ、火のそばの椅子に掛けてくれ」

パーシバルは暖炉に近い椅子を勧めた。

エバンスは着席し、ウィリアムから受け取った紅茶を1口飲んで息をつくと、すぐに仕事の顔になった。

彼はその大きな手で帳簿を驚くほど繊細に開き、パーシバルの前の机に置いた。

「本日は、この半年間におけるウォーキングの農場建設の成果と年末の決算報告を持参いたしました」

エバンスは姿勢を正し、力強い声で報告を始めた。

「まずは、何もない荒れ地を開拓し、農場として機能させるための整備にかかった初期費用の明細からご説明いたします」

パーシバルは無言で頷き、ペンを手に取った。

「最初に現地で働く建設作業員たちが寝泊まりするための小屋4棟の建設費として100ポンド。

次に、バッシングストーク運河から大量の物資を搬入し、将来の収穫物を搬出するためのレンガ造りの強固な荷揚場建設費に250ポンド」

エバンスは帳簿の数字を1つ1つ、正確に読み上げていく。

「そして、購入された3,000エーカーの土地の境界を囲い込むため、木製の柵の建設費に1,300ポンドを費やしました」

「1,300ポンドか。初期費用の中でも突出して巨大な数字だな」

パーシバルが眉を少し動かすと、エバンスは即座にその理由を説明した。

「はい。

3,000エーカーという広大な土地の周囲すべてに柵を巡らせるには、膨大な木材と労働力が必要です。しかし、この出費は絶対に削ることはできませんでした。

柵で囲い込むことは、囲い込み法で定められた義務であり、我々が放牧する羊を逃がさないためでもありますが、何より、以前までその土地を共有地として使っていた近隣の農民たちの不法侵入を防ぐためです。

