軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一話 シワス砦

Ⅰ シワス砦

味気ない灰色の森が覆う世界に、忙しなく足を踏み鳴らす音が響いている。

乾いた冬の空気を胸いっぱいに吸い込み、幼いシュオウは一歩、また一歩と師であるアマネ目掛けて、小さな拳を突き出した。

アマネは、シュオウの手を自身の持つ小振りな木の棒で叩きつけた。右手に走った鮮烈な痛みに、おもわず小さな悲鳴が漏れる。

「殴るという選択肢は選びうるものの中で最悪の一つ。人の拳はなにかを叩いて平気でいられるようには出来ていない」

アマネは淡々と言った。

間合いを置く。

呼吸は乱れ、乾燥した空気を吸っては吐いてを繰り返し、口の中は真昼の砂漠のように乾いている。

殴ってはいけない。シュオウの頭が理解した言葉の意味はそのくらいのことだった。

拳は使えない――なら、足を使えば良いはずだ。

再び間合いを詰め、左足でふんばり、出せるかぎりの力をこめて蹴りあげる。が、アマネはシュオウの軸足を軽く棒で振り払った。結果支えを失い、無様に地面に尻をつく。

「足は根を張る大樹のように。無闇に地面から離さない。戦場での機動力は最も重要なものであると心得なさい。人の体は目や耳、指先や足の小指一本に至るまですべてが消耗するのだということも」

アマネの教練は、シュオウの頭にほとんど届いていない。言っていることの半分以上は理解ができないし、それになにより空腹で頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。

『食べ物が欲しければ、自分に一打を当ててみろ』――師のそんな言葉から〈教え〉は唐突に始まった。

この日に至るまで、食べるものが少ないからとほとんどろくな物は与えられていなかった。約束が違うと抗議したくても、子供であるシュオウは、自分を拾ってくれた大人である彼女に対して、まともに何かを要求する勇気も力もない。きっと本当に食べ物が少ないんだと納得して空腹に悲鳴をあげる腹を押さえてきた。

その結果がこれだ。

限界に近いほどの飢餓感に襲われるなか、食料を餌にして戦い方とやらを仕込まれてもいっこうに頭に入ってはこない。あらゆる思考は食べる事への渇望と、目の前の女に対する恨み言で溢れていた。

地面に落ちている木の枝を手に取る。アマネの持っているものより長く頑丈そうだ。

これならば――そう思い、不意打ちのつもりで勢いよく立ち上がり、目をつむってがむしゃらに棒を振り下ろした。が、なんら手応えはなかった。

うっすら目を開くと、片手で軽々とシュオウの繰り出した木の枝を掴む、アマネの姿があった。

「武器は使わない。失せてしまえば探し、壊れた瞬間無防備になる。手にした得物の長さと強度の分、人は自らが強くなったと過信する。だから、最初から所持する事を考えない」

言って、アマネは掴んだ木の枝を折って捨てた。途端、彼女は初めて反撃に転じる。

短い棒を自在に振り回すアマネの攻撃。シュオウの生まれながらに持つ類い希なる動体視力を用いて、迫り来る木の棒の軌跡と表面についた皺の数まで捉える事が出来た。だが、見えている事と、それに対応できるか、という事はまったくの別問題だった。幼いシュオウには、高速に迫り来る予測不能な攻撃を避けるだけの身体的な能力が圧倒的に不足している。

木の棒はシュオウの頬を、腹を、頭を小突く。どれも手を抜いたもので致命傷にはなりえないが、的確に強烈な痛みだけは与えてくる。

苦痛から逃れるため、シュオウはジリジリと後ずさった。

「周囲のものはすべて自身の利得として利用する。相手が勝手に転けたなら、その分体力の消耗を節約できる」

突如、視界が揺れた。古くなり、欠け落ちてしまっている地面に足を取られたのだ。意図的にこの場所へ追い込まれたのだと、この時のシュオウでも理解できた。

アマネは木の棒を放り捨て、こちらへ向けてゆっくりとにじり寄る。言い知れぬ恐怖がシュオウの心を覆った。

「誰かと対峙した時。その相手に対して最も単純かつ明快に勝利を得る方法は、相手をこの世から葬り去る事。けれど、複数の相手を同時にするような場面で、いちいち相手を殺していては時間も体力の消費も増え、効率の低下を招く。この戦い方を最初に興し、戦場で実践した男の考えたことはそんなところ。では、どうすれば損耗少なく戦いに勝利する事が出来るのか。答えは簡単。可能なかぎり僅かな労力で相手の戦意を失わせる最適な行動を選択する。――老若男女、痛みはあらゆる人間が平等に持って生まれる重要な感覚の一つ。それに対する耐性は鍛えることが難しく、精神力なんていう曖昧なもので乗り切れる度合いにも限度がある」

アマネは転んだシュオウの手を取り、体をうつ伏せに地面に押しつけた。

尖った小石が頬にめり込む。

左腕だけが背中にまわされ、軽く身動きをとっただけで肩から手首にかけて強烈な痛みが走る。まるで、これ以上動いてはならないと体が悲鳴をあげているかのように。

「まず身をもって方法を体感しなさい。これから教える様々の苦痛のうち、これが最初の一つ。頭にしっかりと焼き付けなさい。そして耳の底にこびりつけなさい。これが――」

もしも、木の枝が石のように硬かったなら。その枝を折った際には、こんな音がするに違いない。

アマネは言った。『これが、人の心が折れる音』だと。

左腕をあってはならない方向にへし折られたシュオウの悲鳴は、静かな森の空気を盛大に震動させる。

周囲の森から、驚いた鳥達が一斉に空へ飛び去った。

苦痛にもがくシュオウを前にして、アマネは平素と変わらぬ涼やかな微笑みを見せていた。この時、この瞬間、はじめて知ったのだ。優しさから自分を引き取ってくれたと思っていた目の前の女が、ただの心優しい人間ではなかったということを。

腕を伝って脳天にまで、落雷のように伝わった激しい痛みによる恐怖。

気づけば、シュオウはアマネに向かい必死に命乞いをしていた。殺さないで、と。

彼女は酷薄な笑みを浮かべ、言った。

「命に執着していられる今を精々喜んでおきなさい。これから私の下にいるかぎり、次の瞬間には心底殺してくれと願うようになっているだろうから」

考えたくなかった。やっと出会えた、共に生きてくれる人に対して猜疑を抱くということを。しかし、今のシュオウの心には、はっきりとあの日の出会いに対する後悔の念が渦巻いている。

――あの時のほうが、ましだった。

まるで見透かしたように、アマネは柔らかい声で言った。

「汚水溜めで寝て、その日の食事だけを探して生きる人生に戻りたい?」

今や恐怖の対象でしかないアマネを見上げ、シュオウは痙攣したように小刻みに頷いた。

アマネはシュオウを見下ろしつつ、ひんやりと冷たい手でシュオウの頬を撫でた。

「だめ、約束したでしょ? それに、ここは灰色の森に囲まれた魔境の世界。森での生き方を知らないあなたは、自力ではどこにも逃げられない」

師はシュオウを抱き起こして、優しく頭に手を置いた。

「シュオウ。あなたには、私が受けた教えのすべてを叩き込む。この歳になるまで、私にもその理念を体現することは出来なかったけれど、あなたの持って生まれた天賦の才は、それを存分に活かすことが出来るかも知れない。……元々弟子なんて取るつもりはなかったんだけどね。恨むなら、私に欲を出させたその目を恨みなさい。そして強くなりなさい。私から受け継いだ物を使ってどう生きるかは、あなたの好きにすればいい。だけど、約束を果たすまでは、私の下から絶対に逃がさないから。まあ、気が向いたらこの森の中で生きていく方法もついでに教える機会もあるかもしれない。きちんと習得すれば、自分の意志でここを出て行ける時も来るかも、ね」

初めて出会った時のような優しげな眼差しで、アマネは優しくシュオウの頭を撫でる。折られた腕はまだ痛い。それなのに、温かな羽毛にくるまれているような安心感が心を包む。

シュオウの頬に一筋の涙が伝った。

この日以降、文字通り死んだほうがましだ、という時間を積み重ねることになる。残酷だと思っていた彼女の言葉が、それでもなお控えめな表現だったと知るのは、さらに後の事となる。

無味乾燥とした灰色の世界。人が〈深界〉と名付けたそこは、かつては普通に人々が生活を送るありふれた世界だった。しかし、突如発生し、増殖を始めた灰色の不気味な木々は、徐々に平地を浸食し、世界は不気味な灰色の森に覆われた。灰色の森には人間を捕食し、害をなす生物が誕生し、それらは爆発的に繁殖する。人類は死の世界と化した平地から逃げ、灰色の森の侵攻が届かない山や高地へと逃げ延びた。

やがて、人は森の侵食を退ける効果を持つ石の存在を知る。水気を受けると暗闇で発光するそれを〈夜光石〉と名付け、その石を加工した素材で作る道を〈白道〉と呼ぶ。

一度は逃げ延びた深界。しかし、人類は白道によって道を繋いだ。

閉ざされた文明は再び開かれ、遠く離れた人々の間に交流が生まれた。それにより、人類は多くの恩恵を受けることになる。だが、それは異文化間での争いの火種を生む結果にも繋がった。

