作品タイトル不明
そもそものはじまりは
母を思い出そうとすれば、いつでも、どんな美女よりもなおきらめく美貌を持っていた事をぼんやりと思い出す。星の光を撚り合わせたようなぴかぴかの銀の髪の毛、紫の濃い花よりもなお色の濃くて、光るような、大人たちが宝石のようだと言っていた紫色の瞳。下町では嫉妬の対象になるような、真っ白でシミ一つない肌。いつも優しげに笑う顔をしていて、男の人達が次々に愛の言葉を並べているのを、困った表情で見つめていた。
思い出す限り、母は下町には到底現れなような、そんな美貌の女性だった。
だった、と過去形の言い方しかできないのは、母がいつものように働きに出ていった後に、二度と帰ってきてくれなかったからだ。
今でも思い出せる母の言葉はこう。
「お夕飯の前に、帰って来るから待っててね」
その日は働き先でお給料を支給する日で、毎月その日ばかりは、めったに食べられない脂身じゃないお肉が、ちょっとだけだけれども食べられたから、一層思い出せるのだろう。
私は母をその日も、いつも通り待っていた。ちょうど同じ年の幼馴染で、家主のおかみさんのところの一人娘の、女の子と一緒になって待っていたのだ。
しかし、母はその言葉を残して帰ってこなかった。
あれだけ美しい人だったから、人さらいにあったのかもしれない。もしかしたら、良くない相手に見初められて、連れて行かれたのかもしれない。
はたまた。
大人たちの中にはこう言う人もいた。
「あれだけの美しい人だったから、この下町野での生活に嫌気が差して、逃げ出したのかもしれない」
「子供をおいて?」
「あんなに、自分に似ていない平凡な顔の子供だから、捨てるのに躊躇しなかったんだろうよ」
自分の生活に嫌気が差して、亭主と子供をおいて失踪する人なんて、掃いて捨てるほどいる、ありふれた結末だ。
「もともとは高貴な生まれだったんだろうな、何しろ顔も立ち振舞も、このあたりの人間と思えないほど上品だったんだから」
きっと失った豪華な生活が忘れられなくて、子供をおいて再出発しに行ったんだろうと、私の前で口にする大人も居た。
母はたいそう美しい人だった。だから、言い寄る男は山ほどいて、そして、その男に対して何らかの感情を持っていた女から、ひどく嫌われている人でもあった。
母は誰の誘いにも乗らなかったし、浮気相手になるなんて言葉には、絶対に首を縦には振らなかった。
それでも、嫉妬を受ける側だったのだ。それくらい、母の人気は、異常なまでに高かった。
聞いたところだと、魅惑の魔法を使っているか調べた人もいるらしい。結果は白で、余計にその人は怒り狂ったのだとも言う。
母は真面目な働き者だった。しかし、それでも、嫉妬から逃れられない美貌というものを持ってしまっていた。それが母の不運だったのかもしれない。
もう、居なくなって久しい母の事を悪く言うのは、良くない事だろう。
そんな保護者を失った私は、一度は、長屋を貸してくれていた家主のおかみさんのところでお世話になりながら、母を探すという事を選んだ。
家の手伝いでできる事はなんだってした。
おかみさんは、働き者だと私を褒めてくれたし、よく
「あんたを放っておけないよ、あんたのお母さんは、あたしの早くに死んだ妹に似てるんだ。あの薄幸そうな表情もね。本当に妹みたいだから、あんたの事も、妹の子供みたいな気分なるんだ。そんな子を捨てたり放り出したり出来ないよ」
それはおかみさんの優しさと譲歩だった。店子の中には、そんな特別扱いで、部屋を一つ使う私に対して、あれこれとおかみさんに物申す人も居たけれど、おかみさんが
「家主の考えで貸しているんだ、何も違法な事をしているわけでもない。あんた達にずるいって言われる事じゃないよ」
そうきっぱりと跳ね除けていた。……そんな特別扱いも裏目に出たのだろう。
店子の一人が、そんな態度のおかみさんに苛立って、何をしたか。
私がもともとは母と暮らしていた部屋の外壁に、火をつけたのだ。その日はよく乾いた冬の日で、燃料の薪をどこもかしこも家の近くにおいていて、火をつけるところに困らなかった。
その店子は本当に後先考えないで行動したらしくて、火は私の借りていた長屋だけでなくて、乾いた空気の中で燃え広がって、あっという間にそのあたりに並んでいた長屋という長屋を燃やし尽くした。薪も油もあったからだろう。
建物同士も、法令ギリギリの接近具合で立ち並んでいたから、燃え移るのも早かった。火の手が地獄のように上がっていて、燃えた家の人間は逃げるので手一杯で、家財道具なんてほとんど持ち出せなかった。それは私もそうだった。
私が持てたのは、母が大事にしていた、父の形見だという短剣だけだった。お金を持つより早く、母とのつながりが消え失せるのが怖かった私が持ち出したのがそれだった。
火は丸一日燃え続けて、下町のかなりの範囲に広がって甚大な被害をもたらしてしまった。
おかみさんはあまりの事に一度気を失ったし、放火犯の店子は死刑が決まった。
それでも暮らしていた誰もが自分の生活を送らなければならなくて、でも、その周辺の所有していた長屋を立て直すほどの資金を、おかみさん達は持っていなかった。
老朽化とかで立て直しの許可を貰おうと何度も申請していて、首を横に振られ続けていたのだ。
そこに、収入を断つように長屋の大半が燃えてしまったので、おかみさん達はこの王都で暮らしていくためのお金が手に入らなくなってしまった。
土地は国に戻されて、店子は新しい家を探す事に奔走し、大家のおかみさん達は、旦那さんの実家の方に身を寄せる事を選んだ。
聞いた話だと、随分と前から、こっちに戻ってこいと言われていたけれども、それに頷いていなかったのだとか。
そこで私の身の振り方が問題になった。
「アイーダちゃんも一緒がいいわ」
「シャルロッテ、それは出来ないんだよ」
「だって! アイーダちゃんは一人ぼっちになっちゃうよ!」
「おじいちゃんもおばあちゃんも、アイーダまで面倒は見られないから仕方がないんだ」
私を王都から更に先にある街の孤児院に連れて行くと決めた時、幼馴染は泣いて嫌がったけれども、誰もどうにも出来ない事だった。
私はその街が旦那さんの実家までの中継地点にあったから、そこまでは一緒に馬車に揺られて、孤児院の前で笑顔を作って別れた。幼馴染は泣き腫らしていた。今生の別れかもしれないとわかってしまったんだろう。よく分かる。余談だが、孤児院に入るためのお金は、母の持ち物の中でも随分と異色だったきれいな作りのトランクケースが、あの大火事の中でも燃えずに残っていたため、その中身を売り払って手に入れた。おかみさんがいいかい、と聞いたから、私はいいよと答えたのだ。家もない、行く宛もない、そんな状態で、たくさんの持ち物は持てなかった。父の形見だという短剣だけしか、もう持てないくらいに私は小さな子供だったのだ。
二度と、幼馴染の笑顔を見られないかもしれない。サヨナラをする時に私もぼんやりとそう思ったし、それはある意味当たってしまったのだった。