軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2

2

アーマミール神官が以前『薬草学序論』と『臓腑機能研究』の筆写を依頼したのはラクルスの工房だった。筆写師の最大の顧客は神殿であり、そのなかでも王都エレクス神殿はこの国で最も多くの本を刊行している顧客である。そしてラクルス工房は、本の原本を作ることにおいては王都指折りの工房である。二人は旧知の仲だ。秘密を守ってもらわねばならない写本なのだから、当然信頼度の高い写本師に依頼することになる。アーマミール神官からすれば、この仕事を頼む相手はラクルス以外なかった。

ラクルス自身は文章家であり、修辞家としての知識技能も備えているが、それだけでは工房は成り立たない。工房には筆耕家もいるし、ほとんど専属といっていい製本職人も数人抱えている。そのラクルス工房に、アーマミール神官は仕事を持ち込んだのである。

はじめて両書をみたとき、ラクルスは、この二冊の本の原本を作ったのがどうして自分ではなかったのかと心底から悔しがった。それほど内容に感嘆した。これこそ最高の筆写師が腕をふるうべき書だと思った。

その二つの本の増補改訂版を新たに刊行するという話をアーマミール神官が持ち込んだとき、文字通りラクルスは食いついた。そのときラクルスの目は血走っていただろう。

同じ著者の作品を何十冊も、各百部作るという狂気のような計画を聞いて、さすがのラクルスも言葉を失った。これはもう国家規模の大事業だ。それを一介の薬師であるスカラベル導師が個人で行うというのである。

もっとも、アーマミール神官がラクルスにひそかに漏らしたところによれば、事業の進め方については腹案があるのだそうだ。その腹案を現実のものとするためにも、まず刊行すべき研究の全体像をつかむ必要があるという。

本のすべてを〈貴典〉の規格で行うとアーマミール神官が宣言したとき、ラクルスは猛反対したという。そもそもラクルスが以前に筆写した『薬草学序論』と『臓腑機能研究』は、〈祝典〉の規格で作られた美麗にして絢爛たる本だった。人が到達した学問の深みを神々に報謝するにふさわしい立派な本だった。それをなぜ〈貴典〉などという、二段階も格の落ちる規格に変更するのか。

これに対し、普段温厚で物静かなアーマミール神官が、聞く人を圧倒するような熱弁をふるった。

これは本棚に飾っておく本ではない。神殿や貴族の館の奥深くにある書庫にしまい込まれる本ではない。薬師が、施療師が、仕事の合間に仕事机に広げて読む本なのだ。書見台など彼らの仕事場にはない。本当は〈貴典〉でも大きすぎる。〈民典〉にしたいぐらいなのだが、それでは使える素材や技術に制限が多すぎるから、やむなく〈貴典〉にするのだ。

ラクルスも反論した。

本とはそういうものではない、しかるべき場所にしかるべき環境を調えて、静かに大切に保存し続けるものなのだ。そこに書かれた貴重な内容は、決して傷つけられたりよごされたりしてはならない。読むときには適正な書見台に載せ、両手で丁寧にページをめくる。筆記したい箇所があれば、記憶に刻んで別の机で筆写する。決して本と同じ机で筆写してはならない。万が一にも本にインクのよごれを付けるようなことがあれば、それは神々を冒涜する行為だ。

アーマミール神官は応えた。

これまで本とはそういうものであった。そういう本は、これからもそうであり続けてよい。しかしそろそろ別の本が現れてもよいのではないか。すり切れるほど読まれ、人々の知識を泉のようにひたしてゆく本。必要なとき開いて、必要な知識を得ることができる本。民とともにあり、民を豊かにし続ける本。そんな本が生まれてもよいのではないか。

この発想に驚くラクルスにアーマミールはこう言った。

「ラクルス殿。すべての民の家に、二冊か三冊の本がある世界。そんな世界を生み出す第一歩を、刻んでみたくはありませんかな」

すべての民の家に二冊か三冊の本がある世界。そんな夢のようなことが実現するわけはない。だが、夢をみることは神も禁じておられない。そんな夢をみてみたい。そうラクルスは思った。

「これは、本というもののあり方を変える事業なのですな」

「いかにも。いかにも」

本に新たな息吹を吹き込む仕事。それを自分以外の誰にできるというのか。

ラクルスは燃え上がった。しかし本気になればなるほど、障害の多さがみえてきた。

「アーマミール様。やはり全部の本を〈貴典〉でというのはむずかしい。というより許されんでしょう。まず王家への献納はどうしますな。神殿への、貴族らへの献納は。国中の主立った薬師と施療師に本を配るなら、先に神殿や領主に献上しなければ、まずいことになる」

「これはまだ秘密の話ですがな。神殿や領主がたには、〈筆写権〉を差し上げようと思うておるのです。もちろん実現には王宮の協力がいりますがな」

「〈筆写権〉ですと?」

「好きな規格で新たな原本を作り筆写してよいという権利です」

「なんと」

聞いたこともない発想なので、消化するのにしばらく時間がかかったが、考えてみると面白いやり方だ。だが致命的な問題がある。

「その原本はどうするのですかな。筆写させる、そのもとの本は」

「筆写する権利は与えますが、筆写できる工房は限定しますのじゃ」

「工房を限定? はて?」

「ラクルス工房を取りまとめ役とする、王都の有力工房です。工房にはそれぞれ別の原本を貸与します。どの本に来た注文はどの工房が受ける、この本の注文はこの工房がうける、という具合に」

「なるほど。しかし、本を注文しようにも内容がわからなくては」

「本を下賜した薬師あるいは施療師には、その内容を所在地の神殿と領主に報告する義務を負わせるものとします。そして神殿や貴族からの注文を受け付けるのは、すべての本の配布が終わってからとします」

「それでは配布した本が神殿や貴族に取り上げられる危険があります」

「〈貴典〉の本をですか」

「表立っては欲しがろうとしないでしょうが、裏で手を回す者がきっとおります。もう少し強いお墨付きがいる。王陛下、では強すぎるか。王陛下から平民に本が下賜されるなど異常すぎる。もう少し下で、しかし揺るぎない権威を持つ……」

「王都エレクス神殿とかですかな」

「それだ。それにしても下賜するには理由立てがいりますな。そうすれば、より手が出しにくくなる」

「ほう」

「実績と能力を評価するというような何かが」

「ふむふむ」

いつのまにかすっかり共犯者になったラクルスは、刊行の手だてをアーマミールと熱心に協議し始めた。