軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

美姫の抱擁

美姫の抱擁

和やかな談笑と酒気を帯びた温かい空気。隔てる壁一枚分だけ、匂いと音が遠くなる。感覚に一抹の寂しさを感じ、ジェダ・サーペンティアは自虐気味に口元を歪めた。

仄暗い通路に染みこんだ寒々しい外気。夜の匂いは重く、闇の沼へと誘い込むように沈殿している。

ふと、出所もわからない孤独感に苛まれる。馴染みのはずの後ろ向きな感情はしかし、すでに懐かしさすらを伴って、見えない壁を挟んだ奥にある他人事の生を、白昼夢のように垣間見ているようでもあった。

自室に戻ると、迎えたジュナが柔らかく目を細め、

「――楽しかったみたい」

簡素な言葉だった。

急な指摘にジェダは虚を突かれ瞬きを繰り返す。

「そうだね……思っていたより悪くはなかった。これ――土産を調達してきたよ」

照れ隠しも含め、持ち帰った物を差し出した。料理を少しずつのせた皿を二枚、卓の上に置く。

寝台から顎を上げて覗き込むように料理を見たジュナは、嬉しそうに笑みを浮かべた。

ジェダはこの部屋にいるはずのもう一人の姿を探し、

「姉さんの護衛役は――」

ジュナが隅に置かれた収納具の影をそっと見つめと、

「ぬッ――」

リリカの顔半分がぬるりと姿を現した。

ジェダは手にした皿の一つを指さして、

「二人分ある、僕はもう済ませてきたから、望めばこれは君の分になる。味は保証するよ――」

リリカは寝ぼけたようにぼやけた顔で、

「じゅる……」

手の甲で口元を拭う戯けた動作をしてみせた。

「あの男は飲み食いに夢中で今夜は役に立ちそうにない。悪いが、しばらく警護に集中してもらいたい」

リリカはそっと皿を取り、

「うなずき――もとよりのリリカのお役目ですので――ソソソ」

自身の動作に音をつけつつ、また物陰の奥へ消えていく。彼女独特の抑揚のない顔つきや態度のため、まるで人形が心を宿して自発的に動いているようだ。

「あら――」

ジュナが何かに気づき首を傾げる。首筋を指し、

「――汚れが」

ジェダは眉を歪めて首に触れ、

「ああ……ちょっと、逃亡した敵の捕虜に首を斬られて、ね」

一瞬、言葉に驚きつつも、ジュナはすぐに冗談に気づき、表情を和らげた。

「楽しいことがあったみたい」

幼い頃のまま無邪気に頬を緩ませるジュナ。ジェダはよく似た顔で微笑みを返し、

「興味があるかい」

「ええ、ぜひ聞かせて」

「それが、おかしな囚人がいてね――」

朝からの出来事、そして夜に起こった捕虜の脱走と暴れぶりを語って聞かせると、話の最中でジュナが耐えかねたように吹き出した。

「面白い人」

ジェダは肩を竦め、

「控えめに言っても狂人の類だよ。目の当たりにすればそんなことは言っていられないさ――」

ジュナは前のめりになり、

「でも、あの人を主人のようにしたっているのでしょう。なぜ?」

ジェダは首を横に振り、

「さあ、面識はないようだ。ごっこ遊びの延長かなにかか、それとも勘違いをしているのか。言動を見ていれば正常な心を持った人間じゃないと思えるが、でも……あの身のこなしは非凡だった。ただの馬鹿に出来る芸じゃない」

ジェダの言葉は自身と問答をするように、徐々に声が小さくなっていく。

「とても優秀だった、ということ?」

問われたジェダは間を置いて首肯し、

「そうだね。それも、所作は光の下を行く輝士というより、まるで影のなかに潜む裏側の住人のような……妙な男だよ。あのときの言葉も――」

クロムに乗りかかられたとき、言っていた事を思い出す。あのターフェスタでの出来事。死をもたらすはずだった一本の矢。今もまだ鮮明に思い出すことができる。

――言葉の意味は。

心の声の気の向くまま推理する。

仕留め損ねた獲物、次ははずさない。

「…………」

思考は一つの可能性へ行き着き、ジェダはまた無意識に首を撫でた。

「その人はこれからどうなるの?」

意識を戻し、ジェダは顎を引いて答える。

「上の人間しだいだろう」

ジュナは心配そうに、

「酷い目に遭わされたりはしない? もしそうなるなら、なにかできることはないかしら」

ジェダは片方の眉を下げ、

「……会ったこともない敵の捕虜を随分気にかけるんだね」

ジュナは真面目な顔で、

「だって、あの人に食事の席に招かれたのでしょ」

声を失ったジェダは真顔で呆けた後、

「…………ああ…………たしかに――」

前髪をかきあげ、言った口を歪めて肩を竦める。

「――彼の周りには妙な人間ばかり集まってくる」

「ふふ――」

ジュナの漏らした笑い声は、真昼の春風のように明るく軽やかだった。

ジェダは困り顔をして、

「頼むから、僕がその一人だと指摘するのは――」

ジュナは笑い声を必死に押さえつつ、

「言わないでおいてあげる。だから――」

言葉を最後まで待たず、ジェダは目線だけをジュナへ向けて頷いた。

「わかった、一応注意は向けておくよ。でもそれより、今は大掃除なんていう不合理な任務の遂行をなにより優先しないといけないからね」

ジュナは一転して表情を硬くし、

「こんな時にこんな場所で、変な指示……嫌がらせではないの」

ジェダは曖昧に首を傾け、

「重要人物の訪問が予定されているらしいんだ。探りを入れてみたけど、実際上も慌てた様子で迎えの支度に奔走していた。よほどの相手なんだろう、けど僕が詳細を求めてもまったく情報を渡そうとはしない――」

言葉を切ってリリカの隠れている物影のほうを見やり、

「――そっちのほうでなにか情報を得ていないか」

「ぬぬッ――」

と、顔を出したリリカは、料理皿を手に口をもごもごと動かし、

「――残念ながらまだなにも」

返答に対し、ジェダは粘り気のある視線でリリカを睨んだ。

リリカは珍しくむすっと顎に力を込め、

「重要なお方がムツキへ訪れるとして、その情報に秘匿するほどの価値があるでしょうか……この場合の疑いは不快なのですが」

ジェダは僅かな間を置き、

「悪かった、信じるさ」

誠意が微塵も籠もっていない謝罪を吐いて視線をはずす。

リリカは、

「ふん」

という言葉と合わせて鼻息を残し、また音もなく姿を隠した。

ジュナは背を伸ばし、ジェダを真っ直ぐ見つめる。

「サーペンティアの誰かでは、と考えたわよね」

ジェダははっきりと首肯し、

「もちろん。だけど、それならこんな大袈裟に出迎えの用意に必死になるだろうか。あるとすれば、その出迎えに値する地位のサーペンティアはただ一人だけど……それなら僕に情報を隠す理由を見いだせない」

ジュナは人差し指で唇をなぞり、

「状況を整理すれば来訪者の候補は予想ができそう。私たちの現状を考えれば、突発的な出来事に対して、気を緩めて迎えるべきじゃない」

ジェダは首肯し、

「そうだね、すべての可能性を考慮しよう――」

同じ血を分けて生まれた二者のサーペンティアは、この夜の一時に、じっくりとそれぞれに意見を交わし合った。

一夜が明けたムツキの朝は、活動の根幹を成す労働者達の目覚めと共に始まる。

火の入る調理場、兵士を鍛える訓練場、厩舎の管理、水場の点検。軍事拠点といえど、血を通わせ、健康を管理する必要がある。実際、深界の拠点は凝縮された街のような性質も持ち合わせていた。

そのムツキにある城塞で、上階のとある一室に詰める二人の女達がいた。それぞれに輝士と晶士の軍服を纏う二人の手には、本来触れることすらないであろう清掃道具が握られている。

