軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

蟻地獄

Ⅷ 蟻地獄

食卓に整然と並んだ朝食を前に、シトリはうんざりと肩を落とした。

寝癖もそのままで、とろんと濁った目はほとんど閉じている。呼吸すら面倒だった。おかまいなしに、やたらに凜として無遠慮な老婆が小言をこぼし始める。

「早くお食べなさい。午後から次期卒業試験総監督が視察にまいります。不手際がないよう午前中に手順の確認をしなければなりません。あなたにも手伝ってもらいますからね」

年寄り好みの茶色い蔦模様の暗い壁が覆う食堂には、ほとほと嫌気を感じていた。

流行の色も家具もなく、老人臭が漂ってきそうな重苦しい色の古い置物ばかり。働いている使用人の娘達もどこか覇気がなく、見目の華やかさに欠ける者ばかりだった。

──もういや。

シトリは膝に乗せた布巾をこっそりと握り、憎悪を込めて左右逆向きに絞った。

そもそも朝食をいただく習慣など持ち合わせていないのだ。朝はできるかぎり眠っていたいし、昼前頃に目を覚まし、そのままベッドの上でその日最初の食事をいただくのが理想なのである。

毎朝のように迎えにくるアイセにもまいっていたが、マニカのそれはうっとうしい世話焼きの元同級生の比ではなかった。朝起きるときから一日中、そして夜眠るときまで側にいて、食事作法、座り方、立ち方、話し方、着用する下着の種類にまで口を出してくる。

よくここまで他人に興味を持てるものだと、はじめの頃は関心する気持ちもあったが、それが二日、三日と過ぎていくうちに、シトリは自分が袋小路に入り込んでしまっているのではないか、という 逼迫(ひっぱく) した現実と向き合うはめになった。

一週間が過ぎ、二週間が過ぎてもマニカはシトリを解放しなかった。

絶え間なく雑用を押しつけられ、ようやく時間が空いたかとおもうと面倒な仕事を次から次へと命じられる。

ひさかたぶりに再会できた想い人とは、ろくに会話をする余裕すらなく、残酷に過ぎていく時を思うたび、シトリのなかで諸悪の根源への殺意が醸成されていったのは、ごく自然の成り行きだったのかもしれない。

年齢に相応しくない伸びた背筋で、すすっと上品にスープを運ぶマニカの姿を見て、シトリは閉じた口の中で歯ぎしりした。

──おばあめッ。

渾身の憎悪を込めてつけたあだ名は心の中で呟くのみ。

「わたし、もう帰りたい……」

シトリは何度も言った言葉をつぶやいた。

「帰りたいです──でしょう」

マニカは視線も合わさず、シトリの言葉遣いを訂正した。

ぴくとこめかみを震わせ、シトリは一縷の望みをかけておとなしく応じた。

「カエリタイデス」

しかし、返答は死の宣告より無慈悲なものだった。

「却下します」

「でも! パパとママもきっと心配してる……」

「あなたをいちから躾けるとお伝えしたら、アウレール子爵はそれはもうお喜びでした。娘をよろしく頼むとおっしゃって、頭までお下げに」

シトリは握る布巾を千切らんばかりに引っ張った。

「あのオヤジ……」

「おやめなさい、なんて言葉をッ──ほらみなさい、やはりあなたにはしっかりとした矯正が必要なのです。いま決めました、あなたの師官在任中は私が最後まで責任をもって面倒を見ます、あなたもそのつもりで覚悟を決めておしまいなさい」

シトリのなかで、なにかが音をたてて崩れ去った。

吹き出す溶岩のように激しい感情があふれ出す。それは殺意だった。

絞殺から刺殺、窒息や生き埋めなど残忍な殺害方法が浮かびあがる。が、シトリはすぐさま思いつきの悪感情を捨て去った。老い先短い老婆を殺め、罪人の座に堕ちることは本望ではない。結婚や恋愛といったおめでたい事柄は、罪人に享受する資格を与えてはいないのだから。

──おちつけ、わたし。

はき違えてはいけないのだ。望みは殺人ではなく解放されること。

だが、マニカという人間が言ったことを簡単に反故にするような相手ではない、ということをシトリは知っている。人の頑固さは、ときに堅固な要塞を攻略するよりも厄介なものである。

シトリの望みは、ひとの人生にずかずかと土足で踏み込んでくる口やかましい老婆の手から離れること。そして、受けた不快な思いと、失った思い人と過ごせるはずだった時間の分だけ、ほんのちょっと痛い思いをさせてやりたい、というささやかな復讐心である。

ごちゃごちゃと小言を続けるマニカの言葉を聞き流しながら、シトリは妄想の世界にふけった。想像の世界で小さく縮めたマニカを摘まみあげ、出口のない箱のなかに閉じ込める自分を妄想する。

