軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

出口を求めて

Ⅸ 出口を求めて

硬い岩肌を踏みならす靴音が小刻みに響く。

追われる者である二人の少女は、追跡者の正体もはっきりとしないまま、暗い迷路の中を逃げ惑っていた。

入り口と出口以外、密閉された路を照らす灯りは淡く発光する緑色の光のみ。しかし光源として晶気を用いるのは、あまりにも不確かで頼りない。渦巻く小さな緑の風を手のひらで踊らせるアズアは、足下を僅かばかり照らす程度の光を維持する事に、体力的な限界が近いことを悟っていた。

空いた手に握るユウヒナの手は汗ばみ、いまにも滑ってほどけてしまいそうだ。いつも冷淡で険悪な香りを漂わせていた彼女の表情も、今は怯えているせいか酷く幼く見える。それがまた、常ならざる異常事態に巻き込まれたのだという現実を強く裏付けていた。

ユウヒナが足をとられ地面に転がった。逃げる最中、握り通しだった手がほどけ、アズアは振り返って立ち止まる。

「にげ……なきゃ……」

アズアは絶え絶えにかすれた声をしぼりだした。

「だめ……もう」

肩を揺らして苦しそうに息をするユウヒナはへたり込んで動こうとはしない。

動かなければならない。逃げ続けなければならない。そう思いながらも、アズアもユウヒナの前に膝を折る。経験したこともないような疲労に、すでに心が立ち上がることを拒絶していたのだろう。

──もしかしたら。

それは、僅かに芽生えた希望的観測だった。

──あきらめたかも。

ここまで逃げる途中、追跡者の気配はいつのまにか感じられなくなっていた。

「もしかして、もう……」

言いかけたユウヒナの言葉を聞き、彼女も自分と同じ考えを持ったのだろうとアズアは思った。

しかし、来た路の奥から聞こえた異形の生物のつんざくような雄叫びが、そうした甘えた願望を無慈悲に打ち砕いたのだ。

立って走ることを促そうとしたアズアの言葉は途切れる。暗闇から這うように抜け出してきたソレが、細かく尖った歯が幾重にも並ぶ口を大きく開き、目の前に躍り出た。現れた異形の生物は強烈な殺意をもって身体を跳ね上がらせ、崩れるように倒れたままでいたユウヒナに襲いかかった。

「──ッ!?」

ユウヒナは反射的に身体を仰け反らせた。寸前までいた地面に、異形の生物の歯が食い込み、硬い岩肌を咬み砕く。

ユウヒナは咄嗟に手のひらを敵に向けて掲げ、初めて反撃に打って出る。アデュレリア一族の象徴たる氷結の晶気を用いて、地面から天上に向けて伸ばした尖った氷柱が、敵の身体に食い込んだ。

異形の生物が悲鳴をあげると、ユウヒナは立ち上がって硬直していたアズアの手を取り思いきり強く引き上げた。

「走って!」

返事をする間もなく、ユウヒナに手を引かれアズアは走り出した。

なんら法則なく、左右に分かれる道を選択するたび、ここが憎らしいほどただの迷路なのだということを痛感させられる。

化け物の気配が消え、心が若干の平静さを取り戻しつつあるアズアは、足を止めてユウヒナの背に問いかけた。

「ねえッ」

「……なに?」

振り返ることなく、微かに横目を向けるユウヒナの表情は暗い。

「さっき、あのままとどめをさせたんじゃ──いまならまだ──」

問いかけに、ユウヒナは握る手に力を込めた。

「だめ! 晶気を使ってみてわかった。私の力じゃアレに傷を負わせることはできても、命にはとどかない。今のうちに少しでも逃げないと」

「そう……そっか──」

ユウヒナに頷き返した途端、ふっとあたりが暗闇につつまれた。

息をのむような、か細い少女達の声が辺りに響く。

アズアは崩れるように両膝を落としていた。激しく咳き込み、嘔吐感と共にこみ上げてくるものを必死に喉の奥で押し止める。

「ちょっと、だいじょうぶなの?!」

肩をゆする手の感触と温かい息づかい。深層の闇のなか、わかるのはそれくらいだった。

「だめ……みたい。晶気、もう使えそうにない……」

根源の不確かな晶気という力は無尽蔵に湧きいずるものではない。人に与えられたその力は有限であり、一度に扱うことができる規模や時間は個人の資質に多大な影響を受ける。

可能なかぎり光源としていた晶気を持続させるため、極限まで力を押さえていたが、ここへきて自らに扱うことのできる力の範疇を超えてしまったのだ。すでに限界を超えて無茶を続けたためか、体中の神経が悲鳴をあげていた。

すべてをなげうって正気を捨ててしまいたい。なにを映すこともない暗闇の 隘路(あいろ) は、絶望に似た諦めの境地をアズアの心に生んだ。

「立ちなさい」

凜としたユウヒナの声が聞こえた。

「でも……もう、なにも見えないじゃない……」

アズアは身体の力をすべて抜いた。だが、ぐいと力強く二の腕を掴む感触がある。

「ばか、見えないからなに。こんな狭い路、壁に手をついていけば歩くくらいはできるでしょ! 立って──アズア!」

アズアは闇の中、唇を噛みしめた。震える膝を拳で叩き、ユウヒナの力を借りて、もう一度足を奮い立たせた。そのまま手を引かれ、路を行く。

「ねえ」

アズアは小さな声で聞いた。

「なに」

「私を置いていこうって、思わないの」

問いに、ユウヒナは場違いな笑いをこぼした。

「だって……私たちがやり合っていたの、有名じゃない」

「それが?」

「私だけ生きて帰ったら、きっとみんなこう思う、憎いサーペンティアだから置き去りにしてきたんだろうって……疑われることも的外れな陰口を言われることも、面倒なのよ、そういうの」

アズアは吹き出すように笑った。苛立ったようなユウヒナの問いが返ってくる。

「なに?」

「言いそうだと……そう思っただけ」

僅かな沈黙の後、ユウヒナの小さな笑い声が闇のなかで聞こえた。

「絶対に生きて帰るから」

言ったユウヒナの声は力強く、アズアにはそれが闇を照らす一条の閃光のように思えた。

「うん──」

握る手に力を込めると、応えるようにユウヒナも握る力を強めた。

「──ありがと、ユウヒナ」

「……この部屋、なんか臭うぞ」

迷宮のなかの小部屋になかで鼻を鳴らしたカデルは、異臭を感じて眉をひそめた。頭をよぎったのは、毒性のある気体でも漂っているのではないかという一抹の不安だ。

「臭うか?」

淡々と聞くシガに、ああと頷いて応えたカデルは、灯りを持って周囲を伺うアラタにも同意を求めた。

「お前もわかるだろ、この臭い」

アラタは神妙に頷き、くんくんと鼻を鳴らす。

「うん、どんどん強くなっていってる……なにかが腐ってるような」

「朝、ゆで卵を二十個食ったからな」

唐突に腹を撫でながらシガが言った。

カデルは強烈に嘔吐いてその場にへたりこんだ。

「冗談じゃないッ、こんな狭いところで放屁するなんて! うぉえ」

胸一杯に吸い込んだシガの屁を追い出そうと、カデルは必死に喉から息を吐き出した。隣で咳き込むアラタも、青ざめた虚ろな顔で鼻水を垂らし、苦悶の表情を浮かべている。

「へ、大げさなやつらだ」

小馬鹿にしたようなシガの言葉は、なぜか少し誇らしげな響きを含んでいた。

三人の男達は床を食い入るように観察した。馬殺しの犯人が残す痕跡は、しかし先へ行くほど薄くなっていて、暗がりでの判別は困難になっていた。

不意に、シガが腰を上げて耳に手を当てた。

「また聞こえる、女の悲鳴だ」

それを受け、カデルも耳の後ろに手のひらを広げてみるが、流れる風の音が強調されるのみだった。首を傾げていると、アラタが天井の一部を指さした。

「師匠、例のやつここを通ったのはまちがいないみたいですよ……ほら」

ランプに照らされた天井を見るに、アラタの言うとおり照りのある液体がこびりついていた。

カデルはあごに手を当てて気どった調子で分析する。

「どうやら犯人は上下の違いを苦にしないらしい。薄暗く不慣れな空間のなかで縦横無尽に暴れまわられたら脅威だぞ」

カデルの指摘に、シガが突如強烈な拳で空を突いた。生じた風圧が部屋を埋め、ゴウという重い音が鳴る。

「俺の拳は鉄鎧を破って中の骨ごと身体を貫ける。相手がなんだろうと、生きてるもんなら大差はねえ。やられる前に一撃で仕留めてやる」

普通なら盛った話だと笑い飛ばし、軽蔑の一瞥でも投げてやるところだが、このシガという男は本当にそれができるのだと、カデルは疑わなかった。彼は南方人であり、彼の地で彩石を有する褐色肌をした人間の多くは、筋力の強化という特異な性質を持つということは、よく知られていたからだ。

