軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

42 お別れ抱擁から乱打ノックまで

ヴァレスティ邸の玄関前には、すでに馬車が待機していた。

ルクレツィアが手配してくれた御者が馬の鬣を撫でながら出立の合図を待っている。

積み込まれた荷は決して多くはない。必要なものはアイテムボックスの中だし、滞在の間に用立てて貰った着替えはヴァレスティ邸に置いたままだ。

庭の芝生は朝露を含んでしっとりと濡れ、まだ日差しは柔らかい。それでも秋の朝は冷たく澄んでいて、吐いた息はすぐ白くなった。

ルクレツィアが通う学園の休暇もそろそろ終わり、彼女は両親の住まう王都の屋敷に移ることになっている。それに伴い、私とレオナルドもこの屋敷を出る予定になっていた。分かっていたことではあるけれど、実際に出立の日を迎えると、胸の奥にじんとした寂しさと緊張が広がる。

玄関ポーチに立つルクレツィアの姿を見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。

彼女は淡い色の外套を羽織り、朝の光に透けて輝くミルクティー色の髪を風に揺らしている。

「……いよいよですわね」

ルクレツィアが言った。声は努めて穏やかだったが、その瞳には複雑な色が宿っていた。その顔は普段の毅然とした貴族令嬢のそれではなく、少し寂しげで、年相応の少女らしさがにじんでいる。

「はい。お世話になりました」

私は軽く頭を下げた。形式的なお礼ではなく、本心からの言葉だった。

ルクレツィアとは、数えきれない時間を過ごした。食卓を囲み、書類を片づけ、作戦を練り、冗談を言い合った。時に夜明けまで語り込んだこともある。

その日々は、私にとって確かな拠り所であり、彼女にとっても同じであってほしいと願う。

「私の方こそ、楽しいひとときをありがとう。……本当は、もう少し一緒に過ごせたらよかったのだけれど」

「はい……。でも、またすぐに会えますよ」

思わずそう口にした。だが自分でも、"またすぐ"がどれほど心許ない言葉かは分かっていた。陰謀と不穏の影が蠢くこの状況では、再会が本当に約束されているわけではないのだ。

「ええ……必ず」

それでも、ルクレツィアは微笑んで頷く。

彼女は私の前に歩み寄り、ふっと腕を広げてきた。私は、その腕にそっと飛び込み、ぎゅっと抱きしめられる。柔らかい布越しに伝わる体温が、不思議なほど切なかった。

「……どうか無事で」

「はい。ルクレツィア様も」

抱き返す腕に、自然と力がこもる。互いの体温が重なり、胸の鼓動が伝わってくる。ほんの数秒なのに、永遠に続いてほしいと思った。

やがて彼女はゆっくりと腕を解いた。私の手を名残惜しそうに握りしめたまま、それから顔を上げる。その表情は、もういつものヴァレスティ家の令嬢としてのものに戻っていた。

そのやり取りを少し離れた場所から黙って見ていたレオナルドが、一歩前に出た。

「ヴァレスティ嬢。これまでのご厚意、感謝いたします」

騎士としての礼を込め、深く頭を下げる。銀の髪がさらりと流れる。形式ばった言葉の裏には、確かな敬意と信頼が滲んでいた。

「アルバレスト卿。あかりを頼みますわね」

「命に代えても」

「代えないでくださ〜い」

短い言葉だったが、そこに偽りは一切なかった。彼の声は深く、確かな誓いとして空気に刻まれる。

苦笑する私を差し置いてルクレツィアは満足そうに頷き、外套を整えた。

「……さて、私も出かける準備をしなければ」

彼女は背筋を伸ばし、馬車の方に視線を向ける。

「本当に、ありがとうございました」

「礼を言うのはこちらですわ。……どうか、あかり。次に会う時も、笑顔で」

「はい」

再び短く抱擁を交わし、今度こそ別れた。

そして私たちは馬車に乗り込む。御者が手綱を鳴らし、馬が蹄を踏み鳴らした。

屋敷の門が開かれ、緩やかに車輪が動き出す。揺れる窓から振り返れば、ルクレツィアが庭先に立ち、こちらに手を振っていた。背後には屋敷の白い壁と、朝の陽光にきらめく窓。彼女の姿は、最後まで凛と輝いて見えた。

遠ざかる屋敷。縮んでいく姿。胸の奥に、温かなものと切なさがないまぜになった感覚が残る。

向かいの席でレオナルドが静かに言った。

「……必ず、また会える」

「うん」

その言葉に、少しだけ心が軽くなった。

道はまだ続く。この旅路の先で、きっとまた笑い合える日が来るのだと信じて。

馬車は石畳を離れ、緩やかに揺れながら街道を進んでいた。

御者の扱う手綱の音と、車輪が砂利を踏む低い音が一定のリズムを刻んでいる。

ルクレツィアに用意して貰った馬車は、納品の時に使わせて貰った時とは別のものだ。

たった二人で使うにしてはそこそこ大きめ。違和感を抱かれたら面倒臭いな、と思ったが、公爵家が客人に貸し出すとなればまぁ許容範囲だそうだし、この馬車が一番都合が良かった。

だが、あの時の馬車と同じように外観は至って質素。しかしそれなりに質は良く、一般市民が所有できる馬車に比べると揺れも小さい。

それでも、やはり現代の車なんかの乗り心地と比べ物にはならない……のだが、この馬車の車内はほとんど揺れを感じさせない。

理由は簡単だ。座席が私が通販で取り寄せて詰め込んだ大量のクッションで埋め尽くされているから。

体を横にすれば半分は沈み込み、姿勢を変えるたびにふわりと柔らかい感触が全身を包み込む。もうそれだけで小さな寝台のような快適さだった。これがまた、想像以上に心地良いのだ。