──そっか、閉じこめよ。

ふと頭をよぎったのは、宝玉院のなかにある仄暗い迷宮だった。学生時代、自らもそこへ入った経験があるシトリには、なかがどれほど薄気味悪い環境かを身をもって知っている。もしも、マニカが迷宮のなかに一人取り残されたらどうなるだろうか。百戦錬磨の老師官とて一人の人間である。暗い迷宮の奥深くにひとりでいれば、心細くなるに違いない。

そして、そんな状況に自らを貶めた相手にうんざりとするはず。そうなれば、さすがのマニカも匙を投げるに違いない。

シトリの無表情な口元は、誰がみてもわからないほど、かすかに歪んでいた。

──おばあ置き去り作戦。

シトリは自らの計画の内容に添って安易な命名をした。

決行予定日は一週間後、その日は宝玉院で生徒を受け持つ師官達のほとんどが、定例の報告会に参加するため外に出る。シトリは現在生徒らの指導役から遠ざかっているため、その日はマニカと共に居残り組に指名されてはいるが、それがなにより好都合だった。

勢いよく朝食に手を伸ばした。給仕の娘達が意外そうに目を合わせるのを尻目に、がっついて食事を喉に通していく。

食事作法を注意するマニカを見つめ、シトリは目を細めて皺だらけの顔を見つめ、微笑を浮かべた。それは、マニカの元で生活をするようになって、初めて心の底から楽しいと思った瞬間であった。

「おい、ここ臭わないか」

自室の前にある廊下でふんふんと鼻を鳴らし、シガは不快そうに顔面を歪めた。

「そうですか? 別になんの臭いもしませんよ」

弟子のアラタは同様に鼻を鳴らすが、要領を得ないといった様子でからんと言った。

「いいや、間違いない。少し前から妙な臭いがすると思ってたが、日増しに臭気が濃くなってやがる。なにか腐ってるみたいな……俺は鼻には自信があるんだ」

「自分の体臭じゃ──」

シガはアラタの頭をげんこつで小突いた。

「──いたッ」

「勘違いじゃない、間違いなくここらだけ変な臭いが漂ってやがる」

どこかから入り込んだネズミの死骸でもあるのか。疑問と臭いへの不快感から、シガは周囲の調査を始めた。が、思いの外早く、その原因を発見する。

「なんだこれ……こんなものあったか?」

それは小さな水瓶だった。シュオウの部屋付近の角にひっそりと置かれていたそれを摘まみあげると、シガは嗅いだこともないような独特な臭気にむせ、顔を背けた。

「くっせえッ──おい、お前持ってろ」

「えッ、いやですよ!」

強引に突きつけると、それでもアラタは不満をこぼしつつ水瓶を受け取った。

「中身はなんだ」

シガが聞くと、アラタはおそるおそる水瓶の中を覗き込む。

「さあ、なんか黒い液体みたいなのが入ってます。たしかに変な臭いがするけど、そこまででもないですよ」

「おい、それ捨ててこい」

「でも、これあの人のじゃ。臭いがいやなら蓋でもしておけばいいじゃないですか」

「いいんだよ、どうせゴミだ。俺はな、きたねえもんが寝床の近くにあるのは嫌いなんだ。ほら、さっさといけ」

アラタはぶつぶつと文句を垂れるが、渋々とシガの指示に従った。師弟関係を結んでからこれまで、すっかり序列がすり込まれているため、シガの命令に対してアラタは大抵の事におとなしく従うようになっていた。

「じゃあ、水場に流してきます……」

よしよしと頷いて、シガは弟子を送り出した。

一週間後のこの日、ムラクモ王国の空は重たい暗雲が立ちこめ、日中からすでに夕暮れよりも暗かった。

古めかしい宝玉院の学舎で過ごす生徒らの表情は、一様に重苦しい。その原因は、鈍色の空だけが原因ではなかった。

生徒らの表情を暗くしているのは、ここ数日のうちにどこからともなく湧いてでてきた、ある噂話である。曰く、遅い時間に帰寮した女生徒が、外庭を歩いて寮へ向かう途中に、地を這う巨大な蛇かトカゲのような生き物を見たという。また曰く、昼食を広げていた生徒達が一瞬席を外した隙に、根こそぎ食い荒らされていたという話もある。

宝玉院の敷地内に、なにかがいる。

そう思わせるだけの決定的な根拠となる事件は一昨日、山向こうの訓練施設にある厩舎で起こった。学院が保有する良血統の老種牡馬、イデイユが変死を遂げたのだ。

イデイユはその日、午後の放牧から厩舎に戻され、平素と同じく厩番にブラシをかけられてから小屋で静かに夜の時間を迎えるはずだった。が、翌朝係の者が厩舎を開けると、眼を見開いたまま絶命しているイデイユの亡骸があったのだ。

