軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

エピローグ アドリア海の真珠

エピローグ アドリア海の真珠

五月の柔らかな陽射しが石畳を照らしていた。

森田凛子はゆっくりと足を止める。

目の前にはどこまでも続く青い海が広がっていた。

思わず息を呑む。

「すごい……」

言葉がそれしか出てこなかった。

クロアチア。

ドゥブロヴニク。

アドリア海の真珠と呼ばれる美しい城壁都市。

テレビや旅行雑誌で何度も見た景色だった。

だが実際に目の前で見る海はまるで別物だった。

透明だった。

信じられないほど透明だった。

海面は太陽の光を受けて青く輝いている。

深い群青色からエメラルドグリーンへ変化する色彩。

城壁の向こうには無数の赤い屋根。

白い石造りの街並み。

鐘楼。

教会。

遠くを航行するヨット。

そのすべてが絵画のようだった。

「写真で見るより綺麗ですね」

隣で藤堂遼が笑った。

白いリネンシャツにベージュのチノパン。

珍しく仕事の匂いがしない。

凛子も淡いブルーのワンピースを着ていた。

病院では見せない柔らかな服装だった。

「綺麗なんてもんじゃないです」

凛子は目を細めた。

「なんだか夢みたい」

「来て良かった?」

「はい」

即答だった。

救急看護認定看護師の資格試験に合格してから半年。

藤堂たち同僚が、

「頑張ったご褒美くらい受け取れ」

と言って長期休暇を取らせてくれた。

そして偶然同じ時期に休暇だった藤堂と旅行の話になり、気付けば二人でクロアチアを訪れていた。

まだ恋人ではない。

だが大切な存在だった。

無理に名前を付けなくてもいい関係。

それが今は心地よかった。

二人は旧市街の城壁沿いを歩く。

海から吹く風が髪を揺らした。

潮の香りがする。

どこか懐かしい匂いだった。

途中で小さなレストランへ入った。

石造りの建物。

テラス席からはアドリア海が見える。

白いクロスがかけられたテーブル。

オリーブオイルの香り。

店員が笑顔でメニューを差し出した。

「何にします?」

藤堂が聞く。

「おすすめは?」

「せっかくだから海鮮かな」

凛子は頷いた。

運ばれてきたのはタコのサラダだった。

柔らかく茹でられたタコ。

オリーブオイル。

レモン。

ハーブ。

一口食べる。

「美味しい!」

思わず声が出た。

タコの旨味が口いっぱいに広がる。

さっぱりしているのに味は深い。

藤堂も笑う。

「それ当たりだったな」

「日本でも食べたい」

「真央ちゃんたちに作ったら喜びそう」

その言葉に凛子も笑った。

続いて生牡蠣が運ばれてきた。

近郊のストンで養殖された名物だという。

レモンを絞る。

海の香りが立ち上る。

口に運ぶ。

濃厚だった。

クリーミーで甘い。

「すごい……」

「顔が幸せそうだな」

「だって美味しいんです」

二人で笑う。

その後も料理は続いた。

エビを白ワインとニンニクで煮込んだブザラ。

魚介の旨味が染み込んだクルニ・リゾット。

真っ黒なイカ墨のリゾットは見た目に驚いたが、味は絶品だった。

海の恵みそのものだった。

食後にはロジャタというプリンが出てくる。

なめらかな食感。

キャラメルの香り。

甘すぎない上品な味だった。

「幸せそうですね」

藤堂が言う。

凛子は少し考えてから頷いた。

「幸せです」

その答えは自然だった。

昔なら言えなかった。

幸せという言葉に罪悪感があった。

自分が幸せになっていいのか分からなかった。

けれど今は違う。

夕方。

二人は城壁の上へ登った。

夕陽が海を赤く染めている。

アドリア海が黄金色に輝いていた。

観光客たちも言葉を失っている。

それほど美しかった。

凛子は海を見つめる。

静かな波。

遠くの島々。

水平線。

そして思い出した。

あの日のことを。

離婚届を持って家を出た日。

雨だった。

未来なんて見えなかった。

ただ苦しかった。

怖かった。

けれど今。

こうして美しい海を見ている。

心から綺麗だと思える。

それが何より嬉しかった。

「藤堂先生」

「ん?」

「私、昔は景色を見ても何も感じなかったんです」

藤堂は黙って聞いていた。

「疲れてたんでしょうね」

「そうかもしれないな」

「でも今は違う」

凛子は海を見つめた。

「綺麗だなって思えるんです」

風が吹く。

髪が揺れる。

潮の香りが鼻をくすぐった。

「美味しいものを食べて、美味しいって思えるんです」

藤堂は優しく笑った。

「それは良かった」

凛子も笑う。

昔の自分なら、この景色を見ても余裕がなかっただろう。

義母の機嫌。

夫の顔色。

家事。

介護。

仕事。

そればかり考えていた。

今は違う。

自分の人生を生きている。

それが嬉しかった。

太陽がゆっくり沈んでいく。

アドリア海が茜色に染まる。

凛子は目を細めた。

本当に綺麗だった。

そして思う。

幸せとは特別なものではないのかもしれない。

美しい海を見て綺麗だと思えること。

美味しい料理を食べて笑えること。

帰る場所があること。

大切な人がいること。

それだけで十分なのだ。

凛子は静かに微笑んだ。

アドリア海の風は優しく、未来へ向かう二人の背中をそっと押していた。