軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1.無力

俺には小さい頃から仲の良い幼馴染がいる。

どれくらい仲が良いかと言えば、どちらかの両親が仕事で家を空けている夜がある時には、相手の家で夕飯を食べて、一緒に眠るくらいの関係。

俺達の出会いは、俺達が産まれるよりも前の話。

俺達の出産予定日は偶然にも近く、両親が通う産婦人科も一緒だったため、母親同士が意気投合。つまるところ、俺達が産まれた後に仲良くなることは最早宿命だった。

「あっくん! 早く早くっ!」

「ま、待ってよ! 奏!」

ただ、俺達の相性は……お世辞にも良いとは言えなかった。

活発な性格をしている幼馴染……一ノ瀬奏に対して、俺は弱虫な性格をしていて、いつだって彼女に手を引かれてどこかに連れ出されていた。

彼女に手を引かれて、幼少期の俺は色んな場所に連れていかれた。

彼女が見つけた雑木林の中。

彼女が思い付きで行きたがった河川敷。

彼女が探し出した近道という名の他人の敷地内。

色んな場所に連れ出されて、疲弊して、夜、グッスリ寝て……。

それが、幼少期の俺の日常だった。

そんな俺の日常が崩壊したのは……多分、俺達が小学生に上がる頃。

弱気で陰険な性格をしている俺は、クラス内でも浮いた存在になったことがきっかけだった。

浮いた存在……と言うと、クラス内で陰湿な虐めに遭っていたように聞こえるかもしれないが、俺は虐めとは無縁の人生をここまで送ってきている。

ただ、空気の読めない奴、と思われるのが嫌で、敢えて積極的に声を出すことはないくらい。

「あっ、待ってよ! 皆!」

……反面、奏は活発な性格をしているために、あっという間にクラスの人気者になった。

いや、奏がクラスで人気者になれた所以は、恐らく彼女の性格だけのものではない。

彼女の肌は、日焼け知らずと思える程、色白で。

彼女の髪は、丁寧に手入れされているのか、艶があって。

彼女のスタイルは、小学生モデルにでもなれそうなくらいに整っていて。

彼女の美貌は、そこいらの女優に負けないくらい、綺麗だったのだ。

そんな彼女が、クラス内で人気者になれないはずがなかった。

休み時間に教室に入れば、男子は奏への恋心を匂わせ、女子は彼女の美貌に酔いしれていた。

普通であれば、同性相手であれば嫉妬の対象にされる懸念もありそうなものだが……彼女の美貌は、同性に嫉妬をさせる猶予すら与えないくらい、完璧なものだった。

……そんな感じで奏が人気を盤石なものにさせていく度、距離感こそ昔よりも遠くなっていた癖に、俺は奏と幼馴染であることを、少しだけ誇らしく感じていた。

だって、ここにいる連中の全員は、奏がアイドルの曲を歌って踊って、机の角に足をぶつけてギャン泣きをしたことさえ知らないのだから。

彼女と俺だけしか知らない秘密がある。

それが、かつての俺の心の拠り所だったのだろう。

……でも、そんな奏と俺との秘密が、いつかは他の誰かと共有されていくことになる。

そんな遠い将来のことを考えた時、少しだけ胸にチクリとした痛みが走った気がした。

「奏ちゃん、入院するんだって」

奏との関係が疎遠になっていくある日の晩、母が教えてくれた。

「え、そうなの?」

入院前日、奏は元気に登校をしていた。入院はおろか、病院に受診したことさえ、信じられなかった。

「うん。大変よねぇ」

「……大丈夫なのかな?」

「検査入院だって言ってたし、大丈夫じゃないかしら」

……この時の俺達は、奏の入院に対して酷く楽観的だった。

恐らく母も、奏の母経由で奏の入院を聞かされ、心配するなと言われたから楽観的だったのだろうが……。

ただ、その時はまさか、思ってもみなかった。