向いているのかもしれない――輝士であるアイセは、ほうきを握り、そう心中で呟いた。

日常では見過ごしてしまうような塵や埃。それらを道具でかき集め、仕上げに水気で洗い流す。あとには地肌で触れてもかまわないと思えるほど清潔な場が出来上がる。

指示されたままに清掃任務に着手する過程、アイセは次第に綺麗に片付いていく通路や部屋を見ることに心地良さを感じるようになっていた。

「たのしそ……」

退屈そうにアイセに言うシトリ。その手には小枝のように軽くて頼りないハタキが握られている。どこで見つけてきたのか、やたらに歴史がありそうな一品だった。

自然と頬が緩んでいたことを自覚したアイセは口元を引き締め、

「べつに……でもまあ、嫌いではない、な」

「ずっとずっと、昨日も今日も掃除、掃除……はあ…………なんでこんなことしてるんだろ」

シトリは渋面を作り、雑にハタキを振り回す。

「黙ってやれ。文句ばかり言っても現状はなにも変わらない」

注意しつつも、アイセはシトリの愚痴る気持ちをよく理解していた。本来、晶士という希少な戦力として参加しているシトリは、戦場に立つ時以外の時間を、余暇として寝て過ごす事も出来ていたはずの身分だ。早起きを苦手としている彼女が、早朝からいち労働者の如く掃除に駆り出されていること自体、異例な事なのである。

――とはいっても。

アイセは忌々しげに奥歯を噛みしめる。

「実際に手をつけているのはほとんどこっちだ……」

シトリが顔を向け、

「なにか言った?」

ぼやけた声で聞く。

アイセは強く鼻息を落とし、

「言った。けど、いい」

シトリはつんと鼻を上げ、またいい加減な所作でハタキを振り、一際大きなあくびを漏らす。

もはや人格そのものともいえる怠惰な態度には、飽きることなく腹も立つが、重そうな瞼が閉じないよう必死にこじ開けている様を見れば、彼女のなりの最低限の努力も窺えた。

アイセは掃除の手を止めることなく、語りかける。

「そんなに退屈なら考え方を変えてみたらどうだ」

シトリは気怠そうに応じ、

「……どんな?」

「今していること。面倒な仕事をまかされたと思わず、別の人生を体験していると考えてみる、とか」

言いつつも、言葉尻にはどこか覇気がない。

シトリは手を止めてアイセを見つめ、

「……意味、わかんない」

「邸にも居ただろう。朝から暗くなるまで家や庭を掃除していた使用人達が」

「――うん」

「昔は清掃を生きるための生業ととしている者達のことなど考えたこともなかった。けど、今こうして自分の手で同じ事をしていると、今の私として、家に生まれなかった自分も思うことができる。当然、他人に生まれ直すことなんてできないが、想像はできるだろ。そう考えたら、ただの面倒な作業も、体験会に参加しているようで面白い、と感じることだってできるじゃないか」

アイセの語りの後、シトリは苦いものでも噛んだような顔をして、

「そんなの意味ないじゃん、ばっかみたい」

アイセはシトリの反応を予期していたように軽く流し、

「この作業もそんなに悪くない。目的がはっきりしている。すぐに結果がでる。それに気持ちがいい。こういう生き方があってもいい」

実際、そうした仕事に従事する者達の生が、言葉で言うほど容易いものではないと承知しつつ、アイセは一つの可能性を、物語を垣間見るような心地で語った。

シトリはアイセの言葉になにか引っかかるものがあったらしく、目線を上げ、唐突にハタキをくるくると回し始めた。

「舞手にならなってみてもいい。舞台の上で身体を一杯に使って踊って、客席にいる好きな男を見つけて、その人の目だけを見つめて踊り続けて――」

シトリはうっとりと語りつつ、その場でぬるぬると手足を振りはじめた。その踊りは実に巧妙だが、身体の線を強調するような手つきや腰の動かし方から妙な色気と品のなさが感じられる。

いつもなら、浮ついた態度に一言文句もつけてやるアイセだが、似合いの様と別の生き方を思う真剣な表情に、喉の奥まで出かかった愚痴を飲み込むことにした。

アイセは汚れた水を溜めたバケツを差し出し、

「捨ててきてくれ。ついでに隙間を掃除するための長くて細い丈夫な棒と乾いた布巾も何枚か調達してきてほしい」

シトリは現実に意識を引き戻され、精一杯のしかめっ面をする。

「ええ……そこまでする必要ある?」

「この任務の付加項目は、完璧な清掃だ。中途半端にやっても後で面倒が増えるだけだ。それに――」

アイセは声を殺して手元を覆い、

「――お前の言う、アレが後ですべての指定場所を確認すると言っていたんだ。文句を言われる隙を残したくない。アレでも形式上は私達の上官なんだぞ」

シトリは抵抗を示す硬い表情を崩し、だらりと肩を落とす。

「はあ……ほんとうざい」

愚痴をこぼしつつ、シトリはバケツを両手で握り、足腰の弱った老人のような足取りで去って行く。

アイセは一人残り、周囲を見渡して顔を顰めた。

「しまった――」

部屋の隅にまとめてあったゴミがそのままに残されている。シトリについでに持たせられなかったことを後悔しつつ、

「――まあ後でいい、か」

独り言を呟いて掃除の続きに手を出そうとしたその時、背後から複数人が近寄ってくる気配を感じた。

「なにが、まあいいんだ」

聞き慣れない声は堅さと攻撃性を帯びていた。

振り返ると、そこには四人の輝士達の姿がある。それは不自然な登場だった。この部屋は空き部屋であり、輝士達が活動する区画からは、孤立した場所にあるのだ。

「……あの、なにか?」

四人のなかには見覚えのある顔もある。同級の者は居ないが、歳が近く学府で見かけていた者も混じっていた。用を尋ねつつ、アイセは彼らの表情を見て悟った。この声かけが、友好的なものではないことを。

「君はいったいなにをしている、アイセ・モートレッド」

年長であると思しき黒髪の男が一人、前に出て訪ねた。しっかりと背を伸ばし、顎をツンとあげ、口元を歪めて見下ろしている。

「掃除……仕事、ですが――」

言うと、四人はそれぞれに表情を歪めた。落ちた口角、広がった鼻の穴、尖った目元。見るからにそれは、嫌悪と怒りの表情だ。

「腰を屈めて不浄に触れる行為、それが輝士のやることなのか」

急な物言いにアイセは戸惑いつつ、

「いえ、これは上官から指示された任務で……」

群れの中から女の輝士が歩み出る。

「任務? こんな下女のやるような事、輝士の身分にある者がすることではないはず。家の方々がこのことを知ったらどう思うでしょう。モートレッドに連なる方々を知っているけれど、皆さん立派な輝士ばかり、あなたのような真似をする方は一人もいなかった」

アイセは睨みつける視線を静かに受け、そっと拳を握りしめる。

また、別の者が動き出し、片隅に貯めてあったゴミの塊を蹴り飛ばした。散乱した状態を見て、先日の出来事を思い出す。

「なにをッ――」

踏み出したアイセの前に、集団が立ちはだかる。

黒髪の男が眼前で醜く口元を歪めた。

「噂になっているぞ。ネズミのように薄汚い片目の従士に言いなりにこき使われていると」

アイセは睨み返し、

「こき使われてなんて――」

女の輝士がアイセの前に指を突きつける。

「黙りなさい。あなた達の行動は皆が見て知っているの。輝士でありながら馬を降りて戦場に赴くなんて……恥を知るべきよ」

指摘を受け、アイセはたじろいで息をのんだ。

「それは……」

黒髪の男がぐいと一歩前へ出た。息が届くほどの距離となり、アイセは嫌悪感から反射的に後ずさる。

「消耗品たる歩兵に囲まれ、戦場でやつらを守っていたな。のろまな亀のようにぞろぞろと――醜い光景だった。思い出しただけで反吐が出そうだ。君の行いは戦場で自在に戦馬を駆るムラクモ輝士の名誉を著しく穢している。猛省し、罰を受けるべきだ」

集団は四方から均等に間隔をあけ、逃げ場を奪うようにじりじりとアイセへ詰め寄る。壁際まで追い詰められ、距離がしだいに縮まると、女の輝士がアイセの肩を強く小突いた。

「やめて、くださいッ、こんなこと――」

男は長い手を伸ばし、

「口で言ってもわからないのだろうッ」

その手がアイセの髪を乱暴に掴み上げる。その時――

「ッ――!?」

ゴウ、と唸る音をあげ、突風が集団の間をすり抜けた。直後、アイセの背後にある壁に鋭い爪痕のような亀裂が入る。

四人が慌てて背後へ振り返る。髪を掴んでいた男の掌握が緩くなり、アイセは強引に拘束から逃れた。倒れ込み床だけが視界に収まる。その間、耳に慌てた様子の女輝士の声が聞こえてきた。