前日まで、イデイユに死の兆候がなかったことは、複数人の証言がある。原因が病ではないことは、この件の調査に当たった者達の間で即座に確定事項となった。

ではなぜ。

まっさきに疑われた原因は人による犯行である。最後にイデイユを管理し、厩舎に鍵をかけた厩番に嫌疑がかかったが、その容疑は一日待たずして晴れることになる。

近衛から派遣された調査官がイデイユの死体をすみずみまで調べた結果、後ろ脚の飛節部分に小さな咬み痕のようなものを見つけたのだ。患部を切開して調べてみると、中の筋や骨といった組織のほとんどが、ドス黒く変色しており、あきらかに毒性を持った生き物によりつけられた傷であることが窺えたのである。

主師マニカの指示のもと、訓練場およびそこへ向かう途中の道はただちに封鎖され、生徒達にも気をつけるようにという漠然とした警告がだされた。

主師を筆頭とした責任ある立場にある者達は、おそらく毒蛇の一種が紛れ込んだのだろうという見解で一致していた。拓かれているとはいえ、ムラクモ王都は山中にある。残る自然もおおく、野生生物が人里に迷い込むことなど、さして珍しくなかったからだ。

「ま、毒蛇かなんかだろうけどな」

ここのところ話題を独占している、イデイユ変死事件にまつわる噂話に、カデルの悪友リックは推測で結論づけた。

「イデイユの体重を忘れたのか。あの老馬、大飯食らいの運動嫌いで巨牛並に太ってた。あれだけでかい馬体を一咬みで死に至らしめるなんて、相当な毒の持ち主だ。ここらで、そこまで危険な毒を持った蛇が生息しているという事実は確認されていないんだぞ」

反論したカデルに、リックは意外そうに首を曲げて聞いた。

「らしくないな、お前が本の中身を丸暗記したみたいなことを口走るなんて」

カデルは意味深な友の視線を流し、仏頂面をした。

「ある人間からの受け売りだ」

「それってアラタだよな。お前らすっかり──」

「うるさい」

いつもなら人だかりができる昼休みの中庭も、今はカデルとリック以外誰の姿もなかった。今日は師官達が報告会に出る日であり、午後から授業がない。生徒達は自習するか、早めに帰寮するかの選択権が与えられ、多くの生徒達は学舎に長居することを選ばなかったのだ。

小さなカゴ詰めの軽食もそこそこにしまって、カデルは立ち上がった。

「どこ行く気だよ」

「例の厩舎を調べに行く」

「封鎖されてるのにか」

「封鎖なんて名ばかりだ。四六時中だれかが見張ってるわけじゃない」

「……調べてどうする?」

「人間の仕業なら調査して捕まえてやる。そうじゃないなら退治する」

リックは座ったまま、友を見上げて呆れ気味にうわずった声をあげた。

「あのな、そもそも近衛から調査官が派遣されてきてるんだぞ。専門家を前にして俺たちひよっこに出番があると思ってるのか」

「その専門家とやらが調べたって、具体的になんの成果もあがってないじゃないか。暗くなるまえに寮に戻れだの、一人で行動するなだの、もっともらしい警告はするけど、どれも曖昧な対応策だ。要するになにもわかってないってことじゃないか」

カデルの言い分にリックは喉を鳴らした。

「まあ……な」

「だったら自分の手で原因を突き止めてやる」

「ははあ──」

リックはしたり顔で立ち上がり、カデルに嫌みな笑みをみせた。

「──わかったぜ。そうやって皆の不安を取り除き、一躍英雄になって、アラタにぼこられたせいで落とした評判を取り戻したい。そういうことなんだろ」

「うるさいッ」

リックは尻をはたき、昼食の最後の一口を放り込んだ。

「お前の折れた前歯に免じて俺も手伝うことにする」

カデルは背を向けたまま、こっそり横目で悪友を見やった。

「頼んだわけじゃないからな」

裏腹に、肩の力をそっと抜いた友の姿を見て、リックは微笑した。

「急ごうぜ、雨が降り出しそうだ」

見上げると、雲はより厚みを増していた。

人生とはおかしなものだと、不機嫌顔で後ろをついてくるユウヒナを見て、アズアはそう思った。

少し前まで、ユウヒナは天敵に等しい相手だった。家名を理由に難癖をつけられ、人目がない場所ではそれはより苛烈さを増し、この世からいなくなってしまえばいい、と本気で願ったことも数知れない。端正だが底のしれない獰猛さを隠し持った紫の瞳に見られるだけで、体が萎縮してしまっていた。