幾度となく繰り返される戦。

古い王国は倒れ、新たな王が立つ。その繰り返し。転んでは立ち上がり、泣き、笑い。その繰り返し。

終わることのない進歩と衰退を繰り返し、人はそれでも尚、前を向いて歩くことをやめなかった。

白道という名の街道が、深界の森に一条の線を穿つ。その道を塞ぐように、ぽつりと一つ、赤茶けた石造りの建物がある。

〈シワス砦〉

東を統べる大国、ムラクモに数多存在する軍事拠点の中でも、最も後方に位置するこの砦は、隣国であるアベンチュリン王国との国境を守護する重要拠点である。

シワス砦では日夜、国境の警備と国家間を行き来する者達の対応に追われ、そこに勤める従士達は多忙を極めている、ということになっていた。

だが、実際にはなんら軍事的脅威となりえないアベンチュリンに対しての警備業務はかぎりなく無意味に近く、砦で働く従士達の間には、怠惰な雰囲気が恒常的に立ちこめていた。

そうした退屈を享受する二人の従士が、深夜から早朝にかけての周辺警戒のため、見張り塔に詰めていた。

そのうちの一人、小太りで垂れ目の男の名をサブリという。村を出て一発当ててやると豪語し、その手始めにと石掘りの仕事を始めたが、すぐに手のマメが潰れて半日で仕事を投げ出し、半べそをかきながら現場放棄したという逸材である。自他共に認める根性なしだ。

もう一方、痩せ形で無精ヒゲを生やした男の名をハリオという。剣の腕一筋に傭兵として身を立てると言い村を出たが、剣を握って勇ましく敵を葬っていたはずの骨張った手は、塩辛い木の実入りの革袋の中をまさぐる事くらいにしか使っていない。自称、出身村一番の剣豪である。

ここに来て半年ほどの二人は、シワス砦に配属されてからの微睡みに似た退屈という名の日々を、ほぼ強制的に満喫させられていて、そうした日々にもすっかり慣れてしまっていた。

「なぁ、ハリオ……」

「なんだよ、サブリ」

見張り塔の内壁にぐてんと体を預けた姿勢のまま、サブリは相棒であるハリオに声をかけた。

「俺達、これでいいのかなぁ」

「なにが」

「なにがってさ、俺達今年でもう二十九、来年には三十だぜ。こうして辺境の警備隊でぼーっと過ごすだけの毎日でさ、いいのかなって思うんだよ」

「いいじゃねえかよ。一日に何時間か言われたことやってるだけで、寝るとこもあって飯も出る。使う当てのない金は貯まる。これ以上の仕事なんて探したってそうはないぞ。北方や南方に近い拠点じゃ、しょっちゅう殺し合いしてるってのに、ここはそういう血なまぐさい出来事からも無縁だしな。まあ、俺としちゃあ、鍛え上げた剣術を活かせる機会がなくて、ちっと退屈なんだがよ」

ハリオは剣の腕には自信があるようで、日頃からよくそのことを自慢していた。サブリはそうした話はすっかり聞き飽きていたので、さらりと流して対応する。

「でもよお、俺がなにより嫌なのはさ、ここじゃ女との出会いが全然ないってことなんだよ。ガキの頃遊んでた奴らなんてよ、みんな二十歳すぎたくらいの頃には嫁さん貰って一家の長になってるんだ。俺だってさ……」

「ぶっさいくな面してよく言うぜ」

「ハリオには言われたくないよ……」

サブリは顔をしかめ、ハリオはにへらと笑った。

「けどな、まじめな話、田舎の若い女どもはみーんなさっさと相手見つけちまうし、その他でまともな女と知り合いたいってんなら、王都かそれ以外の都市にでも行くしかないだろ。そこで生活していくとして、仕事はどうするんだ? つるはし持って汗臭い男達と、窮屈な穴に潜って石掘りして暮らすなんて、俺ぁごめんだね。お前だって親から貰えるもんがありゃこんなとこでこんな時間に俺とくっちゃべってないだろうがよ」

「それは、そうだけどよう」

「それにこの砦にだって何人か女の従士がいるじゃねえか。ほら、従曹の孫のミヤヒ従士なんか結構美人だろ? あれ……ちょっと待てよ、そういえば誰かさん、ここに来てすぐあの女に告って剣でボッコボコにされたんだっけ?」

思い出したくない過去を掘り出され、サブリの顔は真っ赤になる。

「お、おおお、おま、おまッ!」

「へへ、悪かったよ、落ち着けよ」

ハリオになだめられ、サブリは両手で後ろ頭をワシワシと掻いた。

「はぁあ……」

それからしばらくは二人とも口を開かなかった。

しんと静まり帰った夜の世界。時折、思い出したように鳴くフクロウの声に耳を傾ける。

静かな空気が苦手なサブリは、どうにかして話題がないものかとネタを思い出した。

「なぁ、ハリオ。聞いたかよ」

「なにがだよ」

ハリオは無精ヒゲを生やしたままの顔をぽりぽりと掻いて、革袋から塩辛い木の実を一つ取り出し、口に放り込んだ。

「このあいだ配属された新入りのことだよ」

「ほんなのひたっけか?」

ハリオは口の中で木の実を噛み砕きながらもごもごと返事をする。喋りながら余った木の実の皮を吐き出す事も忘れない。

「あんだけ目立つやつもそう居ないだろうよ。とにかくさ、今シワス砦はその新入りの話で持ちきりなんだぜ」

シワス砦のある位置は辺境と呼んでもさしつかえないほど、ムラクモ王国の中でもすみっこのほうにある。大貴族が統治するような都からは遠く、周辺には小さな農村が点在しているのみ。当然遊んだり、鬱憤晴らしをできるような店もなく、唯一の楽しみはムラクモとアベンチュリンの二国間を行き来する商人達からの情報や嗜好品を買うくらいなものだ。

そんな彼らにとって、王都の軍司令部から直接の指示で配属された新入りの話は、その奇抜な見た目との相乗効果もあり、大きな関心事となっていた。

「そもそも、なんでここに寄越されたのかも不思議なんだがよ、その新入りが来て以来、王都から早馬でしょっちゅう荷物が届くんだと」

「それがどうしたよ。辺境勤務の軍人に、実家から差し入れが届くのなんて珍しくもないだろうが」

ハリオがそう言うと、サブリはしめたと言わんばかりのしたり顔で反論する。

「それがなぁ、送られてきた荷袋があんまり上等だったもんで、受け取った奴らが差出人を見たらしいんだが、そこに書いてあった名前が〈アウレール〉だったんだと」

ハリオは木の実へと伸ばしていた手をぱたりと止め、体を起こした。

「アウレールっていや、お前それ――」

「そうだよ、ムラクモでもそこそこ中堅の貴族。子爵様の家だな」

しかし、ハリオは一笑に付す。

「ばっかやろ、かつがれてんだよ。どこの世界に平民の若造に物を送る貴族がいるってんだ」

「この話はヒノカジ従曹の耳にだって入ってるんだ。荷を直接受け取ったやつの話によると、荷札にアウレール子爵家の封蝋も押してあったらしいんだぜ。間違いねえよ」

力説するサブリの顔の贅肉がぷるんと揺れた。

「まじかよ……」

「この話はまだ終わりじゃねえぞ。そのアウレール子爵家からの荷が届けられた翌日なんだが、またその新入り宛に荷が届いたんだと」

サブリのもったいつけたような話し方に、ハリオはすでにのめり込んでいるようだった。さきほどまで大切に抱いていた革袋を手放して、顔をサブリのほうへ寄せている。

「また、その貴族から送られてきたのか?」

「それが違うんだ。こんどの差出人に書いてあった名前は〈モートレッド〉だったらしいんだな」

「今度は伯爵家かよ……どうなってるんだ、その新入り。でもよ、肝心な話が抜けてるな」

「そこ、そこなんだよぉッ! 一番重要なのはッ」

ふだん自分の話を真面目に聞いてくれないハリオが、真っ直ぐこちらに興味を寄せることにすっかり気をよくしているサブリは、声を荒げて身振り手振りで話を盛り上げた。

「届いた荷に書いてあった差出人の名前は家名だけじゃない。それを見たやつによると、二つとも女の名前だったらしいんだ」

「てことは、なんだ……その……」

異性へ宛てた贈り物。それが何を意味しているのか、銹びたノコギリ並に鈍い者でも、想像はつくというものだ。

言葉に詰まるハリオを尻目に、サブリは腕を組んで一人納得するように頷く。

「そういうことなんだろうな。簡単には信じられねえけどよ。その二人の貴族のお嬢から荷が届いて、その後も二、三日おきになにかしら、同じ差出人達から届いてるらしい」

「誰かその新入りに詳しく聞いた奴はいないのかよ?」

「いねえよう、そんな奴。みんな気味悪がって声もかけてねえって話だ。俺も同感だね」

定員はとっくに溢れているシワス砦に突如配属され、それを追いかけるようにして届く二人の貴族令嬢からの贈り物。

いくらシワス砦の従士達が平和呆けしているとはいえ、件の新入りになにかあると考えるのが妥当であり、小心者の彼らはそうした出来事に巻き込まれるかもしれないと、目を合わせることすら避けている始末だった。