「それだけのことができて、どうしてあんな奴に雇われてるのか、理解に苦しむ」

日々思っていた事を口にするには、迷宮という非日常の中にいる今が絶好の機会だった。

カデルの問いに、シガは口を曲げ、小指で右耳を掻き始める。

「俺は、まあ傭兵みたいなもんだ。雇いたいと言われりゃ金をもらって仕事を引き受ける。極普通のことだろうが」

「だったら僕がお前を雇ってやる。あいつが提示した額の倍……いや、望むままに──」

遮るように、シガが手を振って泳がせた。

「やめろ、お前みたいな連中は腐るほど見てきた。大金をやるから側にこいだの、地位をやるから軍に入れだの。けッ、ほんの少しでも信用してみれば終いだ。連中、途端に手のひら返して俺の物をすべて奪おうとしやがる。うんざりなんだよ、てめえらみたいな口だけの人間と、そいつらを何度も信じて騙された自分にな」

背中を向けたシガに、カデルは精一杯の睨みをきかす。

「矛盾してるじゃないか。ならなぜあいつを雇い主にした。彩石もないただの平民なんだぞ」

シガはアゴを上げ唸った。

「あいつは俺からなにも奪おうとはしない。すくなくともいまんとこはな。金払いは悪いし、ジジイみたいな髪もむかつくが、そんなことはどうでもいいと思えるくらいには、今までで一番ましな雇い主なんだよ──ああくそ、余計な話だった」

シガは乱暴に足を踏みならし部屋を出て先へ進む。灯りを手に持つアラタが急いで後を追いかけた。

渋々最後尾を行くカデルは、未練たらたらでシガの大きな背を見つめていた。

人間性はともかく、シガは武人として見栄えのする男だった。腕前が並外れていることは身近で見てきてすでに把握しているし、目を合わせた人間が次の瞬間には地面に顔を落としているほどの堂々たる威圧感も兼ね備えている。側にはべらせる事が出来れば箔がつくというものだ。

幅のない路の途中、誰かの腹の音が鳴った。

腹を押さえて足を止めたシガは、憂鬱そうに肩を落とす。

「くそ、なにか食ってくればよかったぜ」

「朝から晩まであれだけの食事をしておいて……」

呆れ気味に言ったカデルを無視して、シガは鼻を鳴らし始める。

「におうぞ、食い物がある」

言ったシガに、アラタが反論した。

「あるわけないですよ、こんなところで」

しかし返事をすることもなく、シガはふらふらと水中を漂う水草のように奥へと歩を進めた。やがて分岐にさしかかるも、シガは迷うことなく左折する。

「おい、アレがどっちを行ったかもう少し調べるべきだッ」

無言のままシガはしゃがんだ。彼の視線の先には、朱い斑模様をつけた大きなキノコが密集して生えている。

「うまそうだッ」

シガはキノコを一つつまみ上げた。

「ちょッと!? 師匠、まさか食べる気じゃ──」

青ざめるアラタに、シガは尖った犬歯を剥き出して笑みをみせた。

「心配すんな、たしかケング茸とかいったっけな。光のない洞窟のなかによく生えるやつで、昔これの天日干ししたのを食った事があるが、うまかった」

アラタはシガからキノコを受け取ると、灯りを当ててまじまじと観察した。

カデルはそんなアラタの脇腹を小突き、小声で呼びかけた。

「おい、本当に大丈夫なのか。見るからに毒々しいぞ」

アラタは苦い顔で、

「正直、わからないんだ。食用のキノコに詳しいわけじゃないし、ただ……」

「ただ、なんだ」

「野生のキノコは、毒のあるものとそうでないもので見た目が似たようなものが多いから。だからこれが師匠の言う食用のものかどうか判断がつかない」

「だったら止めさせるべきじゃないか。動けなくなった大男を担いでここを歩くのなんて絶対に嫌だぞッ」

アラタも深く頷き、互いに顔を上げたそのときだった。

「……ん?」

ついさきほどまで地面に生えていたキノコが根こそぎ姿を消し、口の中を膨らませたシガが満足そうな顔でのんびりとアゴを揺らしていたのだ。

「師匠、まさか」

絶句するアラタの隣で、カデルは生唾を飲み下す。

「食ったのか、全部?」

シガは不快げに眉を顰め、喉を鳴らして口に含んでいたものを飲み込んだ。

「おまえらのは残ってねえからな」

ぽかんと口を開け、カデルは一言呟く。

「本物のばかだな」

シガは指を舐めつつ、目を細めた。

「このキノコに感謝しろ、腹の足しになって今は気分がいい。特別に暴言を許してやる」

恐る恐る、アラタがシガの顔を覗く。

「なんともない……ですか?」

シガはアラタの頭をはたいた。

「あるわけねえだろ、さっさと行くぞ」

ほどなくして、シガの様子がおかしくなった。

いさましく先頭をきっていた足は徐々に鈍くなり、今では最後尾を無言で付いてきているのがやっとの様子である。呼吸も整わず、時折苦しげなうめき声を絞り出す様は、だれがどう見ても正常ではない。原因があのキノコであることは、疑いようのない事実である。

「おい」

ひそひそ声でカデルはアラタを呼ぶ。

「わかってるよ」

アラタはカデルにうなずき返した。

「引き返すべきだ。考えてみろ、あの巨体だぞ、ここで倒れられたら入り口まで運ぶのは誰だ? 僕たちしかいないんだぞ?」

アラタの首筋に冷えた汗が伝った。

「そう……だね」

二人は足をとめ振り返る。

「師匠、いったん引き返しましょう。ほら、例の犯人の跡だってどんどん薄くなってて、途中からもうほとんど見えなくなってるし、今ならまだ来た道を辿ることも──」

だが、シガは足を止めることなく、虚ろな目で虚空を見つめたまま進み続ける。額に玉の汗を浮かべ、低く唸りながらぬらりと、足をひきずるように歩く様は不気味だった。

返事もなく一人で進んでいくシガの背を見つめながら、カデルがアラタに聞いた。

「どうする……?」

「どうするって、放ってはおけないよ」

眉根を下げつつ顔を見合わせて、結局二人はシガの後ろをついていくことにした。

のそのそと歩きながら、シガはふらついて壁に強く肩をぶつけた。

「大丈夫、ですか?」

心配してかけたアラタの声に返ってきたのは、あまりにも場違いな台詞だった。

「俺は、ひとりだ……」

「はあ? なにを言って──」

険のあるカデルの言葉を遮って、シガはぶつぶつと独り言を紡いでいく。

「過ぎ去りし時よ、お前が憎い……拾うことのできぬ思いを。戻ることを願っても、ひとに許されしは、ただ前を行くことだけ。願わくば、ほんの少しでいい、振り返ってお前に触れていたい……」

カデルが吹き出して笑った。

「もしかして詩を詠んだのか? あの粗野でバカなあんたが?」

「過去はどこまでも追ってくる。なのにそれに手を触れることはできねえんだ」

ぼそぼそと一人、おかしなことを呟くシガ。もはや会話が成立していなかった。

おびえた声で、アラタがシガを呼ぶ。

「師匠、帰りましょうよ……おかしいですよ、戻ってお医者にみてもらいましょうッ」

シガは足を止めた。ようやく言葉が届いたか、とアラタが胸をなで下ろしたのもつかの間。シガの頑強な右の拳が、狭い路の壁面を思い切り殴りつけた。でこぼことして補整もされていない壁を殴りつけたせいで、シガの拳の皮膚は痛々しく剥け、したたるように鮮血がこぼれ落ちていた。

