軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 仮初めの左手

夜会の支度部屋には、蜜蝋の灯りと、粉白粉の乾いた匂いが満ちていた。

鏡の前で髪を整えるあいだ、リーゼルは自分の手元ばかり見ている。化粧台の縁に置いた左手。薬指には何も嵌まっていない。三年前から、ずっと。

「お嬢様」

マルタの声。振り向くと、皺の刻まれた手のひらに白い手袋がのっている。左手用の、薄い絹。

「お手を、冷やしませんよう」

いつもの一言だった。三年のあいだ、夜会のたびに繰り返されてきた所作。リーゼルは微笑んで受け取り、左手に滑らせる。

薬指のうえを、絹がするりと覆った。

——何もない指を隠すように。

そのことに、もう慣れている。慣れた、と思いたい。けれど毎回、絹が薬指の腹に触れる瞬間だけ、指先がわずかに強張る。マルタはそれに気づいているのかいないのか、何も言わずに髪飾りの位置を直した。

大広間は人で溢れていた。

楽団の弦がひとつ調律を外し、すぐに直される。磨き上げられた大理石の床を、百を超える靴音がさざめくように叩いている。肩口をかすめる香油の甘さと、燭台から垂れる蝋の焦げた気配。壁際に並ぶ銀の燭台が揃って揺れたのは、大広間の入口が開いたからだった。

その中を、リーゼルは背筋を伸ばして歩いた。

王太子アルヴィンの隣。

それが三年間の定位置で、今夜もまた同じ場所に収まる。仮の婚約者という肩書きは社交界では一度も公言されていない。知っているのは王家の内部と、エルトハイム伯爵家の人間だけ。だから誰もが、リーゼルを正式な殿下の婚約者として扱う。

正式な婚約者の指に、指輪がないことにも——気づかないふりをして。

三年前、王太子が公爵家との正式な縁組みを整えるまでのあいだ、政敵からの横槍を防ぐ「仮の婚約者」が必要とされた。引き受けたのはエルトハイム伯爵家。見返りは、領地にかかっていた王家への未納税の帳消し。父はあの日、一度だけ眉をひそめて、それきり何も言わなかった。

リーゼルもまた、何も言わなかった。伯爵家の長女として、差し出されるべきものを差し出しただけ。そう思うことにしている。

貴婦人が一人、近づいてきてリーゼルに微笑みかけた。

「殿下とお揃いのブローチ、素敵ですわね」

揃いではない。王家の紋章を模しただけの、量産品。けれどリーゼルは「ありがとうございます」と返し、仮初めの婚約者に相応しい角度で首を傾げた。

こういうことに、もう迷いはなかった。正しい笑顔、正しい受け答え、正しい距離。三年も繰り返せば、身体が覚える。

「今宵もご苦労さま、リーゼル嬢」

アルヴィン殿下が声をかけた。穏やかで、感情のかたちを持たない声。社交の笑みを浮かべるその横顔に、リーゼルも同じかたちの笑みを返す。

「殿下のおそばに、お仕えいたします」

何百回と繰り返した音の並び。唇が勝手にかたちを作る。この言葉に意味があった時期が、はたしてあったのだろうか。

——いいえ。最初から意味なんてなかったのかもしれない。

仮初めなのだから。

夜会が深まると、大広間の熱気がじわりと肌にまとわりつく。

頬が火照っているのは酒のせいではない。笑い続けた顔の筋が熱を持っているのだ。リーゼルは人の流れを縫うようにして、東側のバルコニーへ出た。ここは庭園に面した小さなテラスで、客はほとんど来ない。柱のあいだから夜風が吹き抜けて、首筋に溜まっていた汗が冷える。

ひとりになると、笑顔のかたちを解くのに少し時間がかかる。口元の筋がこわばったまま、しばらく弛まない。三年も続けていると、笑顔は表情ではなく姿勢になる。脱ぐにはまず、自分が着ていたことを思い出さなければならない。