だが、そんなユウヒナは今、アズアの頼みを引き受けて、借りた本の山を返すための地味で疲れる手伝いをしている。

「ユウヒナさん、嫌々なのは重々承知ですけれど、落としたりしないでくださいね。私の名前で借りてるんだから」

顔が隠れるほど山積みにした本を担ぐユウヒナに、彼女の半分の量にも満たない本を運ぶアズアは涼しい口調で言い聞かせた。

「アズアさん……おぼえてなさいよ」

憎々しげに言ったユウヒナの言葉も、今は怖くない。

「弱みを握っている相手に言う言葉がそれ?」

本の山から半分だけ覗く顔は、猛烈に不機嫌さを湛えていた。

寮から図書室までは距離がある。普段なら小分けにして返却する本を一度に持ってきたのは、今まで被ってきた嫌がらせの数々へのささやかな意趣返しでもあった。

ゆっくりとした歩調で中庭にさしかかったとき、ユウヒナが本の山を床に降ろした。軽く息をきらせながら、額に溜まった玉の汗を拭う。

「もういい、やめるッ、こんなこと馬鹿みたい」

上目遣いに敵意の眼差しを向け、ユウヒナはじっとりとアズアを睨む。

「そ、好きにすれば。でも、明日にはここの人間全員があなたの弱みを握ることになるけど」

ユウヒナはかっとして歯を剥き出しにした。

「言えばいいでしょ!」

キバを剥く獣のような迫力を見せるユウヒナに思わず怯えを抱いたアズアは、悟られないようこっそりと唾を嚥下した。

震える声を必死に押さえ、アズアはひくことなく胸をはる。

「ほ、本当にいいの?」

「なにが」

「関わる人すべて、誰からも恨みをかってないって言い切れる?」

アズアの問いに、ユウヒナは唇を噛みしめる。

「ここの候補生達のことだけを言ってるんじゃない、給仕をする子達や料理をつくる人達、師官を含む大人達だってそう。いくら生まれに恵まれていたって、あなただって一人で生きているわけじゃない。不特定多数の人間達に弱点を知られることが、本当に平気だって言い切れる? これから先の候補生として過ごす時間だってまだたくさんあるのに」

ユウヒナは黙して語らない。しかしその視線はアズアからはずれ、徐々に下がっていく。

沈黙をやぶったのは、空から振ってきた一滴の雨だった。中庭のすみにある植木の葉を打ち鳴らし、追随するように雨粒が降りしきる。

「雨……」

庭を見て言うと、ユウヒナも庭を見て呟いた。

「雨なんて嫌い……」

「私は好き」

互いに顔を合わさぬまま庭先を見つめていた。

おもむろにユウヒナは立ち上がり、床に置いていた本を再び持ち上げた。

「……いいの?」

アズアは本の影に隠れたユウヒナを覗き込んでそう聞いた。

「言っておくけど、あなたの言うことを真に受けたわけじゃないから。私はひとの恨みなんて恐れない。でも、あの子達は別。妹たちには絶対に知られたくないから……」

「妹って、あなたの一族の子達?」

ユウヒナは頷く。

「軟弱な蛇の一族と私たちは違う。サーペンティアは弱者をなぶっていたぶるけど、アデュレリアは弱者を許さない。弱ければ同族であっても喉を食い破る。あの子達は私を敬うけれど、それはなににおいても私のほうが優れている年長者だから。もし小さな虫一匹に怯える姿を見られたら、途端に私を弱者と決めつけて、序列の底へ追いやろうとする」

「それを私に知られてもよかったの」

ユウヒナは鼻で笑う。

「いまさらじゃない、私は自分の生殺にかかわる秘密を知られた、それも……蛇の子に」

ユウヒナの物言いを大げさだと思いつつ、アズアはなにも言葉を返さなかった。ただ、ユウヒナに持たせていた本を数冊抜いて、手持ちへと移す。

隠れていた顔がすっかり露わになると、ユウヒナは正面を向いて眉をひそめる。その表情からしてまたなにか怒りだすのかと思ったが、少し様子がおかしかった。

ユウヒナどこにでもなく視線を固定し、突然ぴんと背筋を伸ばした。

「どうしたの?」

「いま、変な音がしたッ」

耳に手を当てて、アズアは周囲の音に集中した。

「べつに、雨音しか聞こえないけど。気のせいじゃ──」

ユウヒナは息を殺したまま、必死に反論する。

「ちがう! なにか、近くを通ったような音がした。人がだす音じゃない」

アズアはユウヒナの発言を訝った。

「怖がらせようとして、さっきの仕返しのつもり?」

ユウヒナは緊張した面持ちを崩すことなく、強く言い返す。

「ばかッ、もう忘れたの? 例の厩舎であったこと」

聞いて、アズアは背筋にぞくりと悪寒を感じた。

「え……うそ──」

そのとき、中庭の植木がごそりと揺れた。アズアはひきつったように小さく悲鳴を吐く。

無風の空から直下に舞い落ちる雨が、一段強さを増した気がした。

「猫じゃ……」

アズアの希望は、直後に裏切られる。揺れた植木のなかから甲高い咆哮が聞こえたのだ。

「いまのが、そう聞こえるなら耳のお医者にかかるべきね」

顔を向け合って硬直したまま、アズアは無言で首を横に振った。

雨音に混じって植木の枝が激しく揺れ動く音が鳴った。立ち位置から一部始終を観察できたアズアは、その姿を見て絶句する。太く長く、地を這って向かい出てきたその生物は、あきらかに人の世である上層界の生物とは異なっていた。手足のない身体でくねって移動する姿は蛇に似ているが、姿形はミミズと魚の合いの子のような不気味な姿をしている。全長は長身の大人の男と同じくらいか、それを上回るほど。