囲い込み法が成立したとはいえ、柵がなければ夜間に勝手に家畜を放たれたりする危険がありました」

「なるほど。

権利書という紙切れだけでなく、物理的な防壁が必要だったというわけだ。極めて妥当な判断だ」

パーシバルはエバンスの実務的な判断を評価し、先を促した。

「ありがとうございます。

続きまして、土壌改良に必要な消石灰を製造するための石灰釜の建設費に200ポンド。

肥料などを保管する頑丈なレンガ造りの倉庫に400ポンド

私を含めた農場管理人が常駐し、事務仕事を行うための家屋の建設費に250ポンド。

荒れ地の開墾という重作業をこなすための頑強な農耕馬と荷車の購入費に190ポンド。

最後に、農業従事者の家や収穫物や肥料を保管する倉庫、および各種農具の購入費などに1,140ポンド。

これらをすべて合計いたしまして、農場建設の初期費用の総額は3,830ポンドとなります」

パーシバルは手元の紙に数字を書き留め、素早く検算を行った。

「農場を新規に立ち上げるための設備投資としては、見事なまでに予算内に収まっている」

「次に、この半年間でかかった運営費の報告に移ります」

エバンスは帳簿のページをめくった。

「現場の労働者たちへ支払った給与、石灰釜で消石灰を製造するための燃料費や原材料費。

そして、ご指示を頂いた新しい骨粉肥料の購入と輸送費。

これらを合算いたしまして、半年間の運営費は合計で726ポンドとなります」

「初期費用の3,830ポンドと、運営費の726ポンド。

つまり、今年のウォーキングの農場に対する私の支出は、合計で4,556ポンドということだな」

パーシバルはペンを置き、帳簿を閉じたエバンスの目を見据えた。

「その通りでございます。サー・パーシバル、現在の進捗状況についてご報告いたします」

エバンスは真っ直ぐな視線で答えた。

「我々は現在、全体の3,000エーカーのうち、バッシングストーク運河に近い最初の500エーカーに労働力を集中させ、徹底的な土壌改良を進めております。

このペースであれば、毎年500エーカーずつ改良を進め、6年計画で3,000エーカー全土に土壌の改良を施すことができる計算です」

「6年計画か。悪くない」

しかし、エバンスの表情はここで引き締まった。

「ですが、サー・パーシバル。

現場を預かる人間として、厳しい現実をお伝えしておかなければなりません。

農業は、ロンドンの銀行に預けた金のように決まった利息を生み出すわけではありません。

我々が現在改良している最初の500エーカーの土地が実際に小麦などの作物を実らせ、収益が出る豊かな農地になるには、土壌が安定するまで最低でも3年はかかります。

つまり……」

「今年は利益がゼロ、どころか4,556ポンドの完全な赤字決算であり、赤字はこれから3年間続くということだな」

パーシバルが先回りして言うと、エバンスは重々しく頷いた。

「はい。

多額の資本を投じていただきましたが、今年、あの土地からあなたにお返しできる現金は1ペニーもございません」

エバンスは、パーシバルがこの利益ゼロという報告を聞いて怒るか、あるいは計画の縮小を言い渡すのではないかと内心で警戒していた。

しかし、パーシバルは少しも慌てることなく、それどころか深く満足げな笑みを浮かべた。

「エバンス。君は私が、今日種を蒔いて明日には収穫できると信じているような、愚かな素人地主だとでも思っていたのか?」

エバンスは言葉に詰まり、目を瞬かせた。

「あの砂とヒースばかりの不毛な荒れ地をわずか半年で収益化できるなどとは最初から考えていない。

あの土地を半永久的に富を生み出す広大で豊かな土地に変えたいのだよ。

そのために君の指揮のもと、私の描いた計画通りにことが進んでいる。

これほど喜ばしいことはない」

パーシバルは紅茶のカップを手に取り、エバンスに向かって軽く掲げた。

「赤字決算は予定通りだ。

私には、3年でも6年でも、君たちが土と格闘する間、給与と経費を支払い続けるだけの収入がある。

安心して計画通りに改良を進めてくれ」

その言葉を聞き、巨漢の現場監督は安堵の息を長く吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。

「……寛大なご理解に、心より感謝いたします。

兄のトーマスから、あなたは数字に厳しい方だと聞いておりましたので、利益が出ないことに対してどのようなお叱りを受けるかと覚悟しておりました」

「数字には厳しいが、それは無駄な浪費に対してだけだ。必要な投資には、一切の出し惜しみをしない」

パーシバルは少し身を乗り出した。

「それで、土壌改良の具体的な状況はどうだ?

新しい骨粉肥料の効果は出ているか」

その問いに対して、エバンスの顔に興奮の色がはっきりと浮かんだ。

「それです、サー・パーシバル。

私は農業に携わって生きてきましたが、あのような光景は見たことがありません。

運河を経由して送り込まれてくる新しい骨粉肥料ですが、あれはいったい何の魔法なのですか?」

パーシバルの脳内に、現代の化学知識である過リン酸石灰の製法が浮かんだ。

しかし、彼はその秘密を口にすることなく、ただ面白そうに先を促した。

「魔法ではないよ。それで、何が起きている?」

「我々はノーフォーク農法に従い、冬の間にレンタルする羊に食べさせるための飼料として、カブの種を撒きました。本来であれば、あのような不毛な砂地でカブがまともに育つはずがありません。