「信じてたのに! どうしてだッ」

カデルがアラタの腕を引いた。

「もう正気じゃないぞ、こいつ」

アラタは後ずさりつつ同意する。

「あのキノコだよ……きっと、幻覚作用があるものだったんだ」

背後にいるせいもあって、シガの表情はアラタたちからは伺いようがない。だが、震える背中、血をこぼす拳からは明確な殺意が漂っていた。

身の危険を感じ、二人は一歩ずつ後ろへ下がる。

一人たたずむシガは、なおも誰にでもなく語り続ける。

「どうしてあいつを殺した!? 俺がてめえになにをしたッ、飢えの苦しみも知らない醜いブタがッ、百度てめえの肉を引きちぎったって何も変わりゃしねえ、あいつは戻らねえんだ!」

叫んで、シガが振り向いた。

滝のように汗をこぼした顔面に、血走って真っ赤に染まった眼を剥いて、猛獣のように尖った犬歯を露わに怒り猛ったシガの様相。それを見たカデルが無意識に小さく悲鳴をあげてしまったほど、ひとのものとは思えぬ形相である。

「鬼……」

アラタがつぶやいた。

血走ったシガの眼が、アラタを捉えた。

「ア・ザン、てめえそこにいたのか!」

シガの行動は早かった。飛び込むように踏みだし、巨体をいかしてかぶさるように拳を振りかぶる。その一挙手一投足を、アラタはなすすべなく呆然と見つめていた。

「アラタ!」

カデルがアラタの腰を引き引き倒す。寸前でシガの拳は空を切って壁面を打ち砕いた。

粉塵が舞い、岩壁が崩れおちる音が響く。

声を発する余裕すらなく、アラタとカデルは走って逃げた。

背後から半狂乱になったシガの声が轟く。怒り狂い、ア・ザンという名の誰かを口汚く罵っていた。

わけがわからぬまま、アラタたちは懸命に走り続ける。

立ち止まれば死ぬ。

──いや。

心中、アラタは言い直す。

──殺されるッ。

がっしりと手首をつかんだマニカの手を見て、シトリは深く嘆息した。

自身が引き込むはずだった迷宮への手引きは、すっかりマニカが主導者となって立場が逆転している。この老婆に端を発するここのところの不幸も、いよいよ極地に至ったのではないかと、思わずにはいられない。

迷宮に入ってから数度聞こえた少女たちの悲鳴も、今はなにも聞こえない。そうなってからいくらか時がすぎていた。背後から時折見えるマニカの表情には、はっきりと焦りの色が浮かんでいる。

突如、獣の咆哮のようなものが迷宮のなかに轟き、反響した。

不意に、シトリの頭のなかで、深界の森で遭遇した紅の狂鬼の姿がよぎる。通り過ぎたはずの恐怖心がよみがえり、身震いして足を止めた。

「あなたッ」

マニカは声を荒げた。咄嗟にシトリが逃げ出すのでは、と危惧したのだろうが、その予想は間違ってはいない。

シトリはたくみに後退して、伸びてくるマニカの手から逃れた。

「ここ絶対におかしいって……こんな狭いところで突然変なのに襲いかかられたらどうするの? 私は急に力を使うこともできないんだから……そうだ、シュオウ、彼を呼んでくるッ、あの人なら絶対にうまく助けてくれるから」

背を向けて走りだそうとしたシトリの手を、マニカが再び強く掴んだ。

「いけませんッ、一時を争うときに離れるなんて許しませんよ」

「どうして!? 私なんているだけ意味ないじゃんッ」

必死の問いかけに、マニカはたじろいだ。

「それは……」

「彼に頼んだほうが絶対にいいよ。もう報告会からは戻っててもいい頃でしょ」

マニカは言葉を言いよどみ、気まずそうに下唇をかみしめる。その様子に、シトリは直感した。

「え、まさか……私を彼に会わせないようにして、るの……?」

返事はない。沈黙を是として、シトリは怒った。

「……なにそれ、信じられないッ。じゃあここのところ、私につきっきりだったのって……」

はずしていた視線を戻して、マニカは口元に力を込めた。

「あなたのため、ひいてはあの青年のためなのです」

シトリは怒りにまかせ、馬鹿力でマニカの手を振り払う。

「関係ないじゃん! あなたになんの権限があって私たちを引き離そうとするのッ」

マニカは若干気圧されつつ、相変わらず背筋をぴんと張って応じる。

「石の色をよく見てものを言いなさい──」

興奮状態のまま、シトリは言われた通り自身の水色の輝石を見た。

「──人の世界には明確な線引きがあるのです。輝石に色があることとないこと。これは変えようのない現実。下手なことがおこれば、あなたも彼も不幸になるだけなのよ」

シトリはマニカを睨みつけた。

「そんなのどうだっていい! 同じ人と人じゃないッ、愛し合うことだってできる、子供を持つことだってできる!」

マニカはしかし、加熱するシトリとは逆に徐々に温度を冷ましていく。

「身勝手な。場所を選ぶことができずに生まれてくる子供のことを一度でも考えていれば、でてこない言葉ですよ」

冷ややかに見つめられ、シトリは居心地の悪さを覚えた。

「しらないしらないしらないッ、どうでもいいでしょ。愛し合っていれば全部乗り越えられるもの」

「生まれおちた子が迫害され、その子に恨まれてもまだ自分を肯定できるかしら」

シトリは喉を鳴らした。反撃を望む心とは裏腹に、次ぐ言葉がでてこない。それはマニカが至極正論を吐いているからに他ならなかった。正しいという現実で武装された言葉、それを前にすれば、なにを言おうともただの妄言、戯れ言に堕ち果てる。

マニカはたたみかける。

「あなたの想いが真実であると、彼を見る目をみればすぐにわかりました。だからこそどうにかしなければと決意したのです。つらいでしょうけど心は捨てることも忘れることもできる。そうなさい、あの青年のためでもある」

「勝手に……決めないでよ……」

「心はね、想うことだけがすべてではないのよ。結ぶことなく終えることも、また同じ想いなのです。ときにそれは思いやりとも呼ばれます」

シトリは奥歯を食いしばり、出せるかぎりの叫びをあげた。

「勝手に決めないで!! みんな勝手なことばかり、昔から私にああしろこうしろ、するな見るな触るなって! どうして放っておいてくれないのッ、私は私、否定されても変えることができない私がいるの! あなたたちが求める決まった通りの生き方を否定はしない。けどいいじゃない! そんな風に生きてる人はたくさんいるでしょ。ただ一人の人間が好きに生きてはだめだなんておかしいじゃんッ。彼は──シュオウは特別な人なの! つまらない決まり事なんてきっと打ち破ってくれるッ、私たちはきっと幸せになれる!」

シトリはすべての想いを言い放ち、少しずつ後ずさる。無言のまま、マニカが手をさしのべた。

「もう放っておいて。私は思うまま生きる。ここの子たちのことなんてどうでもいいけど、助けは呼んでくるから。彼ならきっとうまく対処してくれる」

「お待ちなさ──」

マニカは呼び止める声を途中で止めた。不自然な態度にシトリはおもわず彼女の様子をうかがっていた。

「なんです……この音……」

マニカは背後を振り返って耳を澄ませている。たしかに、地鳴りにも似た想像しい音が、路の先から聞こえてくるのだ。

奥を覗うマニカに倣い、シトリも背後からこっそりと先を見た。先の暗がりからうっすらと水色の制服を着た生徒二人が、こちらに向かって走ってくる姿がある。

「あなたたち──よかった、無事だったようですね」

マニカはほっとしている様子だが、シトリは疑問に思った。聞こえていた悲鳴は女生徒のものだったはず。

二人の男子生徒が近づくにつれ、なにか様子がおかしいことに気づく。二人とも必死の形相で無我夢中に疾走を続けているのだ。

「なに……」

マニカもまた彼らの異常な雰囲気に気づいたのか、身を堅くした。

互いの声が届く頃になって、前からくる男子生徒のうちの一人が手で払いのけるかのような仕草をした。

マニカ共々、シトリもまた首をかしげる。

もう一人の金髪の生徒が、声を荒げた。

「にげろッ!」

彼らの後方に、天井に頭がつきそうなくらいの大男が長い両手を突き出して向かってくる姿が見えた。悪鬼の如き形相で意味不明な罵詈雑言をわめき散らし、あきらかに正気を失っている様子である。