ハリオはどこか遠くを見つめるように目を細める。

「くそッ、いいよなぁ……貴族の娘ならきっとすっげえ美人なんだろうな……」

ムラクモの特権階級層の多くは、西から渡ってきた移民の子孫だ。その詳しい経緯については、長い歴史と共に一般の人々の間で忘れられてしまったが、ムラクモが立国して間もなく、利権や新たな領地を期待して渡ってきたのではないか、というのが詳しい者達の間で語られている説である。

西側の人々は色白で目鼻がくっきりとした顔立ち。それに多種多彩な髪色が特徴的で、見栄えの良い容姿を持つ者が多い。黒髪や濃い茶系の髪色が多く、彫りの浅い顔立ちが一般的な東方の土着の民にとっては、しばしば畏怖と共に憧れの眼差しで見られることがあった。

「よし、次の交代時間がきたらそいつを見に行くぞ」

好奇心に駆り立てられたハリオが、柄にもなく瑞々しい声で言った。

「本気かい?」

「どうせ他にやることもないしな。で、その新入りがまかされた仕事場はどこなんだよ」

「ない」

サブリはきっぱりとそう言った。

「は?」

「だから、ないんだよ何も。まだここに来てなんにも振り分けられた仕事がないらしい。日に何度か中庭のほうで体を鍛えてるのを見かけた連中が居たみたいだけど」

「ほお、そいつはけっこうなご身分だな。あとで遠巻きに冷やかしてやろうか」

根本的に性格がひねくれているハリオは、他人をバカにしたり、からかったりすることが大好きだった。しかし、今回ばかりは相手が悪い。

「やめとけって、あの新入り、そういう雰囲気じゃねえ」

「なんだよ、雰囲気って、えらく中途半端な言い方だな」

「うん、なんていうか、近寄りがたいんだよ……なんとなく、だけどさ」

「ほお。そりゃ、ますます見るのが楽しみだ」

空はうっすらと光が差し始め、砦で飼われている鶏が目覚まし代わりにコケコッコウと喉を鳴らしている。

砦の中がざわめきに包まれるまでのほんの一間。

黎明の時。

風に揺られ、しゃらしゃらと枝を震わせる灰色の木々に囲まれた、平和で退屈だけが取り柄のシワス砦に、いつもと同じ朝が訪れる。

白く硬い地面を踏みしめながら、砦の中庭をぐるぐると走る。

薄ぼんやりと明るい静かな早朝。

シュオウは身を切るような真冬の空気を吸い込み、白い息を小気味良く吐き出しながら、自分はいったいなにをしているのだろう、と数え切れないほど自問した。

出生不明の孤児であったシュオウは、ある夜の出会いから師に拾われ、通常、人が暮らせぬ深界という、人にとっては死の世界のまっただ中で育てられ、鍛えられた。

十年以上の歳月を経た後、外の世界への好奇心から師の下を飛び出したシュオウは、幼い頃に孤児として残飯を漁り、泥水をすすってどうにか生きていた街、ムラクモ王国王都へと向かった。そこで旅の資金調達のため、貴族の子女達が通う学校の卒業試験に同行し、皆と共にいくつかの試練を乗り越え、はじめての友と呼べる、仲間達との絆も築く事が出来た。

その後〈氷長石〉との異名を持つ大貴族からの勧誘を受け、ムラクモ王国軍に入ることを決めたシュオウだったが、どういうわけか、今現在シュオウのいる場所は、当初の予定からはほど遠いものとなっていた。

胸に感じる強い圧迫感を合図に、自身の限界を悟ったシュオウは、走る速度を少しずつ緩めて、転がり込むようにして地面に体を横たえた。

汗で張り付いた衣服の下に感じる、冷たくて硬い地面の感触が心地良い。

四方に広がる赤茶色の壁は、外にいるにもかかわらず絶えず不快な圧迫感を与えてくる。木箱の中に閉じ込められた動物の気持ちはこんなだろうかと考える。そろそろ見慣れてもいいはずのこの光景を、未だに好きになれそうにはない。

なんの因果でか、ムラクモ王国の中でも最も東に位置するシワス砦に配属されてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。

こうなってしまった経緯を、シュオウを軍に誘った氷長石ことアデュレリア公爵は、丁寧な謝罪の言葉を含めて手紙で説明書きを寄越していた。その文面からは真摯に謝る姿勢が窺えたため、その事で相手を恨むような気持ちはなんら持ち合わせてはいないのだが、さすがにシワス砦での退屈極まりない日々は予想の範囲外であり、自問自答を繰り返し心の中で唱えてしまうに十分な、無意味に思える時間が、ただ淡々と過ぎていく。

シワス砦には多くの人間が勤めている。今現在も、見張りや食事の支度、馬の手入れ、掃除などの様々な雑用で複数の従士達が蟻の巣のように砦内でうごめいているのだが、シュオウのいる中庭には、自分の吐き出す荒い呼吸音しか聞こえず、この退屈な世界に独りぼっちになってしまったような錯覚すら抱いてしまう。

呼吸を落ち着かせるために吐き出した大きな溜息には、自虐的なものが少なからず含まれていた。

「新入りのくせに、いっちょまえに悩み事か?」

唐突に中庭の空気を揺らしたのは、聞き覚えのある女の声だった。

シュオウは仰向けに曇り空を見上げたまま、声の主に返答する。

「悩みがない人間なんているんですか」

上機嫌とはいえない精神状態だったこともあり、険のある声になってしまった。

「おうおう、そんな態度でいいのか? もったいなくも先輩従士たるこの私が直々に新入り宛への荷物を持ってきてやったというのに」

――またか。

シュオウは体を起こし、背後から近づいてくる声の主のほうへ振り返った。

無風の日の雨のように真っ直ぐな黒髪を静かに揺らしながら歩いてくるのは、このシワス砦に長く勤めている女性従士で、名前をミヤヒという。

鼻は少し低く、切れ長で意志の強そうな目元。顔の一つ一つの部位はどれをとっても平凡そのものだが、美人と呼ぶに相違ないくらいには整っていて、身長もスラリと長い。着慣れた様子の従士の茶色い制服は、女性用のものを支給されているらしく、男のものと比べて胸元から腰にかけて、ゆったりとした造りになっている。言葉遣いが少し乱暴な点を除けば、おそらく異性からの注目を集めやすい部類の人であるはずだ。

一度年齢を聞いた際に、彼女が物凄く不機嫌な顔で黙ってしまったのを見て以来、詳しく知る機会はなかったのだが、おそらく二十歳くらいの年齢である自分より、五から十くらい上であると予想している。黙っていれば落ち着いた三十代くらいの女にも見えるし、快活に明るく喋っている姿を見れば、二十代前半に見えることもある。どちらにせよ、シュオウにとっては先輩従士にあたるため、目上の者に対する態度を取る理由としてはそれで十分だった。

「ほれ」

ミヤヒはシュオウの前で軽く膝を折り、綺麗な布でくるまれた二つの荷を地面に置いた。

「……ありがとうございます」

荷にはそれぞれ送り主を示す小さな荷札がついているが、確認するまでもなく誰からのものかはわかっている。

「あんたのそれ、すっかり噂になってるよ」

ミヤヒは荷を指さして言った。

「噂、ですか。どうして」

「当然だろ。送り主の名前に貴族の名前が入ってれば、誰だって不思議に思うよ」

シュオウはなるほど、と言って頷いた。

この世界の人類社会では、人間は大きく二つの種類に分けられる。手の甲部分にある〈輝石〉という命にも直結した石に、多彩な色が付いた物を持っている側と、そうではなく、白く濁ったような石を持つ側の二種である。

色のある輝石は〈彩石〉と呼ばれ、自然を操る等の超常的な力を持つ者に与える。一方の色のない輝石は〈濁石〉といい、それにはなんら特別な力はない。

両者の差は埋めがたく、彩石を持つ者は人類社会の中で自然と権力を得るようになり、彼らは貴族階級を占めるようになった。

そんな貴族の娘達が、彩石を持たない平民階級であるシュオウに対して頻繁に贈り物を寄越している状況は、常識のある者から見れば異常事態といって過言ではないのである。

「あんたの出生にまつわる秘密から、貴族の令嬢達をたぶらかした経緯まで、根も葉もない噂の数は今わかってるだけでも両手で数え切れないほどあるけど、聞きたい?」

「やめておきます」

もう一度大きな溜息をつきたくなったが、自重する。

深界を踏破する試験を共に乗り越えた仲間であるアイセとシトリという二人の貴族の娘達。彼女達はどういうわけか自分に対して良い印象を持っているようで、試験を終えて王都に戻ってからは、出会って間もない頃の棘のある態度が嘘のように、競い合うようにシュオウに対して好意的な態度で接してきた。

王都から離れた場所での仕事が決まり、離ればなれになってから、すぐに送られてくるようになった二人からの贈り物も、始めの頃は嬉しかった。が、今やシュオウのささやかな人生に刺さる小骨となって悩みの元となっている。

シュオウが甘い物に感心がある、という事を知っているアイセは、見たこともないような色とりどりの菓子を頻繁に寄越し、シトリのほうは使い道に困る置物や、高そうな防寒具などをせっせと送りつけてくる。

