作品タイトル不明
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ノーマが父に連れられてワズロフ家を去ったのは十七歳の年であり、王国暦百七年のことだった。ちょうど十年前になる。
ワズロフ家によい印象を持っていたとは、とてもいえない。むしろ憎しみに近い感情を抱いたことさえあった。
何よりこの家は、母と父を、母とノーマを引き裂いた家である。好意を持てるわけがない。
そしてまたこの家は、冷たい家であった。
父とノーマは、よい住まいとよい調度とよい服とよい食事を与えられ、優れた使用人の世話を受けたし、父が研究のために欲しがるものは何なりと与えられたが、それだけだった。
屋敷のなかで、父の兄弟やその家族と出会ってあいさつしても、会釈やおじぎが返るだけで、会話してくれる人はほとんどなかった。使用人たちでさえ、必要最低限の言葉しか口にしなかった。ノーマと父は、無視され続けたのである。まるでそこにいない存在であるかのように。
赤子のときから十七歳までを、ノーマはここで過ごした。多感な時期のノーマは、その冷たさに耐えられなかった。だから悲しみ、この家を憎んだ。この家も自分たちを憎んでいるのだと思った。
だが去年、レカンから意外な事実を知らされた。
父もノーマも、本当は愛されていたというのだ。言われてみればその通りだった。ジンガーこそ、ノーマにとって無条件で信じられる庇護者であり理解者であり、かけがえのない人だ。そのジンガーを差し向けてくれたのはワズロフ家なのだ。これほどの大きな贈り物をくれたのだ。そこに強い愛情があることは、疑う余地もない。
弟の仇は必ず取る、という先代侯爵ゴドフリーの言葉は、思い出すたびに鼻の奥がじんとしびれ、胸が熱くなる。それほどの思いをゴドフリーは年の離れた弟である父サースフリーに抱いてくれていたのだ。
「ゴドフリーは侯爵という名の機械だった。だが、あんたの父親が死んだときの言葉は、熱い血が通う人間の言葉だったとオレは思う」
「そしてゴドフリーは弟の仇を討ち、杖を取り返してジンガーに送り届けた」
「あんたの母親の杖をあんたのもとに届けた。そこにゴドフリーのあんたに対する気持ちが込められている」
レカンという人は、普段の態度はそっけないが、人の真情をみぬく力を持っている。そのレカンの洞察力を介して、ノーマは先代侯爵の気持ちにふれることができた。
そうなってみると、ワズロフ家に対する憎しみは、雪のようにすっと溶けて消えた。考えてみれば、ワズロフ家での待遇は悪いものではなかった。母を閉じ込めたことでさえ、そうすることでしか母を守ることができなかったのだとさえ思えてきた。
いや、本当は最初からわかっていたのだ。ノーマの怜悧な頭脳と観察力は、自分たちがワズロフ家から手厚く遇されていることを、きちんと把握していた。ただ、そう認めたくはなかったのだ。
今目の前にいるマンフリーは従兄弟なのだが、ほとんど話したことはない。ただしこの人については、今も目に焼き付いた光景がある。十年前、ノーマと父がこの家から出てゆくとき、門の傍らに立ってこちらをじっとみるマンフリーの姿があった。まさかわざわざみおくりに出るはずはないが、しかしあんな場所にいた理由はほかに考えられない。その姿の記憶は、寂しさのなかのわずかななぐさめとなった。
だからノーマはマンフリーに対し、悪意は抱いていない。むしろこの家のなかでは不思議と懐かしい人であった。
「叔父上の著作をまとめる作業は、はかどっているのかね?」
「はい。最初のうちは、できるだけ父の残したそのままのものを最低限の修正で原稿にするつもりでした。でも、助言を受けて考え直し、私が知るかぎりで本当に父が書き遺したかったものを新たに生み出すべく、それぞれの著作を再執筆することにしたのです」
「ほう。それは大変な手間なのではないかね?」
「いえ。現にあるもののあいだをかいくぐるようにして、きちんと意味が通じるようにするほうが、何倍も大変なのです。何もないところに新たに書くほうが、ずっと簡単できちんとしたものになり、しかも結局、それこそが父が書きたかったものになると気づいたのです」
「ふむ。助言の主は誰か聞いてもいいだろうか」
「プラド・ゴンクール卿と筆写師ラクルス殿です」
「ラクルス殿か。現在王国で最高の筆写師といっていい人だ。叔父上の著作を委ねるに、これ以上ふさわしい人はあるまい。それにプラド殿か。君はゴンクール家のなかに自分の居場所をみつけたのだね」
「はい」
「そうか。それはよかった」
茶を口にするその顔にはわずかな笑みが浮かんでいるようにみえた。
「ところであらためてお願いする。叔父上の著作には、サースフリー・ワズロフと著者名を記してもらえまいか。頼む」
「はい。こちらこそお願いします。父もそれを喜ぶだろうと思います」
「聞き受けてくれるか。ありがたい。以前、王都エレクス神殿のアーマミール一級神官様がわが家をお訪ねになったことがある。その日の夕食の席で、父は非常に機嫌がよかった。わざわざサースフリーの著作を求めてわが家にみえたのだ、わが弟の研究はその道の専門家がみて第一級の研究であるらしいと言い、何度も杯を干しておられた」
「はい。そのときゴドフリー様は、あれは弟のサースフリーが書いたものです、とはっきりおっしゃったそうです。そして、サースフリーは死んでしまったが、ほかの研究について、ヴォーカの町のノーマという施療師ならわかるだろう、とおっしゃったそうです」
「ほう。なるほど。そういうわけだったのか。ああ、それで。なるほど。だが助かった。叔父上の著作にワズロフの名を添えなかったとなれば、亡き父に叱られてしまう」
マンフリーは、茶で喉をうるおして、話題を変えた。
「さて、今回来てもらった件について話そう」
「はい」
「〈 白雪花(スルファーダ) の姫〉のことは知っているかね?」
「いえ。聞いたことがありません」
「そうか。叔父上は、秘密にされたまま亡くなられたか」
それからマンフリーは、ノーマの出自に関わる驚くべき話を聞かせてくれたのだった。