二人の男子生徒は猛烈な勢いでマニカたちの横を通り過ぎて行く。呆然と後に残されたシトリは、路の先から向かってくる巨体の男の姿を見て悲鳴をあげた。

「うそ──うそうそうそッ」

先に動き出したのはマニカだった。

「逃げますよ!」

先を行く男子生徒二人の背について、マニカとシトリは必死に走った。

状況を整理する間もなく、マニカが小さくこぼす。

「まったく──わけがわかりませんッ」

記憶にあるかぎりはじめて、シトリはマニカの言った言葉に強く同意した。

──無臭。

迷宮のなかで嗅いだ空気を、シュオウはそう表した。

臭いは生と死の営みによって生じるもの。天然の山のなかを貫くように設けられたここが、どのような経緯によって創り出されたものかは定かではないが、生物が好んで生息するような場所ではない、ということだけはわかる。

あえて臭いの根源を探るとすれば、それはどこからともなく流れてくる風であり、外気であろう。だがそれを正確に辿ることができるほど、人の臭覚は優れてはいない。

現在、この迷宮のなかには複数の人間と、そして得体の知れないなにかが居ると推察できる。シガは間違いなく、彼が取り巻きとしてつれているアラタもそう。そして何度か聞こえた女生徒らしき少女の悲鳴。聞き間違いでなければ、シトリによく似た女の声も混じっていた。

大声を出して何度か彼らに呼びかけてみたものの、反応は一度として返ってこない。おそらく複雑な構造をしている迷宮の造りのせいで、音の届き方が複雑なのだろう。

自分はいったいなにを追うべきか、とシュオウは考えた。

まずシガについての心配は不要だろう。彼は単純に腕っ節がたつ。自らの身を守ることはもちろん、連れの無事を守れるくらいの余裕もあるはずだ。

残すは女たちだが、彼女らについては情報が完全に不足している。そのため、皆が共にいるのか、それともちぐはぐに彷徨っているのかすら判断がつかなかった。

個々を追うにはあまりに効率が悪く、そして目的を定めぬままの行動は、結局なにひとつ手に入れることができないかもしれない。

シュオウは地面を凝視する。線を引いて痕跡を残しているナニカの跡も、先へ行くほどに徐々に薄くなっていた。時間経過によって乾きかけているのか、すでにしゃがみ込んで観察しなければわからないほどだ。

広げた地図に目を移す。古ぼけた紙は所々すり切れていて頼りないが、おおよその判断では、現在地は迷宮の中心付近。東西南北に縦横無尽にまがりくねって広がる迷宮はそれだけでうんざりするような構造をしているが、地図によればそれは地下深くまで伸びている。捜索範囲が下にまで及ぶとすれば、身一つでの完遂は難しくなるだろう。

──目標は。

追うべきは人ではなく、彼らをこの空間に引き寄せたナニカのほうだ。迷ったものを救出することはできても、命を失ったものを連れ戻す術はないのだから。

甲高い羽音が耳元をかすめた。反射的に、目の前を通り過ぎようとしていた一匹をそっと握り、拳の中に捕まえる。小さくつくった隙間から覗く姿は、なじみ深い小さな吸血虫だった。

──コキュ。

血にたかる習性をもつコキュという名の小さな虫。常人には目に捉えることも難しいそれを捕まえることができるのは、シュオウだからこその技能でもある。

「血を追ってきたのか」

そうだとすれば、これを活かさぬ手はない。

だがこの場合、コキュが目当てとしているのが誰の血であるか、までは考えない。だれのものにせよ、それは大きな手がかりとなる。

「行け──案内を頼む」

手のひらを開けるとコキュは飛び立ち、迷いなく飛翔した。

コキュの飛行速度は速く持久力にも優れている。後を追うにはほぼ全力で駆けなければならない。いくつもの角を曲がりながら、おおまかな現在地の把握にも努めなければならず、持ち込んだ夜光石のランプも水を溜め込んでいるせいで無駄に重い。

やがて、コキュは羽根の動きをゆるやかにし、徐々に速度を落としていった。目印としてここまできた個体が着地先として選んだのは、地面から不自然に生えた氷柱である。

明かりで照らすと、氷柱はじっとりと血に濡れ、尖った先には粘ついた生き物の体液のようなものがこびりついていた。

──氷の晶気、アデュレリア。

「ユウヒナ……?」

宝玉院には複数人のアデュレリアの血族者が在籍しているが、シュオウは自身の知る一人の少女の顔をまっさきに思い浮かべていた。

おそらく、なんらかの戦いがあったのであろうこの現場で、血の跡はさらに奥に向かって進んでいる。入り口から続いていた跡と同様、地面をこするように残された血のあとからして、これを流したものが人でないということだけはわかった。

コキュたちはすでにこの場の血溜まりに満足しているようで動こうとはしない。しるべとするにはすでに役立たずである。

シュオウは血でつけられた目立つ跡を追跡する。ナニカから逃げているダレカは、窮地に立たされている可能性が高い。

シュオウは全力で駆けだした。

直角の路を曲がり、二股の路を左に、また直角に右へと曲がり、長い通路をまっすぐに突き進む。

か細く、いまにも泣き出しそうな少女の声が聞こえた。瞬間、路の先にいた異形の生物の姿を確認し、シュオウは走ったまま腰の剣を抜きはなつ。逆手に握った柄を空中に放り出して持ち直し、そのまま前に向けて放り投げる。二度、三度と回転を続け剣の刃はソレに突き刺さった。ぬめった体から血が流れ、耳の奥をやぶるような強烈な悲鳴をあげる。

──浅い。

咄嗟のこと、やぶれかぶれの一撃は致命傷には足りない。剣の先がほんの少し肉を破っただけで、異形の生物はまだ喉を鳴らしてのたうちまわるだけの体力を残している。

シュオウは後ろ腰に差した針に手を伸ばす、が異形の生物は血を吹きこぼし、怯えたように身を縮め、壁をつたって天井を這った。蛇のように体をくねらせ、素早い動きでそのままシュオウの頭上を過ぎ、肉に食い込んでいた剣を地面に落として逃げていく。

──どうする。

追跡し仕留めるという判断に迷いが生じる。あの生き物に襲われていた者のことが気がかりだった。

シュオウは針から手を離し、奥の様子をうかがった。

「大丈夫か……?」

夜光石の明かりで照らす先には、二人の少女達がいた。どちらも顔見知りである、サーペンティアの娘アズアと、アデュレリアの娘ユウヒナである。

シュオウを見上げる二人の形相は、怯えた小動物のように生気を失っていた。

「おまえたち──」

言うや、二人はそれぞれシュオウの胸に飛び込んだ。背に手をまわし、服を強く掴んで、震える身体をこれでもかと押しつける。

死の恐怖を味わったであろう少女達の背に優しく触れる。

消え入りそうな泣き声が聞こえた。いがいにも、その声の主はユウヒナだった。

「大丈夫だ、もう心配は……いらな──い?」

跳ね上げた語尾に次はなく、シュオウは無言で耳をすませる。

不安げに二人の少女達が顔を上げた。シュオウは言葉だけで彼女たちに説明する。

「声が聞こえた」

ユウヒナが肩を震わせる。鼻をすすって、アズアが聞いた。

「こえ? どんな……」

「さあ、化け物じみた……雄叫びのような」

引きつったように息を吸い込んだ二人の少女に、シュオウは怖がらせたことを後悔した。

「気のせいかもしれない。風鳴りか、そうでなければ誰かひとの叫び声か──」

しかしこんどははっきりと叫び声が轟いた。疑いようもなく、それは二人の少女の耳に届いていた。

「これを」

シュオウは夜光石のランプをアズアに手渡した。

シュオウの服を強く握りしめる二人をそっと引き離し、床に放置していた剣を拾う。

不気味な叫び声と共に、何者かの気配が迫っているのが伝わってくる。

くるりと握る剣を回し、こびりついた血の滴を振り落とす。シュオウは身を低く、万全の状態で身構えた。

が、前方から姿を見せたのは、消えかかったランプを手に持ったアラタと、カデルの二人だった。別人のようにやつれた表情で、二人は一目散にこちらに駆けてくる。

「おい──」

呼び止めるまもなく、二人はシュオウ達の横を通過していく。その瞬間、アラタと目があった。声はない。しかし、口元を賢明に動かすアラタは、なにごとか伝えようと必死の形相をしていた。

わずか一瞬の出来事だったが、シュオウの眼は伸びゆく小川のせせらぎのごとく、ゆっくりとその光景を捉えていた。

アラタの口は短い単語を発しているように見える。一言ずつを眼で追って、シュオウは頭のなかでその声を想像した。

──にげ、ろ。

猛烈に走り抜ける二人の少年達。シュオウらが呆然とそれを見送ったのもつかの間、すぐに同じ路から誰かが駆けてくる気配が伝わってくる。あとに現れたのはマニカと、そしてシトリだった。