自分に対してこれほど良くしてくれることに感謝の念は尽きないが、それが二日おき、三日おきの間隔で届くとあっては、もはや嫌がらせ一歩手前だった。

「その様子じゃ、あんまり喜んでもいないみたいだね」

ミヤヒは苦笑しつつ、地面に尻をついたままのシュオウの顔を覗き込んだ。

彼女は面倒見がよく、シュオウに対してもなにかと声をかけてくれたり、気を遣ってくれている。シワス砦に配属されて以来、周囲から孤立してしまっている状態の自分にとっては、貴重でありがたい存在となっていた。

シュオウが孤立状態になってしまっているのには、いくつか理由がある。

一つはシトリ、アイセ、両名から頻繁に届く贈り物。もう一つは、配属されて一ヶ月たつにもかかわらず、ここで自分に割り振られた仕事が何一つないからだった。

周辺の農村で、親から継ぐ物がない二男、三男が年金を当て込んで軍に入り、配属されるのがこのシワス砦なのだという。砦内部はすでに飽和状態で、見張りの任務ですら交代間隔が極端に短く、水汲みから掃除まで、ありとあらゆる細かい雑用にまでそれを担当する者がいるのだ。

それほど人が余っている場所にシュオウが配属されたことも不思議だが、当然のようにここで突如現れた新入りが預かれるような役割はなく、食事以外することがないシュオウは持て余した時間をひたすら基礎体力訓練に消費していた。

いくら運動で体力を減らしても、働かずに食べる食事は味もわからず、奇異の目を向けてくる他の従士達の視線もあって、ここへ来て気が安らぐこともない。

シュオウの扱いは完全に腫れ物で、お客様であり、蟻の巣にまったく別の虫が迷い込んでしまったかのような居心地の悪さを日々噛みしめていた。

「貴族が何を考えてるかなんて興味もないけど、それの送り主に悪気はないんだろ。邪険にするのもかわいそうだよ」

「邪険になんてしてないです。ただ、ちょっと疲れるってだけで」

シュオウは眉根を落としてそう呟いた。

「それにしても、あんたがねえ……お嬢様を二人も籠絡出来るような色男には見えないけど」

ミヤヒは下からシュオウの顔を覗いて言った。

「ほっといてください」

シュオウが顔を背けると、ミヤヒはからかうような口調で言う。

「ぷッ、いっちょまえに拗ねた?」

本当のところは違う。拗ねたのではなく恐いのだ。

シュオウの顔の半分ほどを隠す黒い眼帯。この下がどうなっているのか、といつ興味を示されるかと思うと、反射的に相手の視界からはずれてしまいたくなる。自分でも病的だと思うほどの過剰反応は、過去の顔に纏わる苦い経験からきていた。指をさされ、醜い顔だと笑われたり、意味のない同情を浴びせられたり、気持ちが悪いと言って罵倒されたり。そうした経験が心に深く傷を残し、それは大人になった今でも、シュオウが背負う重荷の一つとして、暗い影を落としている。

空気が重たくなったことを感じ取ったのだろう。ミヤヒはさっさと話題を変えて、声を張り上げた。

「まあ、ここのところ退屈してるみたいだし、ちょっと付き合いなよ」

シュオウの返事を待たずに、ミヤヒは中庭の角に立てかけられていた二本の木剣を手に取った。

「子供の頃からじっちゃんに鍛えられてたから、これでも剣の腕はちょっとしたもんなんだ」

ミヤヒは誇らしげに言って、片方の木剣をシュオウに向け放り投げた。

狙い良く胸の前まで飛んできた木剣を受け取る。見た目の印象よりもずっしりと重い。

「重たいですね」

「軍で使ってる訓練用の本格的なものだからな。中に重りが入ってて実剣とほぼ同じくらいの重量に調整されてるんだ」

「それで――でも、どうしてこんなもの?」

「今からあんたの腕を見る。新入りの腕試しを先任がやるのは砦の伝統なんだ。他の連中がなにもしようとしない腑抜けばっかりだから、あたしが筋を通してやるよ」

ミヤヒは重たい木剣を軽やかに振り上げ剣先を胸の前に突き出して構えた。

構えるまでの動きは音もなく流れる水の如く。まったく剣に対して知識がないシュオウでも、ミヤヒがそれなりに使える相手だと、瞬時に悟った。

「待ってください、剣なんて一度も――」

「問答無用!」

ミヤヒは素早く一歩を踏み出す。構えた木剣を頭上まで持ち上げ、勢いそのままにシュオウのいる位置まで振り下ろした。

――うそだろッ。

立ち上がって後退する余裕はないと判断したシュオウは、体を右へ振り、地面を転がって木剣を躱す。鋭利な風切り音が頭の後ろを通りすぎた。

「反応良いね」

ミヤヒがわずかに後退したのを確認し、シュオウはゆっくりと立ち上がった。

「話を聞いてください。こんなもの、一度も使った事がないんです」

「冗談にしては笑えないよ。剣も使えないようなのが軍に入れるわけないだろ。もしかして、勝負から逃げたいからってそんなこと言ってるのか?」

ミヤヒの顔面があからさまに不機嫌そうに歪んでいく。ここへきて以来、彼女のこんな表情を見るのは初めてだった。

「嘘は言ってません」

シュオウは真顔でそう通すが、ミヤヒに納得した様子は見られない。むしろ、目の色はさらに怒気を増したような気がする。

「わかった。負けた後にそう言い訳してもいいから。だから今はきちんと相手しな。どうしても嫌だってんなら、先任からの命令ってことにしてもいい」

――聞く耳持たずか。

思惑がどうであれ、あまりに短慮な先輩従士の振る舞いに、怒りを通り越して呆れる心地がする。

シュオウの胸中など知った事ではないミヤヒは、足早に間合いをつめて二度目の剣撃を振り放つ。狙いは右肩から腹にかけて、上から斜め下に切り裂くような一撃。シュオウは左足を擦るように後退する。最小限の動作でこれを躱し、ミヤヒの木剣はむなしく中空を切り裂いた。

適当にいなせば冷静になってくれるだろうか。そう考えたシュオウの期待は空振りに終わる。

今の一振りに自信があったのか、ミヤヒは一瞬の動揺を見せた。が、すぐに意識をシュオウに戻し、突進しつつ横薙ぎに剣を振り払った。当然、シュオウはこれも躱そうと予備動作に入る。だが、そこで猛烈な違和感を覚えた。

――体が重い。

右手に握ったままの木剣はシュオウにとっては異物でしかない。実剣と相違ない重さの木剣が、いつも通りの動きを阻害している。即座に、戦闘行動に不要な物だと判断してその場に木剣を放棄する。身軽になった分さらに軽快に足をずらし、腰を引いて際どい位置で回避行動を取る。

ミヤヒの剣先がわずかにシュオウの従士服をかすめた。

相手の次の行動は――そう思考した瞬間、襲ってきたのは剣ではなく怒声だった。

「なんだよ今のはッ!」

「え?」

「え、じゃないッ! さっきから危なっかしい避け方ばかりしやがって。ちゃんと剣の背で受け止めろよ! おまけに途中で放り投げるし……今の本物だったらどうするんだ?」

「はあ……」

シュオウは気の抜けたような返事をした。

どう説明すればいいのかわからない。この状況で何を言っても、おそらく聞いてはもらえないだろう。血走った彼女の目を見れば、そうとしか思えなかった。

「いいか、次はきちんと剣で受けるんだぞ」

ミヤヒが拾って再び投げて寄越した木剣を受け取り、見よう見真似で構えてみた。その途端に立ち方すら忘れてしまったかのように、猛烈な違和感に襲われた。

手の平が汗ばむ。

「やあッ!」

ミヤヒの攻撃は最初と同じ、頭上から振り下ろす重たい一撃。

縦の攻撃を防ぐためにとる行動は、剣を横に構えて前へ突き出せばいい。経験では圧倒的に劣っていても、腕力でなら男でもあり、鍛えてきたシュオウに利があるはずである。

受け止めるくらいのことは出来るという漠然とした自信がたしかにあった。だが――

「ッ――」

ガチンと木剣がぶつかり合う耳障りな音がして、シュオウの手元からジインと衝撃が両腕と肩にまで響いて伝わった。その拍子に指先に痺れるような痛みが走り、強く握っていたはずの木剣は、カラカラと音をたてて地面に落ちていた。

「…………悪かったな、無理をさせて。あんたがここまでよわっちい奴だなんて思ってなかった」

ミヤヒは落胆した様子で目も合わさず、木剣を元あった場所へ片付けに向かう。

呆然とその様子を窺っていたシュオウは、そこではじめて複数の視線を肌に感じた。

見上げてみると、見張り塔の上や建物の窓など、あちらこちらから砦の従士達が自分を見下ろしていた。皆一様に、にやけた顔で口を動かしている。退屈に溺れる彼らの好奇心を満たす、一時の見せ物となっていたのだろうか。