迫り来る異形の生物の姿を見たアズアは、手にしていた本を落として悲鳴をあげた。

ユウヒナは咄嗟に振り返り、体を震わせてすでに足下にまで迫りつつあった異形の生物の頭上に重たい本をどさどさと落とした。

狙ったことではなかったが、謎の生物は頭の上に重い本束の直撃を受け、その場でくねくねと体をひねらせ、悶絶する。

緊張したまま震えるユウヒナの手を引いて、アズアは夢中でその場から逃げ出した。

顔面蒼白のユウヒナを引っ張りながら、アズアの頭はこの事態を冷静に咀嚼することができずにいた。混乱したまま、しかしあの異形の生物は間違いなく殺意を持って姿を見せたことだけは、考えるまでもなく理解していた。

振り向くと、本の山から這い出してきたソレは、ぬめった体で跡を残しながら、うねる水面のような奇怪な動作で後を追ってきていた。

一番近くにあった部屋に逃げ込もうとして手をかける。しかし無情にも扉は開かず、手間取った分だけ異形の生物に距離を縮められてしまった。

──逃げなきゃ。

呼吸することも忘れ、アズアはある一画に目を向けた。それは、大口を開けて愚者を迎え入れる迷宮の入り口だった。

雨降る午後の宝玉院。シトリはマニカの手を引いて小走りに廊下を駆けていた。

「悲鳴が聞こえたって、本当なんでしょうね」

引きずられそうな勢いで体を傾けながら、マニカはシトリの後をついて走り、疑惑を込めた質問を投げかけた。

「ほんとだっていったじゃんッ、もうすんごい悲鳴だったんだから」

懸命に必死さを演技しながら言うが、シトリは顔を隠すため、振り返らなかった。数えきれないほどの経験を積んできた老師官に、嘘を見破られるのが怖かったのだ。

「同じ部屋にいたのに、私にだけ聞こえないなんて……」

シトリは口元を引きつらせた。

「耳が遠くなったんでしょ」

すぐさま小言が飛んできて、シトリは肩をすくめた。

作戦通り、シトリはマニカを迷宮の入り口までつれてくることに成功した。おばあ置き去り作戦遂行のための第一段階としてはまず順調である。次に、マニカを連れて迷宮の奥へ入る必要がある。

──そっか。

シトリは天啓の如くそれを閃いた。予定ではこのままマニカと共になかに入り、いるはずのない生徒を探すことになっているが、わざわざ自分がそこへついて行く必要もないはずだ。

シトリは廊下にかけてあるランプを手に取りマニカに渡した。

「はい」

マニカは訝りつつもそれを受け取る。そのままランプをかざして迷宮の入り口の奥をちらちらと伺った。

「ほんとう……なんでしょうね……」

「間違いないから。小さな女の子の声だった、きっと幼年組だとおもう」

「はあ──まったく、こんなものいつまでも放置しておくから──」

尻切れに、マニカは迷宮の中を覗いつつ小言を呟く。それを隙とみて、シトリはおそるおそる後ずさった。

「じゃあ、私は誰か見つけて助けを頼んでくる──」

言い終える前に、シトリは足を滑らせて思いきりすっころんだ。尻餅をついて腰をさすっていると、あきれ顔のマニカと目が合う。また小言をもらうかと身構えたが、マニカは表情を重くし、シトリに歩み寄って床を凝視した。

「なんです、これ」

マニカは床を人差し指で撫でた。すくい上げたそれを親指でこすると、ぬめぬめと粘った液体のようなものがついていた。瞬間、シトリは蒼白となる。

「うげ──」

いそいで立ち上がって打ち付けた部分に触れると、同様にぬめった得体の知れない液体が付着していた。

「──なにこれ、きも」

「言葉遣いッ」

マニカが律儀にシトリを叱ったその時、迷宮の奥から少女の悲鳴がこだまして聞こえた。

「本当だったのね」

マニカは頷いて納得した様子だが、シトリは真逆の態度をとった。

──うッそ。

まるっきりでっちあげた事だと思っていた事が、真実にすり替わってしまったのだ。

「なにか様子が変だわ。行きますよ、しゃんとなさい」

帯同することを求めたマニカの言葉を、シトリは一瞬理解するまでに時間を要した。

「……え?」

「え、じゃありません、早く!」

さきほどまでとは逆に、手を引かれてシトリは慌てて踏ん張る。

「ちょっと待って、誰か呼んだほうがいいって、そうだ私は残ってこのことを──」

聞く耳持たず、マニカはシトリを老人とは思えぬ力で強引に引きずった。

「探したって誰もいやしませんよ、今日は午後から授業がないので派遣されている警護官もいないんですから。あの叫び方、ただ入り込んで迷っているのとも違う。厩舎であった事と関係があるかもしれません。急がないと──もしもの事があったら一大事よッ」