「シュオウ!?」

マニカに手をひかれていたシトリは、シュオウと目を合わすなり、その胸に飛び込んだ。

マニカはよれよれの状態で倒れ込み、ユウヒナとアズアが慌てて介抱のため駆け寄る。

抱きついたまま息を荒げるシトリは、断片的に情報を伝えた。

「来る──変態──でかいの──助けてッ」

「でかい、変態……?」

それはもはや考えるまでもなかった。飢えた熊のように喉を鳴らす声。輝士のたまご達が我を忘れて逃げ惑うほどの驚異。そして、ここへ入ったという情報を聞いたまま、いまだその姿を確認できていない人物。

「あいつ」

呼び声が届いたはずはない。だが、その男は姿を現した。縦に長い巨体をゆすり、のっしりと通路の奥から見せた顔に、ひとの持つ理性の光はかけらも残されてはいない。獣にすら及ばない堕ちた姿。なにが彼をこうさせたのか。あるいは、さきほど遭遇したモノの毒にでも犯されたのかもしれない。

シガは歯をむき出し、よだれでぬらした口元を猛烈に地面に向けて歪めた。怒っている。シュオウはそう直感する。

シュオウはシトリをゆっくりと押し離した。

「ユウヒナ」

呼ぶと、ユウヒナは目を合わせ頷いた。

「はい」

「マニカさんをつれて奥へ逃げろ。ここから先は出口が近い」

「でも──」

「おれも逃げる。だけど、足止めくらいはしないと──」

だが、聞いていたアズアが渋った。

「無茶です! 先生一人であんなのと……私もッ」

それを遮ったのはシトリだった。アズアの前に立ち、彼女の手首を掴む。シトリは振り返って、

「だいじょうぶ、なんだよね」

まっすぐシュオウを見つめ、そう言った。

シュオウは確信をこめて頷く。

ユウヒナを先頭に、女達は駆けだした。

足下にあるマニカが持っていたランプだけが、唯一の光源である。

シュオウは手首をまわし、首を左右に振って鳴らした。

「シガ……俺だ、シュオウだ。聞こえてない……よな」

シガは返事の代わりに両手で左右の岩壁を打ち砕いた。

剣を鞘にしまう。なにがあろうと、命を奪う選択だけは思い浮かばなかった。友と呼べるほどの親しい間柄ではないにせよ、彼はシュオウの都合によりここにきたのだ。同じ空気を吸って、寝て、日々を過ごしてきた仲間だ。

「こい」

シュオウは手をかいてシガを挑発した。

地響きのような叫びをあげ、シガが突進を開始する。

繰り出された拳による一撃は、シュオウの予想をはるかに凌駕する威力、早さを備えていた。以前に南の城塞で対した時とは比べものにならない。

──そうだよな。

シュオウはその眼にシガの一撃を捉えながら回避する。その最中、宝玉院へ来てからのシガの生活を思い起こしていた。

──あれだけ食って寝てれば。

肉を中心として栄養価の高い食事をたらふく食べ、夜は早く朝はゆっくりと睡眠時間も申し分なく、昼になれば訓練場でほどよく汗を流し、そうした日々は幽閉生活のうちに衰えていた身体をすっかり癒やしてしまったのだろう。

申し分のないシガの一発は空を貫く。くらえば死はもちろんのこと、身体は骨ごと破片となって吹き飛ぶだろう。だが、当たらなければないことと同じである。シュオウにとって、一点突破の威力を誇るシガは、相性の良い相手であることは変わらない。

瞬間、シュオウは前へ踏み込んでシガの顎を拳で打ち抜いた。以前に彼を仕留めた時とまったく同じ方法である。一撃で気絶させることを期待したが、結果は期待はずれにおわった。シガは一度はよろけながらも、後ろ足で踏ん張り大声を張り上げたのだ。

シュオウは唾を飲み、後ずさる。

得意とする技をきめ動きを封じたいところだが、シガはその点では非常に相性が悪い相手だ。人の域を超えた腕力は小細工をたやすくはねのけてしまうだろうし、致命傷を与えずに手加減して戦うには、分が悪すぎる。

シュオウはユウヒナ達を行かせた路へ向け走りだす。残された選択肢はもうそれだけだった。

ランプを拾う暇はなく、なにもみえない暗闇での撤退である。だが出口までの道のりは記憶にとどめてある。隘路であることが幸いし、道行きは壁伝いに手を触れていればどうにでもなる。

シガは怒り、訳のわからない言葉を吐きながら追ってくる。時折、ア・ザンと呼ぶ声が聞こえた。あのときの日々を、記憶のなかで思い返しているのかもしれない。

手からつたわりざらざらとした壁の感触を頼りにシュオウは走った。走って走って、先に青白い光を見つける。

──まだこんなところに。

シュオウは気色ばんだ。

先へ行かせたユウヒナ達一行は、しかしすっかり弱り切った老婆を連れているため、行動が遅れているようだった。

シュオウの気配に気づいた彼女たちに向けて、シュオウは叫んだ。

「逃げろ! まだきてるッ」

マニカは左右にアズア、ユウヒナから抱えられ、ランプを持ったシトリがその背を押す。だれも言葉を発しないまま、一行は暗い迷宮の路を走った。

最後の十字路にさしかかったとき、左の路に薄く光りが差しているのが見えた。直後、正面の路からアラタ達が走り込んでくる姿が見える。彼らはさきほどより濃厚に色あせた表情でこちら向かってくるが、その背後からは、シュオウが傷を負わせたあの生物が追ってきていた。シュオウは彼らに出口を示して指さした。

最後の直線に入る。全員が一団となって出口を目指した。進むほどに、外から漏れる明かりが増していく。

雨の臭いを含んだ風が通り抜けた。

背後を振り返ると、我を失ったシガと、得体の知れない生物が併走し、こちらに向かってきていた。直線では、彼らのほうが速度に優れている。しだいに距離が縮まり、シュオウは自身が犠牲となって足止めをするか考えた。その瞬間。

誰かが、どいて、と叫んだ。続いて逃げろ、という言葉も聞こえる。見れば、路の先に庭師の老人が一人静かにたたずんでいた。

必死に注意を促す声を無視して、老人は一つ夜鳥のような声で笑った。

老人は手を前に広げ、なにかを包み込むような仕草をとる。異様な行動に一同が疑問に思うまもなく、突如、路の一帯に青光りする分厚い水の膜が張り巡らされた。

力任せに走っていた一行は足を止めることもできず、水の膜の中に飛び込んで、両手足をばたつかせている。

シュオウはその直前で足をとめた。背後から来る脅威に対処すべく身構えるが、異形の生物とシガもまた、シュオウの横を素通りして水の中に飛び込んだ。

分厚い水の膜は即席の牢となって張り巡らされ、中にとらわれた者達は脱出する手段もなく意識を失っていく。シガもまた、必死に暴れた後事切れたかのように動きを止めた。

しかし、なかに入り込んでいた異形の生物だけは別だった。たくみに身体をくねらせて水から脱出し、再び迷宮の奥へと逃げ込もうとする。シュオウはそれが真横を通り過ぎようとした瞬間、腰に差していた針を抜いて、ぬめった身体を一突きにした。

針は堅い地面を穿ち、しっかりと固定されている。異形の生物は悲鳴をあげてのたうちまわり、やがて絶命してその動きを止めた。

張り巡らされていた水の膜が、はじけるような音と共に消失していく。びしょぬれで横たわる皆の奥で、腰に手を当ててたたずむ老人。彼はシュオウを見て自慢げに頬をあげた。

迷宮のなかをさまよい歩いていた面々が、医務室のベッドいっぱいに水揚げされた魚のように横たえられていた。

訓練場側からここまで、大勢の人手によって運び込まれた彼らを看た医者は、全員の無事を確認した後、薬の追加分を手配をするといって部屋を出た。残って気を失った者達の世話をすることになったシュオウは、同部屋でぽつんとたたずみ、腰をたたいているあの老人と二人きりになる。

