軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 指輪のない左手

馬車には、乗らなかった。

ヴォルフが言葉を止めたあと、リーゼルは何も言えずに玄関の階段を上がり、自室に戻り、扉を閉めた。背中を扉に預けて、そのまましばらく動けない。

心臓の音が耳の内側で響いている。速い。呼吸が追いつかない。

「俺の、そばに」

あの声が、まだ耳に残っている。かすれた、不器用な声。敬語を捨てた、短い言葉。あの寡黙な人が、あれだけの言葉を絞り出すのに、どれほどの——

階段を降りていく足音が聞こえる。御者だろう。馬車を待たせたまま、リーゼルは部屋に逃げ帰った。いや、逃げたのではない。

——聞く準備が、できていなかった。

ヴォルフの言葉を聞く準備。その先にある答えを出す準備。三年間、誰かの隣に「置かれていた」自分が、自分の意思で「誰かのそばにいる」と選ぶ覚悟。

目を閉じる。暗闇の中で、呼吸を整える。吸って、吐いて。もう一度。

どれほどそうしていたか、わからない。

目を開けたとき、視線の先に机があった。その上に、旅行鞄。鞄の口が半開きになっていて、中から小さな木箱の角が覗いている。

手袋の箱。

リーゼルは扉から背を離し、机に歩み寄った。鞄から箱を取り出す。掌に収まる大きさ。蓋の装飾が、窓からの朝日を受けて鈍く光る。

マルタが「お嬢様のもの」と言った箱。

蓋を開けた。

白い絹の手袋が入っている。三年間、薬指を覆い続けた布。丁寧に畳まれ、小さな箱にぴったりと収まっている。

その下に、紙片が一枚。

手袋の下に隠れるように、折り畳まれた小さな紙。マルタの筆跡。几帳面で、少し角ばった文字。

「お手を、冷やしませんよう」

それだけ。

三年間、毎朝繰り返されてきた言葉。手袋を渡すときの、いつもの一言。マルタはそれを書いて、箱に入れていた。いつから入れていたのだろう。最初からか。リーゼルが「もう要りません」と断った日か。それとも——

視界が滲んだ。

泣いている。笑いながら泣いている。鼻の奥がつんとして、頬を涙が伝うのに、口元は笑みのかたちに歪んでいる。泣き笑い。三年間の仮面ではない、初めての、自分だけの表情。

リーゼルは手袋を箱に戻した。紙片はそっと畳んで、胸元に入れる。

手袋は、つけない。

素手のまま、部屋を出た。

階段を降りると、マルタが玄関に立っていた。

馬車はまだ停まっている。御者が欠伸を噛み殺している。前庭に、ヴォルフの姿はもうなかった。

「マルタ」

「はい、お嬢様」

「あの方は——」

「門を出て、東の通りへ」

マルタの声は平坦だった。それ以上は言わない。方角だけ。

リーゼルは頷き、玄関を出た。素手のまま。靴音が石畳を叩く。朝の冷たい空気が顔を刺す。

走ってはいない。けれど歩調は速い。自分の足で、自分の意思で、門を出る。三年間、殿下の隣という定位置に「置かれていた」自分が、初めて自分の足で誰かを探しに行く。

東の通りは、朝市の準備が始まっていた。

荷車が石畳をきしませ、八百屋が木箱を並べている。パンの焼ける匂いが風に乗って流れてくる。日常の朝。リーゼルの内側で起きていることなど知らない、街の朝。

二つ目の角を曲がったところで、見つけた。

ヴォルフが通りの端に立っている。壁に背を預けて、空を見上げている。何もしていない。ただ立っている。行く宛のない人間の立ち方。

リーゼルの足音に気づいて、振り向いた。

目が合う。

ヴォルフの顔に、かすかな動揺が走る。ここに来るとは思っていなかった顔。リーゼルが自分で追いかけてくるとは。

「——リーゼル嬢」

「リーゼルで構いません」

自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。泣いたあとの目はまだ腫れているだろう。それでいい。仮面はもう、いらない。