「ガキ共ッ、飯の時間だ。遊んでないでさっさと食え」

二回の窓から顔を出した白髪の老人が怒鳴るような口調で二人に声を浴びせた。

「だってさ」

ミヤヒはそう言ったきり、一人でさっさと中庭を後にした。

シュオウも一歩を踏み出そうとして、渡された二つの贈り物の事を思い出す。食堂に行く前に、まずは自室に荷を置いてこなければならない。

場違いに上等な布でくるまれた箱を持ち上げると、腹がぎゅるぎゅると間の抜けた音を鳴らした。

憂鬱であろうとなかろうと、呪わしいことにかならず腹は減るらしい。

――俺は、何をしてるんだろう。

ここへ来てもう何度目になるかわからない大きな溜息を吐いて、シュオウは頼りない足取りで中庭を後にした。

「あんた達、いつまでも窓に張り付いてないでさっさと食っちまいなッ! これからどんどん集まってくるんだ。急がないと後が詰まっちまうよッ!!」

食堂に、野太く豪快な老婆の声が轟いた。

一喝された従士達は、蜘蛛の子を散らしたような勢いで残してきた食事にがっついていく。

「大声あげると皺が増えるぞ」

ヒノカジは、左耳に指を入れてきゅるきゅると奥をほじくりながら言った。

「うるさいね。ちょっと声を荒げたくらいで老けるような繊細な顔はもってないんだよ」

老婆は濡れた手を割烹着で拭いながら、ヒノカジが陣取る窓際まで歩み寄る。

シワス砦の台所を管理している彼女の名前はヤイナという。五十歳の頃ここへ来て二十年以上が過ぎた今になってもそれほど老けて見えないのは、ほどよくついた贅肉のおかげで皺が目立たないからだろう。性格は剛胆で怒らせると手に負えないほどに恐ろしいが、面倒見の良い性格と美味い家庭料理を、長年砦に勤める従士達のために作り続け、皆からは母親や祖母のように慕われている。

ヤイナの夫であり、シワス砦の最古参兵であるヒノカジは御年七一歳になる老人だ。黒かった髪は朽ちた老木のように白くなり、古い切り傷が多く刻まれた顔には、年相応の深い皺も刻まれている。軍に入ってから地道に仕事をこなし、新兵の世話や訓練をよく見た。戦場等でこれといった功績を残していないにもかかわらず、ヒノカジが従曹の階級にあるのは、そうした実直な管理能力を買われてのことだった。

「そんなことより、さっきから何をそんなに熱心に覗いてるのさ。庭に金銀財宝でも転がってるのかい」

「ミヤヒが小僧に剣の勝負をさせとった」

ミヤヒはヒノカジとヤイナのたった一人の孫だ。幼くして両親を亡くしたミヤヒを引き取り、ここまで二人で大切に育ててきた。

「またかい。まったく、見た目ばっかり女になっちまって、中身は子供の頃のままだね」

まったくだ、とヒノカジは渋い調子で同意した。

ヒノカジはそれなりに剣の腕が立つ。若い頃は道場経営などもしていたくらいだ。

孤児になってしまった孫を引き取った当時、幼くして両親を亡くしてふさぎ込んでいたミヤヒを心配して、本格的に剣術を教えたのがまずかった。護身術として武術をたしなむ女は少なくないが、ミヤヒはそうした領域を軽々と飛び越え、次第にその腕は、大人の男を軽々とのしてしまえるほどの域に達した。本人にも剣術には並々ならぬ思いがあるようで、仲間の従士を捕まえては剣の勝負を挑み、ほとんどすべてに勝利している。

黙っていればおしとやかな女に見えるが、一度口を開けば男か女かわからないようなぶっきらぼうな口調が目立ち、剣を握れば餓えて暴れる猛犬の如く手に負えない。そうした性格のせいで適齢期を過ぎた今となっても浮いた話の一欠片すらなかった。

「それで、どっちが勝ったかね」

「勝負にもなっとらん。ミヤヒが小僧の剣をたたき落として終いだ」

「ほう……あの坊や、腰抜けかい?」

がっかりしたような口調のヤイナを一瞥し、ヒノカジはゆっくりと首を横に振る。

「いんや、ありゃミヤヒが強引に剣の勝負を持ちかけたからだ。俺の目から見たら、あの小僧の体捌きはこなれたもんに見えたがな。まあ、ただ……剣に関しちゃ、ずぶの素人以下なのは間違いねえ。棒きれも振った事がないってくらい所在なさげだったわ」

「あんたがそう言うならそうなんだろうね。でもまあ、剣がだめなんていうんじゃ、ミヤヒは面白くないだろうさ」

「ああ、わかりやすくヘソをまげとった」

ミヤヒが怒るのも無理はない。ムラクモの平民達の間では、農民であれ、子供の頃から親や道場で〈ムラクモ刀〉という片刃で背にふっくらと金属を盛ったような独特な造りになっている剣を使い、剣術を習う風習がある。あるいは、そうした事を教わる事が出来なかった生い立ちだったとしても、男の子なら棒きれをもって剣術の真似事くらいは経験があるはずだ。ヒノカジが小僧と呼ぶ新入り従士の青年シュオウは、それすら経験がないのではないかというほど、木剣を渡されてからの様子が頼りなかった。

「あの坊やの事、どうするつもりだい。まだ仕事もやってないんだろ」

二人が目で追う先にはシュオウがいる。ちょうどミヤヒから渡された荷を手に、中庭から出ていくところだった。

「やらせる仕事がまったくないわけじゃねえんだが。どうしたもんかと思ってな」

なんの前触れもなくシワス砦に配属されたシュオウという青年は気になる点が多くある。所属は第一軍という扱いになっているのに、配属命令書に押されていたロウ印は、ムラクモ王国軍を取り仕切る近衛軍司令部のものだった。それだけでヒノカジの不審を煽るに十分だが、実際にやってきた青年は、あきらかにムラクモの人間ではない灰色の髪。おまけにどこの大山賊だといわんばかりに目立つ眼帯までしており、どこにでもいるような若者という存在からは逸脱していた。

シュオウという名前もおかしい。東方の平民的な面影を覗かせる響きをしているが微妙に違う。かといって貴族的というにはどこか気品に欠けている。おそらく、ムラクモにシュオウという名を持つ人間は彼だけだろう。

さらに、後を追いかけるように届く、貴族の娘達からの贈り物の件もある。

たった一つでも、シワス砦では浮いてしまうというのに、こうも珍しい状況が重なれば、皆が遠巻きに噂話ばかりしてしまうのも無理はない。

その生い立ち。どういった理由で軍に入り、どうしてここへ配属されたのか。貴族の娘達とどんな関係にあるのか。

知りたい事は尽きないが、年老いてすっかり慎重になってしまったヒノカジは、そうした質問を一つとして直接ぶつけられずにいた。シュオウが貴族と関わりがあると知ってからはなおのことだ。

「かわいそうに。あの坊や、ここへ来てからどんどん元気をなくしちまってるよ。なんとかしておやりよ」

ヤイナは女性らしい心遣いで、今やすっかり孤立状態のシュオウを心配している。口にはしないが、その想いはヒノカジとて同じだった。

「少し前に小僧の進退に関する質問状を王都に送っといた。その返事があるまでは様子を見る」

どこからともなく現れた謎めいた新入り従士の配置が書類上の誤りなのではないか、と思いその旨を問う内容の書状はすでに送付済である。一介の従曹からの質問を軍上層部がまともに取り合うかもわからないが、なにもしないよりはましだろう。

ほどなくして食堂に現れたミヤヒは、黙ってヒノカジと同じ食卓についた。

シュオウはミヤヒから少し遅れて入ってきて、食器を手に座る場所をさがして視線を泳がせていた。それに気づいたヒノカジは、シュオウを自分の座る食卓へ手招きした。

「いいですか?」

シュオウは確認をとって、ミヤヒの隣の椅子に腰掛けた。

「災難だったな」

ヒノカジのその一言で、シュオウは一瞬だけミヤヒに視線を流した後、いえ、と否定した。

「ミヤヒは剣のこととなると頭に血が昇りやすくなる。まあ、通り魔にでも遭っちまったと思って忘れるこった」

そう言うと、ミヤヒはすぐに不満を表明した。

「ひとのことを辻斬りみたいに言わないでよ、じっちゃん!」

「似たようなもんだ。いきなり木剣渡して勝負しろ、なんて女のするこっちゃねえぞ」

「う……でもさ、こいつ、いつもこれみよがしに体鍛えてたりしたから、期待しても仕方ないって」

シュオウが鍛錬を見せびらかせていたのではなく、やることがなく仕方なしといった風だったのをヒノカジは知っている。

「勝手な期待を押しつけたあげく、勝手に失望してりゃせわねえぞ」

祖父からの説教で機嫌を損ねたらしく、ミヤヒは顔をそむけて唇を尖らせた。

静かに汁物を口に運ぶシュオウは、伏し目がちで覇気のかけらもない。その原因の一端が自分にもあるような気がして、ヒノカジはうっかり口を滑らせた。

「小僧、どうだ、ここには慣れたか」

馬鹿な事を聞いたものだと、心中で自分自身を怒鳴りつける。

案の定、まだ年若い青年の表情はみるみる曇り、片方だけ開かれた頼りない瞳は、うらめしげにヒノカジを映していた。

「仕事をください。自分一人だけがなにもせずにこうやって食べ物をもらっても、ここの一員になれたような気が、少しもしません」

シュオウの言葉に切羽詰まったような色を感じ取ったヒノカジは、それを軽く受け流すことなどできなかった。

「んむ……」

シワス砦には諸事情もあり、近隣の農家の子供達が多く勤めている。本来の許容量はとっくに超していて、関所と国境警備の業務をこなすには、現状の半分の人数も必要ないほどだ。そのため、砦の中の仕事はあらゆる方面で細分化され、それに時間交代制まで導入されている。廊下に転がっている小石を拾う係まであるほどだった。