まさか、別れを迎えるあの日まで、俺と奏が病院以外で出会うことがなくなるだなんて……。

……この時の俺は、まだそんなことも知らず、呑気に好きだった戦隊もののアニメを鑑賞していた。

奏の入院から、一日。二日。三日。……一か月。

あっという間に時間は過ぎていった。

奏は一向に学校に姿を見せない。

当人、彼女の両親の意向で面会は拒絶され、俺達は出会うことも出来ぬまま時間だけが無常に過ぎた。

奏の入院当時、クラスメイトは朝のショートホームルームで先生に一報を伝えられた時、酷く動揺を見せた。

しかし、一か月も経つとクラスメイトの動揺も薄れ、何なら奏なんて人間はこのクラスにはいなかったとでも言うかのように……平凡な日々が過ぎていった。

多分、クラス内で奏の容体を心配していたのは、幼馴染だった俺くらいだっただろう。

「敦。奏ちゃんとこ行く?」

奏の入院から三カ月後、母が言ってきた。

「え、会えるの?」

「うん。ようやく落ち着いてきたみたい」

「……そうなんだ」

「……会う?」

母の重々しい口調に、俺は子供ながらに違和感を覚えた。

三カ月もの間、会うことさえ叶わなかった人と再会出来るというのに、母からは喜びの感情が見えなかった。

むしろ、母の顔は少し不安そうに見えた。

「会う」

ただ、母の提案に対して、俺は即答した。

「会うに決まってるじゃん」

その週の土曜日、俺は両親付き添いの元、奏が入院している病院へと見舞いに行った。

後部座席に座る俺は、病院に行く道中で買った見舞い用の花を持っていた。

花の甘い香りが充満する車内、窓を開けたかったが、運転席と助手席に座る両親が無言だったので提案は出来なかった。

両親は旅行の時、いつも楽しそうに会話をしているのに、今日はどうもそういう気分ではないらしい。

「駐車場に車停めてくるから、先に行ってて」

「うん。気をつけて」

俺と母は、病院の入り口の前で下車し、駐車場へ向かう父を見送った。

「ほら、行くよ」

「うん」

母に手を引かれて、俺は病院内に入った。

病院内は消毒液の匂いがして、匂いを嗅いでいるだけで少し気分が悪くなった。

「……敦。今日は少し顔を見せたら、すぐに帰るからね」

「えー」

母の言葉が少しだけ残念だった。

母は足早に院内を歩く。

母の早い歩調に合わせて歩くのは、少しだけ大変だった。

相変わらず、今日の母は口数が少ない。

「……三階だって」

「ふうん」

「敦。先に……言わないといけないことがある」

「何?」

「……本当は、奏ちゃん、友達に会うの、すごい嫌がっているみたいなの」

「え、どうして?」

「だから、他のクラスメイトの子は相変わらず面会は出来ない。ウチは……特別みたい」

……胸中は、複雑だった。

「……奏ちゃんの姿を見ても、顔には出さないようにね」

……顔に?

ああ、奏はまだ本調子じゃないだろうし、あんまりはしゃいで、彼女を疲れさせるな、ということか。

「うん」

俺は楽観的に頷いた。

……エレベーターが三階に到着すると、心臓がドクンと大きく跳ねたことがわかった。

奏と会うのは、実に三カ月ぶり。

……三カ月も会わないと、三カ月前に俺達がどんな会話をしていたかさえ、思い出すことが難しかった。

だからだろう。

俺は、緊張をしていた。

母にもバレないように、俺は小さく息を吐いた。

病室のある三階は、看護師が忙しなく移動をしている。

そんな忙しない看護師とは対称的に、入院患者の老人が病室の前の椅子に腰かけて、楽しそうに雑談をしている。

「ここみたいね」

……奏の病室は、三階の端だった。

「敦、入るよ」

母の重々しい口調に、俺は無言で頷いた。

俺の緊張はピークを迎えた。

脳内はさっき見た看護師以上に、忙しなく巡っていた。

……奏に会ったら、何を言おう?