「これ、返しておきます」

シュオウは胸の内に納めていた迷宮の地図を老人に返した。

「……どうして持っているとわかったのかね」

地図を受け取りつつ、老人はちらと見上げてシュオウに問うた。

「だって──」

シュオウは皮肉っぽく眉を曲げた。

「──あなたは、ここの偉い人でしょう」

老人もまだ、しらじらしくとぼけた風をみせる。

「庭いじりばかりしていたこの老体のことを言っているのかね」

シュオウはそんな老人を鼻でわらった。

「ここの大人達はみな、あなたのことをちらちらと見るんですよ。生徒達がまるで意識している様子がないのに、おかしいでしょう」

この老人はただの庭仕事のために雇われた平民である。そう仮定すれば、生まれもった階級によって明確な線を引いている貴族の子供達が、彼を空気のように扱って生活しているのに、なんら矛盾はない。しかし、同様に生まれに恵まれた師官が庭師の老人の近くを通る際、みなが決まってこの老人のことを強く意識している、とシュオウは気づいたのだ。そして師官たちが老人を見る目には、一様に敬いや顔色を覗うような調子があり、一人静かに庭いじりをしているこの老人が、この宝玉院を運営する大人達よりもさらに上位にある存在であろうという予想をつけたのである。

だとすれば、あの迷宮を管理するための地図くらい持っていてもおかしくない、シュオウはそう予想し、そしてそれは間違っていなかった。

シュオウは獲物を袋小路に追い詰めた猫のような眼で、老人をじっと見つめた。

「ほーッほ──」

突如、老人は笑い出し、じっくりと深く首肯する。

「──老師ワナトキ・エイと申す。ここの院長の座をたまわって、かれこれ四十ほどの春を迎えたか……肩書きを捨てれば、ただの年寄りである」

おそらく色がついているであろう輝石を隠したまま、粗末な服装をしたワナトキは、そうと言われなければ民家の庭にしゃがんで庭仕事をしている市井の老人と違いはない。

ひとは生まれや現在の立場を外見によって示そうとする。だが貴族の軍学校を統括するほどの地位にあるこの老人には、そうした己を誇示しようとする意識のかけらも見いだすことはできない。

「あんなことができるなら──」

シュオウは抗議を述べようとして、しかし横たわるシガがうめき声を上げたため、彼の口元に吸い飲みをあてた。なかには毒抜きのために調合された薬草の煮汁が入っている。

「──はじめから、手伝ってくれてもよかったんじゃないですか」

ワナトキに向けてそう言うと、また笑い声が返ってきた。

「この身はすでに隠居をしておる。問題ごとに立ち向かうのは、その時代を生きる者の勤め。趣味の庭いじりをして死を待つだけの老骨のすべきことではない……とはいえ、結局手をだしてしまったのだから、あまり怒らんでもらえんかね」

皆の額においてある濡れ布巾を交換しつつ、シュオウは静かに応じる。

「怒ってなんかないですよ……ただ……」

世話を終えて振り返ると、老人が湯気のたつ茶を勧めてきた。

互いに椅子に腰を落ち着け、シュオウは熱い茶を喉の奥に流し込む。

「あそこは塞いでしまったほうがいい」

「迷宮のことかね」

シュオウは頷く。

「入ってみてわかったんです、あれはお遊びでつくられた場所じゃない。しるべもなく入り込んでしまえば二度と生きて出てこられないかもしれない」

あの迷宮は広く、そして深い。路は複雑に入り組んでいて、当然なかに入ってしまえば水や食料の確保も難しくなってしまう。子供たちがふらりと入り込んでしまえるような場所にしては、あまりにも危険度が高いのだ。

「あなたの立場なら、入り口と出口を封鎖するくらいできるはずですよね」

老人は、しかし開き直ったかのようにほくそ笑む。

「あえて開放しているのだとすれば、君はどう思う」

「馬鹿なことだとおもいます」

「ほーッほ、はっきりと言う」

ワナトキの態度が不真面目にみえ、シュオウは気を悪くした。

「ここは子供達を守り育てる場所でしょう? なのに身近なところに危険を放置しておくなんておかしいですよ」

「そう、我が宝玉院は子らを守りそして育む。そして教育課程を終えた途端、人知の及ばぬ未開の地へ放り出す……」

ワナトキは語尾を濁して愚痴るようにこぼした。

「卒業試験のこと、ですか」

「その通り、いくら子供達を万全の状態に育てあげたとしても、それは輝士という枠のなかでのこと。彼らは人の世においては優秀な戦士であるが、ひとたび深界という魔境に足を踏み入れれば、化け物達の餌へと成れ果てる。温室育ちの花は、野生に放たれた途端に枯れゆくのだ。毎年少なくない数の子供達が亡骸すら戻ることなくその生を終える。それが口惜しくてね、せめても子供達に知っておいてもらいたい、思い通りにならない世界があるのだということを。ゆえに、あの迷宮を塞ぐことはしない。少なくともこの目が黒いうちは、だがね」

シュオウは残った茶をすすって、聞いた。

「あの試験、廃止にすることはできないんですよね」

ワナトキは鷹揚に頷いた。

「神のご意志ゆえ、くつがえることはなかろう」

シュオウは首をかしげた。

「かみ? 東地に宗教はないと聞いています」

「いいや、この地にも神はれっきとして存在する。それは幾百年にわたりこのムラクモを見守り、民を慈しみ、王土を守護し、諸侯らを封じ、東地に平穏をもたらしている」

シュオウは、思わずその名を口にしていた。

「グエン」

老人はあごひげを撫でつけ、かすかに首を振った。

「あのお方は公平なる統治をされておる。民は民として命を紡ぎ、そして力を持って生まれた者には、逃れることのできぬ守護者としての役を与えた。膨大なる権力を手に入れてなお、私欲を捨てて国を安んじている。だれにでもできることではない。が、神の如き公平さゆえに、ときにその采配は死者の血よりも冷たく、無慈悲である。成人の儀式とはいえ、若者たちにむざむざ命を捨てさせるあの行いを廃止してはくださらん」

空になった茶器を手のひらに抱え、シュオウは視線を床におとす。

「なぜそこまで、あの試験方法にこだわるのかわかりません」

「そう、わからない……神のお考えは不明瞭なもの。雨が降ることも、雷が落ちることも、強風がふくことも、みな同じ。この世は人の手の及ばぬことのほうが多いのだ」

しかし、とワナトキは突然声を張った。

「だがね、神は奪うばかりではない、時に与えてもくださる」

生い茂った眉毛の奥からじっと見つめられ、シュオウは素っ頓狂に聞いた。

「俺、ですか?」

ワナトキは頷いて懐からなにかを取り出し、シュオウに差し出した。

「これは君の物だろう」

シュオウは思わず眼を見開き、ワナトキの差し出した物を受け取った。それはグエンから渡された翼章だった。

「たしか、無くしたことに気づいて、それから……」

シュオウは言葉を止める。これが無いことに気づいてからかなりの時間が過ぎていた。

「さきほど張った水を引いた後に、地面にこれが落ちていてね。あの中のだれかが持っていたのだろう。その様子からして、君はそれを探してはいなかったようだが」

「……無くしたことに気づいてはいたのに、いつのまにか忘れていました」

ワナトキは愉快そうに口元を曲げた。

「その翼章ひとつ、もらえるのなら命を捨ててもいいとすら考えている輝士もいるというのに。君はまるで道端の石ころのように言うのだな」

眼を細めてみる翼章は、埋め込まれた宝玉が美しく輝きを放っている。

「何度見ても、俺にとってはただのモノなんです」

そして、無造作に胸の内に翼章をしまい込む。

「神からの賜り物を、ただのモノとして片付けるとは……いやはや、やはり君はこの宝玉院に風を吹かせる者だ──いや、風そのものかもしれん」

「風……」

「そうだよ。この宝玉院に異色の師官がきたのは初めてだ。厳しい選抜も、卒業試験での結果からもすべてはずれ、君は神の采配によってここへ来た──まさに新風だ」

シュオウは自嘲した。

「することがなくて、ただいるだけの淀んだ風です」

「いいや、君という風はすでに外から新しい空気を運んできてくれた。いつも同じ日々が繰り返されてきた宝玉院の風景は大きく変わったよ。君の連れてきた南方人の彼も、世界が広いのだということを子供達に教えてくれている。君がここへ来て後、このワナトキが庭から見る風景は日々変化している、とても良い方向に」

