作品タイトル不明
第七十話 連結する資産
眼前に広がる長江は、峻の想像を超えて広大で、
かつ暴力的なまでに「流動的」だった。
「……うぷっ。……峻殿、もう限界です……。
これでは、戦どころか、帳簿をつけることすら……」
韓恢(かんかい) が、
係留された船の縁で激しく嘔吐している。
北方の乾燥した大地で育った、
曹操軍の兵たちにとって、
波に揺れる船上は、
いかなる強敵よりも恐ろしい、
「健康リスク」の塊だった。
兵の半数が船酔いで使い物にならず、
軍の稼働率は三割を切ろうとしている。
「……想定以上の『減損』ですね」
峻は、自身の青白い顔を無視して、
揺れる机の上で算盤を叩き続けた。
「……船の揺れという不規則な 振動(ノイズ) が
、兵という精密機械の機能を停止させている。
……ならば、このノイズを『物理的な連結』に
よって相殺するしかありません」
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峻は直ちに、造船担当の役人と将軍たちを招集した。
「――すべての船を、
鎖と 環(かん) で連結してください。
……十隻、あるいは二十隻単位で、
『巨大な一つの床』を作るのです」
「……なっ!?
峻殿、それでは船の機動力が失われる!
敵に包囲されたらどうする!」
将軍たちが一斉に反論する。
峻は、眼鏡を指で押し上げ、冷徹な視線を向けた。
「……機動力を議論するのは、
兵が動けるようになってからの話です。
……現在、我が軍の戦力維持費は、
船酔いという『無駄な損失』によって、
垂れ流されています。
……船を連結し、揺れを最小限に抑える。
……これは、水上の陣地を『不動産』に変えるための、
最も効率的な資本投資です」
「……不動産、だと?」
「ええ。……馬が船の上を駆け、
兵が大地と同じように眠れる環境を作る。
……そうすれば、北の兵でも、
十割のパフォーマンスを発揮できる。
……損失をゼロにするためには、
機動力という少数の資産を、
切り捨てる決断が必要です」
この「連環の計」。
史実では諸葛亮の策(あるいは鳳統の献策)
とされるが、この世界では、峻が、
「兵員維持コストの最適化」のために導き出した、
極めて論理的な「事務命令」だった。
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数日後。
長江の上に、巨大な「浮く要塞」が出現した。
連結された船の上で、兵たちは歓喜し、
再び剣を振るい始めた。
「……峻。お前は本当に、
私の軍を『揺るがない組織』に変えてしまうのだな」
曹操が、安定した船甲板を強く踏みしめ、
満足げに頷く。
峻は、その足元を冷ややかに見つめていた。
(……固定資産の連結は、安定をもたらすが……同時に
『一箇所の火災が全体に波及する』という巨大な連鎖リ
スクを孕んでいる)
峻の算盤は、そのリスクを承知していた。
だからこそ、彼は連結部分に「緊急切断用の予算(斧と
担当兵)」を密かに配置しようとしていた。
だが、その時。
南から吹く風が、峻の頬を撫でた。
それは、乾燥した冬の風ではない。……火を運び、数字
を焼き尽くす、熱い「東南の風」の予感だった。