しかし、新しい骨粉肥料を土に混ぜ込んだところ、カブが驚異的な速度で、しかも驚くほど大きなサイズに育ったのです!」

エバンスは大きな両手で、実際より過剰に大きなカブの形を作って見せた。

「この冬、我々の農場では、レンタルする羊に食べさせるための大量のカブには全く困りません。

十分な冬越しの飼料が確保できました」

パーシバルは深く頷いた。

当時の農業において、羊や牛などの家畜を冬の間に飢えさせずに生かしておくことは、極めて困難な課題であった。

冬の飼料となるカブを大量に栽培できること。それはすなわち、農場に大量の家畜を維持できることを意味する。

「素晴らしい成果だ」

パーシバルは満足げにソファの背もたれに寄りかかった。

「今年は利益がゼロで、支出しか出なかった。

だが、我々の事業は間違いなく、最高の形でスタートを切ったと言えるだろう」

「はい。

農場にいる労働者たちも、この驚異的なカブの成長を見て、荒れ地を開拓する希望を強く持っております。

サー・パーシバルの投資は、決して無駄にはなっておりません」

エバンスも力強く頷き、頼もしい笑顔を見せた。

「エバンス」

パーシバルは、農場の初期費用と運営費についての報告を終えたばかりの農場管理人、ジョージ・エバンスに向かって、強い好奇心を込めた視線を向けた。

「私にとって嬉しい報告をしてくれたが土壌の改良について、もう少し詳しく状況を教えてくれないか」

「承知いたしました、サー・パーシバル。

私が現場で格闘している土の現実をご説明いたしましょう」

エバンスは、その巨大な両手を広げてみせた。

「ウォーキングの3,000エーカーの土地ですが、農民たちはあのような土地をすっぱい土と呼んで忌み嫌っております。

酸味が強すぎるため、どれほど良質な小麦の種を撒いても、根が腐ってしまうか、育つ前に枯れてしまいます」

「酸性土壌というわけだ」

パーシバルが1813年に出版されたばかりのハンフリー・デービーの農業化学の知識を引用して相槌を打つと、エバンスは深く頷いた。

「はい。

その強烈な酸味を殺し、土を甘く中和するために、我々はまず消石灰を大量に散布しております。

初期費用の明細にあった、200ポンドで建設した石灰釜が、ここで活躍しているのです」

エバンスは、現場の光景を思い浮かべるように目を細めた。

「バッシングストーク運河を利用して、近隣の丘陵地帯から大量の石灰石を船で運び込みます。

それを石灰釜に放り込み、石炭と一緒に3日3晩、強烈な火炎で焼き続けます。

そうして出来上がるのが生石灰です。しかし、これをそのまま畑に撒くわけにはいきません」

エバンスは身振り手振りを交えて、危険な作業の様子を語った。

「釜から出した生石灰に、慎重に水をかけます。

すると、石はまるで生き物のようにシューシューと音を立てて激しく熱を発し、煙を上げて沸騰するように崩れていきます。

この作業は極めて危険で、蒸気とともに舞い上がる粉を吸い込めば肺が焼け、目に入れば失明します。

労働者たちには布で顔を覆わせ、風向きに細心の注意を払わせています」

「そうして反応が収まった後に残る真っ白な粉末が、土に撒くための消石灰だな」

パーシバルが確認するように言うと、エバンスは力強く頷いた。

「その通りです。

その消石灰をスコップと荷車を使って、荒れ地にまんべんなく散布し、鋤で土にすき込んでいきます。

白い粉が土に混ざると不思議なことに、あれほどしぶとかったヒースの太い根がボロボロに腐り始め、土の強烈な酸味が消えていくのです。

まさに、化学の力です」

「現在改良を進めている最初の500エーカーの土地に対して、どれほどの量の消石灰を投入したのだ?」

パーシバルの問いに、エバンスは頭の中の数字を即座に引き出した。

「1エーカーの酸性土壌を完全に中和するためには、およそ3トンの消石灰が必要です。

したがって、最初の500エーカーに対して、我々はこの半年間で実に1,500トンもの消石灰を釜で製造し、土に混ぜ込みました」

1,500トン。

その途方もない重量と、それに費やされた過酷な労働の量に、パーシバルは内心で舌を巻いた。

「見事だ。君の強力な統率力がなければ、労働者たちはとっくに逃げ出していただろうな」

「あなたの支払ってくださる潤沢な給与が、彼らの背骨を支えているのです」

エバンスは実直に答えた。

「しかし、サー・パーシバル。

石灰で土の酸味を消しただけでは、まだ農地とは呼べません。