だからといって新入りの従士に対して本当に一切の仕事がないかというとそうではない。たとえば人の多さから砦の手洗い所は衛生的に汚れやすい。その清掃と、水洗用の水を井戸から汲む作業は重労働であまりやりたがる者が居ないため、新入りに宛がうには丁度良い仕事ともいえるが、それを謎めいた目の前の青年に対して、まかせてもいいのだろうかという奇妙な考えに囚われる。

どんなに想像をめぐらせても、砦の雑用をせっせとこなしているシュオウの姿を思い描くことができない。絶対にぴたりとハマる事のない積み木を手にしているような、そうした収まりの悪い疑念がまとわりつく。

つまるところ、自身に生じるためらいの感情の出所がわからないヒノカジは、ただただ戸惑っているのだ。突如として現れたシュオウという新入り従士の扱いを。

どう返事をすべきかを迷っていた一瞬の間――

「従曹ッ!」

ヒノカジが口を開く前に食堂に飛び込んできた従士の一言が、突然に状況を一変させた。

「どうした」

「それが、アベンチュリン側から人が来てるんですが、それがちょっと……」

「いつも通り、簡単に荷を調べて通せばいい。俺に報告が必要な事か?」

「いえ、それが、来てるのはどうも全員アベンチュリンの貴族みたいで、その中の一人が、自分はアベンチュリンの王子だ、なんて言ってるもんで……」

ざわついていた食堂の雑音がぴたりと止まった。

「王子、だと?」

食堂を出てすぐの廊下に、複数人の従士の靴音が重なり合っている。食堂に詰めていたほとんどの従士達が、頼んだわけでもないのにヒノカジの後を追ってきている。退屈を払拭できそうな出来事を前にして、皆じっとしてはいられなかったのだろう。

「本当に王子と名乗ったのか?」

ヒノカジは報告に来た従士に再度確認をとった。

「ほんとうですって!」

「お前、アベンチュリンの王族を見たことがあるのか?」

「い、いやないですけど……けどッ! 輝士を三人もつれてたし、間違いないです!」

「まあ、嘘をつく理由も思いつかんか。しかし……」

アベンチュリン王国は、今から五百年以上の昔にムラクモの前に屈服した敗戦国である。

本来ならば領地の没収と王位の剥奪をされているところだが、アベンチュリンは自国で産出している豊富な食料を差し出す事と、軍隊を保有する権利を放棄する条件で、王家の存続を許された、いわばムラクモの傘下に収まった属国だ。

アベンチュリンの王族が国外へ出ることを禁じられてはいないだろうが、越境する場合には、ムラクモからの許可が必要のはず。しかし、今回そのような予定があるという話は微塵もシワス砦には届いていなかった。ヒノカジが降って湧いたように訪れた王子訪問を不思議に思うのはそうした理由があるからだ。

階段を駆け下りて、勢いそのままに中庭に出る。

アベンチュリンからムラクモへは、砦の内部を通っても、もちろん通り抜けることができる。だが通常、両国を行き来する人間を通すのは、直接入口から通じている中庭を使う。

中庭にある東側の頑丈な門を開くと、その先には四人の男女が佇んでいた。

左から男が二人、その隣に若い女が一人。その三人を従えるように中央にいる青年が一人。全員が左手甲に黄色系の彩石を持ち、アベンチュリンの〈地装束〉という黄色いツナギの民族衣装によく似た軍服を纏っている。

青年を除いた三人は、顔つきや長剣を腰に帯びていることからも、容易に輝士階級の者達であることがわかった。

〈輝士〉というのは彩石を持つ者が軍で与えられる階級の呼称である。国により多少のバラつきはあるが、たいてい輝士階級にある者はそれと同時に士官としての資格も有する。社会での彼らの位置は、彩石という生まれながらの才に恵まれ、なおかつ国の中枢に近い選ばれた者達だった。

中央にいる青年が前へ歩み出る。

――王子、か。

薄茶色の髪、前髪の片側を三つ編みにして垂らし、後ろ頭は刈り上げている。彫りの浅い顔立ちは、印象こそ薄いが、表情は粒の細かい砂のように滑らかで気品が漂う。

輝士三人を平然と背負う立ち居振る舞い。報告に来た従士が、間違いないと言ったのも頷ける。

「シュウ・アベンチュリンです。はじめまして。突然このような形でお騒がせしてしまいまして、申し訳ありません」

王子はそう言って、深々と頭をおとした。

「あッ……いえッ」

ヒノカジはもちろん、後ろから様子を窺っていた従士達も息を飲んだ。

属国とはいえ、彩石を持つ人間、それも王族が平民に向かって頭を下げるなどあるはずがない。そう思ったのは、ヒノカジだけではなかったらしく、すぐに同行する輝士の一人が声を張り上げた。

「殿下ッ! そのような――」

頭を上げた王子は、手の平を見せて輝士を制した。

「不作法を承知のうえでまいりました。失礼ながら、ここの責任者の方でしょうか?」

王子の問いかけに、ヒノカジはたどたどしくも答えた。

「シワス砦国境警備隊所属、ヒノカジ従曹であります。現場を監督しておりますが、現在ここの最上級責任者はコレン・タール男爵であります」

「では、これを、その男爵殿にお渡し願いたい」

王子が差し出した金色の筒を、ヒノカジは恭しく受け取る。

「書簡、でありますか」

「女王陛下からの直接の申し入れです」

「アベンチュリン女王陛下からの……。ですが、今ここには――」

コレン・タールは不在である、そう言いかけると、近くにいた従士が歩み寄り、ヒノカジに耳打ちをした。

「いるのかッ? いったいいつのまに」

「昨夜遅くに……コレを連れて部屋に閉じこもってますよ」

従士は小声で囁きつつ、小指を立てた。

ヒノカジは姿勢を正して王子へあらためて向かい合う。

「しばし時間をいただきたい。ご一行はこのまま帰国されるご予定でしょうか」

「陛下からは返事を急ぐよう言われています。ご迷惑でなければ、ここで返答を待たせていただきたいのですが」

ヒノカジは王子に承知したことを伝え、急ぎ部下に指示を飛ばす。

「六名残れ――他はついてこい」

殿下の称号を持つ人間を外に放置したままにするのは気が引けるが、門から先はムラクモの領内となるため、勝手な判断で入れることは出来ないので仕方がない。

ヒノカジはここへ来た時以上の勢いで、砦の三階にある執務室へと急いだ。

砦内部の一階と二階部分は、四六時中従士達が行き交っているため賑やかだが、三階部分からは少々趣が異なる。

三階には、ほとんど使われることのない会議室や、高価な荷や武器を預かるための鍵付きの部屋があり、奥にはかなり広い造りになっている士官用の執務室が設けられている。

他の者達を二階に残し、一人執務室の前まで向かうと、部屋の前には二人の武装したコレン・タールの私兵が険しい表情で立っていた。

「男爵閣下はこちらにおられるか」

ヒノカジが聞くと、男達は腰の剣に手を置いて、制止を促した。

「そこで止まれ。閣下は職務中につき多忙を極めておられる。用向きがあるならここで聞こう」

多忙とはよく言ったものだ、とヒノカジは心中で毒突いた。

「アベンチュリンより使者としてシュウ王子殿下が来訪中である、と。女王陛下よりの書簡も預かっている。急ぎ男爵に子細を報告したい」

男達は焦った様子で顔を見合わせた。

「ま、待ってろッ」

一方の男が素早く扉を叩き、中に入る。僅かな間を置いて部屋から出てきた男は、ヒノカジに入れ、と入室を促した。

執務室の中に入った途端、異様な臭気がヒノカジの嗅覚を刺激した。

強烈な酒臭さ。その中に混じった男と女の淫靡な臭い。それに葉巻の苦い香りが入り混じり、今まで嗅いだこともないような独特な異臭を作り出している。

ヒノカジはこみあげる吐き気を堪え、部屋の窓をすべて開け放ってしまいたい衝動に蓋をした。

室内の窓はカーテンでほとんど覆われている状態で、ただでさえ曇り空で薄暗い外よりもさらに空気が重たかった。まるで空気穴のない箱に閉じ込められた心地がして、どうにも落ち着かない。

小さな燭台に照らされて見えたのは、寝台に横たわり、裸の女の肩を抱いて葡萄酒をあおるコレン・タールの姿だった。

頭の天辺は薄くなり、腹は三段に折り重なるほど肥えている。左手甲にある泥水のような色の輝石がなければ、酒場で飲んだくれている五十路前後の中年男といった風采だ。

こう見えて、コレン・タールはムラクモ王国軍の正式な輝士である。もっとも、シワス砦に配属されている時点ですでに出世の道からは大きく逸れているのだろうが。

酒色に溺れる怠惰な輝士。その姿にまったく尊敬に値するところはなく、視界に入れるのも不快な人物ではあるが、シワス砦の長官は数年おきに入れ替えがされるため、ヒノカジとしては特に気にもとめていなかった。

むしろコレン・タールは、砦の業務によけいな口を出さず、定期的に自身の別荘から妻の目を盗んで愛人との逢瀬に執務室を使っているくらいで、どちらかといえば無害なほうに分類される。

