作品タイトル不明
第五十八話 物流の伏兵
袁紹軍の先鋒、
数万の騎馬隊が南下を開始した。
対する曹操軍の最前線、
官渡(かんと) へと続く街道筋では、
奇妙な光景が広がっていた。
「……峻殿、本当にこれで良いのですか?
敵はすぐそこまで迫っているというのに」
怯える小官の視線の先には、
整然と並べられた「空の米俵」と、
街道を封鎖するように築かれた、
巨大な「物資集積所」があった。
しかし、そこには兵の姿がほとんど見えない。
「良いのです。
計算通りに、
全ての資材を『配置』してください」
峻は、前線拠点となる砦の屋上で、
手元の広域地図と睨み合っていた。
彼が指示したのは、
防衛陣地の構築ではない。
「偽の物流拠点」の設置だった。
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数刻後。
猛煙を上げて突き進んできた、
袁紹軍の先鋒隊が、
その集積所に辿り着いた。
彼らの目に飛び込んできたのは、
山のように積まれた俵と、
慌てて逃げ出したような曹操軍の足跡だ。
「ははっ! 曹操の事務屋どもめ、
物資を置いて逃げおったか!」
略奪をよしとする袁紹軍の兵たちは、
峻が仕掛けた「餌」に一斉に群がった。
だが、
彼らが俵を切り裂いた瞬間に見たのは、
米ではない。
中から溢れ出したのは、
乾燥した枯れ草と、大量の「黒い液体」――
峻が 韓恢(かんかい) の闇ルートを使って、
密かに運び込ませていた、
可燃性の高い精製油だった。
「……火を」
高台から峻が静かに命じると、
潜伏していた少数の弓兵が一斉に火矢を放った。
「――っ!? 罠だ! 退け!」
火は瞬く間に油に引火し、街道を巨大な火の壁が遮った。
重い装備を抱えた袁紹軍の騎馬隊は、
自らが略奪しようとした「資材」によって退路を断たれ、炎の中に閉じ込められた。
「……将軍、追撃の準備を」
峻の声に、それまで息を潜めていた夏侯惇の精鋭隊が、炎の影から一気に飛び出した。
混乱に陥った敵軍にとって、それは死神の鎌に等しかった。
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「……峻、お前という奴は。物流をそのまま火薬庫に変えちまうとはな」
戦後、焦げ臭い風が吹く中で、夏侯惇が呆れたように笑った。
峻は、煤で汚れた帳簿に淡々と数字を書き込んでいた。
「消費した油の量、計三百樽。対して、殲滅した敵騎馬隊は三千。……一樽につき十人の敵を処理した計算になります。……コストパフォーマンスとしては、許容範囲内です」
「コスト……なんだって?」
「いえ、こちらの独り言です」
峻は眼鏡を拭い、遠く北の空を見つめた。
この小規模な勝利も、峻にとっては巨大な「官渡の戦い」という計算式の一行目に過ぎない。
「……袁紹様。貴方の『多すぎる兵』は、私にとってはただの『維持費の増大』という弱点に見えていますよ」
事務屋の戦いは、今、最も残酷で効率的なフェーズへと突入していた。