今更、そんなことを考えていた。

三カ月ぶりだね、は普通すぎるか。

昨日、学校で合った話をするのは……止めておいた方がいいかもしれない。

それなら……他に何を話そうか。

母が、病室の扉をノックした。

「どうぞ」

室内から、奏の母の声がした。

「失礼します」

母の声が、さっきよりも少しだけ高くなった気がした。

ガラガラ、と扉が音を立てて開いていく。

「こんにちはー」

奏の母が、笑顔で俺達を迎えてくれた。

「久しぶりー。元気だったー?」

母の声は明るい。さっきまでの雰囲気とは、打って変わって。

……母に抱いた違和感は。

「あらー、奏ちゃーん」

母の明るい声を聞き、吹き飛んだ。

「……おばさん、久しぶり」

病室の奥から、奏の声が聞こえてきて……。

俺は、声がした方向に視線を向けて……。

「……あっくん」

……何も、言えなかった。

「久しぶり」

微笑む奏は……。

日焼け知らずと思える程、色白だった肌は……一層色素が抜けていた。

丁寧に手入れされていた髪は……なくなっていた。

小学生モデルにでもなれそうなくらいに整っていたスタイルは……皮と骨しか残っていなかった。

……そして、他者に嫉妬させる猶予さえ与えない彼女の美貌は。

「……久しぶり、奏」

俺は、なんとか声を絞り出した。

笑顔は作ったつもりだが……もしかしたら、ひきつった顔をしていたかもしれない。

彼女の姿を見た時、ここまで感じていた両親への違和感など、全てが解消された。

さっきまでの重々しい雰囲気から一変、病室に入る手前で、明るい雰囲気を取り繕った辺り、もしかしたら母は、奏の母から奏の現状を知らされていたのかもしれない。

……いや。

三カ月もの間、入院生活を送り、学校にも姿を見せなかった奏の現状を考えれば、冷静に考えれば今の状況は想像出来るものだったのかもしれない。

少なくとも、今の奏が"普通ではない"ことくらい、すぐにわかるに決まっていた。

「……三カ月も会えないから、心配しちゃったよ」

……なら、俺はどうして奏の現状を予想出来なかったのか。

「……ごめんね」

奏は申し訳なさそうに苦笑した。

苦笑する彼女を見て、俺は気付いた。

「……ううん。大丈夫」

……わかっていたんだ。

奏の容体がまずいことくらい。

わかっていて、それでも目を背けたんだ。

……だって。

「……奏に限って、あんな状況になっているって、思いたくなかったんだ」

奏への見舞いはあっという間に終わり、帰りの車内、俺は呟いた。

両親は、俺に言葉をかけてくれなかった。

車内にはまだ……見舞い用に購入した花の甘い匂いが残っていた。

「……奏ちゃん、相当危ないみたい」

しかし、もう窓を開けてほしいとは思わなかった。

「……だろうな」

「……可哀想ね」

両親の会話を聞きながら、俺は俯き、拳を固めていた。沸々とした怒りに駆られていた。

「……可哀想って、何?」

俺の怒りは、両親に向けられていた。

「可哀想って……そんなのまるで、奏がもうすぐ」

もうすぐ……。

その先は口に出せなかった。

車内の空気は、一層悪くなった。

「敦」

最悪な雰囲気の車内で口を開いたのは、父だった。

「……君はどうしたい」

「え?」

「奏ちゃんの容体を見て、今の君なら、何をしたい?」

「何をって……」

いきなり、父は何を言い出すのか。

理解が及ばなかったが、父の声は真剣そのもの。

俺に、何かを求めているようだった。

「……俺は」

……今になって思うと、この時の父は、もうすぐ親友を亡くす俺の身を案じて、親友との別れ方を俺に選ばせてくれたのかもしれない。

「俺は、奏を励ましたい」

ただ、当時の俺は深いことは考えてはいなかった。

父の真剣な問いかけを脳内でどう返事するかを考えた時、思い出したのは……弱り切った奏の姿だけだったのだ。

「わかった。なら、一ノ瀬さん達には話をしておくから」

「……え?」

「これからは定期的に、君達が会えるように取り図ろう」

父の決意は固いように見えた。

「だから……どんな結果になろうと、必ず投げ出さないようにしなさい」

……あまのじゃくな言い方になるが、父にこんなことを言われなくても、奏と会えるのなら、最後まで投げだすことなんてありえない。