「あ、の――これは――」

見上げると、視線の先には一人の男が立っていた。青の輝士服を纏うジェダ・サーペンティアがそこにいる。

四人は自らよりも下の階級にあるジェダを前に、まるで悪戯を見られた子供のように怯え、惑っていた。

しかし、黒髪の男は喉を鳴らして背筋を伸ばし、

「手荒な真似をなさいますな、公子。なにか勘違いをされているようだ。私達はただ、後輩に指導をしていただけで――」

ジェダは男を睨めつけ、

「詭弁を聞いていられるほど暇じゃないんだ。君たちのしていたこと、言っていた事は見聞きし、把握している。これ以上なにかあるのなら、ここから先は彼女の上官である僕が聞こう」

黒髪の男は明らかに怯んだ様子で後ずさり、

「い、いえ……もう要件は伝えました。我々はこれで――」

視線から逃れるように顔を下げたまま去ろうとする者達の背へ、ジェダが静かに語りかける。

「ギオウ、モンフォル、キッシル、ゼイドルク。各家に聞くべきだろうか――ジェダ・サーペンティアの部下に対し、なにか気に食わない事でもあるのかと」

四人の肩が目に見えるほど震え上がった。

黒髪の男は振り返ることなく頭を下げ、

「ど、どうか穏便に。これ以上、お手を煩わせることはないとお約束いたします――」

そう言い残し、四人は惑う草食動物のように走り去った。

ジェダは腰に手を当て、四人が去って行った方を見やり、そのままゆっくりとアイセへ視線を滑らせた。

助けられた、という優しげな言葉が浮かばぬほど、ジェダの視線は鋭く冷たい。

「いつまでそうしている」

見下ろす目と、硬い言葉。ジェダに指摘され、アイセは身体を起こし、身なりを整えた。

「……どうも、あり、が――」

感謝の言葉を伝える途中、ジェダは忌避するように顔を逸らす。

「油断をするな」

遮るように言われ、アイセは戸惑った。

「はい……あの……?」

「常道をはずれれば、それを正義として生きる者達から反感を受ける。彼の案を飲んだとき、そのことを僅かにでも考えなかったわけじゃないだろう」

アイセは視線を落とし、浅い息を吐く。

「…………」

沈黙するアイセへジェダは背を向け、

「もう候補生じゃない、自衛を心がけることだ。現状を避けたいのならそう言えばいい。隊を離れる許可はいつでも与える」

アイセは奥歯を噛みしめ、顔を上げた。喉の奥までこみ上げた言葉は、しかし出口へ向かうことなく、腹の底へと沈んでいった。

口汚く個人を罵る言葉が聞こえてくる。影の落ちる通路の奥で、先から来る四人の男女。シュオウは黙したまま彼らを強烈に睨みつけた。

先頭を行く黒髪の男がまず、シュオウに気づいた。足を止め、後続の者達と衝突する。勇ましい悪口は止み、互いに存在を強く認識する。

灰色の髪に大きな眼帯。その存在をわかりやすい特徴と共に知る者は多く、初戦を終えたいま、戦場でのこと、そして森でのことも含めた武勇伝は、拠点内で広く伝わっている。誰に睨まれているのか、彼らはよく、知っていた。

シュオウの眼には強い敵意がこもっている。視線を受け、黒髪の男が露骨に喉を鳴らした。

「……くッ」

合わせる目をはずし、挙動不審に周囲を見渡した後、黒髪の男は他の者達を先導するように逆方向へ向けて早足で歩き出した。他三名も引きずられるようにその後をついて行く。

通路の先からジェダがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。すれ違う四人は狼狽えた様子で壁際に避け、顔を下げながら早足でジェダの横をすり抜ける。

「まさか、彼らになにかしてないだろうね」

脱兎の如く走り去っていく四人の背を見ながらジェダが聞いた。

シュオウは答えず、

「どうして止めたッ」

激情にかられた表情でジェダの首元を掴み上げた。

ジェダは苦しげに喉を鳴らす。しかし、抵抗の意思は一切示さない。

「そんな顔をした君に行かせたら、どんな結果になるかわかりきっていたからだ。落ち着いてくれ、もう片付いた。アイセ・モートレッドは怪我を負っていない、無事だ――」

あくまでも無抵抗を貫くジェダの態度に、シュオウはつり上げた眉を少しずつ下げ、ゆっくりと掴んでいた手を離した。

咳き込むジェダを見つめ、シュオウは意識して浅くなっていた呼吸を整える。

「あいつらを黙って行かせてしまったッ――」

悔恨を込めてシュオウは吐き捨てるように言った。

「それでいいんだ。この程度のことは予期していた。あの手の連中は必ず湧いて出る。表だって行動に移してくる分だけ、まだ対処はしやすい。引かなければ家と家の問題になると匂わせておいた。家格を重視する貴族には、これが一番の脅しになる」

ジェダが言い終えた直後、

――つ。

怒りに血が沸いたせいか、頭に鈍痛が走った。シュオウは奥歯を強く噛みしめ、

「……足りないかもしれない」

「だとしても、これは彼女の問題だ。子供のように心配をするほどのことじゃ――」

最後まで聞かず、シュオウはジェダに背を向け歩き出した。

「知ったまま、放ってはおけない」

「――シュオウッ」

呼び止める声を無視する。ついてくるな、と言うまでもなく、ジェダはその意を察したように踏みとどまった。

ジェダの目が届かない場所で、シュオウは強く頭を押さえる。激しくなる頭痛は、まるで冷静さを求めるジェダの小言のようにまとわりついた。

昼時を前にして、朝食もとらずに働いていた隊の者達は、朝昼を兼ねた食事にありつくため、外に設けられた仮設の食堂に集合していた。

沈んだ顔でクモカリから皿を受け取るアイセは、背後から感じる喧噪の種類が変化したことに気づいていた。

すでに少なくない時間、シュオウの隊の者達と同じ時を過ごしてきたアイセは肌で感じ、知っていた。がやがやとした喧噪が一本の意思として束ねられる空気の移ろう瞬間を。

――シュオウ。

彼が姿を見せたとき、皆の意識が一本に収束する、その瞬間。

いつもなら振り返り、皆と同様に視線を送るところだが、この時アイセは振り返ることもせず、その場に佇み地面を見つめていた。

沈んだ顔を見られるのが嫌だったのか。気落ちした敗北者のような様を恥じたのか。アイセ自身にもその気持ちを理解ができずにいた。

深く吸い込んだ息を吐き出そうとしたその時だった、

「アイセ――」

いつもより重いシュオウの声。その声に呼ばれ顔を上げた瞬間。背後から伸びたシュオウの手が、アイセの手首を強く掴んだ。

「あ――」

急なことに驚き、料理皿が手から零れ落ちる。すかさずクモカリがそれを綺麗に受け止めた。

捕まれた手首を力強く引き寄せられ、振り返ると、真剣な顔をしたシュオウがじっと視線を向けてくる。

互いの息を感じるほど近い距離で、シュオウはアイセへ言った。

「側にいろ」

すぐ隣に立っていたシトリの足下で、皿が落ちる音が鳴る。

呆けていたアイセの手首を掴むシュオウの手に、さらに力が籠もった。その強さは痛みを感じる寸前だ。

「あ……の……はい……」

訳もわからず、アイセは頷いて同意を告げる。

蒼白な顔でぽかんと口を開けて佇むシトリが、背後にそっと手を伸ばすと、

「無言で包丁を取らないで」

シトリの手を叩き、クモカリがそう注意する。

周囲のそんなやり取りも頭に入らないまま、アイセはしだいに大きくなっていく心臓の鼓動を感じつつ、シュオウの顔をそっと見上げた。

しかし、態度や言葉ほど甘やかな雰囲気はなく、その顔は強く怒りの気を帯びているようだった。

――ああ。

熱を帯びた身体が、急速に冷めていく。

――そうか。

シュオウの態度と表情から察する。彼があの出来事を知ったのだということを。

僅かに残念に思う気持ちに蓋をして、アイセは単純にシュオウの言葉を嬉しく思っていた。どんな理由にせよ、シュオウが自身のために強く心を動かしていることを、肌で感じることが出来たからだ。