手すりに両手を置いた。石の手すりは夜気を吸って冷たい。

左手の手袋を、ゆっくり外す。

素肌の薬指。白い。何もない。指輪の跡すらないのは、はじめから何も嵌められたことがないのだから当然のことだった。

——大丈夫。わかっていたことだ。

庭園の向こうで夜鳥が一声鳴いた。風が木々を揺らす音に紛れて、すぐに消える。

「……リーゼル嬢」

低い声が背後から届いた。

振り向かなくても、わかる。殿下付きの近衛騎士、ヴォルフ・ゼクスト。三年間、リーゼルが夜会に出るたびにそばに控えていた護衛。寡黙な男だった。必要なこと以外を口にしたのを、リーゼルは一度も聞いたことがない。

ヴォルフは何も言わず、自分の外套を外してリーゼルの肩にかけた。

その手が、肩の上で一拍だけ止まる。止まったように見えた——気のせいかもしれない。指が布越しに肩の輪郭をなぞるように離れていった、その一瞬は。

重い布だった。体温がほんのりと残っている。近衛騎士の正装の外套は厚手の紺色で、リーゼルの薄い夜会服とは釣り合わない。けれどその重さが、冷えた肩にじんわりと沁みる。

布の匂い。革と、わずかに金属。剣の手入れに使う油の残り香だろうか。

「ありがとうございます」

リーゼルは外套の襟を片手で押さえて礼を言った。ヴォルフの顔は見なかった。

見れば、きっと何でもない顔をしている。いつもそうだ。この人は感情を表に出さない。任務として外套を差し出し、任務としてそばに立つ。

——それだけのこと。

そう思ったのに、左手がまだ素手のままだったことに気づいて、慌てて手袋をはめ直した。指先が少しもたつく。絹を引く手の甲に、ヴォルフの視線が触れた気がした。

何か言いかけた気配。けれど振り向いたときには、もう口を閉じている。

大広間へ戻ると、アルヴィン殿下がリーゼルを見つけて歩み寄ってきた。

「少し、話がある」

殿下の声は相変わらず穏やかで、けれど今夜はその穏やかさのなかに、どこか事務的な硬さが混じっている。周囲の客には聞こえない距離まで近づいてから、殿下は声を落とした。

「来月の園遊会のことだが」

一拍。殿下の視線が、リーゼルの目ではなくその少し上——髪飾りのあたりを見ている。

「紹介したい人がいる」

紹介。

その言葉が何を意味するのか、リーゼルにはすぐにわかった。仮の婚約者に「紹介したい人がいる」と告げる王太子。三年間の定位置が動く合図。

「——紹介、ですか」

笑顔のまま聞き返した。声が震えない。それだけが、三年間の成果。

殿下は小さく頷き、「詳しくはまた改めて」と言い添えて他の客のもとへ去っていった。その背中を見送りながら、リーゼルは手袋の下の左手を握りしめた。絹越しに爪が掌を押す。小さな痛み。それだけが、今この場で許される感情の置き場所だった。

背後で、ヴォルフの剣帯がかちりと鳴った。革を握る音。リーゼルは振り向かなかった。

夜会の帰り道。馬車に揺られるリーゼルの隣に、マルタが座っていた。

老侍女は何も訊かなかった。ただ膝の上に手を揃えて、窓の外を流れる街灯の明かりを眺めている。車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、馬車が小さく跳ねる。その振動に合わせるように、窓から差し込む灯りがマルタの横顔を照らしては消えた。

リーゼルは手袋をしたままの左手を見下ろした。

——大丈夫。

——わかっていたことだ。

三年前、この婚約を受けた日からずっと、終わりが来ることはわかっていた。

(でも——準備は、できていたのだろうか。)

言葉にはしなかった。馬車の車輪が石畳を叩く音。それだけが、しばらく。

——笑顔のまま聞き返した私の左手を、あの騎士が一瞬だけ見ていたことに、そのときは気づかなかった。