反抗心みたいな感情を燃やしながら、俺はその晩、眠りにつこうとするが……どういうわけか、疲労は溜まっているのに、その日は中々眠りにつけなかった。

数日後、父は宣言通り、俺と奏が病室で毎週土日に面会出来るよう、一ノ瀬一家と取り決めをしてくれた。

そして、両親は俺を毎週、病院まで運ぶ運転手の役も買って出てくれた。

「……おはよう、奏」

俺は毎週、奏と話した。

「頑張って、奏」

時には激励した。

「そんなことない。皆、君との再会を楽しみにしているよ」

時には慰めた。

「……ねえ、あっくんは好きな人はいる?」

……時には。

「え……」

「ねえ、いる……?」

「……わからない」

俺は俯いて答えた。

しばらくの沈黙の後……。

「そっか」

奏は優しく微笑んだ。

「あたしはいるよ、好きな人」

そして、照れ臭そうに……教えてくれた。

こんな感じで、時には変な雰囲気を醸しつつ、俺達の定期面会は継続された。

一月。

二月と続いていき……。

「おはよ……ぅ」

ある日、奏のいる病室に行くと、医師や看護師達が奏の寝ているベッドの周りを囲んでいた。

「奏っ! 奏ーっ!」

奏の母のけたたましい叫び声が室内に響いていた。

「どいてっ」

病室の扉の前で立ち竦んでいた俺は、慌てていた様子の医師に突き飛ばされた。

「敦、大丈夫?」

母は、心配そうに俺を抱き上げた。

……俺は小学生にもなって、その場で大泣きをしてしまった。

集中治療室へ行き病人当人がいなくなった病室で一時間くらい泣き続けて、涙が止んだのは出す涙がなくなった頃だった。

「……敦、祈りましょう」

泣き止んでも顔を上げない俺へ向けて、母が言った。

「奏ちゃんなら大丈夫よ。きっとまた元気な姿を見せてくれる」

……俺は返事をしなかった。

いや、出来なかった。

両親の計らいのおかげで、しばらくの間、奏との面会を続けてきた。

色んなことを話してきた。

励ましたし、慰めたし……彼女の胸中だって聞くことが出来た。

尊い時間を送ることが出来たんだ……。

……でも、結局。

俺がいくら励ましたって。

俺がいくら慰めたって。

俺がいくら……彼女の気持ちを知ることが出来たって……っ。

……結局、俺は何も出来なかったのだ。

幸い、奏は一命を取り留めた。

「さっきはごめんね。突き飛ばしちゃって」

奏の治療を終えた後、医師が直接、俺に謝罪をしてくれた。

「いいえ。むしろ、ありがとうございます」

「え?」

「奏の命を繋ぎ止めてくれて、ありがとうございます……」

俺には医師に頭を下げることしか出来なかった。

「……ごめんね」

バツが悪そうに、医師は頬を掻いていた。

「多分だけど、僕には彼女の命を繋ぎ止めることしか出来ないから」

「……」

「彼女が今の病気に打ち勝つなら、きっとここから去らなきゃいけなくなる時がやってくる」

「……」

「それでも……五分五分。いや……」

それ以上、医師は何も言わなかった。

それから、別れの日は唐突に訪れた。

いや、本当のことを言えば、それは事前に予定された別れだったのかもしれないが……当時の俺は子供で、大人たちの決めたことを教えてもらえる程、周囲から特別扱いもされていなかった。

……いや、多分、知らされていた時点で、特別だったんだろうな。

「奏ちゃん達、来週から海外に行くみたい」

それから母は、ポツポツと奏の渡航理由を教えてくれた。

ただ、その内容は、奏が渡航すると告げられた瞬間、脳裏を過ったそれから大きく逸れたものではなかった。

要は、奏達は奏の病気の治療のため、その病気の権威と呼ばれる医師がいるフランスに渡航する。

ただ、それだけ。

「だから、皆しばらく帰ってこないと思う」

「そっか」

どうしてもっと早く言ってくれなかったのか。

もしもっと早く言ってくれたら、もっと奏との別れを惜しみ、あの時間を尊ぶことが出来たのに。

……そんな憤りの感情は、不思議と沸いてこなかった。

「無事に元気になってくれるといいね……」

日に日に病魔に苦しみ弱っていく奏を見ていたら、渡航しないでくれ、とも、遠くに行かないでくれ、とも思えなかった。

むしろ、俺みたいに無責任な励ましの言葉しかかけられないような奴のそばにいるくらいなら……もっと早く渡航して、治療に専念するべきだったのでは、と思えて仕方がなかった。