迷宮の中へずいずい引きずられるシトリは、入り口の縁に指をかけて必死に抵抗した。マニカは片手にランプを持った状態で、それでも尚若いシトリの力を上回っていた。かけた指が一本、また一本とはずれ、シトリは聞く耳を捨てた老婆に深い闇の中へと引きずり込まれていった。

意気揚々と事件の捜査に乗り出したカデルとリックは、しかしもくろみからは大きくはずれ、大きな丸太を担いで訓練場から宝玉院学舎へ運ぶ羽目になっていた。

「なんでこんなこと、俺たちがしないといけないんだよッ」

どっしりと重たい丸太の端を担ぎながら坂を登るリックは、大声で不満を漏らした。

「知るッ──もんかッ」

同様に丸太を担ぐカデルは屈辱を耐えるような表情でそう返した。

リック、カデルの両名の頭には、さきほどまでなかったふくれたコブができている。それを残した張本人が、よく通る大きな声で活を入れた。

「喋るな阿呆ども! 足を動かせ、いいかッ絶対に落とすなよ!」

シガは言って、左手の平を拳で打ちつけて威圧した。

後ろを気まずそうについてくるアラタが、こっそりと丸太に手をかけたのを見つけ、シガは怒鳴った。

「おまえはいいんだ、勝手に触るな」

「でも……」

手ぶらでいることが気まずい様子で、アラタはちらちらと丸太をかつぐ二人を見やる。

「弟子ってのは、最初に入門したやつが上なんだよ。この阿呆どもにそれを教えてやってるんだ、おまえは黙って見てろ」

「俺はあんたの弟子になった覚えはないぞ!」

リックが憎々しげに言うと、シガは彼の後ろ頭をげんこつで小突いた。

「うるせえ、逆らうなら顔がわからなくなるまで殴るぞ」

暴君と化したシガに対し、実際にそれをする相手であると判断したのか、リックとカデルは力を込めて丸太を持ち直した。

「だいたい、なんでこんなものを学舎に持ち込むんだ」

汗だくになったカデルの問いに、シガは軽く受け答えた。

「訓練場が使えなくなってから暇だからな、いまのうちに俺専用のイスをつくるんだよ」

丸太を担ぐ二人はがっくりと肩を落として口々に抗議した。

「そんなもの──買えばいいじゃないか! なんなら家から僕が取り寄せてやるッ」

金満家な台詞を一蹴し、シガは言ったカデルの背をはたいた。

「おれの身体はな、お前らみたいにやわじゃねえ。この体躯がすっぽり収まるイスなんてそうそうみつからねえんだよ」

「ならせめて手伝え、自分のための物なんだろうッ、あんたの馬鹿力ならこんなもの簡単に運べるはずだ」

「こんなもん担いだら指にトゲが刺さるじゃねえか。俺は尖ったもんが嫌いなんだ」

最低でも大人手で三人は必要であろう丸太を担がせ、シガは嫌がる彼らを怒鳴り続けた。目指す先は学舎の中庭であり、そこまではまだいくらか距離がある。ぽつと頬に落ちた雨に触れ、シガは運び手達に足を速めるよう、酷な命令を告げることにした。

「なんだよ、真っ昼間だってのにだれもいねえな」

中庭を囲む廊下に立って言ったシガの言葉に返事をする者はいなかった。

カデル、リック、そして結局彼らを手伝ったアラタの三人は、担いで運んだ丸太を廊下の隅に置いて、息を切らせながらぐったりと床に横たわっていた。

「ち、軟弱なガキどもだ」

雨に濡れてじっとりと水分を溜め込んだ真綿のように寝込む彼らを見て、シガはそう吐き捨てた。事情あって幼い頃より放浪生活を長くしてきた身としては、手厚く守られて日々を過ごす彼らムラクモの若き輝士候補生達は、シガからすれば庇護に甘えた弱者に見える。

さらなる喝を入れてやろう。シガはそう考え、邪悪な笑みを浮かべて彼らににじり寄る。が、なにかに足を滑らせて腹ばいにこけ、顔面を床に強打した。

「ッてぇ! なんだ!?」

こけたシガを見て吹き出して笑うカデルとリックにきっちりと睨みをきかせた後、足をとられた原因を探った。それはぬめった液体のようなものだった。あきらかにただの水ではない。指にとってこすってみると、魚に触れた時のぬめった感触に酷似していた。

黙りこくったシガを不思議に思い、三人の生徒達も興味ありげに覗き込んできた。

「おい、これ跡になって続いてないか」

リックの指摘に調べてみればその通り、ぬめった液体はひきずられたような跡を残して学舎の奥へと続いている。

「なにか、生き物が這って行ったような跡にも見えますね」

アラタの指摘は的を射ていた。床に残っている跡は左右にうねったような形を残していて、それはさながら蛇の通った跡のようにも思えた。しかしこれが蛇であるとすれば、相当に横太りした種であるのは間違いない。

「おい、これって」

リックが肘でカデルの横っ腹を小突いた。

「間違いない、イデイユ殺しの犯人だ」

言ったカデルに、アラタが同調した。

「僕もそう思う──大変だ、学舎に入り込んでるってことは」

カデルは強く頷いた。

「ああ、見つけ出さないと次の被害者は人間ってこともありえる」

「師匠ッ」

物言いたげに訴える弟子の眼差しを受け、シガは犬歯をぎらつかせて笑んだ。

「害獣退治か、いい暇つぶしになるぜ」

生徒ら三人組は互いに顔を合わせ、高揚したように笑った。彼らも少年である前に男なのだ。荒事に対して恐怖より好奇心が勝るのも当然のことなのだろう。

シガは先頭に立ち、弟子二人とその他一人を引き連れてぬめった床の跡を辿った。

ぬめり跡はどこの部屋にも立ち寄らず、ある方向へ進んでいる。これを残した主に迷いがなかったことが窺えた。

「普通、何かを求めてここまできたとしたら、もう少し探るような動きをするものだと思いませんか」

アラタの見立てに皆も同意した。

「だな、動きがあまりにも不自然だ。というより迷いがない」

リックが考え込むようにアゴを撫でてそう述べた。

「目的があったとして、その場所がすでにわかっていた。もしくは、見つけたんだと仮定するなら納得がいかないか」

カデルが神妙に言うと、アラタとリックの両名はたしかに、と頷いた。

「お前らうるせえんだよ、ごちゃごちゃ考えるのは無しだ、見つけて殺す、それですむ話だろうが」

この場で最たる年長者シガの発言は、懸命に状況の推理に努めていた若者達を落胆させるに十分な威力があった。

「南方の野蛮人どもは、みんな脳みそが筋肉で出来てるんじゃないのか」

シガが小声でこぼしたカデルの頭に強烈な一撃を入れると、絶え間なく廊下に続いていた跡がぷっつりと途絶えた。そこは存在理由もあやふやな宝玉院の迷宮の入り口であり、正確には暗がりで見え辛いだけで、跡は迷宮の奥へと続いているようだった。

「こんなところに」

中を覗うアラタの声が反響する。

「どうする? 事情がかわってきたぞ。学舎の中ならまだしも、この中を探し回るのは……」

及び腰になったリックを、シガは挑発的に嗤った。

「びびってんじゃねえ、ただの薄暗い迷路だろうが──」

シガは油断して突っ立っていたカデルの首を腕に挟んで拘束した。

「おいッなにをするんだ!」

「入るんだよ、アラタとお前も来い。俺が退治した獲物をお前らに運ばせてやる」

「はあ? 冗談じゃない、このカデル・ミザントをなんだと……ふぐッ──」

岩のように硬い上腕二頭筋でカデルの口を塞ぎ、シガはアラタに明かりを用意するよう命じた。壁掛けのランプを手に戻ってきたアラタを連れると、必死に抵抗するカデルを引きずって迷宮の入り口に足を踏み入れる。

「ちょっと待てよ、俺も行く!」

リックの宣言をシガは一蹴した。

「お前はいらねえ、そこにいろ」

「はあ? なんで俺だけ」

「面倒くせえんだよ」

言い残して背を向けると、ぽつりと呟くリックの声が届く。

「なんだよ……それ……」

師官らを集めて行われる定例の報告会は、じつに退屈なものだった。

水晶宮、王括府の会議室にて行われたのは、宝玉院で教鞭を執る師官らと、師官の直属の上官にあたる主師マニカに並ぶ立場にある初老の宝玉院統括担当官による平坦な話し合いだった。

それぞれ受け持つ生徒らの学業進度についての報告がされ、居眠りをする担当官が時折思い出したかのように相づちを打つだけ。

自らの番が回ってきたシュオウは、異常なし、という完結かつ適当な報告を述べ、周囲からの冷ややかな視線を浴びたが、本来それに注意を述べるはずの担当官は都合の良いことに居眠りの真っ最中だったため、無難に報告を終えることに成功した。

報告会はじつに退屈である。

真面目な師官らはとつとつと仕事の状況を語っていくだけだし、その間他の者達はじっと座って聞いているだけなのだ。

粗末な椀によそった飯をすすりながら、顔をつきあわせて剣の扱い方や上手い酒、過去の武勇伝に花を咲かせていた、サク砦の仲間達を思い出す。

今、隣にいるのは歯の抜けた不潔な大男ではなく、輝くような金髪の見目麗しい娘である。他の者達も皆、一様に整った顔つきで清潔な身なりをした輝士ばかりだ。

普段すれ違っても挨拶することすらない彼らには何も思う事もないが、隣に座るアイセとは顔見知りである。退屈を紛らわせるくらいの軽い会話くらいは期待していたが、アイセはこの場にいる誰よりもクソまじめだった。他人の報告にいちいち頷いて、時には手を上げて質問をする。結局、退屈を紛らわせるどころか、アイセはこの退屈な時間をさらに延長させるという暴挙に及んだのだった。

昼にさしかかる頃、担当官より解散が宣言され退屈な報告会はお開きとなった。

外はすっかり雨降りとなっており、外壁を夜光石で囲む水晶宮は、水気を受けて青白い光を放っている。

アイセの提案により昼食をクモカリの店ですませて別れた後、シュオウは一人で現在の根城となっている宝玉院への帰路についた。

午後からの授業がないため、学舎は人気もなく静まり返っている。しかし自室へ向かうほどに、ざわついた喧噪が耳に届くようなった。様子をうかがってみると、途中にある迷宮の入り口の前で、複数人の生徒らが人だかりを成していた。

最後尾でひっそりと佇む庭師の老人を見つけ、シュオウは声をかけた。

「なにかあったんですか」

老人はひょいと顔をあげると、白鬚をなでつける。

「どうやら、なにものかを追いかけて、迷宮の中へ生徒らを連れて入っていった者がいるらしい。話を聞くに、君のお連れの彼だというがね」

「あいつが……?」

老人は遠くを指さした。

「ほれ、厩舎でおかしなことがおきただろう?」

シュオウは眉根をあげる。

「じゃあまさか、その原因を追いかけて?」

「わからんがね、あの子の話ではそういうことらしいよ──」

老人は迷宮の入り口で中の様子を窺う赤毛の男子生徒の背を指さした。

「──しかし、こまったの」

「なにがですか」

「わるいことに、今日は多くの責任ある者達が出払っている。報告会に出た師官らのほとんどは戻らんだろうし、近衛から派遣されていた警護役は不在。門番達の手をこちらにまわすわけにもゆかず。外からの救援を求めたいところだが、外部の者を宝玉院に入れるには面倒な手続きが多くて時間がいる」

「マニカさん──いや、主師は?」

「はて、いるはずだが姿が見えん。迷宮から少女の悲鳴が聞こえたと子供らが騒いでおった。こんなときにこそ、彼女に采配をとってもらわんと困るんだが」

「それ──間違いないんですよね」

「ん?」

「悲鳴のことです」

「ああ、たしかに」

老人がのんきに頷いている間、シュオウは瞬時に思考を巡らせた。シガが迷宮に入った。共にいるという生徒達は、おそらくアラタと誰かだろう。彼らは近頃起こった老馬の変死事件の原因を見つけ、後を追った。迷宮の中からは女生徒のものらしき悲鳴が聞こえたという情報も気になる。

──整理しよう。

宝玉院の静かな一時、学舎に残っていた女生徒がナニカに遭遇、後に逃げた。惑いのなか避難所として入り込んだのは暗い迷宮の中。おそらく女生徒を追うナニカは追跡を続行したのだろう。シガ達はなにかしらのきっかけでそれに気づき、女生徒もしくはナニカの跡を追っている。不確かな情報だらけだが、おそらく可能性の高い順序としてはこんなところだろう。

シュオウは周辺の観察に努め、床に線を残すぬめった液体に目を付けた。

──シガはこれを追ったのか?

ぬめった床の染みは、迷宮のなかへと続いている。

シュオウは老人へ向き直る。

「俺が様子を見てきます」

「きみが?」

頷いて、シュオウは手を差し出した。

「はて、なにかね?」

「なかを知らないので、地図を貸してもらえますか」

老人は小さく首を傾げる。

「……そんなもの持っていると言っただろうか」

シュオウは一瞬眉を怒らせる。

「あるんでしょう」

逡巡して、老人はにたりと歯をみせて服の内をまさぐった。

「内部は複雑だ、蟻の巣のように広がる道は地下深くにまで及ぶ。探し歩くのは骨を折るだろう。主師の執務室に夜光石のランプがある、持って行きなさい」

古びた地図は、折りたたんでぼろぼろだが、内容を確認するぶんには問題がない。言われた通り、シュオウはランプを取りにマニカの部屋に向かった。

支度を調えて入った迷宮のなか、青白い灯りがごつごつとした岩壁を照らした。

奥のほうから通り抜けていくぬるい風にのって、男達の話し声のような音や少女の悲鳴、なにごとかもめているような女の怒鳴り声も聞こえた。

──この声。

「……シトリ?」

呟いた声は反響して奥の闇へ吸い込まれていく。

──どうなってるんだ。

突如、不可思議な金切り声があがった。それは悲鳴のようでもあり、爪でガラスを引っ掻いたような嫌な音でもあった。人のものでないのは明らかだ。

やはり、ここにはなにかがいる。

シュオウは全神経を張り詰めた。