軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第五話 握髪吐哺

試験前日の夜に寝泊まりした宿の一階は、客もほとんどなく閑散としているにも関わらず、にぎやかな話し声と楽しげな空気に満ちていた。

試験参加者が報酬を受け取れるのは試験終了後の予定となっている。

それまでは、ここで自由に寝泊まりして飲み食いまで無料であるという説明を受けて、ボルジを筆頭として平民参加組はとても喜んだ。シュオウもそうだ。師匠の下を飛び出してから、はじめて本当にゆっくりとできそうなので嬉しかった。

宿に到着してからすぐにテーブルを囲んで食事会となった。

ジロはさっそく魚料理を全種類注文して、ボルジは米から作った濁り酒をガブ飲みしはじめ、クモカリは料理を小皿にとって配ったり、ジロの口元をまめに拭いてやったりしていた。

食事をするだけで、それぞれにこれだけ個性があるのだから面白い。

暖炉から漏れる暖色の光に照らされたテーブルの上に、出来たての料理やツマミが所狭しと並んでいる。

なにせ食べた分はすべて国が支払う事になっているので、宿の女将がこれでもかと頼んでいない料理まで運んでくる。

イモを甘辛い味付けで煮込んだムラクモでは定番の家庭料理をかじりつつ、シュオウは冷たいミドリ茶を喉に流し込んだ。

「最後に別れたときには、たしかこの集まりに参加するつもりはないと言っていたような気がするのだが、いったいこれはどういうことなんだ、シトリ」

絢爛豪華なドレス姿で合流したアイセが、シトリを問い詰めた。

「俺達がここに到着して、たいして時間もたたないうちに来てたぞ」

シュオウは親切心のつもりで説明したのだが、正面に座っていたクモカリが、誰にも気づかれないように自分の足を軽く蹴ったことで、言ってはまずかったのだろうかと後悔した。

「ほほう……」

アイセはじっとりと湿った視線をシトリに送る。

「気が変わったの」

シトリはアイセと視線を交えることなく、抑揚のない声で言った。

「うッ」

まだ追及をあきらめていなかった様子のアイセだが、シトリの言葉には何も返せなかった。

気持ちが変わった、といわれればそれまで。これ以上の追及は無意味だと悟ったのだろう。

まんまとアイセの問いかけを一言ではね除けたシトリは、甘い飲み物にちびちびと口をつけていた。

シトリはシュオウの左隣の席に座り、椅子をぴったりとくっつけている。わずかな時間の間に風呂に入ってきたらしく、シトリのふわふわとした水色の髪からは、ほんのりと甘やかな香りが漂ってくる。服装は黒のシンプルなドレスに、肩から真紅のショールをかけている。ドレスは体の線を美しく強調するようなデザインになっていて、しっかりと凹凸のある女性的な肢体が放つ魅力を、さらに倍増させていた。

途中からこの集まりに参加したアイセは、シュオウの右隣に椅子を置いた。目に眩しいほどの鮮やかな黄色のドレスが、アイセの金色の髪とよく合っている。いつもの鋭い印象が、気品漂う高潔さへと見事に昇華されていた。

期せずして両手に花状態のシュオウの戸惑いは大きかった。両脇に華やかな女子達が、肩が触れそうなほど近くにいるせいで落ち着かない。

せめてもの救いは、視界に入る巨体のクモカリと、一心不乱に魚料理にがっつくジロ、それに特大のコップで酒を流し込むボルジ達の存在だった。彼らが近くにいるだけで、アイセとシトリから漂ってくる桃色な気配をどうにか軽減してくれる。

「それにしても……」

アイセはシトリのほうへ身を乗り出して、ふんふんと鼻を鳴らした。

「もしかして香水をつけてるのか?」

シトリが少し体を動かすたびに、そこから花のような香りが流れてくる。アイセはそれを指摘した。

「……つけてるけど、なんで?」

「いや、めずらしいと思っただけだ。普段、香水どころかそんな服だって着ないじゃないか」

「いいでしょ、べつに。制服の替えがなかったから、仕方なくよ」

「そう……なのか」

話が終わると、二人は無言でそれぞれ皿に取った料理を食べる作業に戻る。

さっきから、アイセがシトリの行動や服装等をチクチクと指摘しては、シトリがさらりとそれに返答する、というやり取りがシュオウを挟んで何度も続いていた。その度に少しずつ沈黙が入るのも困りものである。

どうにも息苦しさを感じ始めていた頃、この微妙な空気をぶち壊してくれそうな救世主が現れた。

酔っぱらったボルジである。

「うぃっく―――おい、ショロウ」

「シュオウ、だ」

到着早々に酒をガブ飲みして、すでに呂律が回っていないボルジが、片足立ちでシュオウの下までやってきた。手にはたっぷりと酒が注がれたコップを持っている。

「おらぁな、すげえとおもってんだって言ってたんどはああ」

ボルジはシュオウに顔を近づけて、酒臭い息を盛大に吐きだした。

すぐ隣に座っていたシトリが、ううッと声をあげながら、距離を置く。

「ちょっと飲み過ぎじゃないのか」

「うるへえ! こんなのまだまだ序の口よう。ショロウを見てると若い頃をおもいらすんら! おめえはすげえやろうら! わかってんのかコノヤロウッ」

ボルジは怪我をした足をかばって、ただでさえ安定しない片足立ちである。さらに酒も手伝ってグニャングニャンと揺れている。視点も定まらず、かなり酔いが回っているようだ。

「わかったから、座って水でも飲んだほうがいい」

「いいや、おめえはぜんっぜんわかってれえ。よしッ! おれがどんだけ感謝してるかってやつの証拠をみへてやるぁ」

ボルジは手に持っていたコップをシュオウの頭上まで持っていき、ゆっくりと傾けて中に入っている酒を注いだ。

「祝い酒だぁッ! とっとけシュロウッ!」

ほろ苦い酒が頭の上からトクトクと注がれる。それを黙って受け止めつつ、シュオウは、こんなことがつい最近あったな、等とのんきに懐かしさを噛みしめていた。

「こらッ! なにをするんだッ――」

ボルジがシュオウの頭に酒を注ぐ光景を呆気にとられながら見ていたアイセが、立ち上がってボルジを突き飛ばした。

不安定な姿勢で押されたボルジは、そのままテーブルの上に置いてあった料理を手に引っかけ、床に倒れ込む。

サラダや肉料理などが床に派手に散乱した。

運ばれてきたばかりの汁物も倒れて、中身がシュオウのふとももにかかった。

「大丈夫か、シュオウ」

「心配ない。濡れただけだ」

「濡れただけって、湯気のでてる汁物までかかってるじゃないか、はやく脱がないと火傷するぞ」

「大袈裟だ。こんなの、ちょっと温い程度だろ」

アイセは訝しんで濡れたズボンの上を触って、やっぱり熱いじゃないか、と言った。

そのまま有無を言わさぬ勢いでズボンを引きずり下ろして、シュオウの太股を確認する。

「ほら見ろ、真っ赤になって…………ない、な」

シュオウの太股は、なんら変わりなくそこにあった。肌はわずかに赤くすらなっていない。まったくの平常である。

「ちょっと心配しすぎなんじゃないの。普通、熱かったらもっと大騒ぎしてるわよ」

クモカリが苦笑してアイセに言った。

「うん……それもそうだな。ちょっと待っててくれ、店の者に拭くものをもらってく―――」

アイセがそう言い終わる寸前、隣で静観していたシトリが、物凄い勢いで椅子から飛び出して店の奥へ走り出した。

「って、ちょっと待てこら! 最初に言ったのは私だぞッ」

先行したシトリを追って、アイセも走り出す。服を引いたり、手の平を顔に押しつけて前に出ようとしたりの激しい競争が繰り広げられていた。

二人の事も気になるが、シュオウは床に倒れ込んだボルジを心配して声をかけた。アイセに突き飛ばされてから、ぴくりとも動いた気配を感じない。

「おい、大丈夫か」

返事はない。

心配して立ち上がったクモカリが、ボルジの下まで歩み寄った。

「……寝てるみたいね」

クモカリが、うつぶせに倒れたボルジを仰向けにすると、がぁがぁと大きな寝息が聞こえてきた。

「そうみたいだな」

「にしても、学ばないオヤジよねえ…………邪魔だから奥に転がしておきましょ」

「ジロも手伝うっぽい」

ジロも魚を咥えたままやってきて、クモカリと共にゴロンゴロンと奥の壁までボルジを転がしていく。

これだけされても、まったく起きる様子がないボルジは、壁にぴったりと背中がつくまで転がされても、安らかな寝顔をこちらに向けていた。

「よく寝てるわねえ、よっぽど疲れてたのかしら」

濡れた髪もそのままに、シュオウは床に散らばった皿や料理を片付けていた。

落ちてしまった食べ物は、少し汚れてしまったが食べられないほどでもない。

もったいないので口に入れてしまおうかと考えていた矢先、クモカリが生野菜を細長く切ったサラダを渡してほしいと言ってきた。

「なにに使うんだ」

「ちょっとね、食べ物を床に落とした責任をとってもらおうかなって」

シュオウから皿を受け取ったクモカリは、細長い野菜スティックを一本手に取り、それを眠るボルジの鼻の穴に差し込んだ。

「――んごッ」

ボルジの体がびくりと跳ねる。しかし、一向に起きる気配はない。

「オッサン起きないわね。それじゃあもう一本……」

クモカリはもう一方の鼻の穴にも野菜スティックをゆっくりと挿入していく。

隣でその様子を見ているジロは、魚をくわえたまま、真剣な表情で見守っていた。

床に横たわる中年男の鼻の穴に、野菜スティックを差し込む巨体のオカマと、それを助手のように真剣なまなざしで見つめる蛙人という図が目の前にある。

これは、いったいなんのゲームなのだろうか。

本人達はいたって真剣なので、シュオウは黙ってそれを見守ることにした。

そして、慎重に作業を進めていたクモカリは、無事に作戦を完遂させた。

「入ったわ―――でも、なんかもう一つ足りないのよね」

「目が寂しいかんじっぽい」

ジロは皿の上に乗っていた、薄切りにした丸い形の野菜を、ボルジの両の目蓋の上に貼り付けた。

鼻の穴から長い二本の棒が伸び、その隙間からはピイピイと情けない笛のような音を鳴らしながら空気が漏れている。両目は薄く輪切りにされた白い野菜で飾られていて、鼻が塞がれたせいで口は大きく開いている。