シュオウは眉根をさげて、はっきりとしない返事をした。

「はあ……」

ワナトキはずいと席をシュオウに寄せる。

「ここに骨を埋めてはくれんか。お達しでは仮の配属だと聞かされてはいるが、ここの長として神に上申するだけの覚悟はあるのだが」

言われ、シュオウは上半身を引いて口をぽかんと開けた。言葉を返そうとして一度止め、唇の先を濡らす。

「……俺は、掛け合って、ここを出るつもりでした」

「……頼んでも、心はかわらんかね」

「むいてないんです、俺にできるのは誰かにものを教えることじゃなくて──」

指を差した先は、藁を敷いた大きな木箱に収めた、あの異形の生物である。

「君が優れた戦士であることは聞き及んでいる。だが惜しい……選ぶことのできる道は一つではないのだが」

すがるように言うワナトキに、シュオウはやわらかく微笑みを返した。

「気持ちに感謝します。だけど、心変わりはありません」

ワナトキはため息を落とし、とめどなく首を横に振った。

「これ以上は言うまい……」

ワナトキは立ち上がり、苦しそうな顔で眠りに入ったシガを見下ろした。

「彼も、きっと君と同じ事を言うのだろうね」

「さあ、俺にはこいつが何を考えているのかわかりません」

「この坊やはひどく傷を負っている。外ではなく身の内にだが」

シュオウはいぶかる。

「シガが、ですか……」

ワナトキはシガの胸の上に手をのせた。

「人は一面のものではないのだ。鼓動を続ける心の内に見えぬなにかを抱えている。彼は苦しんでいる。それがなにか知るよしはないが、失ったものを思い、心に空いた穴を埋めようとして食べることに逃げている」

「……ただの大食らいだと思いますよ」

ワナトキは小さく、そして静かに笑う。

「そうかもしれん。だが、この老体には山と積んだ食事を平らげる彼の姿が自分を痛めつけているように見えた」

シュオウはシガの寝顔を見つめた。迷宮のなかで見境なく暴れていた原因ははっきりとしないままだが、医者の見立てでは胃の中から出てきたキノコの残骸が根源であろうということだった。ワナトキが創り出した水のなかでおぼれたシガが、はき出した水と共に、それらはすべて身体から排出されている。身の内に取り込まれた毒にしても、おそらくは薬によってしのぐことができるという話だ。

ワナトキは幼い子にするように、まだ湿り気を帯びたシガの頭を撫で、視線を扉の側に置いてある木箱の中へと移した。

「ところで、これはなんだろうね」

手招きされ、シュオウも木箱をのぞき込んだ。

「どう見ても、山の生き物じゃないです」

「やっぱり、そうかね? ということは──」

シュオウは口元を引き結んで喉を鳴らした。

「狂鬼の幼生じゃないかと思います。腹のところに拳大の輝石が見えたので」

ワナトキはうなり声をあげた。

「なぜここに……成体が紛れ込んだのならいざしらず、子供だけが前触れもなく発生するというのもおかしな話だ」

「たしかに」

「君は深界学に通じているとあるお方から聞いている。この件の調査を頼めんだろうか」

「でも、王宮から派遣された調査員がいるでしょう」

「気にする必要はない、適材適所である……受けてくれるなら、君の転属について私がグエン様に掛け合ってもいい」

シュオウは途端、目を輝かせる。

「本当ですか」

「……神に、誓おう」

にたりと笑い、ワナトキは天井を指さして言った。

嬉々として部屋を出て行ったシュオウを見送り、ワナトキは重いため息を漏らす。

「残念でしたね、老師」

背後からの声に振り返ることはしない。聞き慣れたマニカの声だとすぐにわかったのだ。

「起きていたか」

マニカは苦しそうに咳き込んだ。

「まったく……あんな乱暴な助け方がありますか……」

ワナトキは苦笑いをする。

「咄嗟のことだったのでね。私だって、突然君たちが走り込んできて驚いたのだよ」

椅子に腰掛けて、がっくりと項垂れたワナトキに、マニカはそれ以上抗議を口にはしなかった。

「本当に彼の人事について掛け合うおつもりで?」

「若人に嘘はいわないよ。だが、せっかく吹いた風が、またどこかへいってしまう」

「それほど彼をお気に入りとは、意外でしたわ」

ワナトキはマニカには見えないよう、こっそりと唇を尖らせた。

「だって、あのお方直々の采配だよ。普通なら、ほんの少しでも奇抜な採用をしようものなら、うるさい諸侯の家々からの苦情でつぶされてしまうところを、あの彼の人事に関しては、誰の指示であるかを知った途端みなが口を噤むんだ。実に痛快じゃないか──なのにね……」

「お気持ちは察します、ですが彼もまた清廉な身の上ではありませんよ。氷狼の家が背後から糸を絡めている様子。考えなく触れるようなことがあれば、どのような災いをこうむることになるか」

「君は、ほっとしているようだね」

「私の手に負えるような相手ではないと、初対面の時からそう思いました。彼が南であげたという戦果、あなたもご存じのはずでしょう。人の業ではありませんわ」

ワナトキは首を振って、鼻から深い息を吐き出した。

「惜しい、ああ惜しい……もう少し早く、彼がここへ来てくれていたらと思わずにはおれん。だが悔やむのはこれで最後にしよう。あの若者がその道を歩んだからこそ、ほんの少しの触れ合いを得たのだから」

歩んだ道を戻ることはできないのだ。人の生は一方通行であり、だからこそ前へ進むために足を踏み出さなければならない。そして、かの若者が選んだ道は、ワナトキの望んだ先とは別のものだったということなのだ。

この宝玉院に在る迷宮は、世に憚る不安、危険の象徴である。ワナトキの思惑が、はたして恵まれた子供達の心にどれほど伝わっているかは不明だが、ワナトキは自身で強くそれを思い知らされていた。この世は、思うとおりにはならないのだということを。

宝玉院の迷宮を舞台とした一連の騒動から三日が過ぎた頃。学舎から遠ざけられていた生徒らも通常通りに登校し授業を受けるようになっていた。

廊下を行き交う生徒らが各々教室へ入る光景は、一時失われていた日常が戻ってきたのだということを匂わせる、だが各所に配置された見張りのための厳つい警備兵達の姿は、まだ事態が収束してはいないのだという事の象徴となっていた。

宝玉院の長から直々に調査の依頼を受けたシュオウは、すでに形骸化しつつあった師官としての役目を放棄し、単身で事件の発生源を追い求めていた。

だが手がかりは少ない。

まるで、あらかじめ境界を意識しているかのように、灰色の森に巣くう狂鬼は人界に入り込むことを滅多にしない。

みるからに未熟で、地面を這いつくばるばかりの件の狂鬼の幼生体がどこから入り込んだのか。それも、人家が密集している市街地ではなく、辺鄙な郊外に存在する宝玉院に現れたのだ。

把握しなければならない点がいくつかあった。進入路、個体数、そして目的である。

この場合、もっとも重要な点は侵入に使われた道筋と、そして数である。未だにあの狂鬼の幼生と同じ物が隠れているのであれば、それは見過ごすことのできない問題だ。

ワナトキに頼まれたその日のうちから、シュオウはまず狂鬼の進入路を探した。とくに怪しい迷宮は、単身で地図を借りて乗り込み、底に広がる古い下水道のなかまで調べたが、すでに崩壊して久しいそこに、外に通じる抜け穴は見つけることができなかった。

夜を迎え、生徒のいなくなった静かな宝玉院の廊下を歩き、自室へと引き上げる途中に、シュオウは狂鬼の進入路について考え、無意識のうちにうなり声をひねりだしていた。

自室の前で足を止め、鍵を差し込んだ時になり、ふと違和感に襲われ、硬直する。

──ん?