とにかくそんなわけで、俺は彼女との別れに憤ることもなく、彼女の快復を願い、それを素直に受け止めた。

そのせいか、俺達の別れの日はあっという間にやってきた。

俺と母は、奏達一向を見送るため、渡航日当日、空港まで足を運んだ。

電車の中で母とずっと手を繋いでいたことが、どういうわけか未だに脳裏に焼き付いている。

「それじゃあ、そろそろ行ってくるわね」

奏の母が、出国ゲートの前で俺達に向けて務めて明るい声で言った。

「元気で」

「あなた達も」

母親たちの見送りは、あっさりとしたものだった。

どういうわけかその光景を目の当たりにして、二人のことを『大人だな』と思った。

「ほら、あなた達も」

俺は母に背中を押された。

一歩前に出て、奏と目が合って……俺は固まった。

奏とはこれまで、毎日、毎日……色んなことを話してきたはずなのに。

どういうわけか今は、言葉が出てこない。

「……あっくんは」

先に口を開いたのは、奏だった。

「あっくんは、フランスに行ったこと、ある?」

……これまで散々、色んな姿の奏と、色んなことを話していたから、すぐに気付いた。

「……ない」

「そうなんだ。あたしもー」

「……そうなんだ」

「うん。すごい楽しみっ!」

「……良かったじゃん」

「うん。……うんっ。どこに行こうかな。エッフェル塔でしょ。凱旋門でしょ。観光名所、目白押しだねっ!」

……彼女の声は、震えていた。

「……色んな場所に行きたいな」

「行けるよ。時間はたくさんあるんだから」

「……たくさん、あるかな?」

「ある。あるに決まってる」

背筋に冷たい汗が伝った気がした。

「……奏はこれからフランスに行って治療して、病気なんてやっつけてくるんだから」

「……」

「そうしたら、奏は元気になる。だからどこにだって行ける」

俺は微笑んだ。

「それに、奏はきっと……元気になったら人気者になれるよ!」

「そんなこと……」

「あるよ」

……事実、以前の彼女はクラス一の人気者だったのだから。

「だから、きっとすぐに人気者になって、君は俺のことなんてあっさりと忘れてしまうんだ」

「……そんなこと」

「だから、俺のことなんて忘れるためにも、早く元気になってねっ!」

俺は涙を堪えるのに必死だった。

空港のエントランス。

異国から来た外国語を喋る陽気な人。

これから仕事で海外に行くのか、うんざりげな人。

……そして、今にも泣きそうな顔をしている、弱気な彼女。

「頑張ってね」

俺は奏に激励の言葉を送った。

彼女が病気なんかに負けないように、頑張ってほしかった。

……そんな感情はもうなかった。

俺はただ……。

俺は、無力な人間だから。

奏のような小さな子供一人、救うことが出来ない……弱い、弱い子供だから。

……だから、誓ってほしかったんだ。

……奏に、頑張る、と。

「……ふふっ」

彼女は薄く微笑むだけだった。

「……そろそろ時間ね」

「えぇ、気を付けて行ってきてね」

「うん」

母親たちが、別れを惜しむ。

遠くからアナウンスが響く。

「……バイバイ」

出国ゲートを過ぎる奏は、俺に向けて弱弱しく手を振った。

「……さ、帰りましょうか」

荷物検査に進んでいった奏達を見送って数十分、母が提案してきた。

「……もう少しここにいたい」

俺は帰宅を渋った。

「なら、デッキの方に行きましょう。奏ちゃん達が乗る飛行機を見送れるから」

呆れた様子の母に連れられて、俺達は展望デッキへ向かった。

展望デッキは、幾人かの飛行機マニアが写真を撮る異様な場所だった。

海が近いためか、度々強風が俺達を襲って、その度に俺は母に抱きついて、寒さを凌いだ。

「あの飛行機よ」

母が指さした飛行機は……奏以外にもたくさんの人を乗せて運ぶ、大型のジャンボジェットだった。

「……もう少しで飛ぶよ」

彼女を乗せた飛行機は、滑走路を進んでいく。

二度のターンの後、一度制止した飛行機は……突如、轟音を響かせて、猛スピードで加速していく。

飛行機が滑走路から離れていく。

曇天模様の空に向けて、高度を上げていく。

雲を突き抜けていく飛行機は、奏を空へ運んでいく。

地上よりも天国に近い、空へと運んでいく……。

……その時だった。

俺は両目から涙をこぼした。

彼女が空に旅立ったのは、あくまで治療のため。

異国の地へ行き、そこで彼女を蝕む病魔に打ち勝つため。

そのことを理解しているはずだった。