各自に食事を終え、また皆が忙しく常の仕事と清掃に出発していく。

まばらになった食堂で、ジェダはぽつんと座り一人食事を口に運ぶ。

「珍しくあなたが一人でいることと、シュオウのさっきの行動はなにか繋がりがあるのかしら」

対面に腰掛けたクモカリに指摘され、ジェダは顎を引いて弱く微笑した。

「推察の通りさ。ちょっと、隊長殿の不興を買ってしまってね」

「へえ……?」

クモカリは興味深そうに頬杖をつき、ジェダの顔をまじまじと見つめる。

ジェダは食事の手を止め、

「たいしたことではないから、聞きたいのなら説明してもいい」

「興味がないっていうと嘘だけど……まあ聞かなくてもそのうち耳に入ってきそうね。ただそれより、改めて不思議に感じちゃうのよ、あなた達の関係」

「僕とシュオウの、ということかい」

クモカリは頷いて、筋肉質な腕を寄せて両手の指を絡め合わせた。

「そうよ。サーペンティアの公子様が石に色のない従士の下について動いてる。あなた、その気になれば彼に思うとおりに命令できる立場でしょ」

ジェダは遠目に視線を流し、

「そうだね、実際の軍での立場として、僕は彼に命令を下せる立場にあるし、実際表向きには、彼の隊は僕の指揮下に置かれている」

「それなのに、シュオウの機嫌を損ねて一人で寂しそうに食事をしているあなたがいる。気を遣ってるのは上官であるあなたのほう」

ジェダは眉をひそめ、

「寂しそう、というのは心外だな――でもたしかに、今は彼の気が鎮まるのを待っていたいと思っている」

クモカリはしたり顔で頷き、

「ほら、不思議な関係」

ジェダは微笑を返し、

「サーペンティ家当主の子として生まれた僕に、平民として生まれたシュオウが仕えるのは当然。皆がそう考える、そうじゃないことを疑問に思うのが自然なんだろうが、生まれに恵まれただけで無条件で優位に立てる世界を壊したい――そんな風に考えている男がこの世界に一人くらい居たって、不思議じゃないだろ」

クモカリは僅か、表情を硬くした。

「話が大きすぎて……あなたは……いえ。もしそんな事を本当に望んでいる人がいたとして、その人はその世界を本気で実現できるって信じてるの? その人の信じる相手が、それを叶えてくれるって」

ジェダは眉間に力を込めて、

「きっとね――きっと、その男は、そう確信するような光景を自分の目で見たんだ」

その言葉は強く、中に一本の硬い芯が込められたように揺るぎなく発せられた。

一切の惑いもなく遥か彼方を一心に見つめる強い目を前にして、クモカリは密かに起こった身震いを隠していた。夢物語のような事を語る目の前の人物に対し、感心や疑念を感じることはなく、ただ寒々しい恐怖に似た心地を感じたのだ。

シュオウは道具を手に、割り振られた清掃箇所へと向かっていた。その傍らには二人の友人、アイセとシトリの姿がある。常日頃、傍らにジェダがついて歩いていることを思えば、これは珍しい事だった。

二人はシュオウにとって、死地を共に駆け抜けた友人である。ここのところは側にべったりとつき、彼女らが近寄るたびに皮肉や厳しい言葉を吐いていたジェダがいない今、しかし話が弾むこともなく、アイセは肩を強ばらせて俯き加減にシュオウの隣を歩き、反対側に陣取ったシトリは、むっつりと機嫌悪く唇をかみ合わせ、指先でシュオウの服の端を摘まみながら無言で歩調を合わせていた。

三人が帯びる空気は重く、不一致な気を孕んでいる。が、シュオウはそれを察知しつつも、まるで意に介する事もなく、ただ湧き上がる怒りと、時折現れる鈍痛をに耐えるために、奥歯を強く噛みしめて前を見つめていた。

――あいつら。

アイセは自身の隊に所属する仲間だ。友であり、軍という群れのなかでの実質的な部下でもある。その彼女に対して、多勢で言いがかりをつけ、暴力まで振るった輝士達の顔が、今もまだ視界の中にこびりついて取れないほど、強烈に記憶に刻まれている。

「ッ――」

不快感と共に脳天まで激しい頭痛が通り抜け、一瞬で消失する。

腹の底から湧き上がる熱は出所を失い、胸の奥へと沈殿する。その怒りは、発散のための獲物を求めていた。思考の浅瀬に浮かぶのは、友を傷つけようとしていた者達の顔である。暴力によって彼らを沈め、二度と愚かな真似が出来ないよう、恐怖を身体に刻みつけてやりたい。そんな短絡的で幼い感情が溢れ出してしまいそうになるのを、シュオウは必死に堪えていた。

本能が望む行為は、理性によって結びつけられている。その過程に、ジェダの吐いていた言葉が脳裏に流れた。

ジェダの懸念は実際、淀みなくシュオウに届いていた。不用意に仕返しなどという行動を起こせば、現状に処理しきれない風波を起こすことになりかねない。アイセだけでなく、他に多くの仲間達を抱える今のシュオウにとって、それは決して忘れてはならない重要な事なのである。

目的の場所へ近づいた時、違和感にシュオウは首をひねった。

――なんだ。

先には傷病者を収容している部屋がいくつかある。そこには本来、いるはずのない番兵のような男達が立っていた。人数は四人、各自に統一された武装をしており、青い爪を持つ蟹の紋章が縫い付けられた制服を着ている。

「リーゴール家……」

アイセが小声で呟いた。

番兵達はシュオウを睨みつけ、

「現在、この区画は立ち入りを制限している」

シュオウは手にした掃除道具を掲げ、

「掃除をするよう指示を受けている、通してもらいたい」

番兵達は各々に顔を見合わせ、こそこそと相談を交わし、

「――我々はここの封鎖を命じられている。リーゴール司令官の許しを得た者以外、やはり立ち入りは許可できない」

やり取りの最中、奥から見知った顔が現れた。

「やあ、どうも皆さん――」

人の良さそうな柔和な表情で、レオン・アガサスが会釈をして現れる。その手の内には、先日と同様大きな布を巻いたなにかを抱えていた。

レオンは番兵達を軽く睨んでその脇を通り抜け、

「――ここでは落ち着かないので、向こうで」

シュオウへ首を振って合図を送る。

同行を促されシュオウはその場を離れてレオンの後をついて行き、番兵の目が届かない階段の前の通路で足を止めた。

レオンは咳払いをして事情を説明し始めた。

「話は単純なんだ。リーゴール司令官の指示で、しばらくの間はあの辺りの自由な往来を制限したいらしくてね。重要な人物の来訪に合わせ、見苦しいものには蓋をしたい、ということだよ。正直腹立たしいが、取って食われるわけではないし……」

弱々しく説明するレオンの様も、しかしよく観察すれば、張った首筋、突き出すほど強く噛みしめられた顎など、彼のいう細やかな怒りの感情が、実際にはより強いものであることが窺える。

アイセが眉をひそめて胸の前で拳を握り、

「そんな……アガサス重輝士は長年、命を賭けて戦場を駆けてこられた功労者なのに。怪我も初戦でのご活躍が原因であると皆が知っていることです」

レオンは微笑し、

「ありがとう、その言葉で救われた心地がするよ。父にも伝えておく」

「あ、いえ――」

アイセは恐縮た態度を示しつつ、

「――でも、いったい誰が……私たちの隊にも、ムツキ全体の大規模な清掃活動が命じられています。そこまでするほどの人物の来訪となると……」

首をひねって考え込むアイセに合わせたように、レオンもまた視線を落として、

「そうだな……あの人は、いや違うか……あの方は……」

思索にふける彼らを尻目に、シトリは退屈そうにシュオウの腕にからみつき、溜息を零した。ふわりと、シトリの甘い香水の匂いを感じた直後、この場に微か、腐臭を含む獣の臭気を感じ取る。