ヒノカジが寝台の前に立ち、敬礼をすると、コレン・タールは気怠そうにもそもそと口を開いた。

「アベンチュリンの王子が来たとか」

「はッ。輝士三名を連れ、現在も門外で待機しております。アベンチュリン女王陛下からの書簡に対する返事を求めておられますが」

ヒノカジは懐に入れていた金色の筒を取り出して見せる。

「砂金石、か……。いったい何の用だ。王都にではなく、ここへ宛てたものに間違いないのだろうな」

〈砂金石〉というのはアベンチュリン王家が継承してきた〈燦光石〉の名である。燦光石は特別な力を有する彩石よりもさらに別格の石として認識され、その力は天変地異の領域にまで及ぶ。

多くの国々では燦光石を有する一族が玉座に座り、王、あるいは大貴族として政をこなしている。燦光石はそれを有する者に不老や長寿を与えることもあり、人々はその石を特別な名で呼び神格化していた。

「そのような話は聞いておりませんが」

コレン・タールは二重顎に手を当てて、充血した目を上に寄せた。

「よし、許可する。中身を確認して教えろ」

「私が、でありますか」

「暗がりで視界が悪い。お前の立ち位置ならいくらか外の光が当たるだろう」

王族からの書簡を最初に開くのが、ただの平民である自分でいいものかとも考えたが、半酔っぱらいを相手に抗議したところで無駄なことだろう。

ヒノカジは慎重な手つきで筒を開き、中に丸めて入れられていた羊皮紙を広げ、内容を確認した。

「どうした、なんと書いてある」

「これは…………」

二の句を継げなくなってしまったのは、書簡に書かれた内容を理解するのに時間を要したからだ。

「女王陛下よりの招待状のようです。日頃、国境を守護する兵達に対する感謝と労いを伝えたい。代表としてシワス砦の従士数名を城に招待し、夜会にてもてなしたい、と。そういった旨が書かれておりますが……」

言いながら、語尾は少しずつ力を無くしていく。

王族が一般の従士を労いたいなど、荒唐無稽な申し出にもほどがある。それも、他国の王が、である。

「なんだ、それは。本当にそんなことが書いてあるのか?」

コレン・タールは寝台から裸足のまま降り、ヒノカジから書簡を取り上げて目を通した。

「ふむ……間違いないようだな。浮ついた行動をとる人物であると噂には聞いていたが、これほどとは……」

「王都の司令部にどう対処すべきか連絡を入れたほうがよいのでは」

ヒノカジの真っ当な申し出に、コレン・タールは強く反発した。

「馬鹿を言うな。これしきのことでいちいち上を煩わせていては、私の評価に影響する。ただでさえ予算は減らされているというのに、これ以上この砦の役立たずさをひけらかしてもなんの得にもならんッ」

コレン・タールは愚痴るようにまくしたてた。

「ですが、この書簡の内容に応えるにしても、我が軍の兵が許可なく越境する事になります」

「ムラクモとアベンチュリンとの関係は周知の事。属国に入るのにいちいち許可などとっていられるか。それに、今回はあちらからの招きだ。気にすることもなかろう」

「もしや、この申し出を受けるおつもりですか」

「慰労のための招待なのだ、断る理由もないだろう。なに、どうせ臣下の前でムラクモの軍人に大層な料理でも振る舞い、器の大きさを見せたいのではないか。一つや二つ愚痴を聞かされるかもしれんが、そのくらいで王族の歓待が受けられるなら安いものだろう」

「まさか……私に行けと?」

冗談であってほしい、というヒノカジの願いは、コレン・タールのまくしたてる醜い声にかき消された。

「お前以外、この砦は若造だらけではないか! 期待はしていないが、最低限失礼のないよう応対しろ。残りの者の人選はまかせる。私はこれからやらねばならない仕事があるから、後のことはまかせたぞ」

コレン・タールは顎をしゃくってみせた。出て行けということだ。

この馬鹿げた提案を、現場の判断だけで承知してもいいとは到底思えない。しかし、ヒノカジとて軍人である。上官から命令されれば、それに従わなければならない。

意見を述べたところで、傲慢な貴族を相手に無駄であることは、それなりに軍の中で生きてきた経験が教えてくれる。ヒノカジには守るべき部下達と家族がある。無茶をして無駄に目をつけられるような事は出来ない。

二階に下りると、心配そうに見つめるミヤヒと妻のヤイナがいた。そして砦の従士達が好奇心を込めた表情で自分を待っていた。

ヒノカジは、ぽつぽつと事情を説明した。

最初に勢いよく食いついてきたのはミヤヒだった。

「それって、色付きがあたしらを招待して、もてなしてくれるってこと? そんなのあるわけないよ」

色付きという表現は、平民が影でこっそりと貴族の事を呼ぶときに使われる。こうした呼び方をする人間は、往々にして貴族をよく思ってはいない人物である事が多い。

それまでは、子供のように無邪気な表情で話に聞き入っていた従士達も、他に同行者が必要であるという部分にまで話が及んだ途端、ヒノカジから視線をそらして俯いてしまった。

彼らは、そのほとんどが農民の子供達だが、だからといって皆が惰弱で臆病者というわけではない。だが、ことが貴族に関わるとなると途端に尻込みをしてしまう。

今回の話がどこぞの大商人からのものであったなら、我先に自分をつれていってほしいとせがんだだろうが、相手が貴族、それも一国の王となれば話は別だ。正直、ヒノカジとて本音は王都にいるそれなりの地位にいる人物に丁重に断りの文を出してほしいと願っている。

本音がどうであれ、結局はこう言わねばならない。

「誰か他に、アベンチュリンまで同行する者はいないか。うまい飯にありつけるかもしれんぞ」

自らの言葉にまったく自信がないのは、それすらあるかどうかもわからないからだ。下手をすれば、王族や貴族の前で馬鹿にされ、晒し者にされるくらいのことはあるかもしれない。

率先して手をあげる者などいるはずがなかった。つい最近までここの一員ではなかった、とある青年を除いて。

「はい! 行きますッ」

元気の良い宣言と共に高らかに手を挙げた人物に向けて視線が集まった。

「小僧……」

声の主は、王子一行が書簡を持って砦に現れるまで、ヒノカジの一番の悩みの種であった青年、シュオウだった。

シュオウの目には強い輝きが見えた。初めて年相応に思える幼さすら窺わせる。

「あたしも行くよ」

今度はそう言ったミヤヒに視線が集中した。

「い、いかんッ。何があるかわからんところに、お前を連れてなど――」

「そんなところに、じっちゃん一人を行かせるほうが心配だよ。大丈夫だって、あっちが何をしたいかわからないけど、ムラクモの軍人に手を出せばどうなるかくらいわかってるはずだろ? もしかしたら、本当にあたしらに美味い食べ物でもご馳走したいって思ってる酔狂な女王様かもしれないよ」

ミヤヒの言った通り、いくら王族といえどもアベンチュリンの人間がムラクモの軍属に手を出せば、最悪戦争にまで発展しかねない大事となり得る。当然、アベンチュリンにそんなことをする利はなにもなく、独自の兵力も軍も持たない件の国が、ヒノカジ達におおっぴらに危害を加えるようなことをするはずがない。

ヒノカジは所在なさそうに俯く従士達を見渡した。誰もが自分を指名されることを恐れている。怯える人間を連れていき、むざむざ笑いものにされるネタを提供してやるのも賢い行動とはいえないだろう。士気の低い兵は、いるだけ役立たずどころか、足を引っぱる場合すらある。

もう一度、ミヤヒに視線を戻す。意志の強い瞳はだれに似たのか。言い出したら聞かない頑固さは妻のヤイナによく似ている。

大切に育ててきた孫娘を、状況の予測が立たない地へ連れて行く事への抵抗感は非常に強い。しかし、ここでミヤヒを置いていくと宣言し、他の従士を指名して連れていくようなことをすれば、孫娘に対して特別扱いをしていると取られても言い訳ができない。時間をかけて築いてきた信頼が、それだけの事で崩壊したとしても、なんら不思議はないのだ。

――なんとか、なるか。

覚悟を決めたヒノカジは、じっとこちらを見つめる孫娘に問う。

「きっと、楽しいことばかりじゃねえぞ。それでも行くか?」

顔と声に凄みを利かせ、脅すようにミヤヒを睨みつけた。

「行くよ。それにいい機会じゃない。こんなに近いのに、あたしはアベンチュリンに入ったことないし」

異国への旅は商売人でもないかぎり、たしかにそうある機会でもない。今回の件を良い方向へ考えれば、孫に貴重な経験をさせる好機ともいえる。

「小僧、旅の経験はあるのか」

ヒノカジはシュオウに向けて聞いた。

「それなりに」

シュオウはまっすぐヒノカジを見つめた。そこには躊躇いも不安もない、ただ期待だけが満ちているように見えた。

「よし。小僧とミヤヒを連れていく。支度が終わり次第中庭に集まれ。他の連中は通常業務だ。俺がいないからって手なんて抜きやがったら、戻ってから尻を百回叩いてやるから覚悟しておけよ!」

少し戯けた声音で指示を飛ばすと、後ろめたそうにしていた従士達も元気を取り戻して、それぞれの持ち場に散って行った。砦の仕事は簡単なものばかりだし、数日ヒノカジがいなくても支障はないだろう。ミヤヒとシュオウもそれぞれに支度のために足早に去って行った。

