作品タイトル不明
第1話 現実はリトライできない
赤い警報灯が、砕けた天井を断続的に照らしていた。光るたびに、世界の輪郭がずれる。廊下だったはずの場所は、次の瞬間には底の見えない階段になり、壁だったはずの面には無数の文字列が血管のように走っていた。
カイは、兄の手を握っていた。いや、握っているつもりだった。小さな指は汗で滑り、震え、自分のものではないみたいに言うことを聞かなかった。
耳の奥で、警報が鳴っている。音は割れていた。人の声も、端末の通知も、結界が軋む音も、全部が混ざっていた。
『警告。封鎖殻、第三層まで破損』
『神式核、再構文化失敗』
『退避経路、検索不能』
『パーティ同期率、二十一パーセントまで低下』
カイの腕に装着された術式端末――ATの表示は、ノイズだらけだった。赤い文字が何度も何度も上書きされる。けれど、あの頃のカイには、その意味が分からなかった。分かるのは、ただ一つ。ここは、もう安全ではない。
「兄さん……っ」
カイは泣きそうな声で呼んだ。兄は振り返った。いつもと同じ顔をしていた。困ったように笑って、でも目だけはまったく笑っていなかった。頬には血が流れていた。制服の袖は裂け、右腕の導杖は根元からひしゃげている。
「大丈夫だ、カイ」
兄はそう言った。大丈夫なはずがなかった。足元の床が、薄いガラスみたいにひび割れている。向こう側には、夜空でも水面でもない、黒いものが渦を巻いていた。そこから伸びる細い腕のような影が、結界の残骸を撫でるたび、青白い火花が散った。
「俺、できるよ」
カイは叫んだ。
「分かるんだ。あいつ、次は左から来る。さっきと同じだ。三回目で、動きが変わる。だから、俺が言えば――」
「カイ」
兄の声が、いつもより少し強くなった。それだけで、カイは息を呑んだ。
「違う」
「でも、ゲームなら――」
言いかけた瞬間、兄の表情が歪んだ。怒ったのではない。痛そうだった。泣きそうだった。それなのに、兄はカイの手を離さなかった。
「ゲームじゃない」
赤い警報灯が、また世界を染めた。兄の背後で、結界が崩れる。魔法陣の輪が外側から砕け、白い破片になって宙に散った。ATが悲鳴のような警告音を鳴らす。
『最終防壁、破損』
『退避優先度変更』
『生存者一名を選定』
その表示を見た瞬間、兄は何かを決めた。
「兄さん?」
カイは、兄の手に込められた力が変わったことに気づいた。守るために握る力ではない。突き放すための力だった。
「やだ」
カイは反射的に首を振った。
「やだ、やだよ。俺も行く。兄さんと一緒に――」
「カイ」
兄が膝をつき、カイの目の高さまで顔を下げた。警報の赤が、その横顔を何度も塗り替える。
「よく聞け」
兄の手が、カイの肩を掴んだ。痛いくらい強かった。
「現実は、リトライできない」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。次の瞬間、兄はカイを後ろへ押した。透明な結界が、二人の間に割り込む。カイの手は空を掴んだ。兄の指が、最後に一瞬だけ触れて、離れた。
「兄さん!」
光が爆ぜた。白い、あまりにも白い光だった。兄の姿が、その中に溶けていく。カイは叫んだ。喉が裂けるほど叫んだ。ATの表示が視界の端で暴れ、意味のない文字列を吐き散らしている。
『攻略失敗』
『攻略失敗』
『攻略失敗』
やり直せない。その文字だけが、幼いカイの脳裏に焼きついた。そこで、神代カイは目を覚ました。額が汗で濡れていた。
視界に飛び込んできたのは、ひび割れた結界でも、赤い警報灯でもない。白い天井。規則正しく並ぶ照明。消毒液と金属の匂いが混ざった、国立霞が関高校・魔法科演習場の空気だった。
「神代。起きているか?」
教師の声が、演習場に響いた。カイはゆっくり瞬きをした。目の前には、基礎射撃術式用の的が並んでいる。十メートル先、半透明の結界板に映し出された円形標的。初年度の魔法科生なら、誰でも一度は撃たされる退屈な課題だ。
カイの右手には、黒い短杖型のAT―― 導杖(ガイドロッド) が握られていた。握っているというより、ぶら下げているに近い。
「神代カイ。構文化を開始しろ」
「はいはい」
カイは眠そうに返事をした。演習場の端で、数人の生徒が小さく笑った。
「また始まったぞ」
「Eクラスの省エネくん」
「今日は的に当たるかな」
「無理だろ。昨日は起動前にキャンセルしてたし」
声は聞こえていた。聞こえていたが、カイは反応しなかった。反応するだけ無駄だ。そういう顔で、導杖を持ち上げる。
現代魔法は、才能だけでは発動しない。まず術者が 星律(せいりつ) に感応し、次にATがその感応を術式として構文化し、最後に現実へ定着させる。
導杖はその座標指定と術式安定を補助する端末であり、魔法科の実技評価では最も基本的な道具だった。だからこそ、これをまともに扱えない生徒は、それだけで低評価を押される。カイは、その低評価の代表みたいな存在だった。
「構文化、開始」