誘拐騒ぎの納品の時に編み出した対策である。

この状態を見たレオナルドは最初、呆れた顔をしていた。けれど今は背を預けて、腕を組みながらそれなりに落ち着いた様子を見せている。人間、快適さには抗えないのだ。

「流石に、これはやりすぎでは?」

「だって、硬い座席で何時間も揺られるのってしんどいじゃん。いざとなったらアイテムボックスに仕舞えばいいし」

「……確かに、その点はあかりならではだな」

彼は少し目を細め、手元の端末を操作した。

馬車から数メートル先の上空を飛ぶドローンからの映像が画面に映し出される。街道沿いの森と草原、遠くに点のような村落。

クッションにもたれて頬杖をつきながら、私は外の景色に目をやった。

馬車は街道をゆったりと進んでいる。窓の外には麦畑や林が流れ、遠くの丘には小さな集落の屋根が見えた。

クッション越しの馬車の揺れに身を任せていると、穏やかな日々を思い出す。

「私もまた馬乗りたいな〜」

わずかばかりではあるが、ヴァレスティ邸で乗馬を教わった。

私がぎこちない姿勢で馬に跨り、ルクレツィアに手綱を持たれてゆっくり歩いていた光景を思い出したようで、レオナルドが頷く。

「補助なしで一人乗りしたのは、まだ数度だったはずだな」

「うん。楽しかった」

ふわりと笑みがこぼれる。あの時の風の感触、馬の温もり、背に感じる力強さ。怖さもあったけれど、それ以上に新鮮だった。

「またちゃんと練習して、自分で走れるようになりたいな」

「悪くないな」

レオナルドは頷き、静かに言う。

「馬に乗れれば、逃走にも追跡にも役立つ。護身の一環として身につけるのも良い」

「なんかまた物騒な実用方向に持っていかれてる気がするんですけど……」

「性分だ」

まぁ確かに、人前でバイクだの車だのを使うのは面倒臭いことになる。いざという時のために馬を走らせられるようになっておくべきなのは、確かにそうなのだが。

「状況が落ち着いたら鍛錬を続けるといい。俺が教えよう」

「やったぁ〜」

その言葉に、私は少し胸が弾んだ。ヴァレスティ邸での数日の練習では、まだ"体験"の域を出なかった。でも、彼に本格的に教わるなら、ちゃんと乗れるようになる未来が見える。

「楽しみだね。まぁその前に、色々片付けなきゃいけないことが山積みですけど」

「……ああ」

彼の表情が、ふと引き締まる。

王家の思惑、渦巻く陰謀。今はまだその只中にある。旅路の終わりに何が待つか分からない。

でも、こうしてクッションに埋もれて笑って話せる時間は、確かに存在している。

窓から差し込む日差しが、揺れる馬車の中で柔らかく光を散らす。外の風景は少しずつ変わっていく。草原が広がり、小川を越え、再び林に入る。

馬車の中、クッションに沈みながら過ごす時間は、外の緊張感とは裏腹に穏やかだ。だがその穏やかさが、これから待つ嵐の前触れであることも、私たちは薄々理解していた。

──私たちが向かっているのは、ロウヘルト子爵領。レオナルドの養父の家だ。

グロスマール方面を経由して、今夜は街道途中の野営地で一泊の予定である。

ドローンの映像を覗き込んでいたレオナルドの表情が、ふと変わった。眉根がわずかに寄せられ、唇が引き結ばれる。

その変化を見て、私も思わず身を乗り出す。

「時間?」

「あぁ」

低く答える彼に合わせて、私はクッションに埋もれていた体を起こした。

私は周囲のクッションを次々とアイテムボックスに仕舞い込む。柔らかい山が音もなく消え、もふもふの海に埋もれていた座席が次第に元の形を取り戻し、馬車の内部が現実に引き戻されるように整えられていく。

レオナルドは無駄のない動きで身を捻り、御者台と繋がる壁をゆっくり五回叩いた。

窓の外を覗けば、すでに夕暮れの光が森を包み込み始めている。薄紫の空に沈みゆく陽は木々の影を長く伸ばしていた。夜が近い。

日が落ちれば、ここは完全な闇の中だ。馬車内に吊り下げられたランプの光を最小限に絞って点けて、カーテンを閉める。

やがて、馬車がゆるやかに減速し、最後にぐっと前に沈むようにして止まった。

それと同時に、外から人の声が重なり合い、ざわざわと騒がしくなる。

それに混じって、見慣れぬ足音がいくつも重なる。軽い革靴、土を蹴る荒っぽい走り。

緊張と不穏が入り混じったざわめきが、厚い木の壁を通しても耳に届いた。

「……来るぞ」

レオナルドが低く告げ、腰の剣に手を掛ける。その横顔は、まるで鋼のように引き締まっていた。

次の瞬間。

──ガンガンガンッ!

馬車の扉が、外から乱暴に叩かれた。

木の板がきしみ、金具が揺れて音を立てる。強い力で拳か、あるいは武器の柄か。扉が割れそうな勢いだった。

遠慮も礼儀もない、力任せの叩き方。金具が軋み、外の声が荒々しく響いた。

馬車の周囲で人影が動き回る気配。数は……一人や二人じゃない。

──果たして、何が待ち構えているのか。

鼓動だけが、やけに鮮明に耳の奥で響いていた。