淀んだ通路の空気に、ほんの僅か染み出したその臭い。シュオウは鼻を鳴らし、出所と思しきレオンの手荷物へ顔を寄せた。

「この臭い……」

臭いは強烈に記憶を呼び覚ます。人の血を混ぜた獣臭。それは狂鬼、タイザの体臭だった。

レオンは顔を綻ばせ、

「ああ、そうだったッ。これを見て欲しくて、ずっと抱えていたのをすっかり忘れてしまっていた」

レオンは周囲に人気がないことを確認した後、床の上に包みを置き、くるまれた布を丁寧に剥がしていく。

そこにあった物を見たとき、各々の反応は様々だった。シトリは怯えたようにシュオウの背に隠れ、アイセは怖怖と、しかし興味を持って覗き込む。

何重にも巻かれた布袋から現れたのは、タイザの千切れた腕だった。

「これって……あの……」

アイセが黒い毛の先を恐る恐る指先で触れる。

レオンはどこか自慢げに、

「シュオウ殿が討伐された狂鬼の片腕だよ」

シュオウは屈んでタイザの腕に触れた。恐ろしいほどに強靱な体毛は、生きて動いていた時と同様顕在である。

背後からシトリが心底気持ち悪そうに、

「うぇ……」

「どうしてこれがここに」

シュオウの疑問に、レオンはまっすぐ顔を見つめ、

「あの騒動のなか、持ち帰った者達がいたようで。父の手に渡された物でね。これを是非、シュオウ殿に見てもらおうという話になったんだ」

話に納得し、シュオウは頷いた。

「それで――」

レオンは腰を落として、

「――相談なのですが、どうにかこれを形として残せないものかと」

「ううん」

シュオウが腕を組んで唸ると、レオンは不安げに顔を覗き込み、

「やはり、難しいだろうか」

「人と同じで、狂鬼も死ねば身体が消える。狩った後、消える前に石を上手く切り離すことができれば、素材として残すことは出来る……もしこの部位に石があれば……」

説明しつつ、シュオウはタイザの腕の体毛を掻き分け、地肌を探った。皮膚には気をつけて触れなければ切り傷を負うほど鋭い鱗のようなもので埋め尽くされている。しかし一点、腕の内側に鈍く黒光りする、子供の拳大ほどの輝石が見えた。

シュオウは掻き分けた体毛の奥に見つけたそれを皆に見せ、

「あった」

レオンは破顔し、嬉しそうに握った拳を振り下ろした。

露台から見下ろす先にシュオウと二人の女達の姿がある。掃除道具を手に作業に勤しむ彼らに加え、なぜかアガサス家の子息まで同行しており、彼はどうやらシュオウ達の清掃作業に手を貸している様子だった。

ジェダはシュオウの後を、まるで付き従うようについて歩く三人の輝士の姿をじっと見つめる。それは本来在るはずのない光景だった。

「ご報告を――」

なんら予兆もなく、突如リリカの声が聞こえた。声のした後方へ振り向くと、従士に変装したリリカが、ぼうっとした顔で佇んでいる。

一瞬、ジェダは冷えた感覚に緊張する。真っ昼間、専属でジュナにつくリリカが単独で接触してくることは珍しい。なにかあったのでは、という懸念が生じるが、平素と変わらぬ落ち着いた彼女の様子から、根拠のない不安を振り払った。

「珍しいな」

「昨夜の問いに関して知り得た事がありましたので。間もなくご自分でお知りになる事と思ったのですが、お嬢様から先にお伝えするようにとのご要望により、参上しました――じゃん」

真面目に、そしてあまり表情のない顔で、リリカは広げた両手をぱっと広げる仕草をした。実際、突然始まる彼女の戯けた態度に、ジェダは未だ慣れることができずにいる。

ジェダは姿勢を変え、先ほどと同じように外を眺めながら、

「聞かせてくれ」

「ムツキが迎える要人について、情報を求めようとしましたが、ユウギリからの流通に滞りが発生しています」

ジェダは薄く口を開き、

「封鎖されたのか?」

「こく、と頷きます」

吹き抜ける微風が止むよりも早く、思考する。

深界における白道とは、人の身体に張り巡らされた血管に等しい。その流れを止めることは、戦や大規模な狂鬼の襲来など、よほどの事がなければ行われないのが常だが、実際封鎖が実行されているということは、来訪予定の人物のため、と考えるのが自然なのだろう。そして、白道の封鎖などという大仰な事を必要とするほどの人物となると、その対象はかなり数が絞られる。

――なるほど。

「大慌てで外見を取り繕おうと、必死になるだけの相手だったというわけか」

遠目に、生真面目なほどきっちりと掃除に着手するシュオウの背が辛うじて見えた。

「どうなさいますか」

「裏を取りたい。上層部に口を割りそうな人間に心当たりは?」

「にやり――」

とリリカは言葉だけで笑んだ。

ユウギリに逗留中の親衛隊。彼らが寝食の場として利用する旧領主邸は、物々しい緊張感の下、作戦会議が繰り返されていた。

隊長であるアマイの補佐であるキサカが前に立ち、壁に掛かる深界地図を棒で指しつつ、隊列と速度、緊急時の対応について説明している。

キサカの話に耳を傾ける輝士達は真剣な態度で耳を傾けていた。

ア・シャラにとってそれは、各地を旅する過程ですでに見飽きるほど目の当たりにした光景だったが、今回はまた一段と張り詰めた緊張が漂っている。それも、目的地の現状を知れば当然の事といえる。

王位継承者――それはサーサリアという人間を一言で言い表すことができる適切な言葉だ。しかし、現実をよく知る東方人であれば、この言葉にさらに付け加えがなされることになる――唯一の、と。

大国の絶対的統治者、ムラクモ王を象徴する天青石。その石を継承することのできる唯一の人間、それがサーサリアなのだ。

親衛隊の目的地は、ムラクモ王国の国境を守護する重要拠点の一つ、ムツキである。が、そこは隣国に攻められている最中の生の戦場。

選べるものの中で、最も相応しくない場所へ、サーサリアは望んで向かおうとしている。しかも、件の地の初戦では狂鬼の襲来により大勢が命を失ったという。

現状を俯瞰するア・シャラは、内心で冷笑し一喝した。

――馬鹿どもめ。

立場を忘れて恋の熱に身を焦がし、周囲をまるで見ようともしない、愚かな人間。ア・シャラの見立てでは、サーサリアという一人の人物に対する評価など、それで十分だった。

自らの意思で石を継ごうともせず、病み、食が細り、その回復ために時を費やし、無意味な日々を送る。王位を継ぐ者として、まるでその適性を持たず、結果それを崇める者達も滑稽に見えてしまう。

現状を踏まえず、ただ血統を崇める愚か者の集団。サーサリアを熱心に守護する親衛隊に送る評価がこれだ。

ア・シャラは親衛隊の者達から大きな信を得ていた。もとよりさばさばとした性格で率直な物言いは、怒りを買うことはあっても、恨みを買うことは少ない。それに加え、サーサリアが命の危険を伴う危機にあったとき、それを手早く救ったことにより、ア・シャラという人物に対する親衛隊からの好感は倍増したのだ。

しかし、本来敵国の人間を唯一無二の希少な人物の側に置くには、彼らの警戒は甘すぎると言わざるを得ない。が、国を代表する精鋭輝士の群れの中に身を置くア・シャラは、実際考えなしに荒事に訴えられるほどの余裕がないのも事実なのである。

――しかしもう。

いい加減、飽きないものかと嘆息する。親衛隊は同じ事を何度も何度も話し合う。それはまるでクオウ教の僧が唱える退屈な祈りのように、まともに聞いていると眠気を誘われるほどの退屈さだった。

あくびを噛み殺し、ア・シャラはサーサリアの居室に場所を移す。

王女の部屋はある意味、騒然としていた。部屋いっぱいに敷き詰められた衣装と装飾品の山。サーサリアは熱心にそれらを身体に当て、付き添いの女輝士に容姿の評価を求めている。その脇で疲れ切った顔のアマイが、必死に言葉をかけていた。