二歩、近づいた。

「ひとつ、訊いてもいいですか」

ヴォルフは黙って頷く。

「仮初めでも——いいのですか」

自分に問うている。ヴォルフにも、そして自分にも。仮の婚約者として始まり、仮の護衛として続いた関係。この先に何かがあるとしても、それもまた仮のものになるのではないかと。

ヴォルフの目が、真っ直ぐにリーゼルを見た。

「仮初めなんかじゃない」

短い言葉。けれど声が、初めて震えている。

「最初だけだ。最初だけ仮初めで——あとは全部、本物だった」

リーゼルの目からまた涙がこぼれた。今度は笑っていない。泣いているだけ。三年分の、行き場のなかった水が、ようやく出口を見つけたように。

「要らないなんて言うな」

ヴォルフの声が続く。低く、固く、けれど必死に。

「あんた——お前が、要らないわけがない」

敬語が完全に崩れている。「あんた」から「お前」に言い直す不器用さ。その言い直しの中に、この人のすべてがある、とリーゼルは思った。

涙を袖で拭う。深く息を吸う。朝の空気が冷たくて、肺の奥まで沁みる。

自分の言葉を、自分で選ぶ。誰かに置かれるのではなく。誰かに必要とされるからでもなく。

「——あなたの、おそばに」

声が、出た。

「いたいのです」

仕えるのではなく。振り返るのでもなく。自分から、そばにいたいと。

ヴォルフが、一歩前に出た。

リーゼルの左手を取った。手袋をつけていない、薬指に何もない手を。両手で包むように、握る。

ヴォルフの手は大きくて、硬くて、温かかった。剣だこのある掌が、リーゼルの指を包んでいる。手袋越しではない。絹を一枚も挟まない。はじめて触れる、この人の手のひら。

指輪は、ない。薬指には、何も嵌まっていない。三年前から、ずっと。

けれどその空白が、今は欠落ではなく、余白に見える。これから何かが嵌まるかもしれない場所。あるいは何も嵌まらなくても、この手を握る手がある場所。

朝市の喧騒が遠くから聞こえてくる。パンの匂い。荷車の軋み。日常の音。

その中に、二人は立っている。手を握り合ったまま。

指輪は、まだない。

けれどこの手は——もう、冷たくなかった。

◇◇◇

数週間後。

エルトハイム邸の応接間に、マルタが茶を運んできた。

盆の上に、茶器が二つ。

リーゼルの分と、向かい側の椅子に座っている男の分。ヴォルフは茶器を受け取るとき、かすかに頭を下げた。マルタは何も言わず、ただいつもの顔で盆を引く。

書斎の扉が薄く開いていて、父が帳簿を読む気配がする。ヴォルフが邸を訪ねるようになって三度目。父は最初の一度だけ応接間に顔を出し、騎士の顔を見て、茶を一杯だけ飲んで、何も言わずに書斎へ戻った。それきりだった。

王宮からの招待状は、もう届かない。社交界の噂は知らない。知る手段もないし、知りたいとも思わなくなっている。

窓の外で山査子の実が赤く色づいている。今年の実は、去年よりも多い。毎日見ているから、わかる。

リーゼルは茶器を持ち上げた。左手で。素手の、手袋のない左手で。

ヴォルフが何か言いかけて、止める。代わりに、自分の茶を一口飲んだ。不器用にも、茶器の持ち方がまだ慣れていない。近衛の食堂で飲むのとは勝手が違うのだろう。

リーゼルは少し笑った。仮面ではない笑い方で。

薬指はまだ空のまま。

けれど机の上に手袋の箱はもうなかった。引き出しに仕舞ってある。マルタの紙片と一緒に。あれは過去のもの。大事な過去のもの。

玄関に、小さな封書が一通届いていた。差出人はフライシュ子爵夫人。前回と違い、宛名は「リーゼル様」と書いてある。

「近々、お茶でもいかがでしょうか」

開封したのはあとでいい。今はこの茶が温かくて、向かいの椅子に人がいて、それだけで十分だった。