……はずだったのに。

「バイバイ……奏」

俺はその時、奏と俺が会うことは、もう二度とないと直感で理解してしまったのだ。

……そういえば。

『頑張ってね』

さっき、出国ゲートの前で奏に向けて激励の言葉を送った時……。

『……ふふっ』

彼女は微笑むばかりで、返事をくれなかった。

頑張る、とも……。

必ず帰ってくる、とも……。

……彼女は何も言ってくれなかったのだ。

多分、彼女も薄々理解していたのだろう。

自分の死期を……。

俺との別れを……。

優しい彼女のことだから、俺に余計な期待をさせないように取り計らったのだろう。

「ありがとう、お母さん」

涙を拭いながら、俺は母にお礼を言った。

「おかげで、奏を見送れた」

「……敦」

「家に帰ったら、お父さんにもちゃんと、お礼を言うから」

……両親のおかげで、俺はキチンと奏を見送れた。

だから、ちゃんと筋を通そうと思った。

ただ……内心では、俺は自分に対して、どうしようもない程の無力感に苛まれていた。

奏を救うことが出来ない自分に対して、腹立たしさにも似た苛立ちを覚えて。

手を固めていると、爪が食い込んで痛かった。

……いつの間にか、空へと飛び立った飛行機はもう見えなくなっていた。

そして、俺達はもう二度と再会を果たすことはなかった。

……なんてことはなかった。

季節は夏。

奏の旅立ちから数年経ち……俺達が十五歳になった年のことだった。

……俺が通う高校に、一人の転校生がやってきた。

その転校生は。

色白で。

スタイル抜群で。

綺麗な黒髪を靡かせて……。

そして、かつてとは違って、底抜けに明るい笑みを貼り付けていた。

「一ノ瀬奏です! よろしくお願いしますっ!」

五年ぶりの再会。

成長した彼女は面影こそあれ、一瞬、本人ではないと思うくらいに変貌を遂げていた。

「え、めっちゃ可愛い」

「モデルみたいだ……」

「ふつくしい……」

男女問わないクラスメイト全員を一瞬で釘付けにさせるくらい、彼女は綺麗な淑女に成長していた。

思わず、俺も口をぽかんと開けたまま、黒板の前に立つ彼女に見惚れていた。

「それじゃあ、一ノ瀬さんの席は……」

先生が教室内を見回すと……。

「先生、俺の隣空いてます!」

「こっち! こっちも空いてます!」

「おい、お前別のクラスに行け! この席は一ノ瀬さんの席だ!」

元気なクラスメイトが、いきり立つ。

「あはは。皆、元気だねぇ」

奏は、俺に目配せすることもなく、元気なクラスメイトの様子を微笑みながら見守っていた。

……少しだけ、ショックだった。

久しぶりの再会なのに、奏が俺に気付く素振りも見せてくれなかったから。

「それじゃあ、一ノ瀬さんの席はあそこで」

「はあい」

「よっしゃあ!」

……ただ、それも仕方がない話、か。

だって彼女は、あんなに綺麗で、既にこのクラスで数か月生活したはずの俺よりも、このクラスに馴染んでいるのだから。

……今更、俺みたいな日陰者に構っている程、彼女も暇じゃあないだろう。

「一ノ瀬さん! どこから転校してきたの!?」

そんな俺の根暗な考えは……。

「一ノ瀬さん! 好きな食べ物は!?」

休み時間の度、彼女の机の周りを囲み質問攻めを繰り返すクラスメイトを見る程に強固なものになっていった。

「起立、礼!」

そして、帰りのショートホームルームが終わる頃には、俺は悟っていた。

「一ノ瀬さん! 親睦を深めるためにこの後、カフェとか行かない!?」

「あっ! ずるーい! 一ノ瀬さん、あたし達と行こうよ!」

……どうやらこの五年の間に、俺と彼女の間にはどう頑張っても埋まらない差が出来てしまったらしい。

俺は奏と一言も交わすことなく、帰宅することを選択した。

机に提げていた鞄を取り、椅子から立ち上がり、扉の方へと歩みを進めた。

「……あっ!」

奏の方から聞こえる浮かれ声の中から、何かに気付いた声が聞こえた。

上履きの足音。

「……え?」

驚く周囲の声。

「待って、あっくん!」

唐突に、俺の腕は掴まれた。

……一瞬、何が起きたかわからず、俺はフリーズした。

さっきと打って代わって、異様な静けさが襲っている教室内で、俺はゆっくりと腕を引かれた方向へ振り返った。

……そこにいたのは。

「もーっ! なんで先に帰ろうとするの?」

奏だった。

「一緒に帰ろ?」

……思えばこれが、再会を果たした俺達の最初の会話だった。