「――殿下、当日はどうか、どうかご冷静に」

サーサリアは苛立たしげに目を尖らせ、

「わかってる」

ここへ至る旅路で、サーサリアは用意された訓練を地道にこなしてきた。結果、基礎体力の向上とほどよい筋力を得たため、発声は力強く瑞々しい。

自らが崇める王女からの険のある声に怯むことなく、アマイはさらに小言を重ねた。

「ムツキは戦闘を終えたばかり。現地の輝士や兵らへの労いが今回の訪問の大義名分となっています。それを逸脱する行いをすれば、王都への言い分も――」

サーサリアは手にしていた服を寝台に投げ、アマイを睨めつける。

「同じ話ばかり、聞き飽きた。なにを言えば納得するのか教えて」

アマイは恭しく一礼し、

「この度の訪問、あくまでも私人ではなく、次期国主としての振る舞いを、改めてお約束いただきたいのです」

サーサリアは息を殺し、顔を逸らした後、視線だけをアマイへ送った。

「一日だけ――少しだけ、一緒に居られたらそれで――」

「はい……承知、しております」

サーサリアは頭を垂れるアマイから視線を外し、服の裾に手をかけた。

「着替える」

視線を上げぬまま、アマイは背を向けて部屋を後にした。

「あしらいかたが様になってきたな」

ア・シャラに話しかけられ、サーサリアは安堵した様子で顔を綻ばせる。

「これ、どう?」

脱ぎかけの服を着直し、サーサリアが背筋を正して品良く踵を合わせた。側に控える女輝士が、ア・シャラへ縋るような視線を送る。彼女の意図を理解しつつも率直に本音を告げることにした。

「だめだ、まるで似合っていない」

女輝士が音もなくがっくりと肩を落とし、サーサリアは真剣な顔で数度頷いた。

「そう……どこがだめ」

「お前は身体を鍛えほどよく肉もついた。ここにある服は皆体型が変わる前のもの、僅かにだが均衡を欠いている――」

その言葉を聞き、世界の終わりを見るような顔で立ちつくすサーサリアへ、

「――よし、今から一着新しいものを用意させろ。腕の良い仕立師を呼び、今の体型に合ったものを作らせる」

サーサリアの後ろから、女輝士が青ざめた顔で首を横に振り続ける。

暗く影の差したサーサリアの表情が、一瞬にして陽光に照らされたように明るさを取り戻す。が、

「無理です、そんな急に。今から用意をさせても完成までには何日も――」

口を挟んだ女輝士へ指先を向け、ア・シャラは胸を張って、

「無理かどうかはためしてみた結果にわかるのだッ。手が足りないとわかっているなら、この街にいる職人すべてを叩き集めろ。相応のものを渡してやれば喜んで仕事を引き受けるだろう」

顔に力を込め、サーサリアがア・シャラが言葉を告げる度、頷いて同意をしめした。

女輝士は狼狽して胸元で手を揉み、

「ですが、そのような前例は……」

ア・シャラは足を踏み一喝した。

「ないのなら今日作れ。主の望みを叶えるのがお前達の仕事なのだろう、行けッ」

勢いに押され女輝士が慌てて廊下に頭を出し、外に控える者達に状況を伝え始めた。

サーサリアは寝台に腰掛け、

「ありがとう、シャラ」

ア・シャラは腰に手を当て、

「半端は許さん。手に入れたい物があるのなら徹底して臨み、妥協はしない。いいか、ただ口を開けていても欲しいものは手には入らないのだ。手を伸ばし、その手で強く掴み取れッ」

教官から教えを受ける生徒のように、サーサリアは従順に頷いた。

ア・シャラは腰に両手を当て、素直に喜びを示すサーサリアへ笑みを返した。

未来の王として軽蔑の域にまで達するサーサリアへの評価も、個人として見ればそれほど悪くはなく、むしろ求めるもののために愚直に努力を重ねる姿には、愛着すら感じるようになっていた。

――一度でも手を出したのだ。

半端はやめ、最後まで全力で手を貸そう。数え切れないほどの装飾品を前に頭を悩ませるサーサリアを見て、ア・シャラはその決意と共に寝不足となることを覚悟した。

季節を思えば妙に感じるほど空気が生ぬるく、吹き付ける風はじっとりと湿り気を帯びていた。

夕暮れと夜の間。空は残り火に炙られた終わりかけの薪のように鈍く赤黒い。

深界に大きく影を落とす物見塔の屋上から、薄着で遠くを見やるシュオウの背に、ジェダはそっと声をかけた。

「あの上等な毛皮の外套、そろそろアガサス重輝士から取り返したどうなんだい」

シュオウはむっすりと横目を流し、

「まだ、使っているらしい」

不機嫌そうな顔のわりに、声にはあまり力がない。隣に立ち、シュオウの見る先の風景へ目をやった。

「この変化のない風景、見飽きないか」

ジェダの言に、シュオウは眉をひそめて反応する。

「風に当たりにきたんだ。冷えた空気の中にいると少し……落ち着く」

その言いように、ジェダは僅か違和感を覚える。だがそれは、綺麗に切り出した木材を撫でた時に感じるほんの僅かな棘のように、通り過ぎればどこで感じたことかも思い出せぬほど些細なものだった。

「君の大切な友人達は一緒じゃないのかい」

僅かに皮肉の籠もった一言だったが、シュオウは落ち着いた様子で軽く頷いた。

「今はクモカリを手伝ってる……お前が反対しても、しばらくはあの二人と一緒に行動するからな」

「君の気持ちは聞かせて貰った。だから反対はしないさ。ただ、心から賛成はしていない。もし君が彼女らの保護者のような気分でいるなら、その必要はない。彼女達は訓練を積み実戦も経験した輝士なんだ」

シュオウは虚空を睨みつけ、

「実際、手を出してきた奴らがいる。次に同じ事があれば、黙って見ているつもりはない」

ジェダは鼻息を落とし、

「甘く考えるなよ。ムツキには若い輝士が多く、空気を軽く感じているかもしれないが、軍の意向に逆らえば厳罰に処されることになる。僕の持つサーペンティア家の威光は虚像だ。どんな状況でも確実に君を助けられるわけじゃない――勘違いしないでもらいたいが、ただ黙って状況に飲まれろと言っているわけじゃないんだ。ターフェスタでそうしていたように、事を起こすときには冷静に、先を読んで考えたうえで行動に移してもらいたい。あの二人以外にも、君の側には集う者達がいることを忘れないでくれ」

シュオウは長く間を置き頷いて、

「…………そうだな」

一瞬だが、真っ直ぐと目を合わせたシュオウを見て、上辺だけの返事ではない、とジェダは感じていた。重くなった空気を払うよう、努めて明るく話題を切り替える。

「清掃任務のほうは順調だ」

「ああ――仕上げも近い、間に合いそうだ」

ジェダは空を眺め、

「不思議に思うよ。輝士でもない、従士でもない人間に指揮をまかせたほうが、事が上手く運ぶなんて」

「出来る奴がいるならまかせればいい、それだけだ」

ジェダは軽快に笑った。

「その通りなんだろうね。合理を追求すれば人は最適かつ最短の道を行くことができる。しかし、それでも遠回りを好むのは、それが人間が持って生まれる事を義務づけられた悪癖だから、か」

シュオウは前を向いたまま、

「根の部分では獣も人間も変わらない。それぞれの役割をこなす。それができる群れは強くなる」

ジェダは皮肉を込めた微笑を作り、

「人の世界は獣たちほどわかりやすくはないよ」

「面倒なことは単純に考えたい。ここへ集まってくれた皆のことも、まだ知らないことがたくさんある。それを知って活かせる方法があるなら、力を貸して貰いたい」

「とはいっても、誰もが君のように飛び抜けた力を持っているわけじゃない。戦場で活かせる才にはかぎりがある。彩石を持たずに生まれた者達にはとく、ね…………」

ジェダへ顔を向けるシュオウの片目は、いつものように気安さと微かな信頼の気を帯びている。風に煽られ揺れる髪を押さえつけ、シュオウはジェダへ問いかけた。

「要件があってきたんじゃないのか」

ジェダは片頬を上げて微笑し、

「ああ――ようやく、この不可解な任務が誰のためのものか、確かな情報を手に入れることができたから、急ぎ隊長に知らせたくてね。ちなみに、情報源から話を引き出すのには思ったよりも苦戦した」

シュオウは身体を内へ向け、答えを求めるように前のめりの姿勢となる。

「誰がくる」

「予想していた可能性の一つではあったんだが……君には縁がある高貴な人物だった。ここまで言えば、もうわかってしまうだろうけど、来訪者の名は――」

告げられた名を聞いた途端、シュオウが見せた表情は、常には見ることのできないほど弱気を帯びていた。

「そう嫌そうにすることもないだろう。命を救ったことも含め、君には親しげに接していたじゃないか。その後も顔を合わせているだろ――」

シュオウの顔は暗いまま、返事はなく代わりに湿った吐息を吐き出す。

「――一応言っておくが、人目のある場所で気安く声をかけたりしないよう気をつけてくれ」

シュオウは不満げに口を結ぶ。なにかを言おうとして口を薄く開いた時、それを止めて鼻を鳴らし、ぼうっと遠くを見て独り言を呟いた。

「――雨が、降るな」

その一言から間もなくして、一帯は音もなく落ちてくる小雨に覆われた。

動よりも静の勝るその時間は、夜明けと夜更けがぼやけて混じり合う曖昧な世界を成している。

前日に雨が降ったのか、濡れた白道は湿りを帯びて虚ろな白光を放っていた。

進むごとに徐々に濃くなっていく霧は光を受け、雲のように地上を漂う。深界という酷な世界の実態を忘れさせるほど、馬車の窓から眺める景色は美しかった。

遠くの方から獣の咆哮が聞こえてくる。周囲を固める輝士達の衣擦れの音が重なり、如実に緊張を表した。

かつては震え上がるほどの恐怖と負の記憶を引きずりだした深界の音。しかし、今現在のサーサリアにとってそれは、まるで絵や紙に刻まれた文字を見ているのと同じく、ただ傍観しているだけの感覚でしかない。

流れゆく景色に等しく、記憶を置き去りにして前へ進む。

――早く。

汗ばむ手を何度も握り直す。

息が浅くなっているのを自覚し、深く呼吸を整えた。

目線を下げ、装いに注意を向けた。ユウギリでも指折りの職人達を集め、十数名の各弟子達の手により、短時間で作り上げられた一品は、白を基本としたぴったりとした長衣に、黒と青を混ぜ土着の民族衣装にある蔦のような模様を混ぜた帯を合わせる。戦地への訪問という表向きな目的とも合わせ、どこか高位の者が纏う軍服、という趣も帯びている。

品良く、それでいて強さも併せ持つこの服を、サーサリアは強く気に入っていた。この装いで頭の中に思い描く自分が、思う相手の隣に立つ姿に思いをはせる。

容姿には自信があった。

周囲に侍る同性の者達や、旅の途中に見てきた民と見比べても、自身が容姿に優れている、という自覚を持つことができた。さらに、ア・シャラに言われるままこなしてきた鍛錬の結果、ほどよく鍛えられて姿勢が整い、身体は美しく曲線を描き、元々白く透き通るような肌は艶やかに、そして健康的な麗しさを存分に湛えている。

サーサリアは類い希なる美姫である。が、本来持つ素養は不健全な生活に阻まれ、その多くを発揮しないまま見過ごされてきた。

誰のための努力であったか。欲するものに手を伸ばすため。すべてはそのために生まれ、宿した強い意志の成したこと。

灰色の森を、優れた輝士の群れが行く。それはただ一人の王女が抱く、我欲を叶えるためだけの行進だった。

「完璧だ。ここを見ても戦の最前線の拠点には見えないだろう」

淀みなく掃除の行き届いた拠点内各所を見渡し、ジェダが言った。

シュオウは仏頂面で、

「……ああ」

と頷く。

「命令通りにやり遂げたんだ、もう少し嬉しそうにしてもいいだろう」

しかし、シュオウは冴えない表情のまま、無言で奥にある門から聞こえてくる喧噪に注意を向けていた。門の外には賓客を出迎えのために大勢が隊列を組んで整列している。そして門前には、この拠点の司令官たるニルナ・リーゴールとその息子、アスオン・リーゴールが代表として出迎えのために控えている。

「こんな良い席をよく……」

シュオウの左隣にぴったりと寄り添うアイセが言うと、ジェダは無表情に視線を送り、

「少数での清掃任務をやり遂げ、戦場では最大の戦果を上げた隊だ。これくらいの主張は当然の権利だ」

表向き、ジェダ・サーペンティアの所属となっているシュオウの隊は皆、門の内、城塞のすぐ側に席を用意されていた。ここは最初に主賓を出迎えるため門外よりも長く、歩いてくる賓客を眺めることの出来る位置であり、周囲には有力者や高位の者達が多く並んでいる。

輝士や晶士らがずらりと並ぶこの場所で、その多くが平民階級にある者達によって構成されているシュオウの隊員達は、酷く場違い感を伴って浮いた存在となっていた。

アイセとは逆側に席を取ったシトリがあくびをあげ、揺れる身体をシュオウへべったりと預ける。シュオウは受けた重みに耐えきれず、僅かに足を滑らせた。咄嗟に伸びたクモカリの大きな手が、シュオウの身体を的確に支える。

「ちょっと、大丈夫なの?」

心配して声をかけるクモカリへ礼を言って頷き、

「少しよろけただけだ」

側にいるアイセやシトリ、ジェダが不安げにシュオウへ視線を向ける。

「シュオウ――まさか体調が」

アイセが心配そうに額へ伸ばした手を、シュオウは柔らかく拒んだ。

「大丈夫だ、終わったら休みをとる」

強く腕に身体を寄せていたシトリの重みが軽くなる。気遣う言葉にぼんやりと頷き、深く腹の底から息を吐いた。

横から目尻を尖らせたジェダが、

「いつからだなんだ。そこまで体調が悪化していたことを隠していたんじゃないだろうな。とにかく、式が終わりしだいすぐに医者に診せよう」

声には棘があり、僅かに怒りの気が込められている。

シュオウは前を向いたまま、

「大袈裟だ。たぶん疲れが抜けてないだけで、少し休めばすぐによくなる」

クモカリがぱん、と手を叩き、

「差し入れでもらった食材に丸ごとの鳥があったから、あれで滋養のある美味しい汁物でも作ろうかしら」

「わたしも手伝う」

さっと挙手したシトリに、アイセが呆れた声で、

「お前は……こんなときだけッ」

ジェダが溜息を吐き、不満をためた顔で瞼を落とす。

三列目に席を取るシガは、退屈そうに大あくびをあげていた。

それぞれの喧噪をよそに、シュオウは門外から聞こえてきた大きなどよめきに耳を傾けた。

ムツキの門前に整然と兵が配置されている。直後に戦闘が始まったとしても即対応できるであろう陣容に、中央にはしかし行く先を示すように一本の道が形成されていた。

前列に並ぶ従士らが平伏し、後列に控える輝士らは、馬上から敬礼し、屈強な戦馬達はひれ伏すように一斉に頭を垂れる。

通り過ぎていく親衛隊の隊列は、二台の馬車にぴったりと寄り添い、ゆったりと威厳ある行進を続ける。

先を行く馬車の窓から王女の顔が覗くと、馬上から敬礼を送る輝士達から――おおお、と地鳴りのような歓声が広がった。

――どこ。

唇を噛みながら、サーサリアは窓の外から必死に一人の姿を探す。が、狭い窓から見える範囲は極限られている。

「アマイッ――」

必死の声で呼ばれたアマイが、慌てて馬上から窓を覗き込んだ。

「殿下……」

「あの人を探してッ」

アマイは苦く表情を歪め、

「御自重ください。これだけの人出です、一人を見つけ出すのは容易ではありません」

サーサリアは縋るような顔をして、

「でも……」

「到着して間もない我々が、一人の従士の姿を探せば疑念を抱かれます。帯同している近衛軍の者達にも、この訪問の目的を知られれば、早々に連れ戻すための理由を与えることになりかねません。どうか今しばらくの忍耐を。お約束した通り、この後城内に入り、人目のない場所で会えるよう手配をいたします」

早る心は今にも喉から飛び出しそうなほどだが、対面するアマイの表情から、その意思の堅さも伝わってくる。それは出来の悪い子供を言い含めようとして必死な大人の顔だった。

サーサリアは俯いて窓から離れ、頷いた。

アマイはほっとした顔で、

「間もなくムツキ代表の出迎えを受けます。ここは戦を交え、狂鬼の襲撃を受けたばかりの傷ついた場所。皆が見ています、どうか王女殿下として相応しい御振る舞いを」

言葉の通り、馬車はまもなく門前で停止した。白い石の地面に足を下ろした瞬間、盛大な溜息が零れ、波紋のように外へ行くほどに大きく広がっていく。

門前に集う者達の中心に、黒の軍服を纏う女が立っている。そのすぐ側には、よく似た顔の若い輝士が一人、待機していた。

やたらにめかし込んだ彼らは、サーサリアを前にして一斉に膝をついた。前へ出るサーサリアは、目の前にいる者達へ一切の興味も示すことなく、きょろきょろと周囲に集う集団を見つめていた。

――いない。

ムラクモで、あの髪の色は目立つのだ。一目見れば一瞬で気づくことのできる自信があったが、どこにもその姿を見る事ができない。

不安を感じた胸の内の鼓動が、酷く浅く、真冬の湖のように冷たく凍り付いていく。

強く求めていた。知るよりも前のことがすでに思い出せないほど、サーサリアにとってその人物は、今を生きる理由の大変を占めている。

突き放すような仏頂面も、見下ろされているような態度も、側にいればすべてが心地よく、時折触れる事のできる優しさも、すべてが愛らしい。

――会いたい。

手に入れたかった。側に置き、他の誰にも触れさせず、朝起きた時から寝る瞬間まで共に在りたいと強く願う。

「開戦の地の厳つい戦士達の歓迎を期待したが、不抜けた顔が勢揃いをしているな。よくもこれだけなよなよとした若いのばかりを集められるものだ」

追いついてきたア・シャラが眼光鋭く鼻を鳴らす。側仕えの輝士がその態度をたしなめた。

彼らのそんなやり取りをよそに、サーサリアは忙しなく視線を周囲へ送り続ける。

出迎えの者らと声の届く距離となり、

「司令官、ニルナ・リーゴールが、サーサリア王女殿下に拝謁いたします。それと――」

続いて、側にいた若い輝士が、

「ニルナの子、重輝士アスオン・リーゴールが拝謁をいたします――」

アスオンと名乗った若き重輝士は顔を上げた。整った相貌に大人の色香も加え、控えめに言っても美男子と言い切れるほど華のある男だ。親子というだけあり、二人はよく似た顔をしている。

「――殿下、はるばるこのような辺境の地へのご足労、臣下として感謝の念に尽きません。御身をお迎えするにはこのムツキはあまりにも無骨ですはありますが、快適な御逗留となるよう一同全力で務めます」

完璧な所作で一礼し、アスオンが跪いた姿勢からサーサリアを見つめた。

しかし、サーサリアはその言葉を意に介した様子もなく、視線をきょろきょろと回し続けていた。

「ごほ――」

アマイの咳払いに注意を引き戻したサーサリアは、二人がいるほうへ顔を向ける。

アスオンが呆けて目を見開いた。見とれているように、薄く開いた口は塞がらない。

サーサリアは熱のこもった視線を軽く受け流し、

「歓迎に感謝する」

そう告げてまた周囲に注意を向ける。

簡素で味気ない態度に、ニルナとアスオンが戸惑った様子で顔を見合わせた。

「殿下は長旅でお疲れに――」

取り繕うアマイを尻目に、なにより見たい顔を見つけられないことに焦燥感だけが積み上がる。

サーサリアは門の先に見える光景に気づき、心を弾ませた。

――まだいる。

門の奥に大勢居並ぶ人々の姿があった。

「城塞ゆえに簡素ではありますが、中で歓迎の支度を調えてあります――」

ニルナに促され、サーサリアは門をくぐる。

輝士達の列の前を通る度、まるで風に押された草花のように皆が頭を下げていく。

美貌に見とれる者。ムラクモという家名にひれ伏す者。珍しい姿に関心を寄せる者。皆がそれぞれにサーサリアへの関心を示す。

背後にるア・シャラが小声で、

「おい――」

その言葉をかけられたと同時に、サーサリアは彼女がなにを言おうとしたか察知した。

「――ッ」

声が漏れそうになるのを必死に堪える。薄らと立ちこめる霧の奥に、一層暗く重い灰色をした髪を持つ者。鋭い目つきに黒い眼帯。特徴的なその姿に、ぞわりと全身が震えを帯びる。

目の前の景色が白く霧の中に溶け込むように消えていく。大勢が自然に漏らすどよめきも、不安げに視線を寄越すアマイの顔も、必死に機嫌を取るリーゴール家の者達も。すべてが霧の中に飲まれていく。

見たいのはただ一人。その者の姿が鮮明になっていく。

――シュオウ。

その名を心中で呟いた。

一歩ずつ、距離が縮んでいく。長い間、思い描いていた瞬間が訪れようとしていた。が――

「ッ――」

あってはならないモノが視界に入る。

シュオウを囲むように左右に立つ、二人の女。

美しい金髪に、透き通るような水色の髪。この二つの特徴が、記憶の中から押さえがたい不快感と共に吹き上がる。

――なんで。

前を睨み、サーサリアは強く拳を握りしめた。

シュオウの視界の先、薄霧の奥からサーサリアの姿が徐々に浮かび上がった。集った者達が溜息を漏らすのも納得できるほど、ひさしぶりに見るサーサリアは、容姿に磨きをかけていた。

「はあ……」

感嘆した様子でアイセが溜息を漏らす。

「なんてお綺麗なのかしら……」

クモカリもまた、溜息と共にうっとりと感想を述べた。

「ふん」

シトリは興味を示すことなく、注意を引き寄せようとシュオウの腕にそっと手を回す。

王女が近づいてくる。居並ぶ者達が奥から頭を垂れていく。それにならい、シュオウも腰を折って頭を下げた。

こつ、こつと足音が聞こえる。そのまま先へと流れていくはずのその音が――――シュオウの目の前でぴたり、と止まった。

下げた頭の奥から、ざわざわと喧噪が広がる。

恐る恐る、シュオウが顔を上げようとしたその瞬間――

「…………え」

温かく、ふわりとした感触が胸の中に飛び込んだ。さらりと揺れる黒髪が鼻先で揺れ、まったく場違いな良い香りを振りまいた。

空気が完全に凍りつく。

喧噪は止み、誰一人身動きする気配もない。

目の前に、見知った顔がいくつかある。アマイは大口を開けて硬直し、リーゴール親子は瞬きを忘れ硬直し、ア・シャラはしたり顔で腕を組んでいる。

身の内に、間違いなく感じる一人分の重み。シュオウの胸に身を寄せたサーサリアは、背に腕を回し、強烈な力を込め、抱擁した。

「いッ?!――」

治っていない怪我を負った上半身を締め上げられ、シュオウは思わず仰け反って歯を食いしばる。

思考が巡る。

他の者達と同じように、呆けて口を開けたまま硬直しているアイセとシトリ。そして仲間達へなんと言えばいいのか。逃避するような思考はしかし、初めて見るジェダの青ざめて引きつった顔に引き戻された。

静寂が徐々に消えていく。それはまるで大地の唸りと錯覚するような音だった。

ムラクモでもっとも高貴な存在である王女が、一人の男に抱きついている。騒ぎが轟音になる寸前、

「だ、誰か! 殿下がお倒れにッ――」

突如、ジェダがそう叫んだ。

戸惑う空気を破り、アマイが素早くジェダの言葉に乗った。

「な、なんということだ――今すぐ医官をッ、殿下をすぐに中へッ!」

必死な声に、親衛隊がわらわらとサーサリアを引き剥がす。

「いやッ――」

シュオウにしがみつこうと必死なサーサリアの声は、大きくなっていく喧噪に飲まて消える。

サーサリアが猛烈な勢いで親衛隊に連れ去れる。

その場に残ったア・シャラがシュオウの顔を覗き込み、

「鍛えておいてやったからな」

そう告げて、ふふ、と軽やかな笑い声を残し、軽やかに去って行く。

後に残されたシュオウに、周囲の者達の視線が千本の矢のように突き刺さった。

「シュオウ、こっちだッ――」

ジェダに腕を掴まれ、シュオウは後方の人の群れのなかへ引きずり込まれた。

人混みの奥へと隠れるように進む最中、ジェダは苦々しく悪態をつき、

「――くそ、大勢に見られた。あそこまで想われていると、どうして先に言わなかったッ」

ジェダの疑念へ渡す答えも見いだすことができず、シュオウは自覚するほど熱を帯びた身体と、締め上げられた上半身の痛みに、苦く顔を歪めた。

熱で鈍った頭で考えるまでもなく、酷く焦った様子のジェダと、背後から嵐のように音を増す喧噪が、取り返しのつかない事態が起こったのだということを、なによりもわかりやすく、強烈に示していた。