固まったまま、自らに問いかける。

──いま、なにが気になった。

思考にふけるシュオウは目を閉じて寸前まで流し見ていた光景を思い出す。

──なにかがあったんじゃない。

シュオウは首を振って廊下の隅を見やった。

「なくなってるんだ……」

それはアズアの空振りした努力によって生み出された、呪いを込めた水瓶だ。

ここを出入りしているものは限られる。廊下の掃除と洗濯の引き取りにくる給仕の人間と、隣の部屋で伸び伸びと生活しているシガである。

自室に鍵をさしたまま、シュオウはシガの部屋の戸を叩いた。

「なんだよ」

復調して医務室から自室に引き上げているシガは、回復したとはいえ数日満足な食事にありついていないせいで頬がやつれて見えた。

「廊下に水瓶があっただろ、どこへいったか知らないか」

シュオウの問いに、シガは猛烈にだるそうに眉をひそめる。

「水瓶だぁ? 知らねえよ。身体がだるいままなんだ、くだらねえことで呼びつけんな」

閉じかけた扉の隙間に、シュオウは素早く足を差し入れる。

「たしかにあった。数日置きっ放しにしていたからおまえも絶対に見てるはずなんだ」

にらみ付けて真剣であることを訴えると、シガは黒目を上に上げ、ああと声をあげた。

「あれなぁ……くさかったからアラタに言って捨てさせたんだった、忘れてたぜ」

さあっと、全身の血が降りていく。凍るように冷たくなった背筋を伸ばして、シュオウはアズアが呪いに用いた本のページを思い出していた。

「あの粒……たまご……」

目を泳がせてそう呟いたシュオウに、シガは屈んで顔をのぞき込んだ。

「お前も……キノコ食ったのか?」

シュオウは思い切り扉を押し閉める。顔をつきだしていたシガの鼻っ面を扉が強烈にたたきつけた。

痛みに悲鳴を上げ、怒鳴り声をあげて怒るシガの声を聞き流し、シュオウはとぼとぼと自室へ引き上げる。

思い返せばそう、あの狂鬼と初めて遭遇した際、襲われていたのはアズアと、そしてユウヒナだった。数多くいた生徒達のなかで、なぜあえてあの日の彼女たちを襲ったのか。その答えを得たのかもしれない。

──アズアの呪いは成功していた。

あの紙のなかに埋め込まれていた黒い粒が、狂鬼の卵だったとしたら。製本されてどれほどの年月がたったのかさだかではないが、狂鬼という人知を超越した化物であれば、長い年月の間、紙の中に封じられながらも、命の息吹を損なうことなく在り続けていたとしても不思議はない。

そう、無意味だとおもっていた呪いが、孵化のための儀式だったとすれば。それは、あの本に書かれていた内容に沿って対象者に由来する物を投じ、実際に誕生した狂鬼の幼生に襲わせるという単純明快な暗殺法だったのではないだろうか。

思い出す限り、ページにあった黒い粒は二つ。卵だとすれば孵化した狂鬼はあと一体いるはずである。

部屋に入り、シュオウは壁に預けてあったバ・リョウキの剣、岩縄をとった。抜いた刃に映る自らの顔を引き締め、奥歯を食いしばる。

──あいつに張り付く。

事の終わりを後味の悪いものにしてはいけないのだと、シュオウは強く決意した。

宝玉院のあちこちから聞こえてくるその名が耳に届くたび、カデルは面白くないとばかりに猛烈に不機嫌顔をつくった。

「あーあ、すっかり人気者になっちゃって、あの灰色髪の剣士」

そうなのだ。リックの言ったとおり、カデルも被害者の一人として数えられた迷宮での化物騒動からこっち、身一つで化物を仕留め、襲われていた生徒達を助け出したと噂になっている、あのシュオウという名の平民師官は、生徒達の間ですっかり賞賛と、それに付随する人気を獲得していた。

とくに幼年組と、そうではない女生徒たちの過熱ぶりは傍目に見ているだけで鬱陶しいくらいだった。やれ戦場で活躍しただの、王女を命がけで救い出しただのと、真偽不明の武勇伝までが流布し始めている。

「やっぱり、あいつに謝っておいたほうがいいんじゃないのか」

からかうようにリックから言われ、カデルは強く反発した。

「なんであんなやつに謝る必要がある!」

途端、リックは冷めた調子になる。

「なんでって、そりゃあいつの持ち物を無くしたまま、知らん顔で過ごしているからじゃないのか」

反論の言葉はでない。カデルは喉から空気だけを吐き出してそっぽを向いた。

シュオウの部屋に不法侵入したその日、不慮のことで彼の所有していた翼章を盗んだ形となってしまっていたのだ。機会をみてこっそり返したいなどと考えていた矢先に、カデルは制服の内にしまっていたそれを無くしてしまったのだ。

なにがあって、ムラクモという大国において最高位の勲章を持っていたかは定かではないが、末代にまで及ぶであろう名誉の象徴を盗み無くしてしまったという現実は、いまや重くのしかかっていた。

「この状況であいつが騒いでみろよ、化物退治したうえに生徒と主師を救った英雄様にみんな味方するぜ」

リックの言うとおりだとカデルは思った。だが年と共に肥大していった自尊心が、素直に謝罪するという選択肢を選ばせてはくれないのだ。カデルは一個の人間である前に、ミザントという歴史ある大家の名を背負っているのだから。

「あやまるものか……あやまらないぞッ」

そのカデルの一言は、悪友に向けてはいなかった。

リックは友の宣言を聞いて肩をあげる。

「勝手に部屋に入ったことを一言くらい詫びようかと思ってたけど、お前が行かないなら俺もいかないよ」

廊下を歩く最中、多くの生徒達の視線が一点に集まっていた。

「あれ、アデュレリアと──」

カデルは口をひらいたまま言葉を止める。

足を止めた二人の視線の先には、黒髪の女生徒と明るい緑の髪をした生徒が肩を並べて話に夢中になっている姿があった。

「サーペンティアの姫か……」

側にいれば互いののど元に剣を当て、離れていても共に相手の死を願う。ムラクモの名物ともいえる二大公爵家の不仲さは、国内外を問わず広く知られている。いま廊下で楽しげに会話をしている二人の少女達もまた、側に寄れば互いを牽制しあう姿を何度も見かけたものだ。

「最近、かわったよな、ここの空気」

ぽつりと呟いたリックに、カデルは反論する。

「あんなのが入り込んでいたんだ、当然だろう」

「いや、そうじゃなくてさ……まあいいや、行こうぜ。次は眼鏡熊の授業だろ、少しでも遅れたら説教だけで授業時間が終わっちまう」

駆け足気味に、前を行くアデュレリアとサーペンティアの娘達を追い越そうとしたその瞬間、どこからともなく得体の知れないナニカが這いずって少女達の背後に現れた。ぬめった皮膚はうねって鼓動し、蛇とも魚ともとれないような異様な頭を持ち上げて、黒髪のアデュレリアの姫に、それは襲いかからんとして蠢いている。

急な出来事に各所から悲鳴があがり、そして突如目の前に現れた化物に、カデルはリックと共に驚いて尻餅をついていた。

思わず、カデルは目の前の少女に向けて手を伸ばす。が、なにもかもが遅い。化物の頭は今まさに少女に向かって伸びている最中である。

初手で尻から転んだ時点で、少女を救うためにできたかもしれないあらゆる手段をすべて失ってしまったのだ。

次の瞬間に訪れる悲劇を思い、カデルは自身の無力さを悔いた。

だが、それは起こった。

悲劇などではない。突如天井から舞い降りてきたのは、歴然とした力だった。大きく無骨な剣を振りかざし、勢いままに化物の身体を貫き通す。動きを封じるのと同時に致命傷を与える見事な一撃。それをしてみせたのは、隻眼灰色髪の剣士シュオウだった。

一瞬、あまりに的確な一撃を放ったシュオウにカデルが言葉もなく目を奪われた。が、それもつかの間、シュオウはとどめをささんと突き刺した剣をぐりぐりと動かして化物の肉をえぐり出したのだ。痛みに苦しむ悲痛な人外の悲鳴があがり、そして傷口から盛大に吹き出した体液と血の雨が、すぐ側で尻餅をついたまま硬直していたカデルとリックに降り注いだ。

生暖かく、独特な臭気を発する液体を大量に浴びて、二人はぱちくりと瞬きを繰り返した。

化物の絶命を確認したシュオウは、肩に乗った埃をはたいたような手軽さで、二人の少女の無事を確認している。集まって彼に賞賛を浴びせる他の生徒達を無視して、シュオウは尻餅をついたまま、化物汁をいっぱいに浴びたカデルとリックに声をかけた。

「怪我はないな?」

問われた二人は、壊れたおもちゃのように何度も首を振って頷いた。

二人の少女と、大勢の観衆を背負ったまま、シュオウは報告にいくといって颯爽と去って行く。

剣を突き立てられて絶命した化物の姿がそこにある。

しつこくたかってくるコキュを払いながら、カデルは悪友のリックに言った。

「……あやまってくる」

リックは唇についた血をなめとり、肩を落として立ち上がった。

「おれも、いく……」

集まってきた警備兵たちの心配もよそに、カデルは友を連れ、シュオウの後を追った。