「あんた…………」

最後にその場に残ったヤイナは、何かを言いかけて、結局言葉は出てこなかった。

「心配するな、ミヤヒは無事に連れ帰る」

「あの新入りの子もだよ。まだ若い。なにかあっちゃ気の毒さ」

「ああ、もちろんだ」

「あんた自身も、ね。勝手におっちんじまったら許さないからねッ」

ヤイナは昔から照れやで、自分を心配するときはきまって乱暴に言葉を濁す。そうした癖は、いくつになっても変わらないものらしい。

「若い連中を連れ帰らんといかんからな。それまでは這いつくばってでも生きて戻るわいッ」

ヒノカジもまた、照れ隠しに顔を背け、吐き捨てるように言った。

結局のところ、自分たちは似たもの夫婦なのだろう。

旅の支度を調えたシュオウは、はずむ足取りで中庭を目指していた。

ここへ来て初めて心が躍っている。

突如降って湧いたアベンチュリン王国への同行者を求めるヒノカジの提案に、シュオウは有無を言わさぬ勢いで立候補した。

まだ行ったことがない国を見に行く事ができるという状況は、シュオウが師の下を飛び出した動機にも叶うからだ。

時刻は正午を迎えようかという頃合いだが、空に浮かぶ雲は一層濃さを増し、辺りは薄暗かった。冬の空気は冷たいが、王都のある山や高所などにくらべれば遙かにマシで、南からの緩い空気が入るここらでは、雪もめったに降ることはない。

跳ねるような勢いで中庭に出ると、そこにはすでにヒノカジとミヤヒが待機していた。見送りのためか、ヤイナやその他の従士達も出てきている。

「小僧、支度はすんだか」

「はい。いつでも出られます」

頷いたヒノカジは東門の前で佇む王子に向き合い、敬礼する。

「そちらがよろしければ、この三名で同行させていただきます」

王子は満足気に頷いた。が、その後ろにいる強面で体格の良い輝士が前へ出て、不満をこぼした。

「これだけか? 最低でもあと二人。そこから倍の人数でもかまわん。とにかく三人では少なすぎる」

威圧的にわめく輝士をなだめるようにシュウ王子は口を挟んだ。

「これで十分ですよ。元々陛下の急な思いつきで無理を言っているのです。了承していただけただけでも良かったと考えなければ」

シュオウは目の前で愛想笑いを浮かべている王子を不思議に思う。

王族という高貴な身分にありながら威厳はなく、よく言えば優しそうで、正直に言えば腑抜けて見える。

シュオウが王族を見るのはこれが二度目。一度目はムラクモ王都にある水晶宮で遠くから見た姫様だったが、あちらもまた一癖ある独特な雰囲気を帯びていた。

「砦の業務に支障のない人員を選びました。数に問題があるのであれば、また日を改めてということにしてもよろしいのですが」

ヒノカジがそう言うと、強面の輝士は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをした。

「この人数に不満はありません。アベンチュリンでの滞在は、私が責任を持って案内をしますので、観光だとでも思って気楽にしていただきたい。途中休憩する予定の町には温泉もありますよ」

未知の世界を見て回れるというだけでも楽しみな気持ちは尽きない。そのうえ、案内人が殿下の称号を持つ人物なのだから、これはもう一生に一度あるかないかの機会といえる。

だが、ここへ来てようやく時が動き出し、心の弾むシュオウとは逆に、ヒノカジの横顔は険しく、なにかしらの不安を抱えているような、そんな暗い雰囲気を漂わせていた。

疾走する馬上。周囲の景色は前から後ろへ引っぱられていく。ムラクモのものより半分もないであろう白い道は、古びてひび割れや欠損が目立つ。それ以外はなんということはない。どこも似通っている深界の中を行くかぎり、同じような景色が続いている。

前を行く四頭の馬には、シュウ王子と付き添いの輝士三人が乗っている。その後方、三馬身ほど離れたところから、シワス砦の従士三人を乗せた二頭の馬が後を追って走っていた。

シュオウは一人で馬に乗ることが出来ず、その事をヒノカジとミヤヒに伝えると、二人は驚き、呆れているようだった。

シュオウは幼い頃から独りぼっちだったうえ、物心がついた頃には師に連れられ、灰色の森にかこまれた異世界とも呼べるような特異な環境で育った。そうした人生の中で、一度たりとも馬を必要とするような状況がなかったため、馬に乗るという技術の習得機会を逃していたのだ。その事を恥じてはいなかったが、これまでの周囲の反応から学ぶかぎり、馬術の心得がないという事は一般的な人間からみて奇異に映るらしい。

結局、ヒノカジの馬に三人分の荷を乗せ、シュオウはミヤヒの後ろに乗ることになった。

馬上でミヤヒの細く引き締まった胴に手をまわしながら、シュオウは所在ない心地を持て余していた。

「すいません」

「ん? どうした」

出発してからずっと黙って手綱を握るミヤヒに、シュオウは謝罪の言葉を投げかけた。

「後ろに乗せてもらってることです……。それに、朝の事も」

早朝にミヤヒに無理矢理剣の勝負を持ちかけられたことについては、自分に落ち度があったとは思っていない。しかし、それ以来態度が刺々しいことと、なりゆきで自分を乗せることになった事で、相当機嫌が悪いのではないかという懸念があった。

皮肉の一つでも聞く覚悟はあったが、予想ははずれて、思いの外穏やかな答えが返ってきた。

「もう気にしてないよ。それに今はどっちかというと感謝してる」

「感謝……?」

「あんたさ、じっちゃんがアベンチュリンへの同行者を募集した時、真っ先に手挙げてくれただろ? 他の連中が行きたくなさそうにしてたし、あのまま誰も手をあげなかったらじっちゃんが無理矢理誰かを選ばなくちゃいけなかった。そうなったら空気悪いしさ。そしたらあんたがさっさと行きたいって言ったから、あたしも勢いがついたっていうか……。うまく説明できないけど、とにかく感謝してるし、見直したよ。根性あるんだなって」

正確には根性ではなく好奇心。退屈を払拭したいという、どちらかといえば不純な動機からこの旅路に臨んだのだが、それをあえて言う必要はないだろう。

ミヤヒはシワス砦で得た、数少ない関わりのある人物であり、この先の旅程を数日間共にする相手には、できるだけ上機嫌でいてもらったほうが安心できる。

「だけど、あの王子様の態度、どこまで本気なんだろうね」

ミヤヒは王子の背中に軽く顎をしゃくってみせる。

「優しそうな人、ですね」

本来抱いた感想より、かなり柔らかい表現の言葉を選んだ。

「そうだよな。貴族を見たのは両の指で数えられるくらいだけど、それでもみんな無愛想か横柄な態度だった。あの王子様の腰の低い態度を初めて見たとき、てっきりからかわれてるのかと思ったけど、見てるとお付きの輝士達にも同じように接してたし、ああいう性格なのかな」

ミヤヒは腑に落ちないものがあるのだろう。首を横に傾げていた。

「アベンチュリンは女王の治める国なんですよね? ということは、あの王子は女王の息子、か」

「んー、いや、どうだったかな……」

ミヤヒは答えに窮した。

「弟君だ。別腹のな」

いつから聞いていたのか、少し前を走っていたヒノカジがミヤヒに代わって答えた。

「弟、ですか」

「なにか気になるのか」

ヒノカジは渋い表情でシュオウに聞いた。

「いや、ただ次のこの国の王様があのシュウ王子になるのかと、そう思っただけです」

まったく大きなお世話だろうが、物腰柔らかなシュウ王子に、一国を背負うことなどできるのだろうか、とふと心配になったのだ。

「それはないだろう。先王が亡くなった際に、王子は早々に継承権を放棄し、それをムラクモも認めたと聞いた事がある。そのせいかは知らんが、女王は唯一の肉親である弟君を可愛がっているようだという噂はよく聞いた」

間髪容れず、ミヤヒが声を弾ませた。

「そんな可愛い弟を直接迎えに寄越したってことは、歓迎してくれるって話も本当かもね。温泉もあるって言ってたし、ちょっと楽しみになってきたよ」

無邪気に妄想を膨らませる孫娘とは対照的に、祖父であるヒノカジの声は重かった。

「どうだかな。あんまり期待はせんほうがいいだろう」

たまらず、シュオウは聞いた。

「なにかあるんですか?」

「王都までの途中、交易所のある町に寄ると言っとった。まあ、そこに行けば透けて見えてくる事もあるかもしれん」

丁度そのとき、前を走る輝士の一人が手を挙げて口笛を吹いた。

「どうやら急ぎたいらしいな。ついていかにゃならん。できるかぎり飛ばすぞッ、やぁッ!」

ヒノカジは言い残し、一気に加速を強めた。

「こっちも飛ばすよ。もっとしっかりつかまってな」

遠慮がちに掴まっていたミヤヒの腹に、シュオウは思い切りしがみついた。両腕を簡単にまわせるほど細い腰の感触を、慣れない馬上で喜んでいられるような余裕はないが、日頃口調の乱暴なミヤヒもたしかに女なのだと実感する。

冬の空気を切りながらの疾走で耳は千切れそうなほど冷たくなっていたが、心なしか、シワス砦に居たときよりも空気は暖かくなっているような気もする。

わずかな距離しか進んでいないはずなのに、そこはたしかに異国の地であった。