教師の指示と同時に、カイは導杖の先端を的へ向けた。内部の銀色回路が、一拍遅れて光る。遅い。見ていた生徒の何人かが、それだけで鼻で笑った。
他の生徒なら、導杖を構えた瞬間に術式紋が浮かぶ。発射軌道、対象指定、威力制御。最低限の三項目は一秒以内に立ち上がる。しかしカイの導杖に浮かんだ術式紋は、かすれた円が一つだけだった。しかも、歪んでいる。
「対象指定が甘い。補正しろ」
教師が言う。
「してますって」
「しているようには見えん」
「じゃあ端末の機嫌が悪いんじゃないですかね」
演習場に、また笑いが起きた。教師の眉間にしわが寄る。
「神代。魔法は端末任せではない。感応、構文化、定着。この三段階を理解していれば、基礎射撃でそこまで乱れるはずがない」
「理解はしてます」
「なら実行しろ」
「それができたらEクラスじゃないんで」
何人かが吹き出した。教師は深く息を吐いた。
「撃て」
カイは、面倒くさそうに導杖を振った。光が走る。それは魔弾と呼ぶにはあまりにも弱々しい、薄い青の線だった。標的の中心へ向かうはずの術式は、途中で微妙に軌道をぶらし、的の端をかすめた。結界板に小さな火花が散る。点数表示が浮かぶ。
『評価:D−』
『命中補正:失敗』
『定着率:二十六パーセント』
『再試行推奨』
「うわ、端っこ」
「逆にすごくない? あれだけ時間かけて、かすっただけ?」
「神代、魔法科じゃなくて普通科行けよ」
笑い声が増えた。カイは悔しがらなかった。顔色一つ変えず、導杖を下ろす。
「はい、終わりでいいですか」
「よくない」
教師は冷たく言った。
「再試行だ」
「ええ……」
「不満か?」
「不満というか、これ以上やると標的がかわいそうかなって」
「標的より自分の成績を心配しろ」
教師の言葉に、演習場の空気が少しだけ引き締まった。この学校では、魔法師の価値は数字で示される。術式出力、起動速度、命中精度、定着率、継戦能力。家柄や推薦枠も加味されるが、結局のところ、見える実績がすべてだった。
国立霞が関高校は、魔法災害対策局や各省庁、民間魔法企業へ人材を送り込む名門校だ。ここでの評価は、そのまま将来に直結する。それでもカイは、心底どうでもよさそうにあくびを噛み殺した。
「神代」
教師の声が低くなる。
「お前は、できないのか。やらないのか。どちらだ」
その問いに、笑っていた生徒たちも少し黙った。カイは導杖を見下ろした。黒い端末の表面に、自分の顔がぼんやり映っている。眠そうで、無気力で、何も考えていないような顔。カイは薄く笑った。
「できないってことでいいです」
教師の目が細くなった。
「……もういい。下がれ」
「助かります」
カイは軽く頭を下げ、演習線から退いた。背中に視線が刺さる。嘲笑。失望。無関心。少しだけ混じる苛立ち。慣れていた。慣れすぎて、痛みもしなかった。
演習場では、次の生徒が導杖を構えた。カイよりずっと姿勢がいい。起動も速い。術式紋も綺麗に整っている。教師が満足げにうなずく。
「構文化、開始」
青白い魔弾が、的の中心を撃ち抜いた。拍手が起きる。カイは席に戻る途中、ふと足を止めた。演習場の壁面には、今日の演習配置図が表示されている。
標的の位置、待機線、生徒の移動導線、安全結界の展開範囲、補助教師の立ち位置。それを、カイは一瞬だけ見た。本当に一瞬だった。
だが、その一瞬で、彼の目から眠気が消えた。標的の並び。待機生徒の密度。安全結界の支柱位置。次の生徒の術式傾向。その全部が、頭の中で線になってつながる。
もし三番標的への射撃が右に逸れたら、補助結界が自動で反応する。反応した結界の端が、四番標的の反射板と干渉する。
そこへ次の熱量系術式が重なれば、演習場右奥の星素が一時的に濁る。結果、待機線の端にいる二人の導杖が誤作動する。大事故にはならない。けれど、配置としては悪い。悪すぎる。
「……この配置、崩れるな」
カイは、誰にも聞こえない声で呟いた。その直後だった。演習場右奥で、軽い破裂音がした。
「きゃっ!」
生徒の一人が導杖を取り落とす。補助結界が自動展開し、標的の反射板が青い火花を散らした。教師がすぐに術式を止める。
「全員、動くな! 安全確認を優先!」
演習場がざわめいた。
「今の何?」
「干渉?」
「配置ミスか?」
「いや、たまたまだろ」
カイはもう見ていなかった。自分の席まで戻り、机代わりの待機ベンチに腰を下ろす。導杖を膝の上に置き、面倒くさそうに目を閉じた。誰も気づかない。カイが、事故の数秒前にそれを読んでいたことに。
誰も知らない。神代カイが本当に苦手なのは、魔法を撃つことではない。盤面を見ることを、やめられないことだ。閉じたまぶたの裏で、赤い警報灯がまた明滅した。
『攻略失敗』
ノイズ混じりの文字が浮かぶ。兄の声が、遠くで聞こえる。――現実は、リトライできない。カイは小さく舌打ちした。
「……分かってるよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。