そこには、かつてボルジと呼ばれていた男の成れの果ての姿があった。

一仕事終えたクモカリとジロは、互いに顔を見合わせて、うんうんと頷いた。

「またせたな、拭くものを借りてきたぞ」

アイセとシトリが手にタオルを持って戻ってきた。

二人はボルジだったモノを一瞥して、何も見なかったかのようにすぐに競うようにシュオウの頭と体を拭き始めた。

床で眠るボルジに毛布をかけて、一同は再び穏やかで暖かい時間を取り戻していた。

それぞれに料理や飲み物に手を伸ばしながら、試験であった色々な出来事を語る。

話の内容が、試験の終わり頃の事になった時、クモカリが慎重な口調でシュオウに質問した。

「ねえ、シュオウ。聞いてもいいかしら」

「ああ。答えられることなら」

「最後の狂鬼を相手にしたときの、あの戦い方のことよ。どこであんな事を覚えたの?」

クモカリの問いかけに、アイセが同調した。

「私も聞きたいと思っていた。深界で狂鬼を狩る人間もいるとは聞いたことがあるが、それは何十人も人を集めての事だろう。彩石を持たない人間が、それも一人であれだけの狂鬼を相手にして傷一つ負わずに退治してしまうなんて、前代未聞だぞ」

どこまで話すべきなのだろうか、と考えながら、少しずつ言葉を選ぶ。

「アイセには、たしか話したな。深界については俺の育ての親から教わったと。孤児だった頃、その人に拾われた時に一つ約束をしたんだ」

「約束?」

「約束の内容は、その人が受け継いだ、とある古い戦闘術を受け継ぐ、というものだった」

シュオウの言葉に、アイセが身を乗り出した。

「その戦闘術というのが、あの狂鬼を一撃で倒した、アレなのか?」

「あれは違う。森の事や狂鬼の対処の仕方は、その戦闘術を仕込むついでに教わったオマケみたいなものだ。もっとも、そのオマケのほうがよほど使い道がある、と俺の育ての親は言っていたけど」

「あれで、オマケなのか………その戦闘術、というものはどんなものなんだ?」

「ん……」

どう説明したものか、と悩み言葉が詰まる。それを言いにくい事だと勘違いしたのか、アイセが困惑した様子で両手を振った。

「いや、言いにくいならいいんだ、無理に聞こうとは思ってない」

「言いたくないわけじゃない。ただ、人間を相手にした戦い方、というくらいしか今は言葉が出てこない」

師匠から受け継いだ戦闘術は一風変わったものだった。それを咄嗟に説明するとなると、うまく言葉を選ぶことができない。戦闘術、などと大袈裟にいっても、そうたいしたものでもないのだ。シュオウ自身、時間をかけて教わる過程で、どれほどそれが役に立つのか疑問に思っていた。人の世界に出てきた今でも、実戦で技を使った事は一度もない。

「そうか、ならいいんだ。ただ、いつか見せてもらえると嬉しい」

アイセはそこで言葉を終わらせて、それ以上は何も聞かなかった。

いつか見たいと言ったアイセの期待には、正直なところあまり応えたくはない。

人間を相手にその技を使うような場面は、控えめに想像しても穏やかな状況ではないだろうからだ。

その後も楽しい時間は続いた。

クモカリの一発芸に大笑いして、ジロのこれまで食べた色々な魚料理の講釈がはじまったり、皆で将来の夢を語り合ったりして、時間はあっという間にすぎていく。

そして、テーブルの上の料理を粗方食べ終える頃には、全員が座ったまま眠ってしまっていた。

時刻はすでに深夜。

シュオウは、自分の脇に肩を入れて支える誰かに、二階の寝室まで連れてこられた。

目を開けるのも億劫なほど疲れていたので、そっとベッドに寝かせてくれた誰かに感謝する。

こうした気遣いをする人間は、おそらくクモカリだろうと、寝惚けた思考で予想をつけて礼を言った。

「クモカリ、ありがとう……」

暗がりの部屋の中、礼を言った相手からすぐに言葉が返ってくる。

「どういたしまして。だけど、わたしの名前はシトリです」

そう聞こえた瞬間、温かくて柔らかい感触の何かが、ドサリと自分の上に乗り込んだ。

漂ってきた甘やかな香りに、ぼやけていた意識が一気に覚醒する。

「シトリ!?」

目を開けると、ぼんやりとした蝋燭の小さな灯りに照らされたシトリの姿が目の前にあった。

「せいかい。ご褒美にわたしのファーストキスを……」

目をつぶり、軽く唇を突き出して顔を近づけてくるシトリをどうにか押し戻す。

「ちょッ―――待て」

「どうしたの?」

「こっちのセリフだ………なんのつもりだ。他のみんなは?」

シュオウの問いに、シトリは妖しく微笑んだ。

「下で寝てる。わたしが眠れないときに飲む薬を、少しずつ飲み物に入れておいたんだけど、あのオジサン以外なかなか効いてくれなくて、すごく焦れったかったよ」

「眠り薬を、飲ませた、のか……」

「わたしと君の以外に、ほんのちょっとだけ」

どうりで、と得心する。

あの不自然なほどよく眠っていたボルジは、眠り薬のせいだったのか。

「どうしてこんな事を」

「君が欲しいからに決まってるじゃん。だからお邪魔虫達には、しばらく静かにしておいてほしいだけ」

試験中、側で見てきたシトリとはまるで別人だった。

普段どこを見ているかわからないぼやけた瞳は、シュオウを鋭く捕らえて一瞬でも離そうとしない。呼吸が荒く、口からは甘くて熱い吐息をもらしている。

「自分が何をしているのかわかっているのか」

「君の上にまたがってるんだよ」

シトリは蠱惑的な表情でこちらを見下ろしながら言った。

両手をシュオウの服の下に滑り込ませて、ヘソから胸へすこしずつずらしていく。冷たくて柔らかい指の感触が体をなぞる。はじめて経験する奇妙な感覚に、体が震えた。

シトリは微笑みを浮かべながら上唇を舐める。

その妖艶な姿に、心臓が大きく跳ねた。

「たしか、男なんて気持ち悪いって―――」

「君は気持ち悪くなんてない。試験中からなんとなく気になってた。心細くて、深界に詳しい君を頼りにしたいって気持ちだと思ってたけど、最後のあの化け物を簡単に倒してみせたあの姿。あれを見てから、心臓の鼓動が早くなって、お腹の下が熱くなった。枯れた木みたいだったわたしの心が、こんなに動いたのははじめてなんだよ。だから……責任をとって」

今の言葉に嘘偽りがないことを証明するかのように、シトリの視線はまったく揺るがない。

蕩けた微熱な表情で迫るシトリに、例えようのない薄気味悪さと、男としての欲求が同時に湧いた。二つの感情は、睨み合う剣士のように対峙する。しかし、あっけなく後者が勝利した。

頭が熱湯をそそいだみたいに熱くなり、心臓が早鐘のように鳴っている。体全体が熱を帯びて、もはや理性を思い出す余裕すら与えてくれない。

とろんとした双眸がじっとこちらを見つめて、熱でほんのりと赤くなったシトリの顔が、徐々に近づいてくる。

だが、シトリの手がシュオウの顔の眼帯に触れた瞬間、沸き上がった熱気が一瞬にして冷めてしまった。シトリの手を掴み、自分から遠ざける。

「すまない……おりてくれ」

熱くなるのも一瞬なら、冷めるのもまた同じ。いわゆる性欲という本能は、不便なもののようで状況によっては笑えるくらい柔軟でもある。

もっとも、今のこの状況はとても笑い飛ばせるような軽いものではなかった。

「どうして」

「理由はない。とにかく、冷静になってくれ」

「それに触ったから?」

シトリはシュオウの眼帯を見て聞いた。

「………そう、だな」

図星をつかれ、ごまかす気力もなくなっていたシュオウは、正直に認めた。

「見られるのが怖い?」

「……怖い。一度でも隠してしまえば、それをさらけ出す事に、たくさんの勇気が必要になるみたいだ。親しくなった相手には、とくに、な」

眼帯の下に隠した醜い火傷の痕。これを見せたからといって、仲間達が自分への態度をころりと変えてしまうとは思っていない。

だけど、もし…………そう考えてしまうと、ほんの僅かな勇気ですら干上がった井戸のように枯れ果ててしまう。知られずにすむのならそのままでいい。安全な場所に留まって、心に余計な傷を増やしたくはないと思ってしまう。

逃げの思考に体が動かなくなる。

皆が恐れる化け物にすら、単身で挑むことができる自分がこの有様とは、なんとも情けなく笑える話だと思った。

「その眼帯の下がどうなっていても、君への気持ちは変わったりしないって断言できる。だけど、無理に見たいとも思わない。もし、君がいいと思うときがきたら、そのときは見せてくれる?」

シトリの言葉は、心底シュオウを気遣ってのものだった。

今までどこに隠していたのかと思うほど、その表情は真剣で温かい。

「ああ、約束する」

シトリは上から降りて、そのままシュオウの横に寝転んだ。

「あーあ、覚悟してたんだよ」

恨めしそうに横目で睨むシトリに、本気で申し訳ない気持ちになる。

「……ゴメン」

謝ると、シトリは笑った。

「なんだか、急に幼く見えるんだね。君って不思議。偉そうにしてるのかと思えばたまに優しいし、物凄く強いところを見せてくれたと思ってたら、意外に繊細だし」

「こっちだって、同じだ」

「同じって?」

「育ての親に拾われてからは、ほとんど他人と接する機会がなかったから、歳の近そうなシトリやアイセのような異性は自分とは違う生き物に思える」

シトリは、ムッとした表情でシュオウを睨んだ。

「アイセの名前はださないで――――でも、歳が近いっていうのは気になる。わたしは今年で十八になったけど、君もそれくらいなの?」

「二十歳になった……たぶん」

「たぶんって」

「わからないんだ。孤児だった頃は自分の年齢もわからなかった。師匠――育ての親にはじめて会った時に、六歳か七歳くらいじゃないかって言われて、それが十二年前のことだ」

