軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 お帰り

第10話 お帰り

一年後。

春の陽射しが街を優しく包んでいた。

病院の中庭では桜が満開だった。

淡いピンク色の花びらが風に舞い、白いベンチの上へ静かに降り積もっている。

森田凛子は救命救急センターの休憩室で参考書を開いていた。

ネイビーのスクラブ姿のまま、真剣な表情でノートへ書き込みを続けている。

机の上には赤い付箋だらけの専門書。

コーヒー。

蛍光ペン。

試験対策ノート。

救急看護認定看護師の資格取得に向けた勉強だった。

「相変わらず頑張るな」

声がして顔を上げる。

藤堂遼だった。

白衣のポケットに手を入れながら苦笑している。

「休憩時間くらい休めばいいのに」

「試験まであと少しなんです」

「真面目だな」

「藤堂先生に言われたくありません」

二人とも笑った。

以前の凛子なら考えられなかった。

仕事の話をしながら笑う余裕。

誰かと自然に会話する余裕。

それが今はある。

救命センターでの評価も上がっていた。

後輩の指導を任されるようになり、認定看護師の候補者として名前が挙がっている。

忙しい毎日だった。

けれど苦しくはない。

自分で選んだ道だからだ。

その日の勤務は夕方に終わった。

更衣室で着替える。

薄いベージュのニット。

白いロングスカート。

小さなパールのイヤリング。

鏡の中の自分を見る。

以前より顔色が良くなった。

痩せすぎてもいない。

よく眠れている証拠だろう。

病院の正面玄関を出たところで、後ろから声がした。

「森田さん」

振り返る。

藤堂だった。

手には紙カップが二つある。

「はい?」

「これ」

差し出されたのはホットコーヒーだった。

蓋付きの紙カップから湯気が立ち上っている。

「お疲れ様」

凛子は少し驚いた。

そして自然に微笑む。

「ありがとうございます」

「今日は勉強しないで休めよ」

「それは無理です」

「だと思った」

二人とも吹き出した。

病院の前には桜並木が続いている。

夕暮れの空は薄いオレンジ色だった。

風が吹くたび花びらが舞う。

穏やかな時間だった。

「真央ちゃんたち元気?」

藤堂が聞いた。

「元気ですよ」

「また施設行くのか」

「今週末に」

「完全に第二の家だな」

凛子は首を横に振った。

「違います」

「ん?」

「あそこは最初から家なんです」

藤堂は少しだけ目を見開いた。

そして静かに笑う。

「そうか」

それ以上は何も言わなかった。

だが十分だった。

理解してくれた気がした。

駅へ向かう途中、凛子のスマートフォンが震える。

真央からのメッセージだった。

『今度の日曜日カレー作る!』

『凛子さん絶対来てね!』

写真も添付されている。

少し焦げた卵焼き。

明らかに失敗作だった。

凛子は思わず笑った。

『行くよ』

そう返信する。

するとすぐに返事が来た。

『やったー!』

その短い文章だけで幸せな気持ちになれた。

アパートへ着いたのは午後七時過ぎだった。

築十年ほどの小さな建物。

二階建て。

オートロック付き。

広くはない。

けれど気に入っていた。

玄関脇にはラベンダーの鉢植えが置いてある。

自分で育てているものだ。

鍵を開ける。

扉を開く。

部屋の中には静かな空気が流れていた。

誰もいない。

だが寂しくはない。

ここは自分が選んだ場所だから。

「ただいま」

自然に言葉が出る。

返事はない。

それでもいい。

ちゃんと帰る場所がある。

それだけで十分だった。

リビングへ入る。

白いカーテン。

木目調のテーブル。

本棚。

ソファ。

どれも自分で選んだものだ。

誰にも文句を言われない。

誰の許可もいらない。

冷蔵庫を開く。

昨日作ったミネストローネが残っていた。

ベーコン。

玉ねぎ。

キャベツ。

トマト。

野菜がたっぷり入っている。

鍋で温める。

パンも軽く焼く。

食卓へ並べる。

簡単な夕食だった。

けれど美味しい。

一口食べる。

トマトの酸味が優しく広がった。

窓の外では夜風が木々を揺らしている。

静かな春の夜だった。

食事を終えた後、ソファに腰掛ける。

ふと視線が棚に向く。

そこには写真立てが置いてあった。

あおぞらホームの子どもたち。

真央。

恵子。

職員たち。

みんな笑っている。

その隣には認定看護師試験の受験票。

そして小さなメモ。

『お帰り、凛子』

去年、真央がふざけて書いたものだった。

捨てられなくて飾ってある。

凛子はその文字を見つめた。

思い出す。

あの日のことを。

離婚届を持って家を出た日。

不安だった。

怖かった。

自分の人生が終わると思っていた。

けれど違った。

終わったのは不幸な生活だった。

人生はそこから始まったのだ。

血の繋がりだけが家族ではない。

帰る場所とは家の大きさではない。

大切なのは、自分を大切にしてくれる人たちがいること。

そして自分自身を大切にできること。

凛子は静かに微笑んだ。

窓の外では桜が揺れている。

春の風が吹いていた。

もう誰にも奪われない居場所がここにある。

もう誰かの都合のためだけに生きなくていい。

自分の人生は自分のものだ。

その事実が何よりも嬉しかった。

凛子は温かいハーブティーを淹れた。

湯気が立ち上る。

柔らかな香りが部屋に広がる。

そして穏やかな笑顔のまま、未来へ続く静かな夜を見つめていた。