ウォーキングの土は、酸味が消えても、依然としてサラサラと指の間からこぼれ落ちるような、軽すぎる砂なのです」

「土の固さが足りないというわけだな」

「ご明察の通りです。

小麦の重い穂を支えるためには、土がしっかりと締まっていなければなりません。

軽い砂地のままでは、少し強い風が吹けば、土ごと種が吹き飛ばされてしまいます」

エバンスはここで、誇らしげな笑みを浮かべた。

「そこで登場するのが新しい骨粉肥料と我々がノーフォーク農法で用いる羊たちです」

パーシバルは、自身の目論見が現場でどのように結実しているかを聞くため、ソファに深く背中を預けた。

「続けてくれ、エバンス。君たちがどのようにして、あの不毛な砂地を締め固めているのかを」

「はい。

まず、石灰で中和した砂地に、新しい骨粉肥料をたっぷりと混ぜ込み、そこにカブの種を撒きます。

先ほどの報告の通り、肥料の効果は絶大で、カブは私の頭ほどもある巨大なサイズにしかも驚異的な速度で成長しました。

冬を迎え、その巨大なカブが畑一面に実った状態からが、真の土壌改良の始まりです」

エバンスは、身を乗り出して熱弁を振るった。

「我々は、カブが実っている畑の1つの区画を木製の可動式の柵で四角く囲い込みます。

そして、その狭い区画の中に、何百頭もの羊の群れを押し込むのです」

「羊たちに、畑に生えているカブをそのまま直接食べさせるわけだな」

「その通りです。

飢えた羊たちは、柵の中で狂ったようにカブを貪り食います。

その際、何が起こるか。何百頭もの羊たちが、狭い区画の中でひしめき合い、カブを求めて動き回ります。

彼らの小さく、しかし鋭く硬い蹄が、ウォーキングの緩い砂地を何千回、何万回と踏みつけるのです。

この羊の蹄による踏み固めによって、あれほど軽かった砂地がまるで馬車道のようにカチカチに締め固められていくのです。

我々農民は、この砂地を固める羊の足跡を黄金の蹄と呼んでおります」

エバンスの顔は、農場の奇跡を語る喜びに満ちていた。

「それだけではありません。

羊たちは満腹になるまで巨大なカブを食べ、そして、その場で大量の糞尿を排泄します。

狭い柵の中に押し込められていますから、彼らの落とす極上の肥料は、蹄で踏み固められたばかりの土の表面に、これ以上ないほど均等に、かつ大量にすき込まれていくのです。

我々は労働者を雇って荷車で肥料を運ぶ必要すらありません。

羊たちが自ら歩いて肥料を散布するのです」

「そして、その区画のカブを食べ尽くしたら、また次の区画へと木製の柵を移動させ、同じことを繰り返す」

パーシバルは、完璧に機能している生物学的・化学的な循環システムに、心底からの感嘆の声を漏らした。

「新しい骨粉肥料がカブを巨大に育て、そのカブが羊を養い、羊の蹄が砂を適度な硬さに締め固め、羊の糞尿が土を肥沃にする。

すべてが連鎖し、少しの無駄もなく機能している。まさに、完璧なサイクルだ」

「はい。そのとおりでございます」

エバンスは力強く頷いた。

「石灰と、新しい骨粉肥料と、羊。

この3つの力が合わさることで、来年の春には、最初の500エーカーは驚くほど豊かな土壌へと変貌しているはずです。

3年後には、間違いなく大人の背丈ほどもある見事な小麦が、あの一面に実ることでしょう」

パーシバルは、自身が投じた資本と未来の知識がエバンスという有能な農場管理人の手によって、不毛な大地を造り変えていくという事実に、ある種の創造主のような高揚感を感じていた。

「見事だ、エバンス。君に現場の指揮を任せて、本当に正解だった」

「来年以降も、一切の資金を惜しむつもりはない。

石灰釜の火を絶やさず、骨粉肥料も安定して供給させる。

そして……」

「来年の計画に向けて、羊の数をさらに増やす。

土壌の改良が進み次第、新たに羊を買い付けてくれ。

土壌を肥やすための、我々の生きた農機具をもっと稼働させるのだ」

エバンスは、そして深く頷いた。

「承知いたしました、サー・パーシバル。

必ずや、最高の羊の群れをウォーキングの地に揃えてみせます。

あの土地は、いずれイングランドで最も豊かな領地になるでしょう」

「頼んだぞ、エバンス」

パーシバルは再び紅茶のカップを手にした。

「世間では、羊を数えるのは眠れない夜の気休めだと言うらしいな。

だが、私の領地を豊かにしてくれる羊の数を数えることほど、ジェントルマンにとって完璧な安眠をもたらすものはないよ」

エバンスも心からの笑い声を上げた。

(第11章 完)