「七歳としたって、それじゃ一年足りなくない?」

「二十歳になったら自由にしてやるって言われていて、自分は早く外の世界を見て歩きたかったから、無理矢理二十歳になったことにして出てきたんだ」

「適当だね。だけど、その見立てはそれほどはずれてないと思う。君の見た目の雰囲気は、わたしの同級生の男子達とそう離れていないみたいだから」

「そうか……なら………よかった」

少しずつ、目蓋が重くなっていく。

試験を終えた日に、そこそこの睡眠をとることができたとはいえ、疲れはまったく解消されていない。

試験中、ほとんど寝ずの番で夜をすごし、途中からはボルジを背負ったまま歩きずくめだった。

気を遣われるのが嫌で隠していたが、仲間の前でも立っているのが精一杯なほど足腰にも疲れが溜まっている。

こうして柔らかいベッドの上で横になっている今、シトリの淡々とした話し声が、子守歌のように聞こえて心地良い。

「眠そうだね。ねえ、起きるまで一緒にここで寝てもいい?」

シュオウは寝返りをうって、シトリに背を向けた。

「好きにしてくれ」

目を閉じる。

暗闇に飲み込まれていくような感覚に酔いしれる。

意識は途切れ途切れになり、シュオウはほどなくして眠りに落ちた。

シトリは寝息をたてはじめたシュオウの背中を軽くつついた。

完全に眠ってしまったのを確認して、一人溜め息を吐く。

「ほんとに寝ちゃった……」

だけど、眼帯の下を見せるのが怖いと言っていたのに、こうして無防備に眠ってしまったのは、少しは信頼されているのだろうか。

シトリはシュオウを後ろから抱きかかえるように腕をまわして、目をつむった。

――温かい。

さきほどまで火照っていた体は、心地良い温度に落ち着いて、何物にも代え難い安心感を与えてくれる。

ほんの数日前まで、男を視界にいれるのも嫌だと思っていたのに、人生とはわからないものだ。今は一人の男の事が頭から離れない。

夢でもいい、もっと一緒にいたいと願いつつ、シトリもまた眠りへとおちていった。

◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇

「聞こう」

アミュ・アデュレリアは机ごしに向かい合うように立っているカザヒナに発言を促した。

「試験開始から二週間がたちますが、例年通り、とくに目立った混乱もなく進行しております」

的外れな説明をする部下に対して、アミュは軽い苛立ちを覚えた。

「それはわかっておる。聞きたいのはあの青年についてじゃ」

試験開始前日に、偶然の出会いを経験したあのシュオウという青年。彼の所属した小隊は、たったの一週間で随行した平民全員を連れて帰るという快挙を成し遂げていた。その知らせを聞いたときには驚いたものだが、あの青年がいる小隊だと聞いたとき、浮き立つような不思議な気持ちを感じた。ちょうど、乗馬レースで応援していた者が勝利する、その瞬間に感じる優越感のようなものを。

「それが………」

カザヒナは言い淀む。

「言いにくい情報でも見つけたか」

「いえ、それならまだよかったのですが。影狼を使ったにもかかわらず、知人や出身、ムラクモへ来た経路などの一切の情報を得ることができませんでした。わかった事といえば、彼に仕事を紹介した王都のギルドくらいで、そこでも大した情報はなにひとつ……」

カザヒナが暗い表情で差し出した報告書は、ほとんど白紙の状態だった。

「ふむ……」

「申し訳ございません。あの青年の容姿、特にあの灰色の髪から北方の出身を疑いましたが、ターフェスタから最近ムラクモへ入国した者の中には、あの青年の容姿と合うような人間を見たという情報はありませんでした」

青年の灰色の髪は、ムラクモではめずらしい。

しかし、北方の国々では貴族、平民を問わず灰色の髪を持つ人間は多い。となれば、そこに出身地を予想するのは当然のことである。

ターフェスタ公国は東と北を繋ぐ入り口のような国だ。

他に道がないわけではないが、道幅が大きい事と、途中休憩に使えるような街や施設が充実していることから、東と北を行き来する人間のほとんどがターフェスタを経由する。

北方で灰色の髪はめずらしいものではないが、あの大きな黒い眼帯は、一目でわかるほど特徴的なので、その目撃情報が一切ないというのは気になる。

考え混んでいたアミュに、カザヒナが頭を下げた。

「この失態は、命令を受けた私にあります。どうか、調査にあたった影狼の者達には寛大なご処置を」

さっきから妙に神妙な態度だとは思っていたが、そんなことを心配していたようだ。

「気にするでない。あの者達が調べてこれなら、本当に情報がないのじゃろ」

影狼は、アデュレリア公爵家が私費で保有している諜報組織だ。

その主な仕事内容は情報収集だが、時には裏工作や汚れ仕事をさせる事もある。

構成員の多くは平民で、一部の貴族も秘密裏に所属している。偉そうにふんぞりかえっている家柄の良い輝士達よりよほど優秀な彼らが、白紙の報告書を提出したということは、これが答えなのだろう。

しかし、人が深界を渡るには、かならず白道を通らなければならない。

各国は他国との境界近くや、自国の領土内であっても、白道を行く者達を調べることができるように関所として砦や要塞を設けている。

それはもちろん、ムラクモも同様である。

その時の状況によりけりだが、彩石を持たない平民であれば、それほど厳重な取り調べを受けずとも通行料を払えば関所を通過することができる。

とはいっても、あれほど特徴的な容姿をしている青年を、誰も見ていないというのはおかしな話ではある。

「ありがとうございます。今のとは別に、アイセ・モートレッド准輝士首席候補生のほうから試験中の出来事をまとめた報告書を受け取っています」

渡された報告書の束に目を通す。

そこには試験開始から終わりまでにあった事が詳細に記載されていた。

中身はかなりわかりやすく書いてあるのだが、どうにもシュオウという青年について書いてある部分だけが、強く感情のこもったような内容になっている。

とくに最後の大型の狂鬼二体をたった一人で相手にしたというあたりまでくると、物語や詩のような表現が増えて、青年がまるで白馬に乗った王子様であるかのごとく描写されている。これを書いた准輝士候補生の気持ちが透けてみえるようで、おもわず吹き出しそうになってしまった。

報告書の最後には、ムラクモが青年を雇い入れることで得られる利を、びっしりと文字を敷き詰めて訴えている。

「お前は読んだのか?」

「はい、すでに何度か」

「ふむ。色々と気になることはあるが、最初に食料の大半を捨てていったというのは、剛胆じゃな」

報告書には、青年の提案で開始早々に米をすべて捨てていったとある。

この試験で食料として重たい米袋を持たせるのは、輝士の卵である生徒達の思考の柔軟さを見るためのものだ、と聞かされている。

過去にこの試験に合格した者の中には、米を五人分に分けて持ち運んだ生徒もいたが、大半の生徒達は貴族特有の傲慢さが邪魔をして、自分達にまで負担がおよばないように、平民にだけ無理をさせる傾向が強い。

米を捨てさせた青年の言い分では、火の臭いが狂鬼を呼ぶから、とある。これはまったくその通りだ。

だが、火を使ったからといってかならずしも狂鬼に襲われるわけではない。状況は常に流動的で、風向き一つでも結果は変わる。

「火を使うことを警戒したことは理解できます。あえて重たい荷物を捨てて、進行速度を優先したというのも、選択としては十分に効果を期待できるものかと」

「うむ。じゃが、すべてを捨てていく事はなかった。深界では何があるかわからぬ。せめて一週間分でも分けて持っていけば、不測の事態にも備えられたはずじゃ。一指揮官としては、まだまだ頭が固く、安全性への配慮が足りない」

「閣下、お忘れのようですが、この小隊の隊長はアイセ准輝士候補生です」

「む……そうじゃった」

報告書を読んでいると、どうみても決定権を有していたのは平民である青年のほうで、いつのまにか隊の責任者という目で見てしまっていた。

アミュは報告書を読み進めながら、さらに続ける。

「途中、別の小隊が見捨てた怪我人を一人拾っているな。これは軽率な行動じゃ。少ない手持ちの食料で、すぐに森を抜けられる確たる根拠がないにもかかわらず、食べ物を必要とする人間を無計画に増やすような行動は控えるべきじゃった」

「彼は正規の軍人というわけではなく、歳もまだ若いですから。計算をして命を捨てていくというような割り切り方はできなかったのでしょう」

「であろうな。―――それにしても、森を抜ける直前での狂鬼二体を相手にしたという、この話だけは簡単には信じられぬ」

狂鬼という生き物は、人間にとっては天敵のような存在である。

人数を用意して準備を重ねてから狩る事もあるが、人間一人がおいそれと相手をできるようなものではない。

それも、シュオウという青年は彩石を持たない平民なのだ。

「私も、あれを見るまでは信じていませんでした」

カザヒナは部屋の隅に重ねて置いてあった、二つの大きな木箱を運んできた。

中身を確認すると、たっぷりと敷き詰められた藁束の上に、巨大な砕けた輝石が乗せられていた。

一つは暗い灰色。もう一つは濃い紺色をした輝石だ。

「灰色の輝石は、オウジグモと呼ばれる狂鬼の物で、もう一つのほうはソウガイキという狂鬼の物です。彼らが試験を終えて間もなく、回収させました」

砕けた輝石を集めてみると、どちらも中心に尖ったものを穿たれたような痕跡がある。

「これが証拠というわけじゃな………はじめて見たとき、並外れた運動神経をしているとは思ったが、ここまでとはな」

深界に詳しく、一人で大型狂鬼を倒せてしまうほどの腕と、輝士の放った晶気を躱してしまう身のこなし。

そして、その出自は不明。

なんにせよ、シュオウという青年が百年に一度出会えるかどうかの逸材であるのは間違いない。

この才能は種のようなもの。放っておいてもいずれどこかで芽吹くだろうが、それでは面白くない。

自分の手の中でたっぷりと水を与えて、いずれ花咲くその日まで見守りたいという気持ちが沸いてくる。

この種を誰よりも早く見つけた幸運に喜びつつも、頭の中にはわずかな不安もよぎる。

――もし咲いたのが手に負えないような花なら。

アミュは自分の右手をじっと見つめて、強く握りしめた。

「件の青年に会いにいくぞ」

「はい……ですがどのような用件でしょう」

「決まっておる。我が軍に勧誘するのじゃ」

アミュが言うと、カザヒナは目を見開いて聞き返した。

「勧誘、ですか。それは左硬軍にということでしょうか」

ムラクモ王国には大きく四つに分かれる軍がある。

一つは、国事を司る王轄府固有の兵力である〈近衛軍〉

アデュレリア公爵家が保有する、通称〈氷狼輝士団〉とも呼ばれる〈左硬軍〉

ムラクモに存在する燦光石の一つ《蛇紋石》のサーペンティア公爵家が保有する、通称〈風蛇輝士団〉とも呼ばれる〈右硬軍〉

最後に、治安維持を目的とした警備隊や、一般従士の多くが所属し、戦争時においては傭兵団を組み入れることになる〈第一軍〉

これら計四つの軍で、ムラクモは諸外国から領土を守ってきたのである。

「他になにがある」

「ですが、閣下は試験の内容に不満を述べておられたように思うのですが」

「不満ではない。報告内容を自分なりに評価したにすぎぬ。人間のすることである以上、完璧はありえぬからな。この者達が無事に試験を終えられたのは運によるところも大きい。じゃが、運を呼び寄せるのも、またその人間の行動力である。それに、我が何よりも件の青年を評価するのは、類い希な運動神経をしているからでも、狂鬼を一人で屠ることが出来るほどの腕があるからでもない」

カザヒナは軽く首を傾げて聞いた。

「では、なにを見込んで閣下自らが勧誘に向かうと?」

「人間性、といっても漠然としすぎているやもしれぬな。自尊心の塊のような貴族に対して、自分の意見を述べたばかりか、それを受け入れさせた。あげく、この報告書から見てもわかるように、随分と准輝士候補生に気に入られているようじゃ。人間は強い者に惹かれる。他者を魅了し、引っぱっていけるような人間を、我は欲する。この青年を、つまらぬ退治屋等にするのではなく、アデュレリアの重要な戦力となるような未来の将官候補として迎え入れるつもりじゃ」

「………そこまでの期待をかけておられるのであれば、異存はありません。では、これから会いに行くついでに彼の出自等についても直接本人から聞き出してみましょう」

「特殊な事情があるのだとしたら、強引に聞けば警戒心を持たれてしまう。軽い質問を投げてみて、まずは出方をうかがう。時間はいくらでもあるのじゃ。焦る必要はない」

カザヒナは恭しく一礼した。

「承知致しました」

「うむ。では、外出の支度をせよ。身分を隠していくので、市井の者達が着るような服と輝石を隠せそうな上着もな」

ドアをコンコンと叩く音がして、微睡みから意識が覚醒する。

閉めきったカーテンの隙間から漏れてくる光の加減で、時間はだいたい夕方頃だろうと予想する。

少し蒸し暑さを感じて、かけていた毛布を蹴ると、そこからでたホコリが漏れ入る光を浴びて砂塵のように空中に舞った。

「シュオ、起きてるっぽい?」

扉の向こうから聞こえたのはジロの声だった。

ジロはシュオウ、と最後まで言わず、シュオと短く自分を呼ぶ。

試験を終えて王都に戻ってから一週間。その間、疲労から夕食を食べる時以外ほとんど部屋で寝たまま一日をすごしていた。

途中、あれやこれやと贈り物を持って訪れるアイセとシトリ以外の仲間達は、自分に気を遣って夕食の時間以外はそっとしておいてくれる。

この時間にジロが呼びにきたということは、常ならざる事態と考えたほうがいいのだろう。

「今起きた」

ベッドに座ったまま、返事をする。

「シュオにお客さんっぽい。辛かったら帰ってもらうっぽいけど」

客、と聞いて不思議に思う。

アイセとシトリならこんな言い方はしない。では誰なのか。

シュオウには、自分を訪ねて来るような知人の心当たりはなかった。

「いや、大丈夫だ。こっちから会いにいく」

「一階で待ってるっぽい」

ジロの気配が遠ざかっていく。

誰かはわからないが、待たせるのも悪いと思い、寝起きのままに部屋を出た。

階段を下りると、一階の出入り口付近に佇む子供と大人の女の姿が見えた。二人とも、目深に薄茶色のフードをかぶっている。

二人に近づき、その顔を確認したシュオウは驚いた。

試験開始前日、柄の悪い三人の輝士達を叱りつけた、氷長石ことアデュレリア公爵とその付き人らしき女輝士が、そこにいた。

「あなた達は―――」

続きを言う前に、アデュレリア公爵が人差し指を口元に当てて、しーッと言った。

「正体を知られたくないのじゃ。そなたの部屋があるなら、そこへ案内してもらいたい」

「はあ……」

戸惑いながらも、シュオウは二階の自室へ二人を案内した。

ろくに掃除もしていない薄暗い部屋に二人を入れて、扉を閉める。

「這いつくばって、頭を下げるべきでしょうか」

「いらぬ。それに、そんな気はないと顔にかいてあるぞ」

なんら悪気をこめずに言ったつもりだったが、見た目はどこからどうみても少女であるアデュレリア公爵は、不機嫌そうな様子だった。

目の前にいる人物は、非常に希有な存在である燦光石の継承者で、軍のお偉方でもあり、王に次ぐ爵位を持つ大貴族でもある。

あまりにも自分とは世界の違いすぎる人間を相手にして、どのような態度をとるべきなのかが、まったくわからなかった。

シュオウの部屋には小さなテーブルと椅子がある。客人にそこへ座るように促して、自分はベッドの上に座った。

「それで……この訪問の理由を聞かせてもらえますか……アデュレリア公爵、様」

「この場ではアミュと呼ぶがよい。非公式の訪問じゃ」

目の前にいる少女は、長い薄紫色の髪、クリクリとした濃い紫色の大きな瞳。体は小柄で、ムラクモで師匠に拾われた頃のシュオウと同じくらいの背丈だ。小さなテーブルと椅子が、彼女が腰掛けているだけで大きく見えてしまうあたり、本当にどこからどう見ても子供である。

だが、この少女がただの小さな女の子ではないということは、手にある異様なほどの存在感を放つ藤色の輝石と、アミュの後ろで姿勢良く立っている女輝士が証明している。

女輝士の容姿は、目尻が少し垂れていて大人しそうな印象を受ける。二の腕くらいまである青が混ざった薄紫色の髪の先は、外側にくるんと跳ねている。女性の平均よりは少し高めな身長と、完璧なまでの姿勢の良さから、優秀な軍人としての雰囲気を漂わせていた。

思い出してみれば、この女輝士は初対面のときに三人の輝士達に怒鳴りつけていたので、その場面が強烈な印象として残っている。しかし、今は落ち着いた表情で静かに立っているだけで、顔には微笑をうかべていた。

女輝士と目があうと、なごやかな口調で話しかけてきた。

「会うのはこれで二度目になりますね。私の名前はカザヒナ、家名はアデュレリアです」

「アデュレリア……」

「アミュ様とは血族の関係にあたります」

「なるほど―――」

どうりで、と思う。

髪の質感や目の色、その他にも、アミュとカザヒナの見た目の共通点は多い。

「自分は、シュオウといいます」

シュオウも名乗ると、アミュがうんうんと二度頷いた。

「うむ。互いに自己紹介をしたところで、本題じゃ。実は、個人的にそなたに興味があってここへ来た。さしつかえがなければ、少し話をしたいのじゃ。よいか?」

「話すくらいなら、もちろん」

「うむ。しかし、ここはちと寒い。火を入れてはもらえぬか」

シュオウの部屋には備え付けの暖炉がある。

陽も徐々に落ちていっている時間で、いわれてみればたしかに少しだけひんやりとしている。

「下から種火をもらってきます」

「では、ついでに熱い飲み物をもらえると嬉しい」

アミュがそう言った後ろで、カザヒナもにっこり微笑んで人差し指を立てた。

「私もお願いします。ここに来るまでにすっかり冷えてしまって」

二人の要求に、あつかましい等とは思わなかった。

むしろ、親しい友の家に訪ねてきたような力の抜けた態度に好感を抱いたくらいだ。

シュオウは了解したことを伝え、二人を残して部屋を出た。

部屋を出て行ったシュオウを見送ったアミュは、早口でカザヒナに声をかけた。

「いまのうちじゃ、部屋の中を探るぞ」

「え? もしかしてそれを狙って彼に頼み事を……」

カザヒナがきょとんとして聞き返した。

「あたりまえじゃ。なんの考えもなしに、突然訪問しておいてあれこれ要求するものか」

家捜しをしたいわけではないが、これから軍へ勧誘するにあたって、少しでも情報が欲しい。

それがどんなに小さい事でも、人間を相手にするうえでは、次の扉を開くための鍵になることもある。

部屋の中を見回すと、窓際の椅子にかけられた黒い毛皮の外套が目にとまった。

手にとってみると、平民が持つものとは思えないほど良質だ。売り物なら相当に値の張る物だろう。

表面はしなやかで柔らかいのに、押せばしっかりとした弾力がある。いったいどんな動物から作ったものなのか、アミュの持つ知識では思い当たるものはなかった。

「外套、ですか。見るからに上質な素材で出来てますね」

「うむ。これほどの物を買って手に入れたとは考えにくい」

だからといって降って沸いてくるようなものでもなく、かならずこの毛皮の元となった動物を狩った者と、材料を加工した者がいるはずである。

あのシュオウという青年が作ったのだろうか。

これ以上の推理は無駄なことと判断し、アミュは別の手がかりを探した。

なにしろ時間はかぎられている。

「他にもっと何かないのか」

「あのう、ベッドの毛布の下に、こんなものが……」

カザヒナが照れた表情でさしだしたそれは、男物の下着だった。しかも、へなへなとくたびれていて、どう見ても使用済みだ。

「こ、こらッ、何を考えておるッ」

こんなものを直接目にする機会のほとんどないアミュは心底戸惑った。

恥ずかしいやら、興味があるやらでチラチラと下着に目がいってしまう。

「毛布をめくったとき、これが置いてあって、なぜだかそこから良い匂いが……」

カザヒナはおもむろに下着に鼻をつけて、くんくんと嗅ぎだした。

竜巻の如き勢いで下着の臭い成分を吸収したカザヒナは、普段見せたことのないほど艶っぽくうっとりとした表情で息を吐いた。

なんとなくの背徳感におそわれたアミュは、顔が熱くなっていくのを自覚していた。

「お前にそんな趣味があったとは……どうりで嫁のもらい手がないはずじゃ」

「ほっといてくださいッ。それに趣味じゃありません、こんなこと初めてなんですから」

「手慣れているように見えたがの」

「自分でも変なことをしているとは思うのですが、なんかこう、癖になる香りというか……アミュ様もいかがですか?」

そう言うと、カザヒナはまるで高貴なデザートでも捧げるかのような手つきで、シュオウの使用済み下着を粛々と差し出した。

馬鹿なことをするなと怒鳴りそうになりながらも、アミュは言葉を飲み込む。そのついでに湧いてきた唾液も飲み込んだ。

これまでの百年以上の人生のなかで、男の下着の匂いを嗅ぐ等といった、はしたない行為はしたことがない。カザヒナのうっとりとした表情を見ていると、そんなにかぐわしいものかと好奇心をそそられたが、どうにか堪える。これに手を出せば、これまで築いてきた威厳やその他の様々なものが崩壊してしまうのでは、と思ったからだ。

「いらぬ……自分一人で堪能するがよい」

「そうですか? それではお言葉に甘えてもう一嗅ぎ―――」

カザヒナは下着に顔を埋めるほどの勢いで匂いを嗅ぎはじめた。

一嗅ぎするごとに、はあはあと顔を赤くして蕩けた瞳で息を吐いている。

そんな姿を呆れながら見守っていたアミュは、自分の有能な部下の将来がふと心配になってきた。

「おい、それくらいにして―――」

そろそろ止めようかとしたその時、ガチャリと奥の扉が開く音が聞こえて、部屋の主が戻ってきた。

「宿の人が買い出しに行っていて、道具の用意にてまど―――」

ドアを開けたシュオウは、くたびれた下着の匂いを楽しんでいたカザヒナを凝視して固まった。それはもう見事に、糊で固めたかのようにぴくりとも動かない。

カザヒナも同様で、朱に染まっていた顔は血の気が引いて青ざめていた。

「あ、あああああのッ、これはち、ちが―――」

錯乱状態一歩手前のカザヒナの手から、下着がぽとりと床に落ちる。

変質者でも見るような目でカザヒナをじっとりと睨むシュオウと、平素みることもないくらい慌てふためいて言い訳を重ねるカザヒナの後ろで、アミュは密かに溜め息を落とした。

探りをいれるための貴重な時間を、部下の特殊な趣味を満たすために使ってしまった後悔に頭痛がしてくる。

しばらくして恐る恐る部屋に入ってきたシュオウは、暖炉に火を入れてから、慣れない手つきで茶を入れてくれた。

シュオウが運んできたのはアカ茶という飲み物で、アミュが好んで毎日飲んでいるものと同じだった。茶葉は西方のイベリス産の高級品で、品質は申し分ない。

飲み物を受け取る際、アミュへの態度は普通だったが、シュオウのカザヒナへの態度は明らかに取り繕っているのがわかる。カップを受け取るときに、カザヒナは羞恥心からずっと下を向きっぱなしで、シュオウはそんなカザヒナに同情するような生ぬるい視線を送っていた。

熱いアカ茶をフーフーと冷ましてから喉に流し込む。思っていた以上に体は冷えていたようで、五臓六腑に染み渡る美味さだった。

暖炉に火も入って、それなりに落ち着ける空間になってきたが、アミュは目的があってここに来ている。ほっと一息ついている暇などないのである。

「では、本題に入りたい」

アミュは椅子を移動させて座り直した。今はベッドに腰掛けるシュオウと向かい合う形になっている。

こちらの意気込みが伝わったのか、カザヒナの件で落ち着かない様子だったシュオウも、しっかりと背筋を伸ばして座り直した。

「どうぞ」

「そなたの参加した試験の目的を知っておるか」

「宝玉院という軍学校の、卒業試験だと聞いています」

「うむ、その通りじゃ。じゃが、もう一つ別の目的もある」

「試験に参加した平民を、従士として採用する、でしたか」

シュオウは、どこか揶揄するような口調で言ったが、それも無理はない。この試験は平民を従士として採用するというのが主目的ではなく、高額な報酬を餌にして、あくまで危険な試験を運用するための必要人員を確保するための方便であるとわかっているのだろう。

「端的に言う。そなたを従士長待遇で軍に迎えたいと思っている」

アミュの言葉に、シュオウのみならず、後ろで待機しているカザヒナも息を飲む気配が伝わってきた。コネも実績もない平民を、いきなり士官待遇で雇い入れるというのは、前例がないことだ。

軍の階級は、大きく二つに分かれている。平民である従士の階級と、貴族である輝士の階級がそれにあたる。

貴族の軍での階級には、さらに輝士と晶士の二つに分かれて存在し、以下の順で上にあがっていく。

〈候補生〉〈准輝士〉〈輝士〉〈硬輝士〉〈重輝士〉

〈候補生〉〈准晶士〉〈晶士〉〈硬晶士〉〈重晶士〉

貴族は軍学校を卒業後、自動的に士官となるため、原則として貴族の軍での階級に下士官は存在しない。

階級に硬、重という言葉がつくのは、力を増すほどに硬く重くなる輝石の性質からきている。

重輝士、重晶士より上の階級からは将官となり、〈准将〉〈重将〉〈元帥〉という順で階級が用意されている。

重将は、その国の歴史ある大貴族や王族などが世襲によって受け継ぐもので、通常、普通の輝士や晶士が望める出世の最高位は准将までである。

准将からは司令官としての役割を担うため、総じて准将から重将の階級にある者は将軍と呼ばれることが多い。

また、輝士は貴族にとって最下位の爵位でもあるため、晶士であろうとも、一般的には輝士と呼称されることが多い。

平民である従士の階級は以下の順で上がっていく。

〈見習い〉〈従士〉〈従士曹〉〈従士長〉〈百砂従士長〉〈千砂従士長〉〈砂将〉

従士曹、従士長の階級からは小隊ほどの人数をまとめる事となる。従士長から千砂従士長までは士官階級となる。

砂将は将官階級で、准将と同格だが、貴族を優遇する傾向が強いムラクモでは、今現在砂将の位を持つ軍人は一人もいない。

アミュとしては、用意できる最大の待遇を提案した。従士長ともなれば給料もそこそこいい。

それに、若い男であれば、一度は戦場で部下を指揮する事に憧れるものだ。

てっきりこの厚遇ぶりに歓喜して飛びついてくるものと思っていたのだが、その期待はたやすく崩れた。

「正直にいって、あまり興味がありません」

「……なぜか、聞いてもよいか」

「世界を、見て回りたいと思っています。この試験に参加したのも、そのための金を稼ぐためでした。自分を従士長に、という話はありがたいですが、受けることはできそうもありません」

シュオウはアミュを真っ直ぐ見据えて言った。それはとても真摯な態度で、断られたというのに好感すら抱く。

年長者として、若者が旅立ちを望んでいるのなら、それを引き留めるべきではない。

だが、ここで見逃してしまえば、いずれシュオウの才能を見いだす者はかならずどこかで現れる。それが自分ではないということが、アミュにはひたすら面白くない。大好きなオモチャを誰にも触られたくないという、一種の独占欲のような感情に囚われそうになる。

なので、一度断られたからといって、簡単にあきらめる気にはならなかった。口説き落とすためにも、なにか一点でいい、突破口になるものが欲しい。

相手は地位や金に執着しない。だからといって、欲しいものはかならずあるはず。世界を見たいと言っていたように、他にもこの青年の欲求があるとすれば、それを満たしてやることができる何かを、かならず提供できるはずである。

「そうか……ところで話は変わるが、そなた達の試験中にあった出来事については、こちらでもすでに把握しておる。色々と驚かされもしたが、大きな狂鬼二体をたった一人で片付けてしまったそうじゃな。たいしたものじゃ」

シュオウは軽く頷いた。

褒めたつもりだったが、その事でとくに自慢気にするわけでもなく、淡々としている。

普通ならこれだけの事を成せば自信過剰になったり、高く鼻を伸ばすものだ。とくに若い者には、調子に乗りやすいという特技がある。

だが、シュオウからは褒められて特に喜んでいる様子もなかった。

「報告書には、風変わりな武器を使っていた、とあった。先の尖った物だったとか。さしつかえがなければ、見せてはもらえぬか」

シュオウは快く了承した。

ベッドの脇に置いてあったベルトを持ってきて、白い棘のようなものを取り付けた武器を取り出す。

「針、といいます」

「ほう。これはめずらしい得物じゃな……」

受け取ると、思っていたよりもずっと軽い。作りも単純で、本当にこれで狂鬼の輝石を打ち砕いたのかと疑問が湧いてくる。

めずらしいものなので、カザヒナもこちらに身を乗り出して覗き込んでいた。

「この刃の部分はなんじゃ? 金属、ではないな、軽すぎる。……骨か」

針の刃の部分は、先にいくほど細く研磨されているようだ。形状は細長い円錐形である。

「コクテイ、という狂鬼の歯から作られています」

「コクテイ……はじめて聞く名じゃな。カザヒナ、お前は知っておるか?」

「いいえ、聞いた事がありません」

「黒くてデカイトカゲだと、師匠は言っていました。自分も見たことはありません」

「師匠、といったか。それは、そなたに狂鬼との戦い方を教えた人物か?」

「自分を拾って、育ててくれた人でもあります」

シュオウは孤児だったらしい。報告書には書いていなかった事だ。

「なるほど。さぞ優秀な人物だったのじゃろうな。弟子を見ればわかる」

シュオウは、いえ、と言って後ろ頭をかいた。表情には僅かに微笑みをうかべている。

その態度から、育ての親、そして師への愛情が深いと推察できる。口説き落とすための材料としてはまだ弱いが、心に留め置く価値はあるだろう。

「狂鬼を一人で相手にできるほどの腕前なら、さぞかし剣の腕も立つのであろう」

「いえ、剣は……ほとんど触ったこともありません」

「ほう、そなたの師匠殿からは教わらなかったのか?」

「針以外の武器の扱いは何一つ。棒きれを持っただけで怒られましたから」

なにかを思い出したのか、シュオウは視線を遠くへやって笑った。

しかし、これは意外なことだ。

大型狂鬼二体を倒したという報告を見たとき、あまり考えることもなく剣の腕も立つものと思っていた。この世界で武人にとっての剣の扱いは、基本中の基本である。もちろん腕の上下はあるが、ムラクモでは下っ端の従士ですらそこそこに剣は扱えるのだ。

思い出してみれば、はじめて会った時も帯剣していた様子はなかった。

この話題を続ければ、剣を使えないことを馬鹿にしているととられかねないと思い、アミュは話題を変えることにした。

「よければ、そなたの出身を知りたい。さきほど、拾われた、と言っていたが」

シュオウという青年の存在は、依然として謎めいている。狂鬼を相手に出来る腕前。それを教えた師の存在。なにか隠したい事があってもおかしくはない。答えを嫌がるようなら、この質問はすぐに取り下げるつもりでいた。

シュオウは少し間を置いて、じっくりと言葉を選んで言った。

「ムラクモです。物心ついた頃には、この王都に独りぼっちでした」

アミュは一瞬、言葉を失った。

「……ムラクモの、しかも王都の出とは」

アミュの背後で、カザヒナが、あらまあ、と驚きの声をあげた。

他国の出身を疑っていた相手が、自分達の国の出身者だったとは、なんとも滑稽な話だ。

「あるとき、偶然師匠に拾われて、それから遠くの、その…………田舎のほうで育てられました」

シュオウは場所を説明するのを渋っているようにみえる。師匠と呼ばれている人物は、もしかすると訳ありなのかもしれない。

詳しく問いただせば、せっかくの会話が絶たれてしまうかもしれない。アミュはあえてそのことには触れなかった。

「そうか。そなたの灰色の髪から、てっきり北方の生まれかと思っていたのじゃが」

「北には、自分と同じような髪をした人達が?」

「うむ。あちらではそれほどめずらしくなかろう。なにがあったのかはわからぬが、両親か、もしくは片親が北方人だったのかもしれぬな」

「そう、ですか……」

シュオウは黙り込んだ。

空気が重たくなってしまった。アミュは焦って次の話題を用意した。

「アイセ准輝士候補生は、そなたを随分と気に入っていたが、それほどの腕があるなら、試験中に他の人間達を疎ましくは思わなかったか?」

「最初の頃は、少し。ですが、今ではあの仲間達と共に試験を経験できてよかったと思っています」

シュオウが仲間について語った瞬間、表情がゆるみ、幼さをみせたのをアミュはめざとく見つけた。隙といってもいい。はじめてみせる油断した、年相応の男子の顔である。

――仲間、か。

「仲間は大切か?」

「そう、ですね」

「じゃが、その仲間達もそれぞれに生きる道が分かれてしまうぞ。試験が完全に終わり、報酬を受け取れば離ればなれになってしまう。寂しくはないか?」

「……少しは」

シュオウの表情が陰る。

仲間という言葉に関わる話になった途端、あきらかに感情が揺れ動いている。

突破口を見つけたかもしれない。そう思った。

「仲間とは不思議なもの。血は繋がっていないのに、苦難を共に乗り越えることで強い絆で結ばれる。軍で共に歩むこととなる同僚、部下、上官も同じことじゃ。皆、仲間であり戦友であり、そして家族になる」

「家族……」

「組織というものは、そこに所属している者達を絆という見えない糸で結ぶ役割をする。そなたがもし、仲間を欲するのであれば、我はその場を提供することができるぞ。もう一度問う、軍に入る気はないか。そなたは世界を見たいと言ったな。ムラクモも、そして軍隊も、世界の中の一つであることに違いはない。まずは手近なところから見て、知るのはどうじゃ。そなたがムラクモに残れば、喜ぶ者もおるじゃろう」

シュオウは沈黙して、深く考え込んだ。

悩んでいる。

これまでにない手応えを感じて、アミュはさらに攻勢にでた。

「今回の試験と同じように、軍に入れば友と呼べる者も増えよう。もし、入ってみて気に入らないと思ったなら、辞めるのはそなたの自由じゃ。無理に縛ろうとも思わぬ。どうじゃ」

シュオウはアミュの一言一言にしっかりと頷いて、答えを出した。

「…………経験をさせてもらえるというのなら、お願いします。自分が、一つ所に居続けることができる人間なのかは、まだわかりませんが」

「そうか、そうかッ。心配するな、我の下で働くかぎり、他国との関わりは嫌というほど経験することになる。そなたが望んでいた世界を見るという目的の一部もかなうに違いない。誘いを受けてくれたこと、嬉しく思うぞ」

アミュは立ち上がって、シュオウの手を取りブンブンと振り回した。

まるで子供のように無邪気に喜びを表現してしまったが、勧誘に成功したことが嬉しくて気持ちを抑えられないのだ。

これからどうするか、さっそく考えを巡らせる。

まず、周囲からあやしまれないように適当な出身地を用意してやるべきだろう。その点では、影狼を使えばたやすく実行できる。関所でシュオウの目撃情報が一切ない不自然さも、こちらで適当に目撃情報をでっちあげてやればすむことなので、万が一、王轄府などが探りを入れてきたとしても心配はいらない。

あとはそう、剣を使えないと言っていたので、師を与えてやるのがいいかもしれない。軍での剣の腕は、その人間の有能さを示す判断基準ともなる。そんな事で卑屈な思いはさせたくないので、一流の腕を持つ剣士を指導に当たらせるのがいいかもしれない。幸い、アミュの部下の中でもかなり剣の腕の立つ者がすぐ後ろにいる。シュオウの運動神経がずば抜けて優れていることは証明済みなので、さほど苦労もなくモノにしてしまうかもしれない。

アミュに手をふりまわされるシュオウは、少しだけ困った表情で微笑していた。

まずは入り口に立たせることには成功した。そこから先の事は、導く人間の資質も重要になってくる。つまりは自分だ。責任も感じるが、今は楽しみな感情のほうが圧倒的で、目の前の青年が、いずれはカザヒナと共に自分の右腕として実力を発揮してくれるのではないかと、期待は尽きなかった。

◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇

王都の北に〈スイレイ湖〉と呼ばれる湖がある。

春になると流れてくる山頂付近の雪解け水を、堤を設けて塞き止め量を調節している。この人工的に作り出した湖は、半透明の美しい青の水で満たされていて、湖の中心に用意された島には〈水晶宮〉という名の王宮がある。

水晶宮の外壁のほとんどは、切り出した夜光石で作られていて、夜になると周囲の湿気を吸収してぼんやりと光を放つこの王宮は、それを見た人々の間で光宮や青光宮とも呼ばれていた。高価な夜光石を採掘できる鉱山を、自国の領土に多く有しているムラクモ王国だからこそ出来る、贅沢な作りの建物だ。

水晶宮への道は、巨大な石造りの橋があり、たっぷりと余裕をもって設計された道幅のおかげで、たくさんの人々や物資が同時に往来しても窮屈さをまったく感じない。

橋を渡った先にある、三日月のような形をした美しい水晶宮を初めて見た者は、静かな青の湖を背負って建つその神秘的な姿に、うっとりと溜め息をもらすので、この橋を〈溜息橋〉とも呼ぶのである。

水晶宮内の中心奥にある水翼の間という名の謁見の広間に、多くの人間達が集まっていた。

広間には、白い柱が奥の玉座に向かって林立していて、柱の間には王家の紋章である翼蛇を金糸で刺繍した真っ青な大きな国旗が連続して吊られている。

室内の中心には水色の制服に身を包む宝玉院の生徒達が整然と隊列を組んで並んでいた。

中央で並ぶ生徒達の両側は、宝玉院の制服よりも濃い色の青の軍服を身に纏った輝士達が、規則正しく整列している。

ムラクモの軍服は、階級があがるほど青色が濃くなっていく。並んでいる輝士達の軍服の色は、玉座のある奥のほうへいくほど色が濃くなっていき、最も奥のほうにいる輝士達の軍服は、黒と見間違うほど濃い紺色をしていた。

試験が始まってから一ヶ月と十日の時が流れていた。

宝玉院の生徒達からは十一人の死者が出て、多くいた平民の参加者は、その数の七割もの大量の死者を出して、試験は幕を閉じた。

シュオウは今、試験の閉幕式と、宝玉院の卒業式、そして輝士の卵達が輝士爵を授かる叙爵式とをまとめて執り行う、めんどうな式に参加している。

宝玉院の生徒達はもちろん強制参加だが、共に深界を歩いた平民達は、式への参加は自由意思が尊重される。つまりは、来ても来なくてもどっちでもいい、ということである。

すでに報酬は受け取っているので、このような催しに執着する必要はないのだが、水晶宮の中を見ることができる絶好の機会でもあったので、ジロやクモカリ、ボルジも連れだって全員で参加していた。ちなみに、アイセとシトリの二人から、式を見に来てほしいと頼まれた、というのも理由の一つだ。

重たい太鼓の音が繰り返し鳴らされて、水翼の間は静まりかえる。

玉座の右横の青い袖幕から、一人の少女と、初老の男が現れた。

少女のほうは、シュオウも知る氷長石ことアデュレリア公爵である。もう一人、一緒に現れた男のほうは、初めて見る人物だ。

「サーペンティア公爵様ね。あれが《蛇紋石》よ。ムラクモでは吸血公の血星石、氷姫の氷長石と並ぶ、名高い燦光石の一つ。蛇紋石は風を自在に操る燦光石で、サーペンティア公爵は、別名〈風蛇公〉とも呼ばれているわ」

シュオウの横に立つクモカリが、まわりに聞こえないような小声でそう説明してくれた。

サーペンティア公爵の第一印象は、平凡、である。

立ち姿はどこか頼りなく、背筋もしんなりと曲がってみえる。おでこから頭の天辺まで禿げ上がった髪がどこか哀愁のようなものを誘い、黒くてテカテカとした高そうな軍服を着ていなければ、どこにでもいる街中のくたびれた中年、といった風貌だ。かといって人の良さそうな雰囲気は皆無で、蛇のように無機質な緑色の瞳がギョロギョロと忙しく動いていて、はっきり言って不気味である。

隣にいるアミュからは、幼くみえても権力者であることを納得させられてしまう気品がある。その横でおちつきなく目を動かしているサーペンティア公爵は、彼自身にとって、蛇紋石の継承者という看板は重荷ではないのだろうかと心配してしまうほどの小物臭が漂っていた。

氷長石、蛇紋石の両公爵は、シュオウから見て玉座の左側の少し後ろに位置を決めて立ったまま静止した。

太鼓の音が消えて、管楽器の甲高い音色がファンファーレを奏でた。

水翼の間にいる貴族達が、全員左手の甲を前にして、握った拳を胸の前にかざす、軍の敬礼の姿勢をとった。

まず現れたのは、体格の良い武人風の男。長い髪は白髪で、後ろで一本に束ねている。強面な顔には皺も目立つが、老人と呼ぶにはあまりに体格も姿勢も良い。黒の軍服には、はみ出してしまいそうなほどの数々の勲章が飾られていて、左肩から青いマントをたらしている。左手の甲には、血のように赤黒い色の輝石。

クモカリの説明を待たずに、咄嗟に理解する。

まちがいなく、この男こそが血星石の保有者。アイセの話していた、長くこのムラクモという国を支え続けているという傑物、グエン元帥であると。

次いで登場した人物を初めてみたとき、この場にいる者達全員の、息を飲む音が聞こえたような気がした。

「王女様よ。はじめて見たわ。綺麗ね…………」

女にはあまり興味を示さないクモカリも、我を忘れて見入っている。

クモカリの言った、綺麗、という言葉が耳にこびりついて離れなかった。

奥が透けてみえるのではと錯覚してしまうほど、絹糸のようにきめ細やかな黒髪は、膝に届きそうなほど真っ直ぐ長い。身に纏った純白のドレスに負けないくらいの白い肌。真蒼の輝石。すこし伏し目がちな蒼色の瞳は、かすかに潤んでいるようにも見える。なにより完璧なまでに整った眉目は、名だたる芸術家達ですら再現不可能なのでは、と思わせるほどの美しさだ。

若さから醸し出される儚さと、女としての色香が混在している。老若男女を問わず、皆が見とれてしまうのも無理はない。

初めて見る王族、サーサリア王女は、絶世の美女と呼ぶに値する女性であることは間違いなかった。

だが、シュオウは強烈な違和感も覚えていた。

――あれは、人間なのか。

この世に、完璧な人間など存在しない。

誰もがうらやむような容姿をした者でも、細かく見ていけばかならずどこかに欠点と呼べるものはある。

サーサリア王女には、少なくとも見た目の点では一切の歪みがない。

だが、彼女に対して抱く美しいという感情は、無機質な宝石を見て思う感想と同質のもののような気もするのだ。

シトリとは違った種類の無表情さで、蒼色のガラス玉のような瞳は虚ろだった。たったいまこの場でこれは人形でした、と言われても納得できる。それほどに、命の気配が感じられなかった。

サーサリア王女はゆっくりと玉座に腰掛ける。

前を歩いていたグエンは、サーサリア王女の少し後方に立ち、険しい顔で正面を見つめていた。

ムラクモ王国でも遙か高みに存在する四人の貴人が揃い踏みとなった。

式の最中にひざまずくことは禁じられているため、シュオウ達平民の参加者達も、皆立ち姿勢で見守っている。

試験前日の説明会のときに見た監督官が、生徒達の名前を呼び、卒業証書と正式に輝士爵を与える言葉が贈られていく。左胸に准輝士の階級章をつけられた生徒は、敬礼の姿勢をとりながら、王女に向けて一礼する。それを受け、サーサリア王女が軽く頷く。

それを人数分繰り返した後、最後に残されていたアイセとシトリの番がきた。

「いよいよね」

「ああ」

クモカリの表情が綻び、シュオウもつられて微笑んだ。

今年の試験での合格者は、アイセとシトリの二人だけ。二人は同小隊の所属だったので、つまりこの試験で合格条件を満たした小隊は、たった一つだけだったことになる。たしかに聞いていた通り、この試験の合格者という肩書きはそれなりに価値があるらしい。

二人の名前を呼んだのはサーサリア王女だった。見た目通りの美声は、すこしかすれていて力を感じない。だが、静寂が保たれた水翼の間では、よく響いて聞こえた。

呼ばれて、玉座の前まで歩み寄ったアイセとシトリは、片膝をついて左手を胸の上に置いた。

「アイセ・モートレッド准輝士候補生。シトリ・アウレール准晶士候補生。両者とも、過酷な試験で優良なる結果を出したこと、王家の者として誇りに思う。今後の忠誠に期待し、そなた達に剣と杖を贈る」

サーサリア王女は、グエンから複雑な文様が装飾された鞘に納られた剣を受け取り、それをアイセに手渡した。同様に、シトリには頭に大きな青い宝玉が埋め込まれた焦げ茶色の木製の杖が手渡される。この杖は、一点に力を集中することを特に必要とする晶士のための武器で、晶気を練り、溜め込むことを補助するらしいのだが、それにどれほどの効果があるのかは、シュオウにはわからない。

最後に王家の紋章が入ったマントが手渡され、二人は一礼して後ろへ下がった。

その後、サーサリア王女から死者への手向けの言葉が贈られ、全員で黙祷を捧げた。そして無事に帰還した者達をねぎらい、試験の終了が宣言され、水翼の間は人々の拍手で埋め尽くされた。

進行係から式の終わりが告げられて、サーサリア王女を先頭に、氷長石、蛇紋石、血星石の三人も退場していく。

静々と歩くサーサリア王女と、その後ろをついて歩くグエンを可能な限り観察しつつ、シュオウは彼らを見送った。

いつまでともわからないが、この国の軍に入ると決めた以上、国主の姿を目に焼き付けておくくらいのことは、しておくべきなのだろう。

◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇

「どういうことじゃッ!」

アミュの怒声に、カザヒナが肩をすくめた。

式への出席を終えた後、仕事場に戻ってきたアミュに届けられた一報は、我を忘れて怒鳴り声をあげてしまうほど不愉快なものだった。

王轄府からグエンの名義で届いた書簡には、シュオウという平民の人事については王轄府の管轄であり、左硬軍への入隊は認めない等といった文言が綴られていた。

「私も、すぐにグエン様の側近を通じて何度か理由を尋ねたのですが、王轄府の決定に口出しは無用、という回答を非公式にいただいてしまいました」

カザヒナの言葉を聞いて、アミュはさらに激高した。

「なぜじゃッ! なぜ平民一人の人事で口出しをする。この身は公爵であり、重将でもあるのじゃ。であるのに、なぜ人一人を我が軍に欲しいという要求が拒絶されるッ。ありえぬぞ!」

怒りにまかせて、大きな仕事机を両の手の拳で叩いた。

「ありえない、とおっしゃられるのであれば、閣下のようなお立場の方が、特定の人物を強く求める事自体がありえないことでは―――」

カザヒナが最後まで言い切る前に、アミュは強く睨みつけた。

「―――出過ぎたことを申しました」

「ふん、お前の言いたいこともわかる。それよりじゃ、シュオウを我が軍へ迎え入れるにはどうすればよい。何か手はないのか…………そうじゃ、提出させた軍への入隊希望届けを取り下げさせてから、我が個人的に雇い入れるというのは―――」

「それには賛成いたしかねます。彼の入隊希望届けは、すでに王轄府によって正式に受理されています。それに対して下手に横槍を入れれば、アデュレリアが王家に対してよくない感情を持っている、ともとられかねません」

「む……」

カザヒナの言うとおりだ。王轄府は王を頂点とした組織である。王のいない現状では、グエンが長としての役割を担っているが、王轄府へ異議を露わにするということは、結果的に王家への反逆と見られても文句はいえないのである。

「では、内々に異議申し立てをするのはどうじゃ。波風をたてたくないのは王轄府とて同じはず。非公式の抗議であれば、あちらもわざわざ表沙汰にすることはあるまい」

アデュレリアは、ムラクモの国力を大きく支える大貴族で、その名は他国まで知れ渡っている。自国に夜光石等の貴重な鉱物資源を多く抱えるムラクモは、長い歴史の中で、何度も他国の侵攻を受け、それをはねのけてきた。今現在も、国境沿いの情勢は常に不安定で、いつ何時戦争状態になったとしてもおかしくない。そんな状況で、王家とアデュレリア公爵家の関係が悪化している、などといった情報は、たとえ水一滴分ほどであっても漏らしたくないのが王轄府の本音だろう。

「それには強く反対いたします」

カザヒナの意外な返答に、アミュは目を丸くした。

「なぜじゃ」

「非公式にとはいえ、閣下の名前で平民である青年の人事権を求めたとなれば、かならずどこかからその情報が漏れ伝わります。そうなったとき、彼のムラクモでの生活が心配です。氷長石である閣下が熱望する才能、という話が一度でも広まってしまえば、いらぬ嫉妬も受けるかもしれません」

アミュは部下の言葉をよく噛み砕いたあと、溜め息を一つついた。

「手はないのか……あれほどの才能を、正当に評価してやれぬとは」

「彼の試験中での実績は、すでに王轄府も知るところのようで、グエン様の耳にも届いているとか。そのことが原因となってか、彼の階級が見習いを飛ばして正式な従士としての採用が決定しています。なんの後ろ盾もない平民の若者に与えられる待遇としては、十分破格であるかと」

「我なら従士長として迎えたものを……それに、なにより気にくわんのは、シュオウの任務地じゃ」

受け取った書簡に記載されていた、予定されているシュオウの任務地候補は、アベンチュリンとの国境沿いにある、中規模の砦である。国境沿いとはいえ、ムラクモよりもさらに東側に位置するアベンチュリンは、ムラクモのお情けで国としての形を保っている属国である。軍事力を含めた国力に乏しく、ムラクモが建国して間もなく、その軍門に下った弱小国家――このような重要性に乏しい場所へ送られるなど、軍人としては出世の道を絶たれたのと同じ事だ。

「今は様子見の姿勢を維持するのが賢明と考えます。運命が再び交差するようなことがあれば、我が軍へ迎える事ができる機会も訪れるかもしれません」

「運命、か……」

「閣下には、他に考えていただかなくてはならないことがたくさんあります。今はどうか、このことを胸の奥に……」

カザヒナは神妙な面持ちで頭を下げた。

「……わかっておる。じゃが、シュオウへ謝罪の文を書く時間くらいはもらうぞ。直接勧誘しておいてこのていたらく。本人に会って詫びたいが、今は情けなくて会わせる顔もない」

アミュは暗い顔で筆を取った。

シュオウ宛に、簡単な経緯の説明を書いていく最中に、不満が再燃してしまう。

たった一人の人間を、自分の軍へ入れることもできない事への怒りもある。だが、もっとも腑に落ちないのは、アミュの要請を強引につっぱねるグエンの態度だ。あげく、使える人材であるとわかっているにもかかわらず、平和な任務地に送って飼い殺すような真似をしようとしている。

――グエン殿は、いったいなにを考えておるのか。

◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇

水晶宮の長い廊下に、大股で歩く靴の音が響いている。

左右の壁には、水で満たされた青色のガラス瓶が埋め込まれ、そこに入れられた夜光石がガラス越しに夜の湖のような深く青い光を放ち、壁や床を照らしていた。

「グエン様」

人気のない廊下で、女の声がした。

「イザヤか」

グエンは副官の姿を認めると、ついてこい、という意思をこめて人差し指を振った。

少しだけ遅れてついてくるイザヤを、横目で見る。短くカットした茶色い髪。やや浅黒い肌。茶系色の輝石。どちらかといえば小柄で、少し手を伸ばせば大柄なグエンの手が頭にのってしまう。猫のようにくっきりとした目は、ほとんど瞬きもせずに前を見据えていた。よく見れば、目元に小さな小皺のような線がある。

――三十年、か。

過去、南方諸国との戦いの最中に、一時的に制圧した小さな街の領主館で、一人生き残ってしまった幼い女の子を拾い、イザヤと名付けて手元においた。なんの気まぐれだったのか、その後もグエンはイザヤに食べ物と教育を与えて育て、気がつけば重輝士として活躍するほどの人間に成長していた。

イザヤは知っている。このムラクモ王国という国が、自分の本当の家族を死の運命へ追いやった存在だと。しかし、それを知っても尚グエンを実の親のように慕い、国に尽くしているのだ。

人の命は短い。

こうして息をして歩いているだけで老いて朽ちていく。

いま後ろをついて歩いてきているイザヤも、そう長くないうちに死んでいくのだろう。

自分を残して。

だが、それを悲しいとは思わない。

大砂丘の如く長き時の中を生き続けているグエンの心は、とうに乾き、枯れ果てているのだから。

しかし、だからといって立ち止まることはできない。ただ一つの生きる目的を果たすまで、なにがあってもグエンは生にしがみつかなければならない。

「式中、なにかかわった事はあったか」

「いえ、これといっては。あえて申し上げるとすれば、左硬軍のカザヒナ重輝士より、シュオウという名の平民のことで、何度か問い合わせがありました」

「アデュレリアの小娘か……氷長石にせっつかれでもしたか。平民一人をそこまで欲しがるとはな」

「同行した准輝士候補生の報告書は読みました。事実であれば、かなりの手練れと思いますが」

かなり、などという言葉では足りないだろう。一人で狂鬼二体を冷静に処理してしまえる平民など、探して見つかるものではない。まずまちがいなく天賦の才にめぐまれた人間である。そのうえ、その腕か人柄のためか、自尊心の強い貴族の娘を虜にしている。他者を圧倒する実力、そして惹きつけるだけの魅力。どちらも備えているとすれば、それはいずれ人の上に立つ一角の人物になるのは間違いない。

「知っている。であるからこそ、無駄に氷長石にくれてやる必要もない」

「ですが、我らの手元に残したとしても、配置先があそこでは……対北方、南方の要塞にでも配置するのが妥当であると考えますが」

才に恵まれた若い男。すでにムラクモでも上位の権力者である氷長石が目を付けている。これ以上の活躍の場を与えれば、その名はどんどん売れていくはず。それはグエンの望むところではない。力のある者は、それが強ければ強いほど、たとえ一時は従順にみえたとしても、隠れて牙を磨き爪を研いでいるものだ。グエンは長く生きた時の中で、嫌と言うほどそれを学んでいる。

――この国に、英雄はいらない。

シュオウという青年はまだ若い。飼い慣らすことができる可能性もあるかもしれないが、それは確実ではなく、そんなことにかまけている余裕もない。

必要なのは無能でも従順な者達。自分の手の中で好きに転がせる駒以外は不要だと言い切れる。大国であるムラクモは、ただ一人の天才を探し頼らなければならないほど弱くはないのだ。

強引に追い払えば氷長石が拾うのは目に見えている。それでは意味がない。国と各領主達の力関係は絶妙なバランスを保っている。たかが一人の人間であれ、飛び抜けて有能な者が一領主につけば、その均衡はたやすく崩れ去ってしまうかもしれない。そうなれば、東方の安定は保たれなくなる。それがどんなに小さな種だっとしても、なにが芽吹くかもわからないようなものを捨て置くことはできない。

せいぜい平和な僻地で飼い殺し、退屈にまみれて、この国に失望して出て行ってくれればよし。他国で成り上がろうと、あとは好きにすればいい。強引に殺してしまうという手もあるが、そこまで強硬手段にでなければならないほどの人間ではない。すくなくとも今は。それに、氷長石に気取られれば面倒になる。グエン個人としては件の青年になんら恨みはないし、才ある人間は好ましく思っている。なにごとも穏便にすめば、それが最良である。

「すでに決定したこと」

短くそう言うと、イザヤは畏まった。

「失礼致しました……。閣下は、これからどちらへ」

「王女殿下の下へ行く。今日はひさかたぶりにお姿を見せられたとはいえ、諸侯らは直接の謁見を望んでいる。石の継承も、これ以上引き延ばせばろくでもない噂もたつだろう。――――他に報告がないのなら下がれ」

「はッ」

イザヤは敬礼して、その場に停止した。

グエンは副官に見送られながら、最上階へと続く階段を一段ずつ昇った。

天窓から入る薄雲に濁った月明かりだけが、ひんやりと冷たい部屋を照らしている。

乱暴に靴を脱ぎ捨てて、シルクのシーツで覆われた絢爛たるベッドに、逃げ込むようにして転がり込む。

花を焦がしたような甘苦い香りが、部屋に舞った。

部屋の入り口から人の気配がする。俯せに横になったまま、視線を送った先には、よく見知った男の姿があった。

「グエン、部屋に入るときは声くらいかけて」

白髪の大男。ムラクモの父と称され、今この場で床に根をはったように立ち尽くすこの男は、すでに五百年以上もの時を生きている化け物だ。生まれた頃から自分を知っているグエンは、幼い頃に両親を亡くした自分にとって、唯一の身内と呼んでもいいほどに関わりの深い人物でもあるが、昔から小言の多いグエンに対して、あまり良い感情を抱くことができずにいた。あたりまえの関係に例えるならば、小言が多く煩わしい祖父のようなものだ。

「殿下。せめて服を着替えてから横になったほうがよいのではありませんか」

「余計なこと。あのくだらない式に出てあげたのだから、これくらい見逃したらどうなの」

「……ムラクモの未来を担う若者達の門出となる大事な式です。次期国主である殿下が出席なさるのは、当然の義務でありましょう」

「その未来を担う若者を、毎年無駄に死なせているのは誰だったかしらね」

無茶な内容の試験を強行する、グエンに対しての皮肉を言った。

「………………」

効果はあった。グエンの小言を一時は封じることができたらしい。

次の発言を許す間をあたえず、サーサリアは呼び鈴を鳴らした。

すぐに、女官の一人が現れる。

「アレを」

これ以上の言葉など不要である。いつもの要求に、女官も黙って頭を下げた。

「待て」

グエンが女官の前に手を出して行く手を阻む。

「〈リュケインの花〉をまだ続けておられたのか」

「それが、なんだというの」

「あの花の煙は精神を強く蝕むのだと知っているはず。前回の忠告のとき、やめていただけると約束したのをお忘れではありますまいな」

「うるさいこと……。今日は人前に出て疲れたのだから、少しくらいいいでしょ―――さあ、はやく行きなさい」

足止めされている女官を睨みつけて促す。が、グエンはなおも外への通路を塞ぎにかかった。

「ならん」

グエンは女官を睨みつけ強く言った。

女官は怯えたように身を竦めて、足を止めてしまう。

サーサリアは、自分の命令を最優先に実行しない事に、しだいに苛立ちを感じ始めていた。

「なにをしているの、命令したのは私よ」

「で、ですが………」

女官は、グエンとサーサリアを見比べて、なおも動こうとしない。

「もうよい。私の命令が聞けない者に、ここにいる資格はないわ」

サーサリアは左手をかざして、晶気を構築した。

部屋の入り口に、濃厚な青霧が充満していく。

女官のすぐ側に立っていたグエンは、化け物じみた動作で霧の届かない部屋の隅まで退避した。

「クカッ………ガッ……ハッ………」

青霧の中に一人残された女官は、喉を押さえて地面に倒れた。悲痛にのたうちまわり、口からはだらしなく涎をたらしている。その姿があまりに情けなくて、サーサリアの顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

ムラクモ王家の者が使う毒の霧。この力をもって、ムラクモ建国女王は、当時はまだ一国家であり、互いに小競り合いを続けていたアデュレリアとサーペンティアを支配下においたと聞かされている。

王家の燦光石である天青石の継承をしていないにもかかわらず、生まれ持ってのこの力は、たやすく人を殺めてしまえる。

女官に吸わせたのは麻痺性の毒霧。肉体の自由を瞬時に奪い、呼吸する力すら徐々に奪っていく。地上で溺れるようにゆっくりと苦しんで死んでいくこの霧は、自分にさからった愚か者に与える死としては上等なものになるだろう。

「で、んか…………なに、とぞ………おゆる、しを……」

息をするだけでも精一杯のはずなのに、女官は出せる力を振り絞って命乞いをする。

「殿下、どうかそのくらいに」

「グエン、お前がいけないのよ。でも、そうね…………口出しをやめると約束するのなら、許してもよい」

グエンは沈黙したまま、ゆっくりと頭をさげた。

それを確認して、サーサリアは晶気を消した。

正常な呼吸を取り戻した女官は、激しく咳き込みながら体を起こした。

「これが最後。命令されたことを今すぐやりなさい」

脱兎の如く駆け出していった女官は、すぐにリュケインの花びらを詰めた袋と、道具一式を持って戻ってくる。小さなテーブルの上に置いた球根のような形をしたガラス瓶に花びらを入れ水を注ぐ。それを下から蝋燭の炎で炙り、徐々に熱されて出てきた花の煙をガラス瓶の先端に繋いだ管から、ゆっくりと吸い込む。

甘苦い花の香りが、口の中いっぱいに広がった。

目の前がぐらりと揺れるような感覚がして、ベッドの上に大の字で横たわる。

リュケインの花からでる煙には、多幸感を伴った強力な幻覚作用がある。高い依存性があり、使用者の多くは常習してしまう。煙の効果が持続している間は、幸せな妄想に頭が支配され、そこにないものが見えたり、聞こえるはずのない音が聞こえたりといった、幻覚、幻聴効果ももたらされる。

――忘れたい。なにもかも。

王家に生まれたこと。

一国を背負わなければいけないこと。

誰一人親しい者がいない孤独。

失望の眼差しで自分を見るグエン。

両親の死。

そして、あの時の、あの光景。

辛い現実など、消えて無くなればいい。

しだいに正気は失われていく。

煙の匂いが、心の奥底に沈殿した記憶を根こそぎに拾い集めていく。

まだ両親が生きていた頃。

幼かった自分の頭を優しくなでて、子守歌を歌ってくれた。

今だけは、あの頃と同じように無邪気に笑う事ができる。

「で――――し―――――か――――」

グエンが、何かを言っている。

――グエン……? この男は…………誰だっけ。

さっきまで話をしていた相手のことを思い出せない。

しかし、そんなことにもすぐに興味はなくなった。

天井に視線をうつすと、キラキラとした星粒たちが賑やかにダンスを披露していた。

その様子があまりに楽しそうで、サーサリアは天井に向けて手を伸ばした。

星粒たちはサーサリアの手に集まって、そこでまた楽しげに飛び跳ねて、喜ばせてくれる。

「ふふ」

理性的な思考は氷のように、少しずつとけていく。

ふらふらと定まらない視線を泳がせながら、サーサリアはわらった